第12話 きっと一生忘れません
いつもカイル殿下の後ろにいたレオニス様と。
まさか、こんなふうに笑い合う日が来るなんて。
人生とは、何が起こるか分からないものだ。
焚火が、ぱちりと心地良い音を立てる。
夏も終わりに近づき、湖を渡ってきた風が木々の葉を静かに揺らす。
夜が深まるにつれて、山から下りてくる空気はますます冷たくなっていた。
それでも、温かなお茶とパイのおかげで身体はすっかり温まっている。
安心したせいか、ふわりと欠伸が零れた。
「……ごめんなさい」
慌てて口元を押さえる。
「少し、眠くなってしまいました」
「……っ、待ってください、エレノア様」
レオニス様の声が少しだけ強くなる。
「私は少し離れます。エレノア様はそのままお休みください」
「嫌です」
「……嫌?」
「レオニス様が寒いではありませんか」
何を当たり前のことを、と顔を上げる。
一枚しかないブランケットは、二人の肩を覆うのがやっとだ。
ここでレオニス様だけ外へ出てしまえば、夜風をそのまま受けることになる。
「ですが、未婚の女性が男性の隣で眠るというのは――」
「レオニス様なら平気ですわ」
「……それは、どういう意味ですか?」
「そのままの意味です」
私は小さく笑った。
「私が隣で眠ったからといって、何かあらぬことをなさる方であれば、こうして先に離れようとはなさらないでしょう?」
「…………」
返事がない。
不思議に思って隣を見れば、レオニス様は焚火へ視線を向けたまま、妙に難しい顔をしていた。
「私は人を見る目はあると思っておりますし、レオニス様は信頼に足る方です」
「……それは、光栄です」
「ふふ」
当惑して返ってきた言葉に満足して、すっかり空になったカップを足元へ置く。
ブランケットを肩まで引き上げ、もう一度その中へ身体を沈めた。
肩越しに伝わる体温が暖かい。
このまま目を閉じてしまえば、きっとすぐに眠れそうだった。
「……ただ、もう少し警戒心はお持ちください」
頭上から、諦めたような声が落ちてきた。
「野営というものは、何が起こるか分からないのですから」
「あら、大丈夫ですわ」
「何を根拠に」
呆れたような声に、少し笑う。
本当は、何かお力になれればと思ってセレスティア湖までついてきたのだ。
けれど、こうして二人で星を眺めて、少しだけ心の内を聞かせてもらって。
いつもカイル殿下の後ろにいた頃より、ずっと近くで話せるようになった。
それだけでも、ここへ来てよかったと思う。
ブランケットの中で、もう少しだけ身を寄せる。
――そういえば。
ずっと昔にも、こんなふうに誰かと肩を寄せて、朝を待ったことがあった。
「以前にも、こうして夜を明かしたことがありますもの」
「……え?」
それまで呆れたようだったレオニス様の表情が、僅かに変わった。
「いつの、お話ですか」
「アカデミーです」
眠気のせいで、言葉はゆっくりになる。
「……アカデミー」
「ええ。中等部の頃だったかしら」
まどろみの中で、懐かしい記憶がするすると蘇ってくる。
「アカデミーの温室に、子猫が一匹迷い込んでいたんです」
「子猫……ですか?」
「ええ」
何がおかしかったわけでもないのに、懐かしさに笑みが零れる。
「野良猫が仔猫を産んだのかしらね。その頃の王都では、猫が感染症を運んでいるなんて根も葉もない噂があって。先生にでも見つかったら、処分されてしまうと思ったの」
「それで、夜になると内緒で毎日、ミルクを持って会いに行っていたんです」
「……はい」
「でも、ある日」
私は焚火へ視線を落とした。
「見回りの方がいつもより早かったのでしょうね。夜の温室に閉じ込められてしまって」
「…………」
「外から鍵を掛けられてしまったんです」
焚火が、またぱちりと音を立てる。
「寮にも帰れないし、温室の中はどんどん冷えてくるし。お腹も空いてきて、困っていた時に。同じように途方に暮れている方がいたんです」
重くなってきた瞼を、そのまま閉じる。
暗闇の向こうに、あの夜の温室がぼんやりと浮かんだ。
月明かりに照らされた硝子窓。
足元にまとわりつく、小さな黒い影。
そして、その少し向こうに蹲っていた人。
「私よりも小柄な、とても可愛らしい女の子でした」
「…………」
「あの温室を使っていたのは中等部だけだったから、たぶん同じ中等部だったと思うのですけれど。まったく知らない方で」
当時の私はカイル殿下の婚約者だったこともあり、お茶会へ招かれることも多かった。
初等部からの友人も少なくなかったから、同じ年頃の貴族令嬢で見覚えのない顔というのは珍しかった。
それでも、あの子のことはよく覚えている。
夜の闇の中でも分かるほど白く透き通る肌に、華奢な身体と整った顔立ち。
しゃがみ込んでいても分かる、小さな頭に長い手足。
昼の光の下で見たなら、きっと息を呑むほど綺麗な女の子だったに違いない。
「最初は『放っておいてください』って。目も合わせてくださらなかったんですよ」
「…………」
「でも、ノワールが私の足元へまとわりついているのに気が付いて」
「……ノワール?」
「あ、子猫の名前です」
くすくすと笑う。
「『その子は?』って。初めて向こうから話しかけてくださったんです」
「…………」
「夜も更けてくると、温室の中も随分冷えてしまって。私もあの方も寒くて震えていましたから」
当時のことを思い出して、ブランケットの中で少し身体を丸める。
「あちらは随分と渋っていましたけれど、寒かったので、結局こちらへ抱き寄せてしまって。ノワールを真ん中にして」
あの夜も、こうして誰かの体温をすぐ傍に感じていた。
「朝まで過ごしたんです」
まだ幼かったノワールの、柔らかな毛並みを思い出す。
「仔猫がごろごろ鳴いていて、温かかったなぁ……」
誰もが守ってあげなくてはと思ってしまうような、愛らしい金色の瞳に、まだやんちゃな小さな手足。
見る者の庇護欲を誘う無防備な寝顔を思い出すだけで、今でも頬が緩む。
「でも」
その笑みが、少しだけ薄れた。
「ノワールは、その日を最後にいなくなってしまったんです」
「…………」
私は焚火へ視線を落とした。
ぱちり、と薪が静かに音を立てる。
「翌日、温室へ行っても。その次の日も。その次の次の日も」
どこを探しても。
「もう、いませんでした」
レオニス様の指先が、ぴくりと止まる。
「きっと……見つかって、処分されてしまったのでしょうね」
「…………」
「私が」
少しだけ眉を下げる。
「あの時、自分が叱られることなんて考えずに、寮へ連れて帰っていれば」
そうすれば。
「助けてあげられたのかもしれません」
「エレノア様」
「見つかってはいけないって、ずっと言い聞かせていたのに」
人に慣れたのは、私のせいだったのかもしれない。
「もしかしたら私がミルクなんてあげなければ、人を恐れたまま命を長らえたかもしれないのに」
あの子は逃げられたのだろうか。
今でも、どこかで生きていたのだろうか。
「もっと一緒にいたかった」
それは本当だ。
ずっと一緒にいられたらと思っていた。
「でも、それ以上に」
声が震えそうになって、少しだけ俯く。
「生きていてほしかったんです」
「…………」
もう何年も前のことなのに。
思い出せば、どうしたって寂しさと後悔に覆われてしまう。
眠気のせいだろうか。
それとも先ほど、彼の心の内へほんの少し触れたからだろうか。
気が付けば、誰にも話したことのない夜のことまで口にしていた。
いつもより感情を抑えるのが難しくて、今更になって涙が滲みそうになって。
それを隠すように、すぐ隣にある肩へそっと額をうずめる。
レオニス様は動かなかった。
先ほどあれほど男女の距離について苦言を呈していたのに、何も言わないまま。
ただ、私の気が済むのを待つように、そこにいてくださった。
どれくらい、そうしていただろう。
「……大丈夫ですよ」
やがて、掠れた声が落ちた。
「?」
「その子は」
レオニス様は、私ではなく夜の向こうを見つめていた。
「きっと今も、あなたに感謝しています」
「…………」
「あなたがミルクをくれたことも。抱き上げてくれたことも」
一つひとつ、確かめるように。
「きっと、忘れていません」
まるで本当のことのように、レオニス様は言う。
私にとっては、そうであれば嬉しいというだけの、随分と都合のいい願いなのに。
「今頃は、狭い王都ではなく」
灰水晶の瞳が僅かに細められる。
「もっと広い場所を、自由に駆け回っているでしょう」
その言葉が嬉しくて、私は笑った。
「ふふ。そうだといいですわね」
「……ええ」
「それなら……よかった」
また一つ、欠伸が零れる。
安心したせいか、抗えない眠気に襲われて、瞼を開けていることすら億劫になってきた。
「……ノワール」
小さく呟く。
「レオニス様は、お優しいです……ね」
「…………」
返事を聞くより先に。
意識が、ゆっくりと遠のいていった。
*
規則正しい寝息が聞こえる。
レオニスは、しばらく動かなかった。
肩へ寄りかかったまま眠るエレノアへ視線を落とす。
「……まったく」
あれほど警戒心を持てと言ったというのに。
こうも無防備に身を預けられるとは思わなかった。
小さく息を吐き、それから静かに目を伏せる。
「…………」
忘れていると思っていた。
自分にとっては、決して忘れることのできない夜だった。
暗く冷えた温室で、何も知らずに笑いかけてくれた少女。
まるで光そのもののように、自分の肩を抱き寄せた人。
けれど、いつも多くの人に囲まれていた彼女にとっては。
名前すら交わさなかった相手と過ごした、何年も前の、たった一晩。
きっと、記憶に残るほどの出来事ではないのだと。
たとえ残っていたとしても、寒い温室へ閉じ込められた、忘れてしまいたい夜なのだろうと、そう思っていた。
それなのに。
ノワールだけではなく。
あの夜、傍にいた自分のことまで。
レオニスは、ゆっくりと目を閉じた。
「……元気ですよ」
誰にも届かないほど、小さな声だった。
「ずっと」
その時。
背後の草むらが、かすかに揺れた。
ざ、と葉の擦れる音。
レオニスは視線だけを森へ向ける。
木々の間から、黒い巨躯が姿を現した。
漆黒の毛並み。
夜そのものを纏ったような身体。
黄金色の瞳だけが、焚火を映している。
「……遅かったですね」
黒い獣の喉が、低く鳴る。
ぐるる……。
悪びれているのかいないのか。
レオニスが眉を寄せるより早く、黒い獣は真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
正確には。
レオニスではなく、その隣で眠るエレノアへ。
「おい」
制止する間もなく、巨大な身体が、彼女の背後を包み込むように横たわる。
ふわりと長い尾がブランケットへ重なり、黒い獣は大きな鼻先をエレノアの頬へ近づけて、くん、くん、と確かめるように匂いを嗅ぐ。
やがて、黄金色の瞳がゆっくりと細められた。
ごろごろ……。
大きな身体からは想像もつかない、穏やかな音が響く。
それに誘われるように、エレノアが小さく身じろぎした。
ブランケットから伸びた白い手が、無意識のまま黒い毛並みを優しく撫でる。
「……ノワール……」
「…………」
寝言だった。
ノアの耳が、ぴくりと動く。
次の瞬間。
大きな頭が、ぐい、とエレノアの手へ押しつけられた。
もっと撫でろとでも言うように。
ごろごろ、ごろごろ。
レオニスは思わず目を細めた。
「会うなり甘えるとは」
困ったように息を吐く。
「困ったやつだ」
ノアはまるで気にした様子もない。
長い付き合いになるが、これほど機嫌のいい姿は久しく見ていなかった。
「……そんなに嬉しいか」
からかうように呟いて、黒い巨躯を見やる。
「もう、彼女の膝に乗れる大きさではないだろう」
小さかった身体は、今ではエレノアを丸ごと覆えてしまいそうなほど大きくなった。
それでも、エレノアの手に頭を擦りつける姿だけは、何一つ変わらない。
レオニスはしばらく、その光景を眺めていた。
あの夜は、黒い子猫を真ん中にして、三人で朝を待った。
自分にとって、アカデミーは決して居心地の良い場所ではなかった。
王宮で働くために必要な課程を修める、それだけのために通った場所だ。翌年にはカイルの海外留学へ同行することが決まっていたため、一年ですべての課程を終える必要があり、年次を飛ばして昇級試験を受け続けた。
当然、周囲から快く思われるはずもない。公爵家の人間へ表立って刃向かう者こそいなかったが、誰がやったのか分からない程度の嫌がらせなら、いくらでもあった。
あの夜、温室へ閉じ込められたことも。
偶然ではない。
彼女はただ、自分への嫌がらせに巻き込まれただけだった。
それでも。
たった一年しかいなかったあの場所を思い返す時。
最初に浮かぶのは、夜の温室。小さな黒猫。
そして、何も知らずに、自分へ笑いかけてきた少女。
寒いからと、当たり前のように抱き寄せられた腕。
あれほど長く、誰かの体温に触れていたことなど――。
「……お前も」
静かな声が、夏の終わりの夜へ溶ける。
ノアの耳が、ぴくりと動いた。
「忘れられないよな」
まるで肯定するように、一度だけ、ぱたんと長い尾が地面を叩いた。
レオニスは眠るエレノアへ視線を落とす。
彼女の手は今も、黒い毛並みの中に埋もれている。
「……私もだ、ノア」
肩へ預けられた彼女を起こさぬよう、レオニスはそっと身体を傾ける。
背後に横たわるノアの腹部へ身を預け、そのままエレノアの頭を腕に受け止めた。
月明かりを溶かしたような銀の髪が、緩やかな波を描いて腕へ零れる。
触れることさえ躊躇うほど美しいものが、今は何の警戒もなく自分に身を委ねていた。
少し身じろぎした彼女は、目を覚ますことなく、むしろ居場所を探すように僅かにこちらへ寄った。
レオニスは動かなかった。
星を映した湖が、静かに揺れている。
彼女が笑って生きている。
それだけで十分だと、ずっと思っていた。
それなのに今は。
あの日からずっと守りたいと願ったその人が、腕の中で寝息を立てていた。




