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世界でいちばん美しい景色

 婚約を解消されたばかりだというのに、心は驚くほど凪いでいた。


 馬車が石畳を離れ、王都の喧騒を背にゆっくりと北へ向かっていく。


 磨き上げられた白い街路。

 色とりどりの花が咲く庭園。

 王城を囲む噴水は昼の陽光を受け、宝石のように煌めいていた。


 王都へ憧れる人は多い。


 白亜の街並みは、一生に一度は見ておきたい景色なのだと旅人たちは口を揃える。


 けれど、もし世界で一番美しい景色を挙げろと言われたなら、私は迷わず故郷――アルスヴィーク領を選ぶ。


 そして、好きな場所で一生を過ごしてよいと言われたなら。

 代々フォルティス家が治める、アルスヴィーク城で暮らしたい。

 そう思えるほど、私はあの土地が好きだった。


 魂に刻まれている、と言ってもいいかもしれない。


 窓の外へ流れていく王都を眺めていた私は、ふと向かいに座る青年へ視線を移した。


 レオニス様は、相変わらず静かだった。


 今日の出発にあたり、私はそれなりの荷物を用意した。

 王都で暮らしていたのだから当然だ。


 対してレオニス様が持ってきたのは、驚くほど小さな旅行鞄が一つだけ。


 あまりにも身軽なので、本当に辺境へ滞在するつもりなのかと心配になったほどだ。


「……そういえば、レオニス様」


「はい」


「お荷物、本当にそれだけなのですか?」


 足元に置かれた黒革の鞄を指差す。


「はい」


「しばらく滞在なさることになると思うのですが……」


「問題ありません」


「でも、お着替えなどは?」


「入っています」


「……あの中に?」


「はい」


 どう見ても、数日分の衣服を入れたらいっぱいになりそうな大きさだ。

 私がじっと鞄を見ていると、レオニス様が僅かに首を傾けた。


「内部の空間を拡張していますので」


「空間を?」


「外見と内部容量は一致していません」


「まあ!」


 思わず身を乗り出す。


「では、見た目よりずっとたくさん入るのですね?」


「ええ。部屋一つ分ほどは入るかと」


「……部屋一つ?」


「はい」


「この鞄に?」


「はい」


 思わず、もう一度鞄を見る。


「……便利ですわね……!」


 さすがは王国最強と謳われる魔術師だ。

 空間魔術という大層なものを、旅行鞄に惜しげもなく使っているらしい。


 王国最強とまで謳われる方の魔術は、こんな日常的な用途でも有用なのだとは思わなかった。


「私の荷物も入れていただけばよかったです」


 そうしたら荷物は別で馬車を用意する必要などないかもしれない。


「……先に仰っていただければ」


「あら。本当に入れてくださるのですか?」


「その程度であれば」


 私が軽口で口にした言葉さえも何でもないことのように答える。


 次からは本当にお願いしようかしら。

 そう心に決めてから、私は別の疑問を口にした。


「レオニス様は、アルスヴィーク領へ行かれたことはございますか?」


「……いえ」


 低く澄んだ声が返る。


「十五で宮廷へ上がって以来、殿下のお側を長く離れる機会はほとんどありませんでしたので」


「まあ!」


 それならばと手を叩く。


「では、私がご案内いたしますわ!」


「……え?」


 珍しく聞き返された。

 その反応がおかしくて、思わず笑ってしまう。


「温暖な王都に比べれば、雪ばかりの寒い土地だと思われがちですけれど、アルスヴィークはとても美しいところなんですよ」


 指を一本立てる。


「冬は確かに雪に覆われますが、春には丘一面に蒼鈴花≪ソウレイカ≫が咲きますの」


「蒼鈴花?」


「ええ。小さな青紫色の花です。アルスヴィークでは、雪解け草とも呼ばれていますわ」


 長い冬を越えたアルスヴィークでは、春は何より待ち遠しい季節だ。


 山々にまだ白い雪が残る頃、雪解け水の流れる丘には、小さな青紫色の花が一斉に顔を出す。


 一輪一輪は小さな花なのに、群れ咲けば丘の端まで青紫に染め上げる。


 白い雪山と、青い空。

 その間に広がる蒼鈴花の花畑は、私が幼い頃から大好きな景色だった。


「雪が解けるのと同時に芽を出すのです。だから、雪解け草」


「……なるほど」


「とても綺麗なんです。温暖な王都では見れませんので、春になったらぜひお見せしたいですわ」


「……はい。ぜひ」


 思いのほか素直な返事が返ってきて、嬉しくなる。


 まだアルスヴィークへ着いてすらいない――というより、まだ夏の終わりなのに、もう春の話をするなんて少し気が早いだろうか。


 そもそも、今回の帰郷が一時的なものになるのかさえ分からない。


 正式に婚約を解消するにしても、レオニス様との縁談を進めるにしても、一度は王都へ戻ることになるだろう。


 けれど、父の容体次第では、そんな悠長なことを言っていられなくなる可能性だってある。


 本当は、不安になる理由ならいくらでもあった。


 それでも、今から俯いていたところで何かが好転するわけではない。

 そんな私を見れば、きっと父も母も叱るだろう。


 父も母も、私にはべらぼうに甘い。

 けれど同時に、持つ者には、持つ者の責務があると幼い頃から教えられてきた。


 領民の暮らしを守り、領地を守り、いざという時には先頭に立つ。

 それが、フォルティス家に生まれた者の務めなのだと。


 ならば今は、まだ起きてもいないことに怯えるより、私にできることをすればいい。


 それに――せっかく来てくださるのなら。

 私の大好きな故郷を、レオニス様にも好きになっていただけたら嬉しいと思ってしまった。


「アルスヴィーク城に向かう途中に通るのですが、夏には湖面が宝石みたいな色に輝く湖もありますわ」


「宝石、ですか」


「ええ。学者様が何年も調べていらっしゃって、どうやら土地に宿る魔力が関係しているらしいのです。でも、なぜあんなふうに湖面が光を乱反射するのか、正確な理由はまだ分かっていないそうです」


「……興味深いですね」


 僅かに声の温度が変わった。

 魔術師は元々学者畑の方が多い。

 どうやら、こういった話はお好きらしい。


「でしょう?」


 嬉しくなって、さらに続ける。


「秋には葡萄酒祭りがありますし、冬には世界一おいしいシチューがあります!」


「……世界一」


「ええ!」


 ここだけは断言できる。


 干し肉だと侮ってはいけない。

 旨味の凝縮された熟成牛をじっくり煮込んだシチューを食べずに一生を終えるなんて、そんな悲しいことがあってなるものか。


「それに、朝日の中の雪原は本当に綺麗なんです」


 思い浮かべるだけで、頬が緩む。


「一面がきらきら光って。雪ではなく、宝石でも降ったのかと思うくらい」


 子どもの頃は、よく父と雪原を駆け回った。


 足を取られて何度転んでも、父に追いつきたくて夢中で走った。

 母はそんな私たちを、妹たちと一緒に笑って見ていた。

 けれど、アカデミーを卒業してからは、そのまま王太子妃教育に入ったから。


 まともに故郷へ帰るのは、アカデミーの長期休暇以来かもしれない。


「どこからご案内しようか、本当に迷ってしまいますわ。この季節なら、一面に青い花が咲く丘もありますし――」


 そこまで話して。


 ふと、口を閉じた。


「…………」


 向かいに座るレオニス様が、じっとこちらを見ていたからだ。


 普段はフードの下に隠れている、端整すぎるほど整った顔立ち。

 令嬢たちが陰ながら『氷の美丈夫』などと呼んでいるのも頷ける。


 ……そんな方に、これほど真っ直ぐ見つめられるとさすがに落ち着かない。


「……レオニス様?」


「はい」


「先ほどから、何を考えていらっしゃるのですか?」


 その名を呼ぶと、僅かに目を瞬かせたあと彼は視線を逸らした。

 どうやら、無意識だったらしい。


「何か気になることでも?」


「…………」


 また、沈黙。


 これまで抱いていた印象では、レオニス様はこんなふうに言葉を迷う方ではなかった。


 必要なことだけを簡潔に、淀みなく口にする。

 いつだって冷静で、何事にも動じない。


 ――そういう方だと思っていたのだけれど。


 思えば先日の婚約の話でも、随分と困ったお顔をなさっていた。


 もしかすると、私が知っていたのは宮廷魔術師としてのレオニス様だけだったのだろうか。


 歳は近いというのに、これまでまともに言葉を交わしたことさえほとんどない。

 こうして二人で話してみれば、案外、私の知らない一面がたくさんある方なのかもしれない。


 やがて。


「……一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」


「ええ、もちろん」


 ぽつりと呟かれた言葉に私は頷く。


「……我が妹を」


 膝の上に置かれた手が、僅かに握られる。


「憎いとは、お思いになりませんか」


 予想の斜め上の質問に、思わず目を丸くした。


「セレーネ様を?」


「無論、今回のことの発端は辺境伯閣下のことも理由の一つでしょう」


 レオニス様は静かに言葉を選ぶ。


「ですが、妹が殿下のお心を射止めなければ……今回のような話には、ならなかったかもしれません」


「…………」


「あなたには、怒る権利がある」


 苦しそうな声だった。


「殿下にも。妹にも」


 一度、灰色の瞳が伏せられる。


「そして――私にも」


「レオニス様に、ですか?」


「私は殿下のお側にいながら、二人のことを何も知りませんでした」


「ですが、ご存じなかったのでしょう?」


「……はい」


「でしたら、レオニス様にどうすることができたというのです?」


「それでも」


 珍しく、彼の言葉がそこで途切れた。


「妹はあなたの婚約者のお心を奪い、その結果として、今度は私があなたとの婚姻を命じられようとしている」


「…………」


「アルヴェルト家の人間が、二人揃ってあなたの人生を変えている」


 そこで初めて、その言葉の意味に気付いた。


 そうか、この方は。


 妹が私の婚約者の心を射止めたことも。

 その結果として、自分まで私との婚約を命じられかけていることも。

 まるで自分たち兄妹が、私から何かを奪っているように感じているのだ。


 冷静沈着なその表情のせいで思考が読みにくいけれど、恐らく私が思う何倍も真摯な方なのだろう。

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