第9話 狼の教え
水を汲んで戻る頃には、辺りはすっかり夜の帳に包まれていた。
昼間は青く輝いていた湖も、今は夜空を映す黒い鏡へと姿を変えている。
「では、火は私が起こしますわ」
水瓶を置いて袖を捲ろうとすると、レオニス様が静かに首を振った。
「エレノア様。火起こしは、また別の機会にお願いします」
「まあ」
「日が落ちました。これ以上冷える前に、火を確保した方がいいでしょう」
少しだけ残念だった。
せっかく、魔術の万能さには敵わないまでも、私にも出来ることを披露できると思ったのに。
けれど、ここで意地を張るほど子どもでもない。
「……分かりましたわ」
私が頷くと、レオニス様は先ほど集めた枝へ指先を向けた。
小さな火花が散ったかと思えば、次の瞬間には橙色の炎が灯る。
ぱちり。
ぱちり、と薪の爆ぜる音が、静かな湖畔へ響いた。
「本当に便利ですのね……」
思わず呟けば、レオニス様が僅かにこちらを見る。
「魔術が、ですか?」
「ええ。こうして見ていると、何でも出来てしまいそうです」
「何でも、というわけではありません」
先ほども同じことを言っていた。
けれど私には、やはりその境目がよく分からない。
火を起こすことも、空を飛ぶことも、あの小さな鞄へいくつもの荷物を収めることも。
どこまでが魔術師なら出来ることで、どこからがレオニス様だから出来ることなのか。
――やっぱり、レオニス様がすごいのかしら。
そんなことを考えている間にも、夕食の支度は整っていった。
レオニス様が敷物とクッションを整えている間に、私は持ってきたパイを切り分ける。
小さなやかんでは湯が沸き始め、茶葉の香りが夜の冷たい空気へ溶けていった。
支度を終え、私は焚き火の前へ腰を下ろす。
昼間はまだ夏の名残を感じるほどだったのに、山の日暮れは早い。
日が落ちた途端、吹き抜ける風が急に冷たくなった。
「……少し冷えますわね」
「ええ」
レオニス様が鞄から薄手のブランケットを取り出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
受け取って膝へ掛ける。
柔らかな布地と焚き火の熱に、ほっと息をついたところで、ふと向かいへ腰を下ろしたレオニス様を見る。
「レオニス様は?」
「私は結構です」
「そのような軽装で寒くありませんの?」
「……眠らなければ問題ありません」
眠れば体温が下がるということだろう。
どうやら一晩寝ずに過ごすつもりらしい。
「では、こちらへどうぞ」
私はおもむろにブランケットの片側を持ち上げ、隣を空ける。
「…………」
なぜか、レオニス様が固まった。
「レオニス様?」
「……いえ。私は大丈夫です」
「でも、寒いのでしょう?」
「問題ありません」
「問題ありますわ」
一人で使うには十分な大きさだけれど、二人で使えないほど小さくもない。
「一緒に使いましょう」
「……それはできません」
その返事はあまりにも即答で、一瞬だけ言葉に詰まる。
……そんなに嫌だったのかしら。
でも。
譲るわけにもいかない。
宮廷魔術師のローブは薄着でこそないが吹く風に耐えうる装備とは思えなかった。
「なぜです?」
「男女です」
「それは知っています」
「ご存じでしたか」
「もちろんです」
「でしたら……」
大きなため息。
呆れているような灰水晶の瞳が私を見る。
「寒いでしょう?」
「若干……肌寒い程度です」
焚き火を映したその瞳は、どこか落ち着かないようにも揺れていた。
「でしたら決まりです。これしか方法がありませんわ。私はレオニス様に風邪を召していただきたくありませんし、当然、私も引くわけにはいきません」
「決まりではありません」
何を馬鹿なことを言っているのか、とでも言いたげな顔で見られた。
完璧な理屈だと思うのだけれど、彼は頷かない。私は首を傾げた。
「先ほどは私を抱き上げてくださいましたよね?」
「……あれは、移動するために必要だったのです」
「今は違うのですか?」
「違います」
「何が違うのです?」
「…………」
今度は、なんとも形容しがたい顔をされた。
誰かにこんな顔をされたのは初めてで、少し傷つかなくもない。
けれど、それ以上に。
――この方、こんなに表情豊かな方だったのね。
うっかり関係のないことを考えてしまった。
「今は両手も空いておりますし、魔術も使っておりません。……だから、です」
観念したように言ったその一言は尻すぼみに小さくなっていく。
「だから?」
「……男女です」
レオニス様の眉間の皺が一段と深くなった。
何を言いたいのですかと首をかしげる私に、念を押すようにもう一度告げられる一言。
つまりは男女がそんなに密着するなんてふしだらとかそういう要件らしい。
むしろ、飛んでいた時の方がずっと近かったではないか。
腕の中へすっぽりと抱えられていたし、途中からは私もすっかり忘れて景色にはしゃいでしまった。
そういえば、レオニス様のお顔を見つめすぎて、集中しづらいとまで言われたけれど。
それと今の話に、何の関係があるのだろう。
「そもそもエレノア様は、分かってくださる気はおありなんですか」
「難しいですわ」
「…………」
だって、分からないものは分からない。
どうやら彼の言う理由が分からない限り、対話による解決は難しそうだった。
「では、こうしましょう」
仕方がない。
そう思って、私は膝に掛けていたブランケットをぽい、とレオニス様へ放った。
「……!」
咄嗟に受け取ったレオニス様が、目を見開く。
「私はここを動きません」
「……はい?」
「レオニス様が一緒に使ってくださらないなら、私も使いませんわ」
「エレノア様」
「寒いのですもの」
言ったそばから、湖を渡ってきた夜風に肩が震えた。
「こんなところで二人揃って風邪を引くなんて、あまりにも馬鹿らしいでしょう?」
「私は使わなくても――」
「そうですか、ではこのブランケットはしまってください」
「…………」
「私も使いません」
すっぱりと言い切る。
レオニス様は手の中のブランケットと私を交互に見て、しばらく黙り込んだ。
そして。
「……無理なことは、きっぱり断れと」
「?」
「あなたの侍女から言われていますが」
深いため息が落ちる。
「こういう時にどうすればいいのかまで、教えてもらうべきでした」
「まあ」
「……分かりました」
とうとう観念したらしい。
レオニス様は私の隣へ腰を下ろすと、広げたブランケットを二人の肩へふわりと掛けた。
「失礼いたします」
「はい」
肩が触れる。
「…………」
思っていたより、近い。
先ほど抱き上げられていた時の方が、身体そのものはずっと近かったはずなのに。
今は空を飛んでいるわけでもない。
眼下に広がる景色もなければ、頬を撫でる風もない。
ただ静かな夜の湖畔で、二人並んで座っている。
だからだろうか。
触れた肩も、すぐ隣にある身体の温度も、妙にはっきりと感じられた。
「……確かに、近いですわね」
「…………」
隣から、長い沈黙が返ってきた。
「レオニス様?」
「……ですから、先ほどからそう申し上げております」
「あら」
隣からは妙に落ち着きのない気配が伝わってきて、思わず笑ってしまった。
「でも、温かいですわ」
「……それは何よりです」
返事は短い。
横を見ると、レオニス様は頑なに焚き火だけを見ていた。
その耳が少し赤く見えたけれど、きっと炎のせいだろう。
私も何となく火へ視線を戻した。
ぱちり、と薪が爆ぜる。
しばらくして、レオニス様がぽつりと口を開いた。
「火起こしなんて……」
お茶のカップを差し出しながら呟く。
「どちらで、そのようなことを?」
「お父様です」
そのカップを受け取ると、じんわりとした熱が指先へ伝わってくる。
私はなんだか嬉しくなって、少し胸を張った。
「たとえ山で遭難しても、一人で生き抜けるように、と」
静かな湖畔には、私たちの声と薪の爆ぜる音だけが響いている。
湖面に反射する星々と、頭上を彩る星々。その下で、彼の優しげな灰水晶の瞳だけが私を見ていた。
「山で、一人で?」
「ええ。まずは飲み水を確保すること。食べられる木の実や毒草の見分け方。小さな動物を捕るための罠のかけ方。雪洞の掘り方」
その瞳の中で橙色の炎が揺れるのを見て、私も焚き火へ視線を戻した。
「全部教わりました」
静かに聞いていたレオニス様は、純粋に驚いたようだった。
「……そのようなことまで、お教えになるのですね」
「ええ」
私は微笑む。
「フォルティス家の家訓は、『春を待て』ですもの」
両手で包んだカップへ、ふう、と息を吹きかける。
白い湯気がふわりと揺れて、夜の冷たい空気へ溶けていった。
「アルスヴィークは冬が長い土地です」
気付けば王都で暮らした年月の方が長くなっていた。
それでも、この凛とした空気を吸えば分かる。
帰ってきたのだと。
私の魂は、やはりこの雪の大地にあるのだと。
「雪に閉ざされれば道は絶たれ、狩りも難しくなります。だからこそ、冬が来る前に備えなければならないのです」
「備える……」
切り分けたパイを口に運ぶ。
さくりと崩れる生地の中には、じっくり煮込まれた肉と野菜。
雪待ち亭で昔から出されている、私にとっては故郷への帰り道の味だ。
「食料も。薪も。知識も」
この身に流れる血はアルスヴィークの雪解け水とともに育まれ、この魂は今なお故郷の大地へ根を張っている。
「そして心も」
炎が静かに揺れる。
「厳しい冬の最中でも、必ず春は来ると信じて日々を重ねること」
夏の終わりとはいえ、日が落ちた山の空気は冷たい。
けれど、本当の冬はこんなものではない。
山も、森も、家々の屋根も。
見渡す限りすべてが白く染まり、吐いた息さえ凍りつきそうな季節が、この土地には毎年訪れる。
「それが、我が家の教えです」
胸元からそっと、家訓の刻まれた紋章を取り出す。
そこには、白銀の狼を描いたフォルティス家の紋章。
「狼は、一頭では冬を越えられません。群れで支え合い、知恵を巡らせ、厳しい冬を生き抜きます」
いついかなる時も肌身離さず持っているこのペンダントは、心臓に一番近い場所に教えを持つようにという父からの贈り物だった。
「お父様はよく仰いました」
父の低い声を真似る。
『強さとは牙ではない。仲間を守り抜く覚悟だ』
思い出して、笑みが零れる。
「だから私も、小さい頃から山へ連れて行かれていました」
雪を蹴り、大きな背中を夢中で追い掛けた幼い日を思い出す。
「雪の中を歩くことも。火を起こすことも。薬草を見分けることも」
目が焼かれるほど眩しい銀世界。
雪の怖さ。自然の険しさ。
無慈悲なほど大きな流れの中で、それでも人は生きていかなければならないこと。
「全部、辺境伯家の子として必要なことなのです」
そう言ってからしばらく、薪の爆ぜる音だけが続いた。
気付けば、ずいぶん話し込んでしまっていた。
少し話しすぎただろうか。
そう思って隣を見ると、レオニス様は何も言わず、静かにこちらを見ていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……良い家訓ですね」
「ええ」
その一言が嬉しくて、自然と笑みが零れた。
父は、牙が生えていてもおかしくないほどの強靭な武人だ。
けれど、あの人の本当の強さは、その剣の腕だけにあるのではない。
揺るがぬ強き精神性によって、あれほどの武を振るえるのだと私は思う。
女であること以前に、今から私が父のような武を修めることは難しい。
けれど、母から学んだ強かさも、王妃となるために身につけた知識も、きっと私なりの強さになる。
私もこの地を継ぐからには、強き狼にならなければ。
そう、心の底から思っている。
だから、ふと気になった。
「アルヴェルト家は?」
「…………」
その問いに、レオニス様の手がほんのわずかに止まった。
焚き火が、ぱちり、と静かに爆ぜる。
その音だけが、二人の間に落ちた沈黙を埋めていた。




