03 教皇 後編
ルドルフの家を辞し、馬車へと戻った。
最後に見た家族の姿が、まだ脳裏に残っている。
妻のエレノア。息子のアレクシス。娘のアリシア。そして、孫たち。
彼らは、確かにルドルフの声を聞いた。
あれが何によって起きたのか、私にも分からない。
神託を授かった身であっても、あらゆる奇跡の仕組みを知っているわけではなかった。
ただ、あの時間が残された家族にとって、かけがえのないものになったことだけは確かだった。
そして、その出来事には、ひとりの青年が関わっている。
カイ。
亡くなった者の身体を整える青年だ。
ルドルフの身体は、まるで眠っているかのように穏やかな姿に整えられていた。
長い闘病でやつれていたはずの身体も、本来あるべき姿を取り戻したかのようだった。
生きている者であれば、神聖魔法によって傷を癒やすことができる。
欠損した部位であっても、適切な治療と本人の生命力があれば、再生させられる場合がある。
だが、それは生きているからこそ可能なことだ。
身体を修復しようとする生命の働きが、そこにあるからこそ成り立つ。
すでに命を失った者に、同じことができるはずはない。
それなのに、カイは亡くなった者の身体を、本来あるべき姿へと整えてみせた。
まるで、死という事実だけが、その身体から切り離されているかのように。
そこまでも十分に驚くべきことだったが、亡くなった者の声が家族全員に届くなど、私も聞いたことがなかった。
「……いったい、何者なのだ」
小さくつぶやき、窓の外へ目を向ける。
聖都へ戻るだけなら、このまま馬車を進めればいい。
だが、今はもうひとつ、確かめておきたいことがあった。
リーベルにいる弟弟子、アルベルトのことだ。
カイをルドルフのもとへ送り出したのは、ほかならぬアルベルトだった。
あの男は、カイについて何かを知っているのだろうか。
知っているとすれば、どこまでなのか。
……わざわざ遠回りすることになるが、仕方あるまい
アルベルトが何を考えてカイを向かわせたのか。
それを確かめずに帰るわけにはいかなかった。
♢♢♢♢♢
ベルクの教会に戻ると、セドリック神父は馬車を降りた。
「聖下。本日は……ありがとうございました」
深く頭を下げたものの、顔を上げたセドリックの表情には、まだ戸惑いが残っていた。
無理もない。
先ほどまで、彼はルドルフの家族とともに、亡くなった者を見送るための祈りを捧げていた。
その最中に、死んだはずのルドルフの声が聞こえたのだ。
しかも、声を聞いたのは一人ではない。
妻も、子供たちも、孫たちも、それぞれに言葉を返していた。
あの場では神父として、家族の時間を妨げまいと努めていたのだろう。
だが、祈りを終えた今も、あの出来事を簡単に受け止めることはできないようだった。
「……聖下」
セドリックは、ためらいがちに口を開いた。
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「先ほどのことなのですが……」
そこで、セドリックは言葉を切った。
何から尋ねればよいのか、自分でも整理がついていないのかもしれない。
やがて、意を決したように顔を上げた。
「亡くなられたルドルフ様の声が……確かに聞こえました」
セドリックは、自分の記憶を確かめるように言った。
「ご家族の皆様も、声を聞いて……まるで、そこにルドルフ様がいらっしゃるかのように返事をされていました」
声が震えていた。
「私は、あのようなことを経験したことがありません。死者の声が聞こえるなど……いったい、何が起きたのでしょうか。聖下にも、お分かりにならないのですか?」
その問いには、驚きだけでなく、説明のつかない出来事を目の当たりにした者の困惑がにじんでいた。
静かに首を横に振った。
「私にも分からない。少なくとも、これまで学んできた神聖魔法の知識だけでは説明できない現象だ」
「聖下にも……分からないのですか」
セドリックは息をのんだ。
教皇である私にも説明できない。その事実が、彼の戸惑いをいっそう深めたようだった。
「ひとつ、気になっていることはある」
「気になっていること、ですか?」
「ああ。ルドルフの身体を整えていたカイという青年だ。あの身体の状態は、通常の神聖保存魔法だけでは説明できない」
「私も、それには驚きました。あの青年は、いったい何者なのでしょう……」
セドリックは、まだ落ち着かない様子でルドルフの家を振り返った。
「それを確かめたいと思っている。だが、今の段階では、彼の力と先ほどの現象がどう関係しているのかも分からない」
「……亡くなった方の声を、残されたご家族が聞くことができる。そのようなことが、本当に起こるとは……」
セドリックは、そこで一度言葉を切った。
「聖下。あの青年について、何か分かりましたら、私にも教えていただけますでしょうか。私自身、あの出来事を簡単に忘れることはできそうにありません」
「分かった。何か分かれば、知らせよう」
「ありがとうございます、聖下」
セドリックは、もう一度深く頭を下げた。
馬車に乗り込むと、扉が閉まる直前まで、セドリックが見送る姿が目に入った。
あの出来事に驚いたのは、私だけではなかった。
当然だろう。
死者の声が聞こえ、残された者たちがそれに応えたのだ。
簡単に説明できるはずもない。
カイという青年の力は、いったい何なのか。
本人は、その力についてどこまで理解しているのだろう。
そして、アルベルトは何を知っているのだろうか。
考えても、今は答えが出ない。
馬車が動き出した。
まずはリーベルへ向かう。
聖都とは反対の方向になるが、今はそれでも確かめておきたいことがあった。
♢♢♢♢♢
リーベルに着くと、アルベルト神父のもとを訪ねた。
「アルベルト、いるか?」
声をかけると、奥から聞き覚えのある声が返ってきた。
「はいはい、どなたですか……」
姿を現したアルベルトは、私を見ると、口元に笑みを浮かべた。
「……やはり、いらっしゃいましたね」
「ほう。私が来ると分かっていたのか?」
「ええ。聖下なら、きっとカイのことが気になって、こちらへ来られると思っていましたから」
アルベルトは、悪びれもせずに笑った。
「なるほど。私が何を見たのか、気になっているというわけか」
「さて、どうでしょう」
「相変わらず、口だけは達者だな」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めていない」
アルベルトは楽しそうに笑った。
まったく、昔から変わらない男だ。
神聖魔法の才能は申し分ない。
実力だけを見れば、教会の中枢に立つことも十分に可能な人物である。
それなのに、本人には出世欲がまるでない。
もっとも、今はその話をしに来たわけではなかった。
「アルベルト。カイについて、どこまで知っている?」
アルベルトの笑みが、ほんのわずかに薄れた。
「……いきなりですね」
「お前が彼をルドルフのもとへ向かわせたのだろう?」
「はい。ルドルフさんのアステラへの礼拝にあたり、身体を整える者が必要でしたから」
「それだけか?」
問いかけながら、アルベルトの顔を見つめた。
長年の付き合いだ。
弟弟子が何かを知っているときの、わずかな反応くらいは分かる。
アルベルトは、すぐには答えなかった。
「……聖下は、何をご覧になったのですか?」
こちらの質問に答える代わりに、問い返してきた。
ふん、生意気なことを……。
こちらの出方を窺おうというわけか。
「まずは私の質問に答えろ」
「これは失礼しました」
アルベルトは軽く頭を下げた。
だが、その表情にはまだ余裕が残っている。
「彼が故人の身体を整える仕事をしていること。そして、通常の神聖保存とは違う現象が起きることがある。それくらいです」
「違う現象?」
「ええ。私も、すべてを把握しているわけではありません」
その言葉を聞き、目を細めた。
「では、ルドルフの身体が、本来あるべき姿に整えられていたことは?」
「それは、カイの仕事によるものでしょう」
「やはり、ある程度は知っているのだな」
「多少は、というところです」
アルベルトは慎重に言葉を選んでいた。
身体を整える技術については、何かしら知っているらしい。
だが、それだけで、あの場で起きたすべてを説明できるわけではない。
私は、もうひとつ確かめることにした。
「では、聞こう。亡くなった者の声が、その場にいた家族全員に届くことがあると知っていたか?」
その瞬間、アルベルトの表情から笑みが消えた。
「……家族全員に、ですか?」
「ああ。ルドルフが、妻や子供たち、孫たちに声を届けた。家族はそれぞれ本人の声を聞き、返事をしていた」
アルベルトは、しばらく黙り込んだ。
「……それは、初めて聞きました」
その声には、先ほどまでの軽さがなかった。
「カイが故人に関わる不思議な現象を起こすことは知っていました。しかし、そこまでのことが起きるとは……」
言葉を切り、アルベルトは深く息をついた。
「正直、驚きました。故人の声が家族全員に届くなど、私も想像していませんでした」
その反応を見る限り、少なくとも、あの現象を事前に知っていたわけではなさそうだった。
「お前も、すべてを知っているわけではないのだな」
「はい。私が知っているのは、ほんの一部です。カイ自身も、自分の力について、どこまで分かっているのか……」
「カイ自身も?」
思わず聞き返した。
アルベルトは、少し表情を改めた。
「カイは、自分が以前どこで何をしていたのか、ほとんど覚えていないんです」
「記憶がないということか?」
「ええ。本人も、過去については分からないことが多いようです。ただ、何もかも忘れているわけではありません」
アルベルトは言葉を選びながら続けた。
「ふとした拍子に、何かを思い出すことがあるそうです。本人にも、なぜそれを知っているのか分からない。そんなことが時々あるようでして」
「突然、記憶がよみがえるというのか?」
「完全に過去を思い出すというより、知識や発想の一部が浮かんでくる……という方が近いのかもしれません」
アルベルトは首を傾げた。
「私にも、詳しい仕組みは分かりません。本人に尋ねても、うまく説明できないことが多いようですから」
……なるほど。
カイは、自分の力だけでなく、自分自身の過去についても、分からないことを抱えているのか。
「では、今回の現象についても、本人は理解していない可能性があるのだな」
「そうですね。あのようなことが起きたのなら、カイ自身も驚いているのではないでしょうか」
アルベルトは、少し考えるように目を伏せた。
「もっとも、本人の記憶や力が、どのようにつながっているのかは分かりません。関係があるのかどうかも、まだ何とも言えませんね」
「……なるほどな」
腕を組み、考えを巡らせた。
カイには、故人の身体を本来あるべき姿へと整える力がある。
そして、条件は分からないものの、亡くなった者の声が届くという現象まで起きた。
そのうえ、本人は自分の過去さえ十分に覚えていない。
分からないことが多すぎる。
「アルベルト。お前は、私がルドルフの家を訪ねることも予想していたのか?」
「ええ。聖下とルドルフ様のご関係を考えれば、最後に顔を見に行かれるのではないかと思っていました」
「それで、カイを向かわせた?」
「カイなら、何かできるかもしれない。そう考えたのは事実です」
アルベルトは、まっすぐにこちらを見た。
「ですが、あのようなことが起きるとは、私も予想していませんでした。身体を本来の姿に整えることについては、ある程度知っていましたが……故人の声が家族全員に届くなど、本当に初めて聞きました」
その表情には、隠しようのない驚きが残っていた。
「分かった。お前が知っていることは、今のところそれだけなのだな」
「はい。隠しているわけではありませんよ」
「ふっ……どうだかな」
「……やれやれ、信用がありませんね」
「……まったく。お前もカイも、分からないことばかりだな」
「そういうこともありますよ」
「他人事のように言うな」
そう返すと、アルベルトは肩をすくめた。
「私に分からないことまで、どうにかしろと言われましても」
「開き直るな!」
アルベルトは、また楽しそうに笑った。
その様子を見て、思わずため息が漏れた。
この男は、昔からこういうところがある。
神聖魔法の才に恵まれ、実力も十分。
それなのに、自分の力をもっと広く役立てようという気が、どうにも薄い。
「お前は、もう少し自分の立場というものを考えろ」
「……その話に戻りますか?」
「戻るに決まっているだろう!」
アルベルトは、困ったように頭をかいた。
「お前も、もう52歳だろう。いつまでも今のままでいいと思っているのか?」
「ええ。今の仕事にも、やりがいはありますから」
「お前の実力なら、枢機卿の地位にいてもおかしくない。地位を得れば、もっと多くの人を助けられる。できることも増える。それを分かっていて、なぜ動こうとしない?」
声には、兄弟子としての小言が混じっていた。
アルベルトは、しばらく困ったような顔をしていたが、やがて諦めたように息をついた。
「また、その話ですか」
「その話ですか、ではない!」
「分かっていますよ。ですが、私には今の暮らしが性に合っているんです」
「お前ほどの才を持ちながら、まったく……」
まだ言い足りなかったが、アルベルトは聞く気がないらしい。
「そういえば、聖下。ルーデンのピザをご存じですか?」
「……は?」
あまりにも唐突な話題に、思わず眉を寄せた。
「ピザです。最近、ずいぶん評判になっているそうですよ」
「話をそらすな、アルベルト」
「いえ、本当に評判なんです。せっかくこちらまでいらしたのですから、ルーデンへ寄って召し上がってみてはいかがでしょう」
「お前は……」
額に手を当てた。
昔から、都合が悪くなるとこうして話を変える。
神聖魔法の才は惜しいほどなのに、どうしてこうも地位に関心がないのか。
「……まったく。お前というやつは」
「ありがとうございます。お褒めにあずかり光栄です」
「褒めていない!」
アルベルトは、また楽しそうに笑った。
呆れはしたものの、ルーデンのピザという話題が気にならなかったわけではない。
「ところで、そのピザというのは、どこで考案された料理なのだ?」
何気なく尋ねると、アルベルトは少し意外そうな顔をした。
「それがですね。もともとの発想は、カイから出たものらしいんです」
「……カイが?」
思わず聞き返した。
「ええ。以前、ミーナさんたちと話していたときに、ああいう料理のことを口にしたそうです。ただ、カイ自身も、なぜそんな料理を知っていたのか、はっきりとは分からなかったようでして」
「自分で考えたということではないのか?」
「本人は、どこかで知っていたような気がすると話していたそうです。ですが、いつ、どこで知ったのかは思い出せない。そんな具合だったとか」
アルベルトは、困ったように笑った。
「カイには、そういうことが時々あるんです。ふと何かを思い出したように話すのに、その理由や、それ以前の記憶は戻ってこない」
「……過去の記憶と関係があるのかもしれんな」
「可能性はあるでしょうね。ただ、確かなことは分かりません」
私は、しばらく考え込んだ。
カイが思い出すのは、故人に関わる不思議な現象だけではないらしい。
料理の知識や発想まで、ふとした拍子に浮かんでくる。
それが失われた記憶の一部なのか、それとも別の何かなのか。
今の段階では判断できなかった。
「……ますます、分からなくなってきたな」
「私も同じですよ」
アルベルトは、あっさりと答えた。
「ただ、せっかくカイが思いついた料理です。評判になっているのなら、一度食べてみる価値はあるでしょう?」
「結局、それが言いたかったのか?」
「いえいえ。私は純粋に、おいしいものをおすすめしているだけです」
「……まったく」
アルベルトは、悪びれもせずに笑った。
だが、カイがどのようにしてピザを思いついたのか。それは、私にとっても興味深い話だった。
自分の過去をほとんど覚えていない青年が、ふとした拍子に、見たこともない料理の知識を口にする。
そして、その青年が故人の身体を整え、亡くなった者の声を家族へ届けるという、説明のつかない現象にも関わっている。
これらが偶然なのか、何かしらのつながりがあるのか。
今は、まだ分からない。
「……分かった。せっかくだから、立ち寄ってみよう」
「それはよかった」
「ただし、次に会ったときは、枢機卿の話の続きをするからな」
「ええ、もちろんです」
アルベルトの返事は、あまりにも軽かった。
どうせ、次に会ったときも同じように話をそらすのだろう。
そう思うと、またため息が出た。
それでも、こうして昔と変わらぬやり取りができる相手がいるのは、悪いことではなかった。
私はアルベルトに別れを告げ、教会を後にした。
次の目的地は、ルーデンだ。
カイの力の正体も、失われた記憶も、まだ分からないことばかりだ。
だが、分からないからこそ、確かめる価値がある。
そして、アルベルトが勧めるピザも、少しばかり気になっていた。
♢♢♢♢♢
ルーデンへ向かうと、村に入ってすぐ、思いがけない光景が目に入った。
ひとつの店の前に、人が列を作っていたのだ。
「……何の列だ?」
馬車の窓から眺め、思わず身を乗り出した。
村の店に、これほどの人が集まるとは。
列は店の外まで伸び、順番を待つ人々の間からは、楽しげな話し声が聞こえてくる。
「聖下、いかがなさいますか?」
同行していた者が尋ねた。
私は、顔を隠すために深くかぶっていたフードを整えた。
「少し様子を見よう。大勢で入れば目立つ。私ひとりで行く」
「承知しました」
馬車を降り、列のある店へと歩いていった。
身分を隠しているつもりではあった。
しかし、長年にわたり教皇として人々の前に立ってきた身だ。
フードで顔を隠しても、背筋の伸びた姿勢や落ち着いた足取りまで変えることは難しい。
すれ違った者が、ふとこちらを振り返る。
店の前にいた者たちも、私が近づくと自然に道を空けた。
それに気づきながらも、気づかないふりをして列の最後尾へ向かった。
「……なるほど。アルベルトが勧めるだけはあるのか」
列の先にある看板を見つめる。
どうやら、ここが話題のピザを出している店らしい。
しばらくして、店の中からひとりの女性が顔を出した。
「お待たせしました! 次の方、どうぞ!」
明るい声で客を案内していた店員は、列の先に立つ私を見上げた。
フードで顔を隠しているせいか、表情まではよく分からない。
それでも、店員はすぐにいつもの調子で声をかけてきた。
「いらっしゃいませ! ピザですね。順番にご案内していますので、もう少しだけお待ちくださいね」
「……ああ。分かった」
「ありがとうございます!」
店員はにこやかに頭を下げると、すぐに次の客へと向き直った。
その様子を見送り、思わず小さく笑った。
私の身分を察した様子はない。
少なくとも、教皇として特別扱いしようという態度は見られなかった。
目の前の客が何者であろうと、彼女にとっては、まず順番を待つ客なのだろう。
初対面の相手にも気負わず接する、明るい店員だった。
店の中へ目を向けた。
そのときだった。
店内の一角で、ピザを頬張っている男の姿が目に入った。
見覚えのある顔だった。
かつて教皇に就く前、諸国を視察していた頃に、一度か二度、遠目に見かけたことがある。
だが、顔を覚えていた理由は、それだけではなかった。
男がまとっていた、圧倒的な存在感。
その場にいるだけで周囲の目を引き、並の冒険者とは明らかに違うと分かる気配。
英雄と呼ばれるにふさわしい男だった。
……あやつは
目を凝らした。
間違いない。
……ロイドだ!
他国では英雄として知られた男。
冒険者を辞めたという話は、風のうわさで耳にしていた。
だが、まさかこんな小さな村で、何事もないようにピザを食べているとは。
ふと、以前耳にした話が脳裏によみがえった。
ルーデンで起きたスタンピードを、ひとりの英雄が食い止めたという話だ。
スタンピードは、国にとっても決して見過ごせない災害だ。
当然、当時の被害状況や鎮圧までの経緯は調査されていた。
しかし、鎮圧に大きく貢献した人物については、確かな情報が得られず、正体を特定するには至っていなかった。
……そうか。あのスタンピードを抑えた英雄は、ロイドだったのか。
あの男の実力を考えれば、不思議な話ではない。
むしろ、ロイドなら成し遂げてもおかしくはないだろう。
しかし、別の疑問が浮かぶ。
冒険者を辞めたという話は耳にしていた。
だが、まさかルーデンにいるとは思わなかった。
いったい、何があってこの村に来たのだろう。
しかも、その村にはカイがいる。
偶然にしては、気になることが多すぎた。
列が進むのを待ちながら、もう一度店内へ目を向けた。
ロイドは、こちらの視線など気にも留めず、目の前のピザを味わっていた。
かつて遠目に見た英雄の姿とは、あまりにも違っていた。
♢♢♢♢♢
ようやく順番が来ると、店の中へ案内された。
店内には、焼きたてのピザを食べられる簡易スペースが設けられていた。
テーブルと椅子が並び、客たちは焼き上がったピザを受け取ると、空いている席を探して食事を楽しんでいる。
壁際には、食べ終えた皿や道具を返す場所が用意されていた。
「こちらでお召し上がりいただけます。食べ終わったお皿は、あちらへお願いしますね」
店員は、手際よく説明した。
「焼きたてを食べていただきたいので、店内で召し上がれるようにしたんです。店員が片づけに回ると、次のお客様をお待たせしてしまうので、片づけはご自身でお願いしています」
「なるほど。合理的だな」
「はい! 皆さんに気軽に利用してもらえたらうれしいです」
店員は笑顔で答えると、すぐに次の仕事へ戻っていった。
私は空いている席に腰を下ろした。
ほどなくして、焼き上がったピザが運ばれてくる。
香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「お待たせしました。熱いので、気をつけてくださいね」
「ああ、ありがとう」
礼を言い、ひと口食べた。
そして、思わず手を止めた。
……これは
生地の香ばしさと、口の中に広がる具材の旨味。
初めて口にする料理だというのに、驚くほどよくまとまっている。
教皇として、各地の食材や料理に触れる機会は少なくない。
それでも、この味は予想の外だった。
もう一口。
今度は、ゆっくりと味わった。
「……なるほど。評判になるわけだ」
思わず、そんな言葉が漏れた。
「気に入っていただけましたか?」
声をかけられて顔を上げると、先ほどの店員が近くに立っていた。
「ああ。これは、実にうまい」
「よかった! 最近、たくさんのお客さんに来ていただけるようになったんです」
店員は、うれしそうに笑った。
客に喜んでもらえたことを、素直に喜んでいるようだった。
ふと、名前を聞いておこうと思った。
「ところで、名前を伺ってもよろしいかな?」
「あ、私ですか? ミーナといいます!」
「ミーナ殿か。私は……旅の者だ。今日は、よい料理をありがとう」
「いえいえ! 気に入ってもらえてうれしいです。また食べに来てくださいね!」
ミーナは、うれしそうに笑った。
♢♢♢♢♢
彼女が調理場へ戻ると、私は改めてそちらへ目を向けた。
慣れた手つきで生地を扱い、具材を載せている。
次々と注文が入る中でも、作業の手が止まることはなかった。
先ほど口にしたピザを思い返す。
あれほどの味を生み出し、これだけの客を集めているのだ。
単に料理が得意というだけではないのかもしれない。
……何か、食に関わる特別なジョブを持っているのだろうか。
そんな考えが頭をよぎった。
もちろん、料理の腕だけでジョブを判断することはできない。
本人が特別な力を持っていると気づいていない可能性もある。
今の段階では、ただの推測にすぎなかった。
それでも、気になることには変わりなかった。
……この村はいったい何なのだ
心の中で、思わずつぶやいた。
店の前には行列ができるほどの人気店がある。
故人の身体を本来あるべき姿に整え、亡くなった者の声を家族へ届ける青年がいる。
そして、店内には、かつて他国で英雄として知られた男までいる。
偶然にしては、気になることが多すぎた。
私は小さく息をつき、店内を見渡した。
最後の一口を味わい、皿を返却場所へ運んでから、改めて考えた。
まず、カイの力だ。
故人の身体を、本来あるべき姿へと整える技術。
それだけでも驚くべきことだが、今回、目の前で起きた現象は、それ以上に不可解だった。
アルベルトからは、カイが故人の声を聞くことがあると聞いていた。
だが、今回のように、亡くなったルドルフの声が家族全員に届き、それぞれが言葉を交わすことになるとは、アルベルトも知らなかった。
あの現象は、カイが故人の声を聞く力と関係しているのだろうか。
それとも、私が祈りを捧げたことで、何か別の力が働いたのか。
《神託》を授かった身であっても、すべての奇跡を理解しているわけではない。
今の私には、どちらとも判断できなかった。
カイ自身は、どこまで理解しているのだろう。
ミーナについても、料理に関わる特別なジョブを持っているのか、今はまだ分からない。
……まずは、調べる必要があるな
そう心に決めた。
♢♢♢♢♢
聖都セレディアへ戻ると、教皇執務室でマティアスを呼んだ。
「マティアス。少し調べてほしい人物がいる」
「承知しました。どなたでしょうか?」
「ルーデンにいるカイという青年だ。それから、ミーナという女性についても調べてほしい」
マティアスは、すぐに表情を引き締めた。
「能力や素性について、ということでしょうか」
「ああ。分かっていることは多くない。だからこそ、まずは事実を確かめたい」
「かしこまりました」
マティアスは余計な質問をせず、指示を受け止めた。
その確かな仕事ぶりを、私は信頼している。
鑑定師としての腕も一流だ。今回の調査を任せるには、適任だった。
「ただし、慎重に進めてくれ。彼らが何者なのか、今の段階で決めつけるつもりはない」
「承知しました。確認できた事実を整理して、ご報告いたします」
マティアスが退室すると、椅子の背にもたれた。
ルドルフの最期に立ち会えたことは、友人としての務めだった。
そして、そこで出会った青年は、思いがけない問いを残していった。
神託を授かった私にも、分からないことはある。
だからこそ、確かめる必要があるのだ。
窓の外へ目を向けた。
……ルーデン
あの小さな村には、まだ知られていない何かがあるのかもしれない。
第2章は本編とその別視点の構成で進んでいきます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
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