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04 空いた椅子 前編

「いらっしゃいませ!」


ミーナの明るい声が、店の中に響いた。


扉を開けて入ってきたのは、川の向こうに住むエドモンドさんだった。


76歳になる彼は、妻のセシリアさんを亡くしてからも、以前と変わらず、毎日店へ足を運んでくれている


「こんにちは、エドモンドさん」


「ああ、こんにちは」


エドモンドさんは、いつものように店内を見回した。


「いつものパンをもらえるかな」


「はい。いつものですね」


ミーナは棚からパンを取り、紙袋に入れた。


エドモンドさんが買うものは、いつも決まっていた。


特別な注文をすることは少なく、新しい商品が並んでも、しばらくは様子を見ていることが多い。


その一方で、セシリアさんは新しいものを見つけると、よく試してみる人だった。


「これ、新しく作ったんです。セシリアさんなら、きっと試してみますよね」


ミーナが新商品の並ぶ棚を見ながら言うと、エドモンドさんは小さく笑った。


「そうだな。妻なら、きっと試してみるだろう」


懐かしむような声だった。


「ふふっ、そうですよね。では、こちらをどうぞ」


ミーナはいつものパンを紙袋に入れ、エドモンドさんに差し出した。


「ありがとう」


エドモンドさんは代金を払い、紙袋を受け取った。


それから、店を出ようとして、ふと足を止めた。


「……そういえば」


「はい?」


「今日で、妻が亡くなって半年になるんだ」


ミーナの手が止まった。


「あ……。もう半年なんですね」


「ああ。早いものだな」


エドモンドさんは、手元の紙袋に目を落とした。


「家に帰ると、今でも妻がいるような気がすることがある」


ミーナは、何も言わずに話を聞いていた。


「朝、起きてからしばらくは、いつもどおりなんだ。だが、ふとしたときに思い出す」


エドモンドさんは、ゆっくりと言葉を続けた。


「……ああ、もう隣にはいないんだな、と」


その声は落ち着いていた。


悲しみを無理に隠しているようにも、誰かに慰めてほしいようにも見えなかった。


ただ、長年一緒に暮らした人がいなくなった。その事実を、日々の暮らしの中で何度も確かめている。


そんなふうに感じられた。


「……でも、毎日ちゃんと食べてますか?」


ミーナが尋ねた。


エドモンドさんは、少しだけ目を丸くした。


「食べているよ」


「本当ですか?」


「ああ」


「無理していません?」


「していない」


そう答えてから、エドモンドさんは小さく笑った。


「セシリアがいた頃から、君はよくそういうことを聞くな」


「だって、心配ですから」


「そうか。ありがとう」


エドモンドさんは穏やかに頷いた。


「娘も毎日、夕方になると食事を作りに来てくれる。ありがたいことだよ」


「それなら、よかったです」


「ああ。娘にも、苦労をかけている」


「マリアさんも、お父さんのことが心配なんですよ」


「……そうだろうな」


エドモンドさんは、少しだけ視線を落とした。


「だが、いつまでも心配ばかりかけるわけにもいかない」


「エドモンドさん」


ミーナは、少し考えてから言った。


「心配をかけたくないって思うのも分かります。でも、家族なんですから。頼れるときは頼ってもいいんじゃないですか?」


エドモンドさんは、すぐには答えなかった。


やがて、口元をわずかに緩めた。


「……そうだな」


「はい」


「ありがとう。そう言ってもらえると、少し気が楽になる」


ミーナは安心したように笑った。


「またいつでも来てくださいね」


「ああ。また来るよ」


エドモンドさんはそう言って、店を出ていった。


ミーナは、その後ろ姿をしばらく見送っていた。


半年。


長いようで、短い時間なのかもしれない。


残された人にとって、時間が過ぎることと、悲しみがなくなることは同じではない。


ミーナにも、それは少しずつ分かってきていた。


 ♢♢♢♢♢


エドモンドさんが店を出た頃、空はまだ明るかった。


西の空は淡い橙色に染まり、川面には夕日の光が細く揺れている。


川沿いの道には、家へ帰る人の姿がちらほら見えた。


エドモンドさんは、いつもの道を歩いていた。


手には、ミーナの店で買ったパンが入った紙袋がある。


家に帰れば、マリアが食事を作りに来ている頃だろう。


今日は、セシリアが亡くなって半年になる日だ。


娘も、きっとそのことを気にしている。


「……心配をかけてばかりだな」


誰に聞かせるでもなく、エドモンドさんは呟いた。


セシリアがいた頃も、家族に心配をかけることは少なくなかった。


仕事に夢中になると、時間を忘れる。何かを頼まれても、言葉でうまく返せないことがある。


それでも、家族のことを考えていなかったわけではない。


ただ、どう伝えればいいのか、分からないことが多かった。


セシリアが重い荷物を持っていれば、黙って代わりに持つ。


疲れている様子なら、頼まれる前に家事を引き受ける。


セシリアが喜びそうなものを見つければ、理由を説明することもなく買って帰る。


エドモンドさんにとって、そうしたことは特別な行為ではなかった。


一緒に暮らす相手を気遣うのは、当たり前のことだったからだ。


けれど、今はその当たり前を分かち合う相手がいない。


エドモンドさんは、川沿いの道を進んだ。


川の水は、いつもと変わらず流れている。


そのときだった。


足元が、わずかに滑った。


……っ!!


身体が傾く。


とっさに手を伸ばしたが、つかめるものはなかった。


次の瞬間、視界が大きく揺れた。


川の冷たい水が、身体を包み込む。


エドモンドさんは、なんとか岸へ向かおうとした。


だが、流れに身体を取られ、思うように動けない。


手を伸ばしても、岸には届かない。


 ……マリア


娘の顔が、ふと頭に浮かんだ。


帰らなければ。


まだ、家に帰らなければならない。


そう思っても、身体は流れに逆らえなかった。


声を出そうとしても、流れる水の音にかき消される。


やがて、身体はさらに下流へと流されていった。


川沿いの道には、いつもの夕暮れが広がっていた。


 ♢♢♢♢♢


エドモンドさんが帰るはずだった家では、家族が帰りを待っていた。


「……遅いな」


マリアは、父の家で食卓を整えていた。


父が帰ってきたら、いつものように一緒に食事をする。そのつもりで、料理を並べていた。


いつもなら、そろそろ帰ってくる頃だ。


父は出かけることがあっても、夕食の時間を大きく過ぎることはあまりなかった。


「お父さん、まだかな……」


マリアは窓の外に目を向けた。


西の空には、夕日の名残がわずかに残っていた。


父がいつも帰ってくる道には、もう人影もほとんどない。


マリアは父の好きな料理を皿に盛りつけ、冷めないように蓋をして食卓に並べた。


「……もう少し待とう」


そう呟き、窓の外を見つめる。


やがて空は暗くなり、家の中に灯りをともした。それでも、玄関の扉が開く気配はなかった。


マリアは、父が出かけた先に心当たりがないか考えた。


けれど、はっきりとは分からない。


父は、いつも多くを語らない人だった。どこへ行くのか、何をするのか。


必要なこと以外は、あまり話してくれなかった。


だからこそ、いつもより帰りが遅れているだけだと思いたかった。


食卓には、父のために用意した夕食が残っている。


マリアはもう一度、窓の外を見た。屋根の向こうには月が昇り始めていた。


もう、夜も遅い。


それでも、父は帰ってこなかった。


マリアはしばらく迷ったあと、家を出た。


向かった先は、村長の家だった。


 ♢♢♢♢♢


「村長さん!」


マリアは、息を切らして扉を叩いた。


しばらくして、村長が顔を出す。


「マリアさん? どうしたんだ、こんな時間に」


「父が……父が帰ってこないんです」


村長の表情が変わった。


「エドモンドさんが?」


「はい。夕方には帰ってくるはずなのに、夜になっても戻らなくて……。いつもの道を通っていると思うんですが」


マリアの声は震えていた。


村長はすぐに頷いた。


「分かった。すぐに人を集めよう」


「お願いします……!」


その夜、村人たちが捜索を始めた。


エドモンドさんが普段通る道を確認し、川沿いも調べた。


夜の川辺には、冷たい風が吹いていた。


村人たちは灯りを手に、足元を確かめながら岸を歩いていく。


マリアの夫、ダニエルもその中にいた。


「マリア、ここは俺たちに任せてくれ。お前は少し休んだ方がいい」


「でも……」


「気持ちは分かる。俺もお義父さんを見つけたいんだ」


ダニエルはそう言って、再び川岸へ目を向けた。


マリアは何も言えず、その背中を見つめた。


「こっちはどうだ?」


「見当たりません!」


呼びかける声が、川面に響く。


やがて、川岸で足跡が乱れている場所が見つかった。


近くには、紙袋の一部と思われるものも流れ着いていた。


「……まさか」


誰かが呟いた。


川に落ちた可能性がある。


そう考えた村人たちは、捜索の範囲を広げた。


灯りを手に、川岸を歩く。


水の中にも目を凝らす。


けれど、エドモンドさんの姿は見つからなかった。


マリアは、村長のそばで捜索の様子を見守っていた。


「お父さん……」


何度名前を呼んでも、返事はない。


夜が明けても、見つからなかった。


東の空が白み始め、村人たちの顔にも疲れが見え始めた。


それでも、捜索は続いた。


マリアも、家に戻って休むことができなかった。


父が帰ってくるかもしれない。


どこかで助けを待っているかもしれない。


そう思うと、目を離すことができなかった。


家では、マリアの息子フェリクスと娘のナタリーも、祖父の帰りを待っていた。


「おじいちゃん、まだ帰ってこないの?」


ナタリーの問いに、フェリクスはすぐには答えられなかった。


「……きっと、見つかるよ」


そう言ったものの、自分の声にも確信はなかった。


ダニエルが戻ってくるたび、2人は玄関へ駆け寄った。


けれど、返ってくるのは「まだ見つかっていない」という言葉ばかりだった。


時間だけが過ぎていった。


一日目。


二日目。


そして、三日目。


捜索は、下流へと広がっていった。


 ♢♢♢♢♢


三日目の朝。


マリアは、二人の子供たちとともに、父の家で知らせを待っていた。


父が見つからないまま、三日が過ぎていた。


フェリクスは、落ち着かない様子で何度も窓の外を見ている。


ナタリーは、母のそばから離れようとしなかった。


「……おじいちゃん、見つかるよね?」


ナタリーが小さく尋ねた。


マリアはすぐには答えられなかった。


「……きっと、見つかるわ」


そう答えながらも、自分自身に言い聞かせているような気がした。


ダニエルも、村人たちとともに捜索を続けていた。


マリアは、父が見つかることと、夫が無事に戻ってくることを願いながら、窓の外を見つめていた。


そのとき、扉の向こうから足音が聞こえた。


扉が開いた。


入ってきたのは、村長とダニエルだった。


二人とも疲れた様子で、服には川辺の泥がついていた。


マリアは立ち上がった。


「ダニエル……。お父さんは?」


ダニエルは、すぐには答えなかった。


その表情を見た瞬間、マリアの胸がざわついた。


「……ねえ。お父さんは?」


もう一度尋ねる。


ダニエルは唇を結んだまま、マリアを見つめていた。


「……見つかったの?」


村長が、静かに頷いた。


「……ああ。川の下流で見つかった」


マリアは、すぐには意味を理解できなかった。


「……え?」


「エドモンドさんが、見つかったんだ」


「……嘘」


小さな声だった。


「……嘘、ですよね?」


村長は何も答えなかった。


マリアは、ダニエルの腕をつかんだ。


「ねえ、何か言ってよ。お父さんは? どこにいるの?」


「マリア……」


「見つかったんでしょう? だったら、連れてきてくれたらいいじゃない!」


声が大きくなる。


「ねえ、ダニエル! お父さん、どこなの? どこにいるのよ!」


ダニエルは、妻の肩に手を置いた。


けれど、マリアはその手を振り払った。


「嫌! そんな顔しないで!」


声が震えていた。


「まだ分からないじゃない! 生きてるかもしれないでしょう? ねえ、そうでしょう?」


誰も答えなかった。


その沈黙が、何よりも残酷だった。


「……お父さん?」


マリアの声が、かすれた。


「……帰ってきてくれたんじゃ、ないの?」


膝から力が抜けた。


倒れそうになった身体を、ダニエルが慌てて支える。


「マリア!」


「嫌……」


マリアはダニエルの服をつかんだ。


「嫌よ……そんなの、嫌……」


声が途切れる。


「だって……昨日も、いつもみたいに……」


言葉が続かなかった。


毎日、夕方になると父の家へ行った。


食事を作り、何気ない話をして、帰るときにはまた明日と声をかけた。


父は多くを語らない人だった。


それでも、そこにいてくれた。


明日もいる。


明後日もいる。


これからも、ずっと。


そう思っていた。


「……お父さん……」


マリアは何度も名前を呼んだ。


「お願い……返事してよ……」


誰も返事をしなかった。


「……お父さん!」


今度は、叫ぶような声だった。


「ねえ! お願いだから……!」


声が裏返る。


「私、まだ……何も……」


言葉が詰まった。


伝えたいことがあった。


聞きたいこともあった。


もっと一緒にいたかった。


けれど、それを伝える相手は、もう返事をしてくれない。


マリアは両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちた。


「……いや……いやあ……!」


泣き声が部屋に響いた。


ダニエルは妻のそばに膝をつき、何も言わずにその身体を支えた。


捜索の途中で、エドモンドさんの姿を見つけたときのことが脳裏によみがえる。


声をかけても、返事はなかった。


何度呼んでも、目を開けることはなかった。


ダニエルもまた、その光景を忘れられずにいた。


それでも、今は妻を支えることしかできなかった。


フェリクスは唇を強く噛み、俯いていた。


拳を握りしめている。


何かを言おうとしても、声にならなかった。


ナタリーは、母の服をぎゅっと握りしめた。


「……お母さん……」


震える声で呼ぶ。


「……おじいちゃん、もう帰ってこないの?」


マリアは顔を上げた。


娘を見た瞬間、さらに涙があふれた。


答えなければならない。


けれど、口を開くことができなかった。


代わりに、ナタリーを強く抱きしめた。


「……ごめんね……」


それだけしか言えなかった。


やがて、村長が静かに口を開いた。


「……もう一つ、伝えなければならないことがある」


マリアは顔を上げた。


涙で濡れた目が、村長を見つめる。


「遺体の損傷が激しく、そのままご家族に対面していただくのは難しい状態だそうだ」


その言葉を聞いた瞬間、マリアの顔が歪んだ。


「……顔も、見られないんですか?」


村長は、苦しそうに頷いた。


「……すまない」


「どうして……」


マリアは首を振った。


「どうして、そんな……」


父が亡くなった。


それだけでも、受け止められない。


それなのに、最後に顔を見ることさえできないかもしれない。


「……お父さん……」


マリアは、もう一度父の名を呼んだ。


声は小さく、かすれていた。


「……もう一度だけでいいから……会いたいよ……」


母が亡くなってから半年。


毎日、夕方になると父の家へ行き、食事を作ってきた。


父は多くを語らない人だった。


それでも、そこにいてくれた。


不器用な人だったけれど、マリアにとっては、かけがえのない父だった。


これからも、ずっとそうだと思っていた。


「……お父さん……」


何度呼んでも、返事はなかった。


 ♢♢♢♢♢


その知らせは、ミーナの店にも届いた。


ミーナは話を聞いた途端、手にしていた布を落とした。


「……エドモンドさんが?」


「川の下流で見つかったそうだ。だが、遺体の損傷が激しいらしい」


ミーナは、しばらく言葉を失った。


いつも決まったパンを買っていく人。


セシリアさんが亡くなってからも、変わらず店に来ていた人。


数日前には、半年が経ったことを静かに話してくれた。


そのエドモンドさんが、もういない。


「……カイ」


ミーナは顔を上げた。


家族が最後に顔を見られるようにするには、カイの力が必要かもしれない。


そう思った瞬間、ミーナは店を飛び出した。


 ♢♢♢♢♢


「カイ!」


弔い屋の扉が、勢いよく開いた。


顔を上げると、ミーナが立っていた。


顔色が悪い。息も乱れている。


「ミーナ? どうしたんだ?」


「エドモンドさんが……」


ミーナは言葉を詰まらせた。


「エドモンドさんが、見つかったの」


俺は椅子から立ち上がった。


「見つかったって……」


「川の下流で……。三日前から行方が分からなくなっていて、ずっと捜していたんだけど……」


ミーナは両手を握りしめた。


「今朝、見つかったって知らせが来たの」


「……そうか」


俺は静かに頷いた。


エドモンドさんは、ミーナの店によく来る常連客だった。


いつも決まったパンを買っていく。妻のセシリアさんが亡くなってからも、変わらず店に来ていた。


「それで……家族の方から、カイにお願いしたいって。でも……」


そこで、ミーナの声が震えた。


「遺体の損傷が、ひどいらしいの」


俺は何も言わず、ミーナの話を聞いていた。


「川に落ちたみたいで……。見つかるまでに三日もかかったから……」


ミーナは目を伏せた。


「ご家族が、最後にちゃんと顔を見られるようにしてほしいって……」


その言葉を聞いて、俺は道具入れに手を伸ばした。


「分かった。すぐに行こう」


「……お願い」


ミーナは小さく頭を下げた。


「大丈夫だ」


俺はそう答え、必要な道具を確かめ始めた。


どれほど損傷が激しくても、できることはある。


亡くなった人を、残された人が最後に向き合える姿へ整える。


それが、俺の仕事だ。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


少しでも「面白そう」「続きがきになる」と思っていただけましたら、ブックマークや★星を入れて頂けますと嬉しいです!


何卒応援のほどよろしくお願いいたします。

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