第5話 新しい友人
「そんなふうにお考えになる必要はありませんわ」
「ですが」
「正直、私の側にはレオニス様と婚姻させていただくための理由が十分にございますもの」
「…………」
できるだけ安心してもらえればと微笑んでみたけれど、返ってくるのは沈黙だけだった。
灰色の瞳はどこか思い詰めたように伏せられたまま。
どうやら、私が思っていた以上に気に病んでいらっしゃるらしい。
私としては、怒るどころか、婚約を解消されたことによる痛手などほとんど感じていないのだけれど。
もちろん、世間から見れば話は違うのだろう。
十九歳にもなって、十年以上続いた王太子との婚約を解消された辺境伯令嬢。
事情を知らない人から見れば、それはもう、たいそう気の毒な娘に映るに違いない。
けれど、本人がまるで傷ついていないのに、可哀想だと思われても困ってしまう。
ましてレオニス様の場合は、面白半分に同情しているわけでもない。
むしろその逆だ。
私が失ったものを、まるで自分の責任であるかのように背負おうとしている。
けれど――それなら、なおさら。
「むしろ大変なのは、レオニス様の方ですわ」
「……私が?」
「ええ。だって」
そこでようやく、灰色の瞳がこちらへ向いた。
心底意外そうな顔をされて、私は続ける。
「殿下からの命令も関わるとはいえ、突然辺境へ行くことになったうえに、下手をすればほとんど話したこともない私と結婚することになるのですよ?」
「私なら、そちらの方がよほどお気の毒に思えてしまいます」
「お気の毒……」
まるで初めて聞く言葉のように、レオニス様が繰り返した。
その反応がおかしくて、思わず笑ってしまう。
「だって、そうでしょう?」
少なくとも、私にはそう思える。
私にはフォルティス家とアルスヴィークを守るという明確な目的とそれを成すための利点がある。
けれど、レオニス様にとってはどうだろう。
「レオニス様にとって私は、主君の婚約者だった女でしかないですわ」
「……それは」
「?」
何か言いかけた唇が、不自然なところで止まった。
しばらく続きを待つけれど、数秒経っても言葉は続かなかった。
「それは?」
灰水晶の瞳が、ほんの僅かに揺れる。
「……いえ。何でもありません」
「あら」
まただ。
昨日から、この方が言葉に詰まるところを何度見ただろう。
これまで王宮で見かけていたレオニス様は、必要なことだけを淀みなく口にする方だった。
けれど、こうして二人で話してみると、案外そうでもないらしい。
私が知らなかっただけなのだろうか。
「それに、私は本当に大丈夫なんです」
そう言って、窓の外へ目を向ける。
いつの間にか、王都はずいぶん遠くなっていた。
白亜の街並みは小さくなり、その向こうに高く聳えていた王城も、今では輪郭が見える程度だ。
十年以上。
あの場所で、いつか王太子妃になるために生きてきた。
けれど、不思議と胸を締め付けられるような寂しさはなかった。
「父と母は、大恋愛の末に結婚したそうです」
「……存じています」
「まあ。有名なのですね」
「白狼将軍の逸話は、それなりに」
「ふふ。本人は嫌がりそうです」
思わず笑ってしまう。
父は昔の武勇伝を語られるのが、あまり好きではない。
まして母との馴れ初めなど人前で話そうものなら、無言で席を立ちかねない。
けれど、その話は幼い頃から至るところで何度も耳にしてきた。
社交の『し』の字も知らないような父が、母に恋をした。
そして、文字通り社交界の華であった母も、そんな父を愛した。
家同士が決めた縁でもなければ、互いの身分や利害を求めたわけでもない。
ただ一人の男と、一人の女として出会って。
恋をして、自分たちの意思で互いを選んだ。
そんな二人の物語を吟遊詩人は歌にして、人々は理想の夫婦だと噂した。
「そんな二人を見て育ったものですから、本心で言えば少しだけ羨ましかったんです」
「……羨ましい?」
「恋をするということ自体が」
レオニス様の灰色の瞳が、静かに私を見た。
先ほどまでとは違う。
今度は逸らすことなく、私の言葉の続きを待っている。
「私には、最初からそういう選択肢はありませんでしたから」
五歳で決まった婚約。
物心がついた頃には、いつかカイル殿下と結婚するのが当たり前だった。
誰かを好きになって、その人に想いを伝えて。
相手からも同じように想ってもらって。
そうして、自分の意思で生涯を共にする人を選ぶ。
そんな未来を、自分のものとして考えたことは一度もない。
それを不幸だと思ったこともなかった。
そういうものなのだと、当たり前に受け入れていたから。
「もちろん、殿下との未来が嫌だったわけではありません」
それは嘘ではない。
カイル殿下と過ごしてきた時間まで否定したいわけではなかった。
「殿下のことは大切ですし、幸せになってほしいと思っています」
「…………」
「だからこそ、殿下が本当に好きな方に出会えたのなら、それでよかったのだと思うんです」
恋をして、自分でその人を選んで。
その人と生きたいと願う。
私には与えられなかった選択を、カイル殿下は自分で選び取ることにしたのだ。
それならば、十年以上の婚約が終わる理由としては、存外悪くない気分だった。
「それに」
少ししんみりしてしまった空気を払うように、声を弾ませる。
「図らずも、私は王太子妃教育という最高峰の教育を受けることができました」
「…………」
「領地運営についても全くの無知というわけではありません。これからフォルティスを継ぐことになるのであれば、学んできたことはきっと役に立ちます」
外交も、財政も、歴史も、法律も。
王太子妃となるために学んだことのすべてが、今日を境に無駄になるわけではない。
むしろ、これから領地を背負うのであれば、これほど恵まれた教育を受けられたことに感謝すべきなのかもしれない。
「それに、今だから言えますけれど」
少しだけ声を潜める。
「王都の煌びやかな文化より、素朴な故郷の風土の方が私には合っていると思いますし」
こんなこと、王太子の婚約者だった頃には大きな声では言えなかった。
悪戯をする子どものように、くすりと笑う。
「ですから」
もう一度、真正面からレオニス様を見る。
「レオニス様まで責任を感じる必要なんて、どこにもありません」
「…………」
返事はなかった。
けれど、先ほどまでの沈黙とは少し違った。
何かを言えずにいるというより、私の言葉を一つずつ噛み締めているように見えた。
「……フォルティス嬢は」
「はい……」
「昔から、どんな苦境でも笑顔を絶やしませんね」
「昔から……?」
その言い方が妙に引っ掛かって、思わず首を傾げる。
レオニス様がカイル殿下の専属護衛となってから、三年ほど。
当然、殿下のお側にいらっしゃるのだから、会えば挨拶くらいは交わしていたけれど。
こうして二人きりでゆっくり話すのは、今日が初めてと言ってもいいくらいだ。
――まあ、殿下の婚約者だったのだから、目にする機会はそれなりにあったのかもしれない。
レオニス様が私のことをそんなふうに気にかけてくださっていたとは、少し意外だったけれど。
それよりも、私にはもっと気になることがあった。
「あの、レオニス様」
「何でしょう」
「私の家には、フォルティス嬢が三人おりますわ」
「……三人」
予想外の返答だったのか、僅かに目を瞬かせる。
「ええ。私と、双子の妹が二人」
少しだけ身を乗り出した。
「ですから、よろしければエレノアとお呼びください」
「…………」
また黙ってしまった。
先ほどまでなら、この沈黙に戸惑っていたかもしれない。
けれど、ここまで何度も見れば、少しだけ慣れてくる。
どうやらレオニス様は、私が思っていたよりずっと慎重に言葉を選ぶ方らしい。
「レオニス様?」
「……では」
一度、息を整えるような間があった。
たった人の名前を呼ぶだけなのに、ずいぶん大袈裟だ。
そう思った次の瞬間。
「……エレノア様」
初めて。
彼の声で、自分の名前を呼ばれた。
「はい、レオニス様」
嬉しくなって、満面の笑みで答える。
すると。
「…………」
レオニス様が固まった。
「?」
数秒。
灰水晶の瞳が、じっと私を見つめている。
けれど次の瞬間。
何かから逃げるように、ぱっと窓の方へ顔を背けてしまった。
「あの……レオニス様?」
「……すみません」
「何がです?」
「いえ、その……」
珍しく歯切れが悪い。
「随分……嬉しそうにお返事をなさるので」
「まあ」
そんなことを言われるとは思わず、自分の頬へ手を添える。
確かに言われてみれば、頬が緩んでいる気がする。
「ふふ。はい。そうかもしれません」
「……そう、ですか」
「今まで、レオニス様とはあまりお話しする機会がありませんでしたでしょう?」
「……そう、ですね」
「年齢も近いのに、ほとんどお話ししたことがなかったので」
カイル殿下の護衛として、その姿を見かけることは何度もあった。
けれど、彼はいつだって殿下の傍らに静かに控えているだけ。
私から話しかける理由もなければ、向こうから話しかけられることもなかった。
「いつか、お友達になれたらと思っていたんです」
「……え」
今度こそ、レオニス様が勢いよくこちらを振り返った。
灰水晶の瞳が、珍しく大きく見開かれている。
「お友達、ですか」
「はい」
「……私と?」
「もちろんです」
そんなに驚くことだろうか。
むしろ、これから婚約するかもしれない相手なのだ。
友人にすらなれないまま夫婦になる方が、私としては困ってしまう。
「…………」
また沈黙。
もしかして、ご迷惑だっただろうか。
そう不安になり始めたところで、レオニス様がようやく口を開いた。
「……私でよろしければ」
「はい?」
「その……」
一度、言葉を切る。
灰色の瞳がほんの僅かに伏せられた。
「親しくしていただければ、嬉しく思います」
最後の言葉だけが、ほんの少し小さかった。
レオニス様の口元が、僅かに緩む。
「……!」
思わず目を見開いてしまう。
――笑った。
本当に、ほんの少しだけ。
いつも真一文字に結ばれている唇が柔らかく緩み、灰水晶の瞳が僅かに細められている。
困ったような、どこか照れたような。
ひどく不慣れにも見える笑顔。
この方は、こんなお顔で笑うのね。
王国の叡智。
王国最強の宮廷魔術師。
氷の美丈夫。
いつもそんな仰々しい呼び名ばかり耳にしていたせいだろうか。
目の前にいるのが、自分よりたった一つ年下の青年なのだということを、私は今さら思い出した。
「はい!」
嬉しくなって、大きく頷く。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。レオニス様」
「…………」
すると、せっかく見せてくれた笑みが、なぜか一瞬で固まった。
また数秒こちらを見つめたあと、レオニス様はふいと窓の外へ顔を背けてしまう。
「……?」
どうしたのだろう。
よく見れば、灰がかった黒髪の隙間から覗く耳が、ほんのりと赤い。
馬車の中は暑くない。
むしろ北へ進むにつれ、吹き込む風は少しずつ涼しくなっている。
ということは――もしかして、照れていらっしゃる?
そう思うと、なんだか少し可笑しくなった。
言葉に迷ったり、困ったように笑ったり、照れて顔を背けたり。
これまで知っていた寡黙な宮廷魔術師とは、随分印象が違う。
こうして話してみなければ、きっと知らないままだった。
アルスヴィークへ着くまでに、もう少しだけ。
この新しい友人のことを知れたらいい。
そんなことを思いながら、私は窓の外を眺めるレオニス様の横顔を見つめた。




