第6話 黒い影が消えた森
王都を発って、二日目の午後。
馬車が北へ進むにつれ、窓の外を流れる景色は少しずつ姿を変えていった。
どこまでも続いていた平原はいつしか緩やかな丘陵へ変わり、遠くに霞んでいた山々は、今では空を支えるように大きく聳えている。
王都ではまだ夏の名残を感じる暑さだったのに、窓から吹き込む風も随分と涼しくなった。
「そろそろですわ」
「何がですか?」
向かいに座るレオニス様が、手元の本から顔を上げる。
「もうすぐ、フォルティス領に入ります」
私は窓の外を覗き込んだ。
この道を通るのは、何年ぶりだろう。
アカデミーへ入ってからも長期休暇には帰郷していたけれど、卒業してからはそのまま王太子妃教育に入り、ほとんど王都を離れることもできなくなった。
それでも、覚えている。
あの山を越えれば。
「――あ」
視界が開けた。
深い緑に覆われた山々。
その谷間を縫うように流れる川が、夏の陽光を受けてきらきらと輝いている。
街道沿いには名も知らぬ小さな花が咲き、風に揺れる草原の向こうには、赤茶色の屋根がいくつも寄り集まって見えた。
この先にあるのは、北へ向かう旅人なら一度は立ち寄ることになる小さな宿場町だ。
王都から領都アルスヴィークへ向かう街道の中継地で、夏には避暑に訪れる旅人で随分と賑わう。
私たちも、今夜はこの宿場町で一泊する予定だ。
懐かしい景色に、胸の奥がじわりと熱くなる。
「……綺麗」
気付けば、声に出ていた。
「エレノア様?」
レオニス様がこちらを見る。
私は振り返って、笑った。
「この町はもう、フォルティス領ですわ」
「なるほど、では領都まであと半日ほどですね」
「ええ。領都アルスヴィークにはまだかかりますので、今晩はこの街に宿を取っています」
窓を少し開けると、途端に涼しい風が馬車の中へ吹き込んできた。
髪が頬へかかるのも構わず、胸いっぱいに息を吸い込む。
湿った土。青々とした草。
森の木々と、どこか水を思わせる冷たい匂い。
「この匂い……故郷の匂いがします」
そう答えると、レオニス様が僅かに目を細めた。
「確かに、王都とは随分違いますね」
「でしょう?」
それだけで、なんだか嬉しくなる。
「前にも申し上げましたけれど、フォルティス領は寒いだけの土地ではないんですよ。特に今の時期は、王都から避暑にいらっしゃる方も多いんです」
夏の終わりとはいえ、王都ではまだ日中なら汗ばむ日も珍しくない。
けれど標高の高いこの辺りでは、日が傾けば薄い上着が欲しくなるほど涼しくなる。
「もう少し進むと、以前お話ししたセレスティア湖があります」
「宝石のように見えるという?」
「覚えていてくださったんですか?」
「ええ。だから王都よりも、大気中の魔力が濃いのですね」
レオニス様はそう言って、窓から吹き込む風に心地よさそうに目を細めた。
「まあ。魔術師はそんなことまで分かるのですか?」
「訓練をすれば、魔術師でなくともある程度は」
「そうなのですね」
残念ながら、私にはさっぱり分からない。
フォルティス家は代々、魔術を不得手とする者が多い家系だ。
中でも父は、まったくと言っていいほど魔力を持たない。
どうやらそれを受け継いだらしい私も、魔力の気配など生まれてこの方感じたことがなかった。
なるほど。
魔術師というのは、同じ景色を見ていても、私とは随分違うものを感じ取っているらしい。
「この辺りでは特に大きな湖ですの。夏は避暑客も多くて、湖畔には宿や別荘もたくさんあります。今夜泊まる宿も、その近くなんですよ」
「なるほど」
「それにこの先の宿には――」
言いかけて、私は口元を緩める。
「とても美味しいパイがあります」
「……パイ」
「はい!」
思わず声が弾んだ。
「湖で獲れる魚を香草や茸と一緒に包んで焼くんです。焼きたては本当に美味しくて」
「…………」
「なんです?」
「いえ」
レオニス様が、ほんの少しだけ目を細めた。
「エレノア様は、本当に食べ物のお話をされる時は楽しそうだと思いまして」
「まあ」
そんなに顔に出ていただろうか。
「美味しいものを食べるのは大切なことですわ」
「……そうですね」
ほんの一瞬、その返事が少しだけ困ったように聞こえた。
もしかして、レオニス様はあまり食事に興味がない方なのだろうか。
「レオニス様にも召し上がっていただきますからね」
「はい」
それでも、そう答えてくださったので、私は満足して頷く。
昨日よりも少しだけ。
レオニス様との会話が続くようになった気がする。
そんな些細な変化まで嬉しく思いながら、私は再び窓の外へ目を向けた。
◇
夕刻。
日が山の端へ近づき始めた頃、馬車は一軒の大きな宿の前で止まった。
石造りの一階に、木造の二階。
深い傾斜のついた屋根の下には、白い文字で『雪待ち亭』と書かれた看板が掛かっている。
「着きましたわ!」
御者が扉を開けるのを待って馬車を降りる。
懐かしい建物を見上げた、その時だった。
「お嬢様!」
勢いよく宿の扉が開いた。
「まあ!」
「お帰りなさいませ!」
「お久しぶりです、お嬢様!」
飛び出してきたのは、恰幅のいい宿の主人と、その妻だった。
二人とも昔と変わらない。
いや、目尻の皺は少し増えただろうか。
「ご無沙汰しております!」
嬉しくなって駆け寄る。
「お二人とも、お元気そうで何よりです」
「お嬢様こそ! まあまあ、本当にお綺麗になられて!」
女将が私を上から下まで眺めて、感極まったように両手を合わせる。
「最後にお会いした頃は、まだこんなに小さくていらしたのに」
「そんなに小さくありませんでしたわ」
「私たちから見れば同じですとも!」
「まあ」
思わず笑ってしまった。
「お帰りになることは、先にお屋敷の方から伺っておりましたからな。お部屋は一番良いところをご用意しております!」
「ありがとうございます」
「夕食も、お好きだったものを――」
そこまで言ったところで、主人の視線が私の後ろへ向いた。
「……そちらのお召し物。もしや、宮廷魔術師の方で?」
「ええ。レオニス・アルヴェルト様ですわ」
「レオニス……?」
主人が一瞬考え込み――目を見開いた。
「まさか、殿下の御船を襲った海賊船団を、一人で退けたという……?」
「…………」
途端に、主人の顔が僅かに強張った。
女将も同じように、レオニス様をまじまじと見つめている。
ああ、あの時のことか。
カイル殿下の御船が海賊に襲われた一件なら、もちろん私も知っている。
けれど――。
もしかしたら領民の間では、随分と物騒な逸話として広まっているらしい。
「ええ。かの有名なレオニス様ですわ」
私が頷くと、主人が恐る恐るこちらを見る。
「では……お嬢様の護衛として?」
「はい。レオニス様が一緒に来てくださるなんて、とても心強いですわ!」
父の不調はまだ公表されておらず、王宮でも知る者はごく一部だけだ。
詳しい事情を話すわけにはいかないけれど、心強いというのは紛れもない本心だった。
主人は一度目を瞬かせた。
それから、嬉しそうに笑う私とレオニス様を見比べて、ふっと表情を緩める。
「……なるほど。それなら、これほど心強いこともありませんな」
先ほどまでの僅かな警戒はもうなく、今度はいつもの人懐っこい笑顔でレオニス様へ向き直った。
「ようこそフォルティス領へ! 雪待ち亭の主人をしております、ベルンと申します」
「……レオニス・アルヴェルトです。今晩は世話になります」
レオニス様はいつも通り淡々と頭を下げる。
けれど、ほんの少しだけ、戸惑っているように見えるのは気のせいだろうか。
「今夜は腕によりをかけますぞ!」
「あなた、あまり宮廷魔術師様を困らせてはいけませんよ」
「何を言う。せっかくいらしてくださったんだ!」
女将に窘められても、主人は楽しそうだ。
今朝獲れた湖鱒がありますからな。茸と香草、それからチーズを詰めてパイにしてあります!」
「わあ! 今年も作ってくださったんですか?」
「もちろんですとも。木苺のタルトもありますぞ」
「木苺のタルトまで!」
これは寄って正解だった。
「やっぱり雪待ち亭を素通りするなんて考えられませんわ」
「そうでしょうとも!」
主人が豪快に笑う隣で、レオニス様がこちらを見ていた。
「どうかなさいました?」
「……いえ」
そう答えた彼の口元が、ほんの僅かに緩む。
「皆、エレノア様がお帰りになるのを楽しみにしていたのですね」
「ふふ。ありがたいことです」
子どもの頃から、この宿には数え切れないほど世話になった。
けれど、こうして迎えてくれるのは、この二人だけではない。
父に連れられて領内を回っていた頃から、行く先々で声を掛けてもらった。久しぶりに顔を見せれば「お帰りなさい」と笑ってくれる。
彼らは、フォルティスが守るべき領民であると同時に、幼い頃から私を知る人たちでもある。
だから、この土地へ帰ってくると、まだ領都にも我が家にも辿り着いていないのに、もう家へ帰ってきたような気持ちになる。
「さあさあ、立ち話もなんですから、中へ!」
主人が大きく手を広げる。
「お荷物もお運びしますぞ」
「あ、それなら――」
「お嬢様」
ちょうど馬車の後方から、侍女のミアが顔を出した。
「お荷物はこちらで」
「ありがとう、ミア」
私の荷物を別の従者たちへ任せ、ミアは最後に残った黒革の鞄へ手を伸ばす。
見覚えがある。
レオニス様の、あの不思議な旅行鞄だ。
「あ」
そういえば、中には部屋一つ分ほどの荷物が入っていると言っていた。
重さはどうなっているのだろう。
そんな呑気な疑問を抱いた――次の瞬間。
「きゃっ!」
「ミア!?」
甲高い悲鳴に、咄嗟に振り返る。
ミアの足元には、先ほどの黒い鞄が転がっていた。
その口が大きく開いている。
――と思った、次の瞬間。
視界が、黒で埋まった。
「えっ!?」
何が起きたのか分からない。
つい今しがたまで何もなかったはずの場所に、馬よりも大きな黒い何かがいる。
近すぎて、その全貌すら見えなかった。
ただ、艶のある漆黒の毛並みと。
その中で、ぎらりと光る二つの眼だけが見えた。
――目が、合った。
「――待て!」
レオニス様の空気を切り裂くような鋭い声が響いた。
その声に黒い何かがびくりと反応する。
漆黒の毛並みに、青白い光が一瞬だけ走った。
次の瞬間、獣らしき影が地面を蹴った。
「きゃっ!」
突風が吹き抜けて、あまりの勢いに、思わず腕で顔を庇う。
黒い影は宿の脇を駆け抜け、そのまま裏手へ――
――ドォン!!
「えっ!?」
まるで何かが爆発したような轟音に、慌てて顔を上げる。
そこにあったはずの小さな物置小屋が、半分なくなっていた。
箒や桶が宙を舞い、砕けた木板がばらばらと地面へ降り注ぐ。
どうやらあの巨大な何かは、進路上にあった小屋を避けることすらせず、そのまま突き破っていったらしい。
その向こう。
森の木々の隙間を、青白い光が一度だけ駆け抜け――あっという間に見えなくなった。
「…………」
後に残る静寂。
誰もが言葉を失ったまま、黒い影が消えた森を見つめている。
今のは、一体何だったのだろう。
四肢があったようには見えたから、獣のようではあったと思う。
けれど、現れたのも走り去ったのもあまりに一瞬で、それ以上は何も分からない。
半壊した物置小屋から、遅れて一本の箒が、からん、と地面へ落ちた。
「…………はあ」
その場にいる誰もが唖然とする中、レオニス様の深いため息だけが、やけに大きく響いた。




