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12/16

第12話 きっと一生忘れません

 いつもカイル殿下の後ろにいたレオニス様と。

 まさか、こんなふうに笑い合う日が来るなんて。

 人生とは、何が起こるか分からないものだ。


 焚火が、ぱちりと心地良い音を立てる。


 夏も終わりに近づき、湖を渡ってきた風が木々の葉を静かに揺らす。

 夜が深まるにつれて、山から下りてくる空気はますます冷たくなっていた。

 それでも、温かなお茶とパイのおかげで身体はすっかり温まっている。


 安心したせいか、ふわりと欠伸が零れた。


「……ごめんなさい」


 慌てて口元を押さえる。


「少し、眠くなってしまいました」


「……っ、待ってください、エレノア様」


 レオニス様の声が少しだけ強くなる。


「私は少し離れます。エレノア様はそのままお休みください」


「嫌です」


「……嫌?」


「レオニス様が寒いではありませんか」


 何を当たり前のことを、と顔を上げる。


 一枚しかないブランケットは、二人の肩を覆うのがやっとだ。

 ここでレオニス様だけ外へ出てしまえば、夜風をそのまま受けることになる。


「ですが、未婚の女性が男性の隣で眠るというのは――」


「レオニス様なら平気ですわ」


「……それは、どういう意味ですか?」


「そのままの意味です」


 私は小さく笑った。


「私が隣で眠ったからといって、何かあらぬことをなさる方であれば、こうして先に離れようとはなさらないでしょう?」


「…………」


 返事がない。

 不思議に思って隣を見れば、レオニス様は焚火へ視線を向けたまま、妙に難しい顔をしていた。


「私は人を見る目はあると思っておりますし、レオニス様は信頼に足る方です」


「……それは、光栄です」


「ふふ」


 当惑して返ってきた言葉に満足して、すっかり空になったカップを足元へ置く。

 ブランケットを肩まで引き上げ、もう一度その中へ身体を沈めた。


 肩越しに伝わる体温が暖かい。

 このまま目を閉じてしまえば、きっとすぐに眠れそうだった。


「……ただ、もう少し警戒心はお持ちください」


 頭上から、諦めたような声が落ちてきた。


「野営というものは、何が起こるか分からないのですから」


「あら、大丈夫ですわ」


「何を根拠に」


 呆れたような声に、少し笑う。


 本当は、何かお力になれればと思ってセレスティア湖までついてきたのだ。

 けれど、こうして二人で星を眺めて、少しだけ心の内を聞かせてもらって。

 いつもカイル殿下の後ろにいた頃より、ずっと近くで話せるようになった。


 それだけでも、ここへ来てよかったと思う。


 ブランケットの中で、もう少しだけ身を寄せる。


 ――そういえば。

 ずっと昔にも、こんなふうに誰かと肩を寄せて、朝を待ったことがあった。


「以前にも、こうして夜を明かしたことがありますもの」


「……え?」


 それまで呆れたようだったレオニス様の表情が、僅かに変わった。


「いつの、お話ですか」


「アカデミーです」


 眠気のせいで、言葉はゆっくりになる。


「……アカデミー」


「ええ。中等部の頃だったかしら」


 まどろみの中で、懐かしい記憶がするすると蘇ってくる。


「アカデミーの温室に、子猫が一匹迷い込んでいたんです」


「子猫……ですか?」


「ええ」


 何がおかしかったわけでもないのに、懐かしさに笑みが零れる。


「野良猫が仔猫を産んだのかしらね。その頃の王都では、猫が感染症を運んでいるなんて根も葉もない噂があって。先生にでも見つかったら、処分されてしまうと思ったの」


「それで、夜になると内緒で毎日、ミルクを持って会いに行っていたんです」


「……はい」


「でも、ある日」


 私は焚火へ視線を落とした。


「見回りの方がいつもより早かったのでしょうね。夜の温室に閉じ込められてしまって」


「…………」


「外から鍵を掛けられてしまったんです」


 焚火が、またぱちりと音を立てる。


「寮にも帰れないし、温室の中はどんどん冷えてくるし。お腹も空いてきて、困っていた時に。同じように途方に暮れている方がいたんです」


 重くなってきた瞼を、そのまま閉じる。


 暗闇の向こうに、あの夜の温室がぼんやりと浮かんだ。


 月明かりに照らされた硝子窓。

 足元にまとわりつく、小さな黒い影。

 そして、その少し向こうに蹲っていた人。


「私よりも小柄な、とても可愛らしい女の子でした」


「…………」


「あの温室を使っていたのは中等部だけだったから、たぶん同じ中等部だったと思うのですけれど。まったく知らない方で」


 当時の私はカイル殿下の婚約者だったこともあり、お茶会へ招かれることも多かった。


 初等部からの友人も少なくなかったから、同じ年頃の貴族令嬢で見覚えのない顔というのは珍しかった。


 それでも、あの子のことはよく覚えている。


 夜の闇の中でも分かるほど白く透き通る肌に、華奢な身体と整った顔立ち。

 しゃがみ込んでいても分かる、小さな頭に長い手足。


 昼の光の下で見たなら、きっと息を呑むほど綺麗な女の子だったに違いない。


「最初は『放っておいてください』って。目も合わせてくださらなかったんですよ」


「…………」


「でも、ノワールが私の足元へまとわりついているのに気が付いて」


「……ノワール?」


「あ、子猫の名前です」


 くすくすと笑う。


「『その子は?』って。初めて向こうから話しかけてくださったんです」


「…………」


「夜も更けてくると、温室の中も随分冷えてしまって。私もあの方も寒くて震えていましたから」


 当時のことを思い出して、ブランケットの中で少し身体を丸める。


「あちらは随分と渋っていましたけれど、寒かったので、結局こちらへ抱き寄せてしまって。ノワールを真ん中にして」


 あの夜も、こうして誰かの体温をすぐ傍に感じていた。


「朝まで過ごしたんです」


 まだ幼かったノワールの、柔らかな毛並みを思い出す。


「仔猫がごろごろ鳴いていて、温かかったなぁ……」


 誰もが守ってあげなくてはと思ってしまうような、愛らしい金色の瞳に、まだやんちゃな小さな手足。

 見る者の庇護欲を誘う無防備な寝顔を思い出すだけで、今でも頬が緩む。


「でも」


 その笑みが、少しだけ薄れた。


「ノワールは、その日を最後にいなくなってしまったんです」


「…………」


 私は焚火へ視線を落とした。

 ぱちり、と薪が静かに音を立てる。


「翌日、温室へ行っても。その次の日も。その次の次の日も」


 どこを探しても。


「もう、いませんでした」


 レオニス様の指先が、ぴくりと止まる。


「きっと……見つかって、処分されてしまったのでしょうね」


「…………」


「私が」


 少しだけ眉を下げる。


「あの時、自分が叱られることなんて考えずに、寮へ連れて帰っていれば」


 そうすれば。


「助けてあげられたのかもしれません」


「エレノア様」


「見つかってはいけないって、ずっと言い聞かせていたのに」


 人に慣れたのは、私のせいだったのかもしれない。


「もしかしたら私がミルクなんてあげなければ、人を恐れたまま命を長らえたかもしれないのに」


 あの子は逃げられたのだろうか。

 今でも、どこかで生きていたのだろうか。


「もっと一緒にいたかった」


 それは本当だ。

 ずっと一緒にいられたらと思っていた。


「でも、それ以上に」


 声が震えそうになって、少しだけ俯く。


「生きていてほしかったんです」


「…………」


 もう何年も前のことなのに。

 思い出せば、どうしたって寂しさと後悔に覆われてしまう。


 眠気のせいだろうか。

 それとも先ほど、彼の心の内へほんの少し触れたからだろうか。

 気が付けば、誰にも話したことのない夜のことまで口にしていた。


 いつもより感情を抑えるのが難しくて、今更になって涙が滲みそうになって。

 それを隠すように、すぐ隣にある肩へそっと額をうずめる。


 レオニス様は動かなかった。

 先ほどあれほど男女の距離について苦言を呈していたのに、何も言わないまま。

 ただ、私の気が済むのを待つように、そこにいてくださった。


 どれくらい、そうしていただろう。


「……大丈夫ですよ」


 やがて、掠れた声が落ちた。


「?」


「その子は」


 レオニス様は、私ではなく夜の向こうを見つめていた。


「きっと今も、あなたに感謝しています」


「…………」


「あなたがミルクをくれたことも。抱き上げてくれたことも」


 一つひとつ、確かめるように。


「きっと、忘れていません」


 まるで本当のことのように、レオニス様は言う。

 私にとっては、そうであれば嬉しいというだけの、随分と都合のいい願いなのに。


「今頃は、狭い王都ではなく」


 灰水晶の瞳が僅かに細められる。


「もっと広い場所を、自由に駆け回っているでしょう」


 その言葉が嬉しくて、私は笑った。


「ふふ。そうだといいですわね」


「……ええ」


「それなら……よかった」


 また一つ、欠伸が零れる。

 安心したせいか、抗えない眠気に襲われて、瞼を開けていることすら億劫になってきた。


「……ノワール」


 小さく呟く。


「レオニス様は、お優しいです……ね」


「…………」


 返事を聞くより先に。

 意識が、ゆっくりと遠のいていった。



 *



 規則正しい寝息が聞こえる。


 レオニスは、しばらく動かなかった。


 肩へ寄りかかったまま眠るエレノアへ視線を落とす。


「……まったく」


 あれほど警戒心を持てと言ったというのに。

 こうも無防備に身を預けられるとは思わなかった。


 小さく息を吐き、それから静かに目を伏せる。


「…………」


 忘れていると思っていた。


 自分にとっては、決して忘れることのできない夜だった。


 暗く冷えた温室で、何も知らずに笑いかけてくれた少女。

 まるで光そのもののように、自分の肩を抱き寄せた人。


 けれど、いつも多くの人に囲まれていた彼女にとっては。

 名前すら交わさなかった相手と過ごした、何年も前の、たった一晩。


 きっと、記憶に残るほどの出来事ではないのだと。

 たとえ残っていたとしても、寒い温室へ閉じ込められた、忘れてしまいたい夜なのだろうと、そう思っていた。


 それなのに。


 ノワールだけではなく。

 あの夜、傍にいた自分のことまで。


 レオニスは、ゆっくりと目を閉じた。


「……元気ですよ」


 誰にも届かないほど、小さな声だった。


「ずっと」


 その時。

 背後の草むらが、かすかに揺れた。


 ざ、と葉の擦れる音。

 レオニスは視線だけを森へ向ける。


 木々の間から、黒い巨躯が姿を現した。


 漆黒の毛並み。


 夜そのものを纏ったような身体。

 黄金色の瞳だけが、焚火を映している。


「……遅かったですね」


 黒い獣の喉が、低く鳴る。


 ぐるる……。


 悪びれているのかいないのか。

 レオニスが眉を寄せるより早く、黒い獣は真っ直ぐこちらへ歩いてきた。


 正確には。

 レオニスではなく、その隣で眠るエレノアへ。


「おい」


 制止する間もなく、巨大な身体が、彼女の背後を包み込むように横たわる。


 ふわりと長い尾がブランケットへ重なり、黒い獣は大きな鼻先をエレノアの頬へ近づけて、くん、くん、と確かめるように匂いを嗅ぐ。


 やがて、黄金色の瞳がゆっくりと細められた。


 ごろごろ……。


 大きな身体からは想像もつかない、穏やかな音が響く。


 それに誘われるように、エレノアが小さく身じろぎした。

 ブランケットから伸びた白い手が、無意識のまま黒い毛並みを優しく撫でる。


「……ノワール……」


「…………」


 寝言だった。

 ノアの耳が、ぴくりと動く。


 次の瞬間。

 大きな頭が、ぐい、とエレノアの手へ押しつけられた。


 もっと撫でろとでも言うように。

 ごろごろ、ごろごろ。

 レオニスは思わず目を細めた。


「会うなり甘えるとは」


 困ったように息を吐く。


「困ったやつだ」


 ノアはまるで気にした様子もない。

 長い付き合いになるが、これほど機嫌のいい姿は久しく見ていなかった。


「……そんなに嬉しいか」


 からかうように呟いて、黒い巨躯を見やる。


「もう、彼女の膝に乗れる大きさではないだろう」


 小さかった身体は、今ではエレノアを丸ごと覆えてしまいそうなほど大きくなった。

 それでも、エレノアの手に頭を擦りつける姿だけは、何一つ変わらない。


 レオニスはしばらく、その光景を眺めていた。


 あの夜は、黒い子猫を真ん中にして、三人で朝を待った。


 自分にとって、アカデミーは決して居心地の良い場所ではなかった。


 王宮で働くために必要な課程を修める、それだけのために通った場所だ。翌年にはカイルの海外留学へ同行することが決まっていたため、一年ですべての課程を終える必要があり、年次を飛ばして昇級試験を受け続けた。


 当然、周囲から快く思われるはずもない。公爵家の人間へ表立って刃向かう者こそいなかったが、誰がやったのか分からない程度の嫌がらせなら、いくらでもあった。


 あの夜、温室へ閉じ込められたことも。

 偶然ではない。


 彼女はただ、自分への嫌がらせに巻き込まれただけだった。


 それでも。

 たった一年しかいなかったあの場所を思い返す時。

 最初に浮かぶのは、夜の温室。小さな黒猫。

 

 そして、何も知らずに、自分へ笑いかけてきた少女。

 寒いからと、当たり前のように抱き寄せられた腕。

 あれほど長く、誰かの体温に触れていたことなど――。


「……お前も」


 静かな声が、夏の終わりの夜へ溶ける。

 ノアの耳が、ぴくりと動いた。


「忘れられないよな」


 まるで肯定するように、一度だけ、ぱたんと長い尾が地面を叩いた。

 レオニスは眠るエレノアへ視線を落とす。


 彼女の手は今も、黒い毛並みの中に埋もれている。


「……私もだ、ノア」


 肩へ預けられた彼女を起こさぬよう、レオニスはそっと身体を傾ける。

 背後に横たわるノアの腹部へ身を預け、そのままエレノアの頭を腕に受け止めた。


 月明かりを溶かしたような銀の髪が、緩やかな波を描いて腕へ零れる。

 触れることさえ躊躇うほど美しいものが、今は何の警戒もなく自分に身を委ねていた。


 少し身じろぎした彼女は、目を覚ますことなく、むしろ居場所を探すように僅かにこちらへ寄った。


 レオニスは動かなかった。


 星を映した湖が、静かに揺れている。


 彼女が笑って生きている。

 それだけで十分だと、ずっと思っていた。


 それなのに今は。

 あの日からずっと守りたいと願ったその人が、腕の中で寝息を立てていた。

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