02 教皇 前編
聖都セレディア。
教皇執務室には、紙をめくる音と、羽根ペンが走る音だけが静かに響いていた。
机の上には、各地の教会から届いた報告書や、教皇庁の政務に関する書類が積み重なっている。
その1枚に目を通し、署名を終えると、次の書類へ手を伸ばした。
教皇となって14年。
神託を授かり、この地位に就いてから、日々の仕事が途切れることはない。
国の安寧を祈るだけでなく、教会の運営や各地から寄せられる問題にも目を配らなければならなかった。
「聖下。お伝えしたいことがございます」
扉の向こうから声がした。
「入れ」
入室したのは、教皇首席補佐官のマティアスだった。
政務の処理能力に優れ、教皇庁の実務を支える男である。
普段なら、報告事項を簡潔にまとめ、必要な判断だけを求めてくる。
だが、このときは違った。
「グランヴェルト家より、訃報が届きました」
手元の書類から顔を上げた。
「……グランヴェルト家?」
「はい。ルドルフ・グランヴェルト様が、逝去されたとのことです」
「……そうか」
……ルドルフ。
その名を聞き間違えるはずがない。
代々、聖騎士を輩出してきたグランヴェルト家。
その当主である男は、かつて近衛聖騎士団の隊長を務めた騎士だった。
「……いつだ」
「今朝、息を引き取られたとのことです。ご本人のご意向もあり、ご自宅でご家族だけでアステラの礼拝を行い、静かにお見送りする予定だそうです」
「……分かった」
ゆっくりとペンを置いた。
……家族だけで、静かに
いかにもルドルフらしい選択だな。
あの男は、自らの功績を誇ることも、必要以上に人を集めることも好まなかった。
与えられた責務を果たし、騎士団を退いた後も後進の育成に力を注いできた。
最後もまた、自分らしく過ごしたいと願ったのだろう。
ならば、その意思を尊重するべきだ。
教皇として大勢を引き連れて訪ねるなど、ルドルフが望むはずもない。
だが、友として、何もせずにいることもできない。
「……マティアス」
「はい、聖下」
「私が出向く。ルドルフの家へ行く準備を整えてくれ」
マティアスは、わずかに目を見開いた。
「聖下ご自身が、訪問されるのですか?」
「ああ。大勢を連れていく必要はない。できる限り目立たぬように頼む」
「承知いたしました。ただ、ご政務の調整が必要になります」
「分かっている。出立までに片づけられるものは片づけよう」
そう答えたものの、机の上の書類に目を戻すことはできなかった。
もう、あの男と会って話すことはできない。
その事実が、遅れて胸に重くのしかかってきた。
それでも、友として最後の祈りを捧げることはできる。
「マティアス。頼んだぞ」
「かしこまりました、聖下」
マティアスが一礼して退出すると、執務室には再び静けさが戻った。
しばらく机の上を見つめていた。
やがて、静かに息を吐き、再び書類へと手を伸ばした。
友のもとへ向かうのは、務めを終えてからだ。
♢♢♢♢♢
出立の時刻を迎え、必要最低限の供回りを伴って王都を後にした。
教皇が公務以外で遠出をするとなれば、本来は相応の護衛や手続きが必要になる。
だが、今回はルドルフの家族の意向を尊重し、できる限り目立たない形を取っていた。
馬車が聖都の門を抜け、街道へと入る。
窓の外を流れていく景色を眺めながら、静かに目を閉じた。
ルドルフが亡くなった。
知らせを受けてから、何度もその事実を考えていた。それでも、まだ実感が湧かなかった。
あいつがいなくなる日が、本当に来るとはな。
いつか別れが来ることは分かっていた。
だが、あの男と二度と酒を酌み交わせなくなるなど、考えたこともなかった。
ふと、遠い日の記憶がよみがえる。
まだ自分が枢機卿になる前、1人の神官として務めていた頃のことだ。
当時の私は、神に仕える者であっても、いざというときには自らの身を守り、誰かを守れるだけの力が必要だと考えていた。
祈りを捧げるだけでは救えない命もある。
そう考え、日々の務めの合間にも身体を鍛え、武術の稽古を欠かさなかった。
神官らしからぬと言われることもあったが、気にしてはいなかった。
そんな頃に親しくなったのが、ルドルフだった。
当時のルドルフは、聖騎士団の隊員だった。
生真面目で責任感が強く、与えられた務めを決して疎かにしない男だ。
もっとも、堅物というわけでもない。
仕事を終えれば酒場に立ち寄り、互いの仕事の愚痴をこぼしたり、他愛のない話で笑ったりした。
時には意見が食い違い、酒を片手に言い合いになることもあった。
それでも、翌日には何事もなかったように顔を合わせる。
肩書きや立場を気にせず、本音で話せる相手。
ルドルフは、私にとって、そういう存在だった。
……あの頃は、ずいぶん好き勝手にやっていたものだ
口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
だが、その笑みは長く続かなかった。
あの日のことを思い出したからだ。
すでに枢機卿となっていた私に、《神託》のスキルが発現した。
《神託》は、世界にただ1人しか持つことのできないスキルだ。
それを授かった者は、教皇となる運命を背負う。
本人の意思だけで、その役割を拒むことはできない。
枢機卿として教団を支えてきた私が、今度は教皇になる。
その知らせを、私自身もすぐには受け入れられなかった。
やがて、世界中の神聖術師にも、新たな《神託》の保持者が現れたことが伝えられた。
教皇となる運命は、もはや誰にも覆せない。
それでも、その決定を快く思わない者はいた。
神託に従うべきだと受け入れる者がいる一方で、反発する者もいた。
その中には、自らの野心を捨てきれず、私の即位を阻もうとする枢機卿もいた。
そして、教皇となることが定まった後、私は命を狙われた。
儀式の最中、襲いかかってきた刃。
身をかわす間もなく迫ったそれを、近衛聖騎士団の隊長となっていたルドルフが、身を挺して受け止めた。
「――ヴァレン!」
あのときの声は、今でも耳に残っている。
ルドルフは私を庇い、深い傷を負った。
床に倒れた友の身体。
広がっていく血。
目の前の光景に、一瞬、何も考えられなくなった。
教皇となる定めも、これから背負う責任も、すべて頭から消えた。
ただ、友を救いたかった。
血に染まったルドルフの身体を支えながら、問いかけた。
「……なぜだ」
ルドルフは苦痛に顔を歪めながらも、かすかに笑った。
「決まっているだろう。お前を死なせるわけにはいかない」
それだけだった。
大げさな理由も、立派な言葉もなかった。
ただ、友を守る。
ルドルフにとっては、それが当然のことだったのだろう。
その傷が原因となり、ルドルフは近衛聖騎士団の隊長を退くことになった。
それでも騎士団を去ることはせず、後進を育てる立場として長くその場に残った。
身体が以前のようには動かなくなっても、自分にできる務めを探し、果たし続けた。
……本当に、最後まで不器用な男だった
膝の上で手を組んだ。
教皇となった後も、ルドルフは変わらなかった。
周囲の者たちが私を特別な存在として扱うようになっても、あの男だけは以前と同じように接してくれた。
必要ならば苦言を呈し、間違っていると思えば遠慮なく指摘する。
教皇に対しても、昔と変わらず遠慮がない。
……少しくらい、立場を考えろと言いたくなることもあったがな
思わず苦笑した。
それでも、あの距離感がありがたかった。
教皇という立場に就いてから、数え切れないほどの人々と接してきた。
敬意を示す者も、助力を求める者も、己の利益のために近づく者もいた。
だが、肩書きとは関係なく、ただのヴァレンティウスとして向き合ってくれる人間は多くなかった。
ルドルフは、その数少ない1人だった。
騎士団を完全に退いたのは60歳のときだった。
64歳で病を患ったと知ったときには、治療がうまくいくことを願った。
だが、願いは届かなかった。
65歳。
年齢を考えれば、早すぎる別れとは言えないのかもしれない。
それでも、あの男がいなくなることを、簡単に受け入れられるはずもなかった。
馬車が街道の凹凸を越え、小さく揺れた。
窓の外へ目を向けた。
今は、友のもとへ向かおう。
教皇としてではなく、長年の友人として。
そして、最後の祈りを捧げよう。
馬車は、静かに街道を進んでいった。
♢♢♢♢♢
馬車がベルクの教会に到着したのは、日が傾き始めていた。
窓の外に目を向け、教会の建物を確かめると、静かに口を開いた。
「まずは、ここに寄っていこう」
「セドリック神父様と合流されるのですね?」
供の者が尋ねた。
「ああ。ルドルフの家で礼拝を行うと聞いているからな」
そう答え、馬車を降りた。
教皇が訪れると事前に知らされていれば、教会側も相応の準備をしただろう。
だが、今回はあえて知らせていなかった。
少しばかり驚かせてやろう。
そんな悪戯心を胸に、教会の中へ足を踏み入れた。
教会の中では、神官たちがそれぞれの務めに励んでいた。
近くでは、セドリック神父が書類を確認している。ルドルフの家で行う礼拝の準備を進めているのだろう。
同行していた護衛に目配せした。
「神父様」
護衛に呼ばれ、セドリックが顔を上げる。
「はい。何かご用でしょうか」
そして、護衛の隣に立つ人物を見た瞬間、その表情が固まった。
「……せ、聖下?」
何食わぬ顔で微笑んだ。
「久しぶりだな、セドリック神父」
「きょ、教皇聖下!? なぜ、こちらに……!」
慌てて片膝をつこうとするセドリックを、手で制した。
「そう慌てるな。今日は公務で来たわけではない」
「そ、そうはおっしゃいましても……!」
「今、ルドルフの家で行う礼拝の準備をしていたのだろう。邪魔をするつもりはない。少し話をしたかっただけだ」
セドリックは困惑した表情のまま、どうにか姿勢を正した。
「恐れ入ります。ですが、聖下が突然いらっしゃるとは思いもせず……」
「それはそうだろうな」
どこか楽しげに笑った。
「事前に知らせていたら、君はきっと大騒ぎをしていただろう?」
「そ、それは……」
セドリックは返す言葉に困り、口を閉じた。
その様子に、小さく笑った。
「冗談だ。ところで、ルドルフの家での礼拝は、いつ頃始める予定だ?」
「必要な準備は、ほぼ整っております。あとは私が屋敷へ伺い、ご家族とともに祈りを捧げる予定です」
「そうか。私も同行させてもらおう」
「……聖下も、でございますか?」
「ああ。ルドルフは、私にとって大切な友人だ」
声から、先ほどまでの軽さが消えた。
「最後に、直接顔を見ておきたいのだ」
セドリックは私の表情を見つめたあと、静かに頭を下げた。
「かしこまりました。ご一緒させていただきます」
「ありがとう。準備が整ったら声をかけてくれ」
「はい」
それ以上、ルドルフについて語ることはなかった。
思い出を口にするより、今は友のもとへ向かいたかった。
♢♢♢♢♢
準備を終えたセドリック神父と合流し、ルドルフの屋敷へ向かった。
屋敷に到着すると、供回りに待機するよう告げ、セドリック神父とともに玄関へ向かった。
出迎えたベルナールが、セドリックに気づいて頭を下げる。
「セドリック神父様。お待ちしておりました」
「お世話になります。礼拝の準備は整っておりますので、まずはルドルフ様にご挨拶をさせていただければと思います」
「はい。こちらへご案内いたします」
ベルナールがそう答えたところで、私の姿に気づいた。
その瞬間、彼の顔から血の気が引いた。
「……せ、聖下?」
穏やかに頷いた。
「突然の訪問で驚かせてしまったな」
「きょ、教皇聖下……!?」
ベルナールの声が裏返った。
続いて、何かを落としたような音がする。
ガシャン、と金属の触れ合う音。
「ベルナール様!? どうなさいました!?」
廊下の奥から、メイドの声が聞こえた。
「お、お待ちください……!! まさか、本当に……!!」
思わず苦笑した。
どうやら、少々驚かせすぎたらしい。
「落ち着きなさい。今日は公務で訪れたわけではない」
そう声をかけても、ベルナールはすぐには返事ができなかった。
その様子を見て、セドリックが気遣うように声をかける。
「ベルナール様。聖下は、ルドルフ様にお別れを告げるためにいらっしゃったのです。どうか、お通しください」
「は、はい! もちろんでございます!」
ベルナールは慌てて姿勢を正し、屋敷の奥へ案内した。
廊下を進みながら周囲を見渡した。
華美な装飾はなく、屋敷の中は静かだった。
家族だけで見送るという、ルドルフが望んだ別れの形を守っているのだろう。
やがて、ベルナールが一室の前で足を止めた。
「こちらでございます」
小さく頷いた。
♢♢♢♢♢
扉の向こうから、かすかな神聖魔法の気配が伝わってくる。
祈りのための魔法とは、少し違う。
何かを保ち、整えるような、静かな力の流れだった。
……中に、誰かいるのか。
アルベルト神父だろうか。
神聖保存を扱う者なら、教会の神官や神聖術師が務めるのが一般的だ。
ルドルフほどの人物を送り出すのであれば、相応の術者が呼ばれていても不思議ではない。
扉の向こうに意識を向けた。
だが、その気配だけでは、誰が何をしているのかまでは分からなかった。
セドリック神父が先に部屋へ入った。
私も、その後に続く。
「失礼いたします」
セドリック神父に続いて部屋へ入ると、家族の視線が一斉にこちらへ向いた。
そして、次の瞬間。
「きょ、教皇聖下……!?」
アレクシスが驚きの声を上げ、慌てて片膝をついた。
それに倣い、家族たちも戸惑いながら、それぞれに礼を取った。
……やはり、驚かせてしまったか
もっとも、何の前触れもなく訪ねてきたのだから、無理もない。
私は、緊張に包まれた家族を見渡した。
「皆さん、どうかそのままで」
できるだけ普段どおりの声で告げる。
「今日は公の訪問ではありません。どうぞ、普段どおりに……と言っても、難しいでしょうね」
そう付け加え、穏やかな眼差しを向けた。
それでも、家族の表情から硬さが消えることはなかった。
私は、ルドルフとは古くからの友人であり、若い頃には仕事終わりに酒場で語り合ったものだと話した。
そして、最後に友人として祈りを捧げたいと思い、ここを訪ねたのだと伝える。
すると、アレクシスは少し落ち着きを取り戻した様子で、改めて礼を述べたあと、家族を順に紹介してくれた。
私は一人ひとりに目を向け、静かに頷いた。
「皆さん、どうか楽になさってください。今日は、ルドルフを見送るために来たのですから」
そう告げると、家族の表情がわずかに和らいだ。
教皇という立場にある私が訪れたことで、彼らに余計な気遣いをさせたくはなかった。
今日は、公務でここに来たのではない。
長年の友人を見送るために来たのだ。
そう思いながら、ベッドへ視線を移した。
♢♢♢♢♢
そこに横たわるルドルフの顔を、しばらく見つめる。
整えられた髪。穏やかな表情。まるで眠っているかのような、安らかな顔つき。
最後に会ったときよりも、ずいぶんと穏やかな顔をしている。
長い闘病の末に亡くなったと聞いていた。
本人も、そばで支えてきた家族も、つらい時間を過ごしたに違いない。
それだけに、今のルドルフの表情には目を引かれた。
「……見事な神聖魔法です」
そう口にしたのは、心から感心したからだった。
ルドルフの身体は、驚くほど穏やかに整えられていた。
肌の色。顔立ち。表情。
どれも不自然さがない。
神聖保存の術そのものも、丁寧に施されている。
アルベルト神父が手を貸したのだろうか。
そう考えたのも、無理はなかった。
あの男なら、これほど見事な保存を施すこともできる。
だが、ふと違和感を覚えた。
ただ保存されているだけではなかった。
長い闘病で痩せ、苦しみの跡を残していたはずの顔が、驚くほど穏やかに整えられている。
肌の様子も自然で、まるで生きているかのようだった。
死者の身体が、ここまで自然な姿を保っている。
……これは、本当に神聖保存だけによるものなのか?
神聖保存は、死者の身体の状態を安定させ、残された者が別れを受け入れるための時間を与える術だ。
失われた生命を取り戻すことも、死後の身体を生前の状態へ戻すこともできない。
これまで多くの神聖魔法を見てきたが、目の前の光景を説明できるものは思い当たらなかった。
「これは、アルベルト神父に頼まれたのですか?」
ルドルフから目を離さずに尋ねると、アレクシスが答えた。
「いえ、聖下。アルベルト神父様は、どうしても外せないご用事があり、こちらへ来ることができませんでした。そこで、こちらの弔い屋のカイさんを紹介していただいたのです」
……アルベルト神父ではなかった
では、この青年がルドルフの身体を整えたのか。
「……弔い屋?」
初めて聞く肩書きに、思わず聞き返した。
青年へ視線を向ける。
「……あなたが?」
「はい」
青年は、少し緊張した様子で頷いた。
カイというのか。
黙って彼を見つめた。
顔つきに、特別なものはない。
身のこなしにも、目立った特徴はなかった。
神聖魔法を扱う者に特有の気配も感じられない。
もちろん、外見だけで人の力量を判断するつもりはない。
それでも、目の前のルドルフの身体を見れば、ただ保存するだけではない、何か特別な処置が施されていることは明らかだった。
……いったい、この青年は何をしたのだろう
神聖魔法なのか。
それとも、別の力なのか。
カイの表情からは、特別な自信も、誇るような様子も見て取れなかった。
私は、わずかに目を細めた。
……興味深い
そう思う一方で、慎重になっていた。
この力が何なのか、今ここで決めつけることはできない。
だが、少なくとも、見過ごしてよいものではなかった。
「……ありがとう」
短く告げた。
ルドルフの身体を、これほど丁寧に整えてくれたこと。
家族が、穏やかな顔をした彼と最後の時間を過ごせるようにしてくれたこと。
友人を見送る立場にある私にとっても、ありがたいことだった。
「……恐れ入ります」
カイが深く頭を下げた。
それ以上、青年に尋ねることはしなかった。
ここはルドルフを見送るための場所だ。
今、家族の前で青年を問いただすべきではない。
再びルドルフへ向き直った。
今は、目の前の友人を見送ることに集中しよう。
問いを解き明かすのは、そのあとでも遅くはない。
♢♢♢♢♢
胸元の聖印に手を添え、静かに目を閉じた。
「アステラよ」
祈りの声が、部屋に響く。
「生きる者には明日を」
長年、幾度となく捧げてきた祈りだ。
教皇となってからは、国の安寧や人々の平穏を願うことも増えた。
だが、祈りに込める願いの根本は変わらない。
今、願うのは、長年の友であるルドルフの安らぎ。
そして、残された家族が、いつか悲しみを越えて歩き出せることだった。
せめて安らかに眠ってほしい。
その願いを胸に、祈りを続けた。
ふいに、意識の奥で微かな揺らぎを感じた。
これまで幾度となく神聖魔法を使ってきたが、こんな感覚は覚えがない。
何かが、自分の祈りに応えている。
そんな気がした。
だが、それが何なのかを確かめる間もなく、祈りの言葉を続ける。
「死した者には安らぎを」
その直後だった。
低く、穏やかな声が聞こえた。
自分だけではない。
部屋にいる全員が、同じ方向を見た。
その声は、間違いなくルドルフのものだった。
「……あなた?」
エレノアの声がした。
私の手も、ほんの一瞬だけ止まった。
亡くなったはずの友人の声が、確かに聞こえたのだ。
それも、私だけではない。
部屋にいる全員の耳に、その声が届いていた。
驚きを押し隠す間もなく、耳元に懐かしい声が響いた。
――『ヴァレン』
耳元に届いた声に、胸が大きく揺れた。
――『先に逝く……友よ』
聖印に添えた指が、かすかに震えた。
もう二度と聞くことはないと思っていた声が、今、私を呼んでいる。
言葉を返したかった。
もう一度、その名を呼びたかった。
だが、その直後――。
再びルドルフの声が響いた。
「……エレノア」
はっと意識を引き戻した。
……今は、祈りを続けなければ
聖印に添えた指の震えを抑え、何事もなかったかのように祈りを続ける。
エレノアが、ルドルフの声に応える。
「……はい、あなた」
その声には、涙が混じっていた。
祈りを続けながら、目の前で起きていることを見守った。
ルドルフの声は、確かに家族へ届いている。
何が起きているのかは分からない。
神聖魔法によるものなのか、それとも、自分の知らない何かが起きているのか。
だが、今は確かめるときではなかった。
ルドルフは、家族一人ひとりに声を届けていた。
妻へ。息子へ。娘へ。そして、孫たちへ。
呼びかけに応える家族の声には、涙が混じっていた。
そのやり取りを聞きながら、ルドルフの姿を見つめた。
昔から、口数の多い男ではなかった。
騎士としての責任を背負い、家族を守り、言葉よりも行動で示す。
そんな男だった。
そのルドルフが今、家族に言葉を届けている。
伝えたかったことが、きっとあったのだろう。
やがて、ルドルフの声が孫たちにも届いた。
祖父に強くなると誓うルーカス。
笑って生きると伝えるリリア。
そして、また一緒に釣りに行こうと語りかけるフィン。
その言葉を聞き、目を伏せた。
自分とルドルフも、昔はよく酒を酌み交わした。
立場を忘れ、他愛のない話をして笑い合った。
もう、あの時間が戻ることはない。
それでも、ルドルフが家族に残したものは、決して小さくはなかった。
聖印に添えた手に力を込めた。
友の声を、もう一度聞くことができた。
それだけで、胸の奥にあった悲しみが消えるわけではない。
だが、今はただ、この時間が続くことを願った。
家族が、ルドルフの言葉を受け止められるように。
そして、自分もまた、友の声を胸に刻めるように。
静かに祈りを続けた。
♢♢♢♢♢
やがて、ルドルフの声が止んだ。
部屋に静けさが戻る。
エレノアは、ルドルフの手を握ったまま涙を流していた。
「……ありがとう、あなた」
アレクシスも、アリシアも、子供たちも、それぞれの思いを胸に、ルドルフを見つめている。
私は、ゆっくりと目を開けた。
亡くなった者の声が聞こえた。
しかも、私だけではない。
家族全員がその声を聞き、言葉を返していた。
神託を授かり、教皇となってからも、世の中のすべてを理解できたわけではない。
だが、これほど不可思議な現象を目の当たりにしたのは初めてだった。
そして、目の前にいる青年――カイ。
彼がルドルフの身体を整えたことと、今の現象には何か関係があるのだろうか。
先ほど目にした処置も、私の知る神聖魔法だけでは説明がつかない。
まして、亡くなった者の声を家族へ届けるなど、聞いたことすらなかった。
しかし、今の段階で何かを断定することはできない。
私はカイへ向けかけた視線を戻し、ルドルフを見つめた。
穏やかな顔で横たわる友は、もう何も語らない。
それでも、先ほどまで確かに、その声は届いていた。
もう一度、あの声を聞きたい。
そう願っても、今度こそ返事はなかった。
私はルドルフのそばへ歩み寄り、静かに頭を下げた。
「……安らかに眠れ、ルドルフ」
教皇としての祈りであると同時に、長年の友人へ贈る別れの言葉だった。
しばらく、頭を下げたまま動けなかった。
共に酒を酌み交わし、他愛のない話に笑い、時には遠慮なく言い合った日々。
もう、あの時間が戻ることはない。
それでも、最後にもう一度、その声を聞くことができた。
そして、残された家族が、あいつの言葉を受け取る場にも立ち会えた。
それを、ありがたいと思った。
私はゆっくりと顔を上げ、もう一度だけ友の顔を見つめた。
……さらばだ、友よ
私は静かに目を閉じた。
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