第7話 アステリアで最も安全な場所
「…………」
「…………」
「…………」
つい先ほどまで賑やかだった宿の前が、嘘のように静まり返っていた。
夏の夕暮れ。
森の向こうから、場違いなほど呑気な鳥の声が聞こえてくる。
その場にいる全員の視線は、半分なくなった物置小屋と、黒い影が消えていった森との間を行き来していた。
「……今のは」
やがて主人が、恐る恐る口を開いた。
「熊……では、ありませんよな?」
「……はい」
震える声に答えたのはレオニス様だった。
確かに、馬よりも大きな巨躯は熊を思わせた。
けれど、あんな跳ね方をする熊など聞いたことがない。
いつもなら何が起きてもほとんど表情を変えない彼が、珍しく額へ手を当て、深く息を吐いている。
「私の使い魔です」
「使い魔?」
聞き慣れない言葉に、思わず聞き返す。
「何ですの、それは」
「魔術師と契約を結び、魔力を介して繋がった魔獣です」
「…………」
説明されたけれど、やっぱりよく分からない。
魔術師と契約をしている。
魔力で繋がっている。
そして、普段はレオニス様と一緒にいるらしい。
そこまで考えて、私は一つの答えに辿り着いた。
「……つまり、ペットのようなものでしょうか?」
「…………」
レオニス様が僅かに考え込む。
「厳密には少し違いますが……今はそれで構いません」
なぜだか、ひどく疲れた声だった。
「も、申し訳ございません!」
そこへ、青ざめたミアが駆け寄ってくる。
「私がお鞄を運ぼうとしたら、突然何かが手に触れて……驚いて、落としてしまって……!」
「いえ。あなたのせいではありません」
レオニス様はすぐに首を振った。
「通常であれば、私以外の者が鞄に触れた程度で、勝手に外へ出ることはありませんので」
そう言ってから、レオニス様は半壊した物置小屋へ目を向けた。
「……それと」
主人と女将へ向き直り、頭を下げる。
「申し訳ありません。私の使い魔が壊したものです」
「い、いやいや! そんな、宮廷魔術師様に頭を下げていただくような――」
「すぐに戻します」
「え?」
レオニス様が、半壊した物置小屋へ片手を向ける。
ぱちん。
乾いた音が、夕暮れの空気に小さく響いた。
指を弾いたその瞬間。
地面に散らばっていた木板が、一斉に宙へ浮かび上がった。
「まあ……!」
折れた柱がひとりでに立ち上がり、砕けた板の欠片が吸い寄せられるように元の場所へ戻っていく。宙を舞った木片は寸分違わず組み合わさり、亀裂さえも淡い光に撫でられるように消えていった。
転がっていた桶がころりと向きを変え、先ほど最後に落ちてきた箒まで、見えない誰かに拾い上げられたように小屋の中へ収まっていく。
詠唱もなければ、魔法陣もない。
レオニス様はただ片手を向けて、静かに立っているだけだった。
やがて最後の木片が元の場所へ嵌まると、それまで辺りを漂っていた淡い光が、夕闇へ溶けるように消えていく。
あとに残ったのは、何事もなかったかのように建つ小さな物置小屋だけだった。
壊れたものを直した、というだけではない。
あまりにも滑らかで、あまりにも静かで。
目の前で起きていることが魔術だと分かっているのに、まるで時間そのものが巻き戻っているようだった。
「……すごい」
気付けば、声に出ていた。
そんな私の驚きなど知る由もないのだろう。レオニス様は元通りになった小屋を一度確認しただけで、何でもないことのように手を下ろした。
「この程度であれば」
「この程度……?」
半分なくなっていた小屋を振り返る。
私にとっては、とても『この程度』には見えない。
「レオニス様は、どんな魔術でもこのように簡単に使えてしまうのですか?」
そもそも、魔術師と行動を共にすること自体がほとんどない。
けれど、アカデミーの座学では、魔術を行使するには魔法陣を描いたり、詠唱を行ったりと、相応の手順が必要だと習ったはずだ。
それなのに、レオニス様がしたことといえば、小屋へ片手を向けて指を鳴らしただけ。
王国最強と謳われる魔術師ともなれば、私が学んだ常識さえ当てはまらないのだろうか。
そんな疑問を込めて尋ねると、レオニス様はあっさりと首を振った。
「いえ」
「そうなのですか?」
「今のは、元の形が残っているものを修復しただけですから」
だけ。
些か、私の知っている『だけ』とは随分違う気がする。
「大規模な魔術であれば、私でも数日かけて準備する必要があります」
「レオニス様でも?」
「ええ」
王国最強と謳われる魔術師でも、何でも一瞬でできるわけではないらしい。
――それでも、壊れた小屋を指を鳴らしただけで直してしまうのだから、十分すぎるほどすごいと思うけれど。
「ところで」
私は先ほどの言葉を思い出して、首を傾げた。
「通常であれば、勝手に外へ出ることはないとのことでしたが……では、先ほどはどうして?」
レオニス様の視線が、黒い影の消えた森へ向かう。
「恐らく、土地の魔力に反応したのでしょう」
「魔力……」
「王都を離れてから、少し落ち着きがないことには気付いていました」
そこで、眉間へ薄く皺が寄る。
「この辺りへ入ってから、急激に活性化したようです。私が気付くべきでした」
「そんな。レオニス様が謝ることでは――」
「いえ」
珍しく、私の言葉を遮った。
「私の管理不足です」
そう言って、レオニス様はしばらく森の奥を見つめていた。
「……恐らく、セレスティア湖へ向かっています」
「まあ」
「先ほど仰っていたでしょう。この辺りでも、特に魔力の影響が強い場所だと」
「覚えていてくださったんですね」
「ええ。生態を考えても、より魔力の濃い場所へ向かった可能性が高いでしょう」
レオニス様はそう言うと、私へ向き直った。
「申し訳ありません、エレノア様。今夜だけ、お側を離れることをお許しください」
「今夜?」
「長く鞄の中にいたせいで、かなり気が立っています。それに、あれは薄明薄暮性です」
「薄明薄暮性?」
「明け方と夕暮れに最も活発になります」
レオニス様が、山の端へ傾き始めた太陽を見る。
「完全に日が落ちるまでは、恐らく私が呼んでも戻ってこないでしょう」
「まあ……」
「ですから、少し時間がかかるかと」
なるほど。
先ほどの逃げっぷりを思い出す。
確かに、素直に捕まってくれそうには見えなかった。
「宿には結界を張っておきます。魔獣はもちろん、悪意を持った人間も容易には近付けません」
「分かりました」
「明朝までには、必ず戻ります」
「ありがとうございます」
そこまで聞いて、私は頷いた。
「では、私も参ります」
「…………」
レオニス様が固まった。
「……申し訳ありません。聞き間違えたようです」
「私も参ります」
「聞き間違いではありませんでしたか……」
深いため息とともに額へ手を当てる。
「エレノア様。危険です」
「分かっていますわ。だからこそです」
「……?」
「土地勘のないレオニス様がお一人で、日が暮れてから湖を探し回る方が心配ですもの」
「私なら問題ありません」
「強いことと道に迷わないことは別でしょう?」
「…………」
黙った。
「それに、ここはフォルティス領です。あの子が熊と間違えられて猟師に狙われでもしたら大変ですわ」
「……その場合、危険なのは猟師の方ですが」
「まあ。でしたら、なおさら放っておけませんわ」
「…………」
レオニス様が再び額を押さえる。
けれど、領内で何かが起こる可能性がある以上、領主家の人間として知らぬふりはできない。
「湖の周辺なら私も何度も行っています。ご案内できますわ」
「しかし――」
「それに私、セレスティア湖へ行きたかったんです」
「…………」
今度こそ、呆れたような顔をされた。
「夜の湖は、とても綺麗なんですよ」
風のない夜には、鏡のような湖面いっぱいに星が映る。
空にも、足元にも星が広がって、まるで夜空の中に立っているように見えるのだ。
「せっかくですから、レオニス様にもお見せしたいです」
「……私に?」
「はい。ご案内すると約束したでしょう?」
「…………」
レオニス様はしばらく黙っていたけれど、それでもまだ納得はしていないらしい。
「ですが、エレノア様の安全を考えれば――」
「大丈夫ですわ」
まだ続きそうだった言葉を遮って、私はレオニス様の手を取った。
「……!」
触れた瞬間、彼の手が強張る。
思っていたよりも大きな手だった。
長く整った指は少し冷たくて、けれど、その掌にはきちんと人の体温がある。
いつも隙なく佇んでいるせいだろうか。
そんな当たり前のことが、なぜだか少しだけ意外だった。
そのまま握った手を離さず、私は彼の顔を覗き込むようにして笑った。
こういう時、自分がどんな顔をすれば相手を困らせられるのかくらいは知っている。
母譲りのこの顔は、お願い事をする時にはなかなか便利なのだ。
「だって、レオニス様のお傍以上に安全な場所など、この国にありませんもの」
「…………」
ぴたりと、レオニス様が固まった。
いつも静かな灰水晶の瞳が、ほんの僅かに見開かれている。
視線が一度、私の顔から重なった手へ落ちた。
そして、また私へ戻る。
けれど何も言わない。
どうやら、思った以上に効いているらしい。
「そうでしょう?」
念を押すように、もう一度笑ってみせる。
すると今度は、なぜかレオニス様の方から視線を逸らされてしまった。
「……分かりました」
しぶしぶといった様子でようやく返ってきた声は、少し掠れていた。
「本当ですか?」
「はい……」
やはり、お願い事には笑顔が一番だった。
「ただし」
今度は真っ直ぐに見つめられる。
「絶対に、私から離れないでください」
「はい」
「何があってもです」
「分かりましたわ」
即答したのに、なぜか疑わしそうな目をされた。
レオニス様が、深く息を吐く。
するとミアが、そっとレオニス様へ視線を向けた。
その眼差しには、妙な同情が滲んでいる。
「……レオニス様」
「はい」
「僭越ながら、一つだけ」
「……何でしょう」
ミアはちらりと私を見た。
「お嬢様は、一度こうと決めるとなかなかお考えを変えてくださいません」
「ミア?」
「ですが」
私の抗議など聞こえなかったかのように、ミアは続ける。
「不可能なことまでお聞きになる必要はございませんので、駄目なものは駄目と、どうぞきっぱりお断りくださいませ」
「…………」
レオニス様が、ゆっくりと私を見る。
ほんの少し考えるような間があって。
「……心得ました」
「レオニス様?」
なぜそこで納得なさるのだろう。
ミアはそんなレオニス様をしばらく見つめていた。
いつもの彼女なら、初対面に近い相手をこれほどじっと見ることはない。
けれど今は、何かを確かめるようにその横顔を眺め、それからほんの僅かに表情を和らげた。
「お嬢様を、どうぞよろしくお願いいたします」
「……はい」
ミアはそう言って、深々と頭を下げた。
今夜一晩、主人の身を預ける相手に対するものとしても、随分と丁寧なお辞儀だった。
さすがのレオニス様も僅かに目を瞬かせ、どう返したものかと迷うような間を置く。
「……承知しました」
けれど、すぐに真面目な顔で頷いた。
なんだろう。
つい先ほどまでほとんど言葉を交わしていなかったはずなのに、いつの間にか二人の間には、妙な連帯感のようなものが生まれている気がする。
「お嬢様」
「なあに?」
「くれぐれも、レオニス様のお言いつけをお守りくださいませ」
「もちろんよ」
「では……ミアとの約束ですよ」
念を押すように言われ、私は素直に頷いた。
先ほど、まったく同じことをレオニス様にも言われた気がする。
やはり、この二人は妙に気が合うらしい。
甚だ不本意……とは思うものの、我儘をきいてもらった手前何も言えず私は黙り込んだのだった。




