第8話 空から見た、知らない景色
夜の山へ入ることになったため、一度部屋へ戻り、動きやすい服へ着替えることにした。
淡い青のブラウスに濃紺のスカート。腰まである髪も邪魔にならないよう低い位置で一つに纏めてもらい、歩きやすい靴へ履き替える。
「本当にお気をつけくださいませ」
「ちゃんとレオニス様の言いつけを守るわ」
「……まだ何も申し上げておりません」
「先ほどから三度目ですもの」
ミアは何とも言えない顔をしたけれど、それ以上は何も言わなかった。
そうして宿の前へ戻ると、ちょうど夕食の準備も整ったところだった。
今日の夕食になるはずだった焼きたてのパイは、雪待ち亭の女将が用意してくれた包みごと、レオニス様の魔法の鞄へするりと収まっていった。
あれだけ大きなものが、小さな革鞄へ何の抵抗もなく消えていく。
「まあ……!」
思わず声を上げた私につられて、見送りに出ていたミアや宿の主人たちからも感嘆の声が上がった。
レオニス様だけが、それの何が珍しいのか分からないとでもいうような顔で鞄の口を閉じる。
「準備はできました」
そう告げてから、彼は一つ息をついた。
「では――」
こちらへ歩み寄ってくる。
何をするのだろう、と見上げた私の目の前で立ち止まると、レオニス様はほんの僅かに躊躇うような間を置いた。
「失礼いたします」
「え?」
意味を尋ねるより早かった。
片方の腕が背へ回り、もう片方が膝の裏へ差し入れられる。
次の瞬間。
ふわり、と足が地面を離れた。
「きゃっ……!」
突然失った足場に驚いて、咄嗟に目の前の肩へしがみつく。
けれど身体が揺れたのは、ほんの一瞬だけだった。
気付けば私は、レオニス様の腕の中へすっぽりと収まっていた。
「…………」
一体、何が起きたのだろう。
自分の足が地面から離れている。
背中には私を支える腕があって、膝の裏にも確かな力を感じる。
そして何より、目の前には。
「レ、レオニス様……?」
「はい」
あまりにも平然と返事をする、美しい男の顔があった。
「な、何をなさっているのです!?」
「湖へ向かいます」
「それは分かっていますわ!」
そうではない。
「なぜ私、抱き上げられておりますの?」
なんとか本題を尋ねると、レオニス様は僅かに目を瞬かせた。
どうやら彼にとっては、こちらの方が不思議な質問だったらしい。
「飛翔魔術で向かいますので」
「飛翔魔術……」
「エレノア様は、ご自身で飛翔魔術を?」
「つ、使えませんわ」
「であれば、この方が安全です」
「…………」
あまりにも当然のように言い切られてしまった。
なるほど、確かに理屈は分かる。
私は飛翔魔術など使えないのだから、一緒に湖へ向かうにはこうするしかないのだろう。
つまりこれは、移動のために必要なこと。
――それだけのことなのだけれど。
近い。
あまりにも、近い。
恐る恐る顔を上げれば、深く被ったフードの影から覗く横顔が、普段よりずっと近い場所にある。
長い睫毛が白い頬へ細い影を落とし、その奥にある灰水晶の瞳には、呆然と見上げている私の顔まで映っていた。
鼻梁から顎へ流れる線は、まるで彫刻家が丹念に削り上げたように端正で、陽の光をあまり浴びないせいなのか、肌は驚くほど白い。
美しい人だとは、もちろん知っていた。
王宮の令嬢たちが『氷の美丈夫』と囁いていることだって知っている。
けれど、これほど近くから見たことはなかった。
人ではなく、もしかしたら物語に出てくる精霊か何かではないか。
そんな馬鹿げたことまで考えてしまうほど、整った顔だった。
「……エレノア様?」
「っ」
見つめすぎていたらしい。
低い声がすぐ近くで響いて、慌てて視線を落とした。
すると今度は、自分が掴んでいるものに気付く。
レオニス様の肩だった。
細身の身体から勝手に華奢なのだと思っていたけれど、指先に触れる肩は思いのほかしっかりとしている。
恐る恐る力を抜いて、そのまま腕へ手を添えれば、服越しにも分かるほど引き締まっていた。
私一人を抱き上げているというのに、腕はほとんど揺らいでいない。
魔術師というより、鍛え上げられた騎士のようだった。
――男の方なのだ。
そんな当たり前のことが、不意に頭へ浮かんだ。
「…………」
どうして今さら、そんなことを考えているのだろう。
途端に頬が熱くなった気がして、私は誤魔化すように小さく咳払いをした。
「……お、お気遣いありがとうございます」
「いえ」
レオニス様は何も気付いていないらしい。
ただ、私が腕へ触れた瞬間だけ、その身体がほんの僅かに強張ったような気がした。
「では、参ります」
レオニス様が静かに告げた。
次の瞬間、足元へ青白い光が走る。
幾重もの紋様が重なり合いながら魔法陣を描き、夕暮れの地面を淡く照らした。
ふわり。
今度はレオニス様ごと、身体が宙へ浮かび上がる。
「わあ……!」
先ほどまでの妙な緊張など、一瞬で吹き飛んだ。
宿の屋根が遠ざかり、木々の梢が眼下へ沈んでいく。
私たちは森を覆う緑の少し上を、山肌に沿うように滑り始めた。
夏の終わりの風が頬を撫でる。
昼間の熱をまだ僅かに残した風に、山から降りてくる涼しさが混じっていて心地いい。
西の空では、沈みかけた太陽が山の稜線を金色に縁取っていた。
その光を受けて、遥か下に広がる森まで橙色に染まり始めている。
「すごい……!」
思わず声が弾んだ。
馬車から眺めていた景色とは、まるで違う。
どこまでも続く森も、遠くに連なる山々も、幼い頃から何度も見てきたはずなのに、空から眺めればまるで知らない土地のようだった。
「鳥になったみたいです!」
その向こう。
山々の間に、夕陽を受けてきらりと光るものが見えた。
「あっ」
思わず身を乗り出す。
「レオニス様、あれです! セレスティア湖ですわ!」
指差した先に、山々の間を縫うように湖が広がっていた。
「上から見ると、こんなに綺麗なのですね……!」
何度も訪れたことのある場所なのに、まるで初めて見る景色のようだった。
山々の間に広がる湖は、傾いた陽を受けてきらきらと輝いている。
その向こうには、橙から薄紫へと移り変わっていく空。
「すごい……」
思わず、ほうっと息を吐いた。
「こんなに綺麗だったんですね」
「…………」
返事がなくて、ふと顔を上げる。
すると、ほんの少し口元を僅かに緩めて、楽しそうに景色を眺める私を見ている。
「…………」
いつもの静かな無表情とは、まるで違った。
柔らかい表情。
それだけで、あれほど近寄りがたく見えていた端正な顔が、驚くほど優しく見える。
――こんなお顔も、なさるのね。
珍しくて、つい見入ってしまった。
けれど、レオニス様はすぐに私の視線に気付いたらしい。
ふっと笑みが消えて、灰水晶の瞳が前へ戻る。
「…………」
「…………」
それでも私は、なんとなく目を離せなかった。
「あの……エレノア様」
「はい?」
「そのように見つめられると……少々、集中しづらいのですが」
「まあ」
そこでようやく、自分がいつの間にか景色ではなくレオニス様の顔を眺めていたことに気付いた。
「ご、ごめんなさい。つい」
慌てて顔を逸らしたものの、なんだか可笑しくなって笑ってしまう。
「ふふ。レオニス様でも集中できなくなることがあるのですね」
「……私も人間ですので」
「では、景色を見ておりますわ」
「お願いいたします」
「落ちる心配など、初めからしておりませんけれど」
「…………」
返事はなかった。
ただ、湖へ向かう速度だけが、ほんの少し上がった気がした。
飛翔魔術で十分も飛んだだろうか。
眼下に広がる夕暮れの湖は静まり返っていた。
風ひとつない水面は磨き上げられた鏡のように空を映し、遠くにはまだ夕映えに霞む山々が連なっている。
「着きました」
ふわりと足が地面へ降りる。
飛ぶことに不慣れな私に配慮されているのか、思った以上に柔らかな着地だった。
「ありがとうございます」
レオニス様は軽く頷くと、辺りを一度見渡した。
その灰水晶の瞳が、何かを探すように細められる。
「……近くにいます」
「え?」
「彼です」
静かに言い切る。
「私と彼は魔力の経路で繋がっていますので、距離が近ければ、おおよその位置は分かります」
「そういうものなのですね」
使い魔という存在を知らない私には、それが特別なことなのかどうかも分からない。
けれど、あれほど大きな獣がどこにいるのか分かるのなら、それだけでも随分安心できる。
「今も動いています」
目を閉じて気配を追っていたレオニス様が、静かに湖の向こうへ目を向けた。
「ですが、追い掛けても逃げるでしょう。この辺りは彼にとって居心地の良い場所ですし、そのうち自分から戻ってきます」
「……では、放っておいても大丈夫なのですか?」
「ええ」
「誰かを襲ったりは?」
「しません」
あまりにも迷いのない返事だった。
思わず、先ほど宿を半壊させた巨体を思い浮かべる。
あれだけを見ると、とてもそうは思えないのだけれど。
レオニス様がこれほど平然としているのだから、本当に危険はないのだろう。
――使い魔というのは、見た目ほど恐ろしいものではないのかもしれない。
「では、ここで待っていればいいのですね」
「はい。その間に夕食にしましょう」
レオニス様は肩から革鞄を降ろした。
「まあ!」
私は思わず身を乗り出す。
「雪待ち亭のお料理ですね!」
「はい」
そう言って鞄へ手を入れる。
私は思わず鞄を見つめた。
次々と出てくるのは、先ほど女将が包んでくれた焼きたてのパイに、燻製肉とチーズ、果物、お皿、木のカップ、敷布、薄手のブランケット。
まだ終わらない。
小さなやかん。
茶葉。
座るのにちょうどよさそうなクッションまで出てきた。
「…………。」
私はゆっくり瞬きをした。
「魔術師の方とは」
レオニス様が顔を上げる。
「本当に、何でもできてしまうのですね」
「何でも、というわけではありませんが」
「そうなのですか?」
半壊した小屋をあっという間に元に戻し、私を抱えたまま空を飛び、今度は小さな鞄から夕食一式まで取り出してしまったというのに。
身近に魔術師がいなかった私には、これが魔術師なら当たり前のことなのか、それともレオニス様だからなのか、いまひとつ分からない。
「……やっぱり、レオニス様がすごいのかしら」
「何か?」
「いいえ。では、火を起こしましょう」
私はぱん、と両手を合わせて立ち上がった。
「お父様から教わったんです。山ではまず火を確保しなさい、と」
「……エレノア様?」
「まずは乾いた枝を集めます」
けれど私が森へ向かおうとすると、レオニス様は当然のようにその前へ立った。
「お待ちください」
「どうかなさいました?」
「あなたにそのようなことをさせるわけにはいきません」
「まあ」
思わずレオニス様を見上げる。
「枝を拾うだけですわよ?」
「その枝でお手に傷でもついたらどうするのです」
「そのくらい平気です。私だって、蝶でも花でもありませんのよ?」
「…………」
なぜか、レオニス様が黙ったまま。
灰水晶の瞳がまじまじと私を見る。
「……どういたしました?」
「いえ」
何か言いたげに唇が動いたものの、結局何も言わない。
代わりに片手を上げぱちりと指を鳴らすと、途端に森から風が吹いた。
乾いた枝が次々と宙へ浮かび、風に運ばれて私たちの前へ綺麗に積み上がっていく。
「まあ……!」
思わず見惚れてしまった。
「これでよろしいでしょう」
「……私が拾うつもりでしたのに」
「お怪我をされては困ります」
どうやら、ここは譲ってくださらないらしい。
ならば、と私は傍らの水瓶を持ち上げた。
「では、お水を汲んできますわ」
「それも私が――」
「レオニス様」
じっと見つめると、レオニス様も私を見る。
「…………」
しばしの沈黙のあと、先に折れたのは彼だった。
「……分かりました。では、一緒に行きましょう」
「ふふっ、はい!」
「ただし、汲んでからは水瓶は私が持ちます」
「まあ!」
結局そこは譲ってくださらないらしい。
でも、これなら文句はない。
水瓶を抱えて満足げに頷く私を見て、レオニス様はまた小さく息を吐いた。
呆れられたのかもしれない。
けれど、その横顔はどこか、小さく微笑んでいるように見えた。




