第10話 蛇と星
焚火が、ぱちり、と静かに爆ぜる。
その音だけが、二人の間に落ちた沈黙を埋めていた。
レオニス様は手にしたカップへ視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
白い湯気だけがゆらゆらと立ち昇り、夜の闇へ溶けていく。
「……アルヴェルト家の家訓は」
やがて、ぽつりと声が落ちた。
「『理を識れ』です」
私は小さく目を瞬かせた。
「理、ですか?」
「ええ」
返ってきた声には、妙なほど抑揚がなかった。
「魔術は奇跡ではない。世界の理を理解した者だけが扱えるもの」
そこで一度、言葉を切る。
「感情ではなく知識を。憧れではなく研鑽を」
一つひとつを、まるで幼い頃から暗唱してきた詩のように。
淀みなく紡がれる言葉は、きっと何千回と聞かされ、身体の奥深くまで染みついているものなのだろう。
けれど、不思議だった。
先ほど私が父の言葉を口にした時とは、まるで違う。
同じように幼少から教えられてきた言葉のはずなのに。
その言葉のどこにも、彼自身がいないように思えた。
「とても、アルヴェルト家らしい家訓ですわね」
魔術の名門として、何人もの優秀な魔術師を輩出してきた家だ。
そう思って口にしたのだけれど。
「……そうですね」
レオニス様は静かに目を伏せた。
長い睫毛が、灰水晶の瞳を覆う。
感情に流されず、常に冷静であることを美徳とする家なのだろうか。
そういえば、妹のセレーネ様も常に物静かな方だ。
王宮の華やかな場にあっても騒がしさとは無縁で、その凛とした佇まいは兄であるレオニス様によく似ている。
「家紋も」
不意にレオニス様が続けた。
「蛇と星です」
「蛇と星?」
「ええ」
そう言って、彼はローブの袖を少しだけ捲った。
「まあ……」
思わず声が漏れる。
白い肌に刻まれた、黒い紋様。
腕へ絡みつくように、一匹の蛇が這っている。
その周囲には、鱗の隙間を縫うように小さな星々が散っていた。
焚火の橙色を受けて揺らめくそれは、まるで本当に蛇がその腕を這っているようにも見える。
「刺青、ですか?」
「はい」
思わず、少しだけ身を乗り出した。
刺青そのものを見るのは、初めてだった。
身体へ墨を入れ、消えることのない紋様を刻む。
市井では古くからの風習として残る地域もあると聞くし、同じ組織に属する者が身分を示すために同じ紋様を刻むこともあるという。
けれど、少なくとも中央貴族の家柄では珍しい。
ましてや公爵家の嫡男ともなれば、なおさらだ。
「蛇は英知。星は真理への導き――そういう意味なのでしょう?」
王妃教育で学んだ紋章学の知識を辿る。
蛇は古くから知恵や再生の象徴として用いられる。
そして星は、暗闇の中で進むべき道を示すもの。
魔術の深奥を追い求めるアルヴェルト家には、これ以上ないほど相応しい紋章に思えた。
「……ええ」
返ってきた声は、あまりにも淡々としていた。
「本来は」
「…………」
その一言で。
なぜだか、聞いてはいけないところへ踏み込んでしまったような気がした。
私は改めて、その腕へ刻まれた紋様を見る。
黒い蛇。
散りばめられた星。
美しい意匠のはずなのに。
今はなぜか、彼の白い腕へ巻きついた鎖のようにも見えた。
「……レオニス様は」
口にしてから、一瞬だけ迷う。
それでも、尋ねた。
「お好きではないのですね」
「…………」
レオニス様は否定しなかった。
ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それは笑みと呼ぶにはあまりにも寂しくて。
「私には」
灰水晶の瞳が、焚火を映す。
「蛇は」
少しだけ間を置いて。
「知恵ではなく、獲物を逃がさぬために地を這うものに見えます」
私は何も言わなかった。
彼の腕へ這う蛇を見つめながら、ただ続きを待つ。
「星も」
レオニス様が夜空へ視線を向ける。
つられて、私も顔を上げた。
澄み切った夜空には、数え切れないほどの星が瞬いている。
「導きではなく、決して届かぬものです」
静かな声だった。
「……どこへ逃れても、頭上にあり続ける」
「…………」
その声には、怒りも、恨みもなかった。
だからこそ。
胸の奥が、妙に締めつけられた。
嫌いだと吐き捨ててくれた方が、まだ良かったのかもしれない。
けれど彼は、そうしない。
ただずっと昔に諦めてしまったものを語るように、淡々と言葉を紡いでいる。
「……それは」
少し迷ってから、尋ねる。
「ご実家がお嫌いだから、ですか?」
その瞬間。
焚火が、ぱちり、と大きく爆ぜた。
「…………」
レオニス様の瞳が僅かに揺れる。
私は、何も知らない。
魔術の名門、アルヴェルト公爵家の嫡男。
アカデミーをわずか一年で卒業し、王国史上最年少で宮廷魔術師となった天才。
今は第一王子であるカイル殿下の護衛を務め、いずれは王国の中枢を担うだろうと噂されてきた方。
それが、私の知っているレオニス・アルヴェルトだった。
けれど、ひとつだけ。
先日、セレーネ様が口にした言葉。
たとえ彼女がアルヴェルト家を継がなかったとしても、レオニス様が当主となることはないのだと。
それまでは、深く疑問に思ったことはなかった。
レオニス様はカイル殿下の側近として、すでに王宮で確固たる地位を築いていらっしゃる。
いずれ殿下が王位に就かれたなら、その懐刀として王国の中枢を担う方なのだろう。
だから、家督は妹であるセレーネ様へ譲る。
兄には及ばずとも、セレーネ様も十分に優秀な方だ。
公爵家を継ぐに不足があるとは思えない。
私はずっと、そういうことなのだと思っていた。
けれど。
セレーネ様が継がないとしても、レオニス様が継ぐことはない。
それでは、話が違う。
これほど優秀な嫡男が、他に後継者がいなくとも家督を継がないというのなら。
そこにはきっと、私が想像するよりもずっと深い、他人が容易に触れてはいけない事情がある。
「…………」
ほんの一瞬だけ。
そこにいたのは、王国最年少の宮廷魔術師でも、王子の側近でもなかった。
帰る場所を見失ってしまった、一人の青年だった。
何を言えばいいのか分からなくて。
しばらく二人で黙ったまま、夜空を見上げた。
風のない湖面には、頭上と同じ星々が映っている。
空にも、水面にも。
数え切れないほどの光が散らばっていて、まるで世界が上下へ反転したようだった。
「……綺麗」
思わず、声が零れる。
「ええ」
隣から、短い返事が返ってきた。
「星って、不思議ですわね」
「……?」
「昔の人は、あの一つひとつに物語を見つけたのでしょう?」
豊作を告げる星、旅人を導く星、恋人たちを見守る星。
神々の姿を描いたものだってある。
「でも」
私は少し考えてから、笑った。
「本当は、ただ綺麗なだけなのかもしれません」
レオニス様は何も言わない。
「きっと、何にでも意味を見出そうとしてしまうのは、人の性なのでしょうね」
星は、ただそこにあるだけなのかもしれない。
人が勝手に名前をつけて。
意味を与えて。
届かないものへ、願いまで託している。
「それでも」
私は湖へ映る星を眺めた。
「今日、この星空を見られて良かったと思うんです」
「…………」
「手に入らなくても。理由なんてなくても」
届かないなら、届かないままでいい。
そこにあるものを、ただ美しいと思うだけでもいいのではないだろうか。
「私は、この瞬間の輝きを」
この先、何年経っても。
「きっと一生、忘れません」
一つ、風が吹いた。
湖面に細かな波紋が走り、映っていた星々がゆらゆらと形を崩す。
それでも、空の星は何も変わらず輝いていた。
「……はい」
やがて、レオニス様が小さく答えた。
その声は、先ほどよりも少しだけ柔らかい。
「私も、忘れません」
なぜだろう。
ただそれだけの言葉なのに、胸の奥が少し温かくなった。
何を忘れないのかなんて、聞かなかった。
きっと、どれでもいい。
言いたくないことまで、無理に言葉にする必要なんてないのだから。
私たちは肩を並べたまま、しばらく星を眺めていた。
名前も、意味も知らない星々が、ただ美しく瞬いている。
思いがけず訪れたこの夜を。
隣にいる彼の静かな横顔ごと。
私もきっと、ずっと覚えているのだと思った。




