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第11話 セレスティア湖のほとりにて

 どれくらい、そうしていただろう。


 会話が途切れても、不思議と気まずさはなかった。


 同じブランケットに包まり、肩を並べて。

 ただ、頭上に広がる星を眺めている。


 先ほどまで胸の内にあったはずの様々なことが、夜の静けさに溶けていくようだった。


 王都でのことも、婚約を解消されたことも。

 これから領主となるために考えなければならないことも。


 今、この瞬間だけは、何も考えなくてもいいような気がした。


「ねえ。この星空を見ていると」


 私はもう一度、頭上を仰ぐ。


「何だか、全部どうでもよくなりませんか?」


「……全部、ですか」


「ええ」


 思わず笑ってしまう。


「家柄も、立場も、破棄された婚約も。これからしなければならないことも」


 こんなに大きな空の下では、人の悩みなど随分小さく思えてしまう。


「もちろん、明日になればまた考えなくてはいけないのでしょうけれど」


「…………」


「今くらいは、どうでもいいことにしてしまってもいいのではないかしら」


 レオニス様も、静かに空を見上げた。


 しばらく星々を見つめて。


「……はい」


 星を見つめたまま本当に、微かに笑った。


「そうかもしれません」


 その横顔を見て、ただ穏やかに思う。


 この人が何か悲しいものを背負って生きてきたのなら。

 せめてこれからの人生には、美しい景色がたくさんあればいい。


「だから」


 自然と言葉が続いた。


「嫌なことがあったら、無理に背負わなくてもいいと私は思うのです」


「…………」


 貴族として生まれた以上、果たすべき責務がある。

 持つ者には、持つ者の責任があるのだと、私も幼い頃から教えられてきた。


 だから王妃となるために学んできたし、今はフォルティスの名を背負って、この地を継ごうとしている。


 けれど、それは私自身が望んで選んだ道でもある。


 もし、そうでなかったなら。

 責務という言葉だけで、すべてを背負わなければならないのだろうか。


「何もかも投げ出したって、人は案外生きていけますもの」


 随分と無責任なことを言っている自覚はある。

 それでも、この方には肩書きや役目だけでなく、自分の望むものも選んでほしいと思った。


 たとえそれが、今まで当たり前に背負ってきたものを手放すことだったとしても。


「たとえば、魔術がなくても」


 レオニス様へ顔を向ける。


「レオニス様は、レオニス様ですもの」


「…………」


 灰水晶の瞳が、大きく見開かれた。


「……ですが」


 少しの沈黙のあと、レオニス様が口を開く。


「私は、魔術のない自分を知りません」


 その言葉に、少しだけ考える。


「でしたら、これから知ればいいのではありませんか?」


「……これから?」


「ええ。魔術がなくても火は起こせますし、食事だって作れます。必要でしたら、私がお教えしますわ」


「エレノア様が?」


「まあ。私、こう見えて野営は得意ですのよ」


 少しだけ胸を張ってみせる。


「もちろん、これまで身につけてこられた魔術を使って生きるのも、素晴らしいことだと思います」


 捨てる必要もなければ、縛られる必要もない。


「魔術を誰かのために使うのも、ご自身のために使うのも。レオニス様がお決めになればよろしいのではないでしょうか」


「…………」


「行きたい場所へ行って。そこで、したいことをなさればいいのです」


 じっと見つめ返された、その時だった。


 灰水晶の奥で、青と紅――二色の炎が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。


「……?」


 思わず目を凝らすけれど、瞬きをした次には、もう消えていた。


 ――今の。

 以前にも、一度見たような。


 焚火の光が映り込んだだけだろうか。


 確かめるように見つめるけれど、そこにあるのはいつもの透き通った灰水晶の瞳だけ。

 そして、その中に小さく映る私自身。


「…………」


 改めて見ると、本当に綺麗な瞳だ。


 そんな瞳で真っ直ぐ見つめ返されていることに気付くと、今度は別の意味で落ち着かなくなった。


 私は誤魔化すように、そっと視線を逸らす。


「……ですから」


 何か別のことを話したくて、口を開いた。


「もし本当に何もかも投げ出したくなったら、我が領へいらっしゃればいいのです」


「……アルスヴィークへ?」


「ええ」


 ここなら、アルヴェルト家の嫡男である必要も、殿下の護衛である必要もない。


 ただ、レオニス様として来ればいい。


「お友達なのですから、それくらい頼ってくださって構いませんわ」


「…………」


 なぜか、また黙り込んでしまった。


 そんなに驚くようなことを言っただろうか。


「それに」


 ふと思いついて、私は笑う。


「魔術師として働きたくなったなら、それはそれで大歓迎です」


「……?」


「アルスヴィークは魔術師不足ですもの」


「ああ……」


 レオニス様が、納得したような、していないような声を漏らす。


「北方では、不思議と強い魔力を持って生まれる者が少ないのです。騎士なら掃いて捨てるほどおりますのに」


「掃いて捨てるほど……」


「お父様を目標にしている方も大勢おりますし」


「それはそれで恐ろしいですね」


「ふふ」


 思わず笑ってしまう。


「ですから、魔術師として働くのも、或いは全く違うことをなさるのも、お好きになさればいいのです。どちらにしても歓迎いたしますわ」


「…………」


「なんでしたら――」


 そこまで言って、ふと思いつく。

 この地を、本当に彼の居場所にしてしまう方法なら。


「このまま私と婚姻してしまうのも手だと思いますし」


「…………」


 レオニス様が固まった。


「……はい?」


「私と婚姻すれば、いずれこの地がレオニス様の家にもなるでしょう?」


「そ、それは……」


 珍しく、レオニス様が言葉に詰まった。


 そういえば先ほどから、男女であることを随分と気にしていた。

 さすがに婚姻まで持ち出すのは、少々飛躍しすぎただろうか。


「ふふ。もちろん、無理にとは申しませんわ」


「…………」


「ただ」


 私はもう一度、頭上の星々を見上げた。


「王命がお休みの日でも。ご実家へ帰るのが億劫な日でも。この星空を見たくなった時でも」


 ここへ来ればいい。


「また、我が領へいらしてください」


 レオニス様は、すぐには答えなかった。


 焚火へ視線を落とし、何かを考えるようにしばらく黙り込む。


 やがて、小さく息を吐いた。


「……覚えておきます」


「何をです?」


 灰水晶の瞳が、ほんの僅かに柔らかくなる。


「与えられた場所に留まることだけが、道ではないのだと」


「…………」


 それがフォルティス領へ来るという意味なのか。

 もっと別の何かを指しているのか、私には分からない。


 けれど、今はそれでいい気がした。


「ええ」


 私は笑った。


「いつでも歓迎いたしますわ」


 レオニス様も、ほんの少しだけ笑った。


 先ほど見た、刺青を思い出す。

 黒い蛇。散りばめられた星。美しい意匠のはずなのに。

 なぜか私には、彼へ巻きついた鎖のように見えてしまった。


 こんなにも踏み込んだことを言ってしまったのは、きっと。

 あの紋様について語る彼の声が、何もかもを諦めてしまった人のように聞こえたから。

 もしかすると私は、随分と余計なお世話をしてしまったのかもしれない。


 それでも、生まれた場所だけが居場所ではない。

 進める道は、きっと一つではない。


 そのことを、少しでも覚えていてくださればいいと思った。


 もう一度、隣を見る。

 目が合うと、レオニス様は穏やかに頬を緩めてくださる。


 いつも静かで、滅多に表情を変えない人。

 だからなのか、その僅かな笑みがひどく綺麗に見えた。


 ――ただ。


 この人がこんなふうに笑える時間を。


 何にも、邪魔されたくない。

 なぜだか私は、そんなことを思った。


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