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第13話 もう一人の友人

 ざらり、と濡れた何かが手の甲を撫でた。


「……ん……」


 くすぐったさに指先を動かすと、今度は掌へ、生温かなものが触れる。


 ざらり。

 もう一度、ざらり。


「……?」


 ゆっくりと瞼を開いた。


 最初に目に入ったのは、黒。

 視界いっぱいを埋め尽くす、艶やかな漆黒の毛並みだった。


「…………」


 まだ眠っている頭では、それが何なのかすぐには分からない。


 けれど、少し顔を上げると。

 すぐ目の前に、二つの大きな黄金色の瞳があった。


「……まあ」


 昨夜、森へ消えた黒い獣。


「あなた……!」


 思わず身体を起こそうとして、そこでようやく、自分の背後を巨大な身体が包み込んでいることに気が付いた。

 長い尾はブランケットの上へ重なり、まるで私を囲い込むように丸くなっている。


「あなたが、レオニス様のペットの……!」


 嬉しくなって笑いかけると、こちらを向いた黒い耳がぴくりと動いた。


「おはようございます」


 昨日は遠目に姿を見ただけだったけれど、こうして間近で見ると、本当に大きい。

 艶やかな黒い毛並みに覆われた身体は、横たわっているだけでも随分な迫力があった。


 けれど、不思議と恐ろしいとは思わなかった。


 むしろ――。


「ふふ。随分と人懐っこいのですね」


 手を伸ばして額を撫でると、気持ちよさそうに黄金色の瞳が細められる。


 ごろごろと低い音を響かせながら、大きな鼻先がこちらへ近づいてきた。


「まあ」


 舌先が頬へ触れそうになった、その時。


「ノア」


 低い声と同時に、大きな頭がぴたりと止まった。


「顔は駄目です」


「?」


「舌がざらついていますから。手ならともかく、頬を舐めれば傷になります」


「あら」


 言われてみれば、先ほど手を舐められた時にも随分とざらざらしていた。


「そうなのですね。ありがとうございます、レオニス様」


 そう言って、声のした方へ振り返る。


「…………」


 一瞬、呼吸が止まるかと思った。


 あまりにも近い場所に、レオニス様の顔があったのだ。

 長い睫毛も、朝の光を映す灰水晶の瞳も、その中に映り込んだ自分の姿さえ見えてしまいそうな距離。


 普段なら見上げなければならないその顔が、今はほとんど同じ高さにある。


「…………え?」


 どうしてこんなに近いのだろう。

 遅れてそう思いながら視線を落とすと、レオニス様は黒い獣へ背を預けるように横たわり、片腕を私の頭の下へ差し入れていた。


 そして私は、そのすぐ傍で。

 まるで彼の腕に抱かれるようにして、眠っていた。


「…………」


 昨夜、自分から肩へ寄りかかったところまでは覚えているけれど、その先の記憶はない。どうやら私は、レオニス様の腕を枕にして朝まで眠ってしまったらしい。


「す、すみません!」


 慌てて身体を起こした。


「重かったでしょう!? 腕は、痺れておりませんか?」


「…………」


 レオニス様は一瞬だけ自分の腕へ視線を落としてから、何事もなかったように答えた。


「……いえ、平気です」


 けれど、身体を起こしてもその腕だけは力なく地面へ置かれたままだ。


「……動いておりませんけれど」


「少し痺れているだけです」


「やっぱり! もう、起こしてくださればよかったのに」


 なぜかそこで僅かな間があった。


「よく眠っていらしたので」


 そう言って、レオニス様は何でもないことのようにゆっくりと腕を曲げ伸ばした。


 やはり、少し動かしづらそうだ。

 申し訳なさに眉を下げる私とは反対に、レオニス様はいつもと変わらない顔をしていた。


「ところで……」


 誤魔化すように、もう一度黒い獣へ視線を戻す。


「この子のお名前は、なんというのですか?」


「私はノアと呼んでいます」


「ノア」


 呼んでみる。


 すると、黄金色の瞳がこちらを向いた。


「まあ。ちゃんと分かるのですね」


「ええ。ただ」


 レオニス様が僅かに目を伏せる。


「おそらく、あなたが呼ぶのであれば、どちらでも反応すると思いますよ」


「……え?」


 どちらでも?


 意味が分からず首を傾げる。


 けれど。


 目の前にある黒い毛並み。


 金色の瞳。


 私の手へ自ら頭を擦り寄せてくる仕草を見ているうちに、胸の奥で何かが引っかかった。


「……まさか」


 黒い獣を見る。


 もう一度、レオニス様を見る。


「この子……」


「私がこれと契約したのは、アカデミー在学中です」


 静かな声だった。


「当時、余剰魔力の提供先として使い魔を探していました。その時に見つけたのが、この子です。ですので――」


「あの子なんですね!」


 思わず声を上げた。


「ノワール!」


 黒い耳が、ぴんとこちらを向く。


「ノワール!」


 もう一度呼べば、大きな身体からごろごろと低い音が響き、黄金色の瞳が嬉しそうに細められた。


「まあ……」


 本当に。

 本当に、あの子なのだ。


 夢中で両手を伸ばし、大きくなった顔を撫でる。


「あなた、生きていたのね……!」


 声にした途端、視界が滲んだ。


 昨夜まで、ずっと後悔していた。

 あの時、寮へ連れて帰っていれば。私がミルクを与えなければ。そうすれば、あの小さな命は失われずに済んだのではないかと。


 けれど。


 あの頃は両腕に収まってしまうほど小さかった身体が、今では私を包み込めそうなほど大きくなって、こうして目の前にいる。


 それだけの年月を、この子はちゃんと生きていたのだ。


「よかった……」


 堪えきれず、黒い毛並みへ額を埋める。


「本当に、よかった……!」


 滲んだ涙を隠すように抱きつけば、ノワールは嫌がるどころか大きな頭をこちらへ押しつけ、喉を鳴らしながら長い尾をぱたんと地面へ打ちつけた。


 昨夜、あの子もどこかで生きているのだろうかと考えた。


 その答えが今、腕の中にある。


「…………」


 嬉しくて、もう一度その大きな身体を抱きしめた。


 ――大きな。


「…………?」


 そこで、ようやく別の疑問が浮かんだ。


 昔は何の疑いもなく子猫だと思っていたけれど、改めて見れば、こんなに大きくなる猫など聞いたことがない。


「……あの、レオニス様」


「はい」


「ノアは、猫ではないのですか?」


「猫ではありません」


 あまりにもあっさり否定された。


「えっ」


「魔物……というと、正確には少し語弊がありますが。一般にはその認識で通っていると思います」


「魔物」


 思わず、傍らのノワールへ視線を落とす。

 当の本人はそんな物騒な呼ばれ方など知らぬ顔で、私の膝へ大きな頭を押しつけていた。


「こんなに可愛らしいのに?」


「……可愛らしい」


「ええ」


 頭を撫でれば、ノワールは気持ちよさそうに目を細める。


「ダイアキャットと呼ばれる種です。猫の祖先に近いもの、と考えると分かりやすいでしょうか」


「祖先……?」


「正確には、精霊と猫の間に位置する存在です」


「せい、れい?」


 聞き慣れない言葉に瞬きをする。


「精霊学はアカデミーでも最高位課程でなければ専攻しませんから。高等科まででしたら、ご存じなくて当然かと」


「そうなのですね……」


「一般に魔術で扱う火、水、土、風などは――」


 レオニス様が説明を始める。


 精霊学は専門外だけれど、話そのものは興味深い。

 相槌を打ちながら耳を傾けていたのだけれど。


「――それらが長い年月を経て自我を持ったものと、元来より自然界に存在するものは厳密には分類が異なり――」


「……はい」


 話しているレオニス様の顔を見上げていて、ふと目元に落ちた薄い影が気になった。


 精霊の話を聞いていたはずなのに、どうしよう。全然違うことが気になってきてしまった。


「……レオニス様。昨夜、眠れませんでした?」


「いえ、そのようなことは」


「でも、少しお疲れのように見えます」


 私がついてきたせいだろうかと眉を下げると、レオニス様はすぐに首を振った。


「エレノア様のせいではありません。ノアが鞄へ入りたがらず、あなたの傍を離れようとしなかったので」


「ノアが?」


 嬉しくなって隣を見ると、長い尾が私の手へ絡むように揺れた。


「望んであなたを傷つけることはないでしょうが、眠っている間に爪や牙が当たることもありますから。その……念のため」


「…………」


 それはつまり。


「一晩中、見ていてくださったのですか?」


「…………」


「レオニス様?」


「……いえ、その、結果的には」


 珍しく言葉に詰まる姿に、思わず笑みが零れた。


「ふふ。レオニス様が慌てるところなんて、初めて見ました」


「…………」


「なんだか嬉しいです」


「……嬉しい?」


「ええ。レオニス様と、また一歩仲良くなれました!」


 そう笑いかけると、レオニス様はしばらく私を見つめたあと、ふいと顔を背けた。


「……?」


 どうしたのだろう。

 僅かに覗く耳が、朝の光のせいか少し赤く見える。


 首を傾げたところで、ノアが催促するように私の手へ頭を押しつけてきた。


「まあ。はいはい、甘えん坊ね」


 そのまま黒い毛並みを撫でながら、昨日よりもずっと穏やかな朝だと思った。



 *


「では、朝食にいたしましょう!」


「……朝食」


「ええ。せっかく湖まで来たのですもの。魚を獲りましょう」


「今からですか?」


「今からです」


 当然でしょう、と立ち上がると、レオニス様は僅かに瞬きをした。


「捕まえましょうか」


「魔術は禁止です」


「……はい?」


「昨日、お話ししたでしょう? 魔術がなくても、食事は作れます」


 そう言って笑えば、レオニス様はしばらく私を見つめたあと、ほんの僅かに頬を緩めた。


「……では、お任せします」


「はい。まずは魚を獲るところからですわ」


 浅瀬へ入り、流れの緩やかな場所へ魚を追い込む。

 北方で育った私にとっては、これくらいなら珍しいことでもない。


「そこです!」


「そこ、と言われましても」


「足元です、レオニス様!」


「――あ」


 するり、と魚が長い脚の間を抜けていった。


「逃げましたわ」


「……逃げましたね」


 思わず顔を見合わせて笑う。


 そうしている間にも水面へ目を凝らし、今度は私が一匹を岸へ追い上げた。


「ほら、できましたでしょう?」


「……エレノア様が、ですが」


「最初はそんなものです」


 得意げに胸を張った、その直後だった。


 ばしゃん、と盛大な水音が上がる。


 振り返れば、ノワールが口に立派な魚を咥えていた。


「まあ!」


 さらに一匹。

 もう一匹。


 結局、私が一匹を捕まえる間に、ノワールは三匹もの魚を岸へ並べてしまった。


「……私たち、必要でした?」


「それは考えないことにいたしましょう」


 朝食には十分すぎるほどだ。


「ノワールにも二匹あげましょう」


「与えると覚えますよ」


「この子が一番獲ったのですから、働いた分です」


「…………」


 反論は認めずに魚を渡せば、ノワールは満足そうに喉を鳴らした。

 一匹も獲れなかったレオニス様の視線が、少しだけ痛い。


 残った魚は枝を削って串にし、焚火の傍へ立ててじっくりと焼く。

 昨夜の残りの燻製肉とチーズも切り分け、女将が包んでくれた果物を添えれば、それだけで随分と立派な朝食になった。


 こんがりと焼けた魚へ齧りつけば、ぱり、と薄い皮が破れて、ほくほくとした白身から湯気が立つ。


「美味しいですわね」


「……ええ」


「自分で獲った魚は格別でしょう?」


「私は獲っていませんが……」


「まあ」


 思わず笑えば、レオニス様も僅かに頬を緩めた。

 食後には昨夜と同じ茶葉でもう一度お茶を淹れ、残っていた果物まで綺麗に食べきる。


 そうして朝食を終えると、私たちは荷物をまとめ、歩いて町へ戻ることにした。


 魔術は使わない。


 森を抜けながら、食べられる木の実や薬草を見つけてはレオニス様へ教え、時折こちらへ擦り寄ってくるノワールを撫でる。


 昨日なら、魔術を使えばあっという間だった道を、今日は三人でゆっくりと歩いた。


 それが不思議と、少しも遠回りには思えなかった。

 やがて木々の向こうに町が見えてくると、レオニス様が足を止めた。


「ノア。入ってください」


 鞄を開く。


「…………」


 ノワールは動かない。


「ノア」


 今度は、ぷいと顔まで逸らした。


「昨日からずっと、こうなのです」


「まあ」


 私はノワールの前へしゃがみ込んだ。


「ノワール。町の方が驚いてしまいますから、少しだけ我慢してね?」


 大きな頭を撫でてやると、ノワールはしばらく私を見つめたあと、素直に鞄へ収まった。


「まあ。いい子ですね」


「…………」


「どうかなさいました?」


「いえ」


 レオニス様は鞄を閉じながら、なんとも言えない顔をする。


「……私より、あなたの方に懐いていますね」


「ふふ。きっと久しぶりに会えたからですわ」


「……そういうことにしておきましょう」


 宿へ戻ると、すでに荷物も馬車も整えられていた。


 主人から道中にと焼き菓子まで持たせてもらい、礼を告げて宿を出る。


 馬車へ乗り込む前に、私は一度だけ振り返った。


 星空を見上げた湖。


 昨夜より少しだけ近くなれた人と、もう二度と会えないと思っていた小さな友人。 

 ――もっとも、あの頃は両腕に収まってしまうほど小さかった友人は、今では私を丸ごと包めてしまいそうなほど大きくなっていたけれど。


 ここへ来た時には、どちらも想像していなかった。


「レオニス様」


「はい」


 今度は、私の大好きな場所をこの方に見せられる。

 そう思うと、自然と声が弾んだ。


「では、参りましょう!」


 馬車の扉へ手を掛けて、笑う。


「アルスヴィークへ!」

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