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第2話 婚約破棄がもたらすもの

「――君との婚約を、解消してほしい」


 世界が、ほんの一瞬だけ止まった。


 誰も口を開かない。


 けれど、不思議なことに。

 私の心は、驚くほど静かだった。


 胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ気はする。


 十年以上、当たり前にそこにあった未来がなくなるのだから、それくらいは当然なのかもしれない。


 けれど、悲しいのかと問われれば――少し違った。


 私は、ゆっくりとカイル殿下の隣へ視線を移す。


 夜空のような濃紺の髪。

 星の光を閉じ込めたような金色の瞳。


 セレーネ様は何も言わず、静かにそこへ座っていた。


「……なるほど」


「エレノア?」


「いえ。なんとなく、分かったような気がいたしまして」


 カイル殿下が目を瞬く。


「セレーネ様、なのですね?」


 今度こそ、室内が完全に静まり返った。


 私の言葉にも、セレーネ様は相変わらず表情を変えない。

 けれど、隣に座るレオニス様がほんのわずかに眉を寄せた。


「……どうしてそう思う」


「だって、今日はセレーネ様もいらっしゃるでしょう?」


「それだけで?」


「それだけではありませんけれど」


 私は小さく笑った。


「殿下のお顔を見れば、なんとなくわかりますわ」


「…………」


「長いお付き合いですから」


 カイル殿下が参ったように息を吐いた。


 けれど。


「半分正解だ」


「半分?」


「ああ」


 殿下の表情が変わる。


 幼馴染ではない。

 この国を背負う、王太子の顔だった。


「エレノア。フォルティス辺境伯の体調が優れないそうだな」


 突然父の話が出てきて、私は僅かに姿勢を正した。


「……はい。母から知らせを受けています」


「どの程度だ」


「詳しくは。本人は『歳だ』と笑っているそうですが、以前より床に伏せることが増えたと」


「そうか」


 殿下の眉間に皺が寄る。


「こちらにも報告が上がっている」


 私は黙って続きを待った。


「君の父上は、今でこそ前線に立つ機会こそ減ったが、いずれ後世にも名を残すであろう猛将だ。フォルティス領に国境を接するヴァルディア帝国にとっては、今なお忌むべき『白狼』だ」


 その名を知らない者はいない。


 幾度となく国境を守り、敵軍を退けてきた名将。


 私にとっては少し無口で、不器用で、娘への誕生日の贈り物に何か月も悩む優しき父だけれど。


 他国から見れば、フォルティス辺境伯という存在そのものが一つの抑止力なのだ。


「その白狼が倒れたと知られれば、どうなると思う」


 答えは、聞かなくても分かった。


「……帝国が動く可能性がある、と?」


「ああ。すでに国境付近では不穏な動きが確認されている」


 室内の空気が重くなる。


「本来ならば、王都から兵を送りたい」


「ですが、大軍を国境へ動かせば――」


「帝国への牽制になると同時に、こちらが戦の準備を始めたとも取られる」


「……はい」


「こちらから開戦の口実を与えるわけにはいかない」


 なるほど。

 ようやく、今日ここへ呼ばれた理由が見えてきた。


 ――と思ったのだけれど。


「だから、レオニスを送る」


「…………はい?」


 思わず聞き返した。


 隣からも、微かな衣擦れの音がした。


 見ると、レオニス様まで殿下を凝視している。


 どうやら初耳なのは私だけではないらしい。


「殿下」


 低い声が響く。


「私は、そのような話を伺っておりません」


「今初めて言ったからな」


「…………」


 レオニス様の眉間に、うっすらと皺が刻まれた。


「レオニス一人なら、軍を動かすのとは意味が違う。それでも戦力としては申し分ない。俺の護衛を外して辺境へ送るとなれば、こちらがフォルティス領を軽視していないという意思表示にもなる」


 そこまでは分かる。


 けれど。


「でしたら、先ほどの婚約解消と何の関係が?」


「ある」


 即答だった。


 そして殿下は、私ではなくレオニスを見る。


「レオニス」


「はい」


「エレノアと婚約してくれ」


「…………」


「…………」


 今度こそ。


 誰も、何も言わなかった。


 あまりの静寂に、窓の外で鳥が鳴く声まで聞こえてくる。


「……殿下」


 ようやく聞こえたレオニス様の声は、普段よりわずかに低かった。


「今、なんと」


「聞こえただろう」


「確認しております」


「エレノアと婚約してほしいと言った」


 私は瞬きを繰り返した。


「……私と?」


「ああ」


「レオニス様が?」


「ああ」


「婚約?」


「そうだ」


「まあ」


 あまりに驚いて声をあげるけれど。


「『まあ』で済ませるな」


 なぜか叱られた。


「ですが、どうして婚約まで?」


「ただ派遣するだけでは、一時的な増援にしか見えないからだ」


 殿下は静かに続ける。


「フォルティス家の後継となる君と、王太子直属の宮廷魔術師であるレオニスが婚約する。それなら意味が変わる」


 王家が一時的に兵を貸すのではない。


 王国最強と謳われる魔術師が、フォルティス家の一員となる。


「帝国に示せる。白狼が前線を退こうとも、辺境の守りは揺らいでいないと」


 ようやく、すべてが繋がった。


 父の体調。


 国境の情勢。


 私の婚約解消。


 レオニス様の派遣。


 そして――新しい婚約。


「本来なら、君の妹のどちらかとの縁談でも構わなかった」


 けれど、と殿下は続ける。


「二人ともまだ幼い。今すぐ婚姻を見据えた縁を結ばせるには早すぎる」


「それは……そうですわね」


 双子の妹たちは、まだ六つだ。


 五歳で婚約した私が言うのもおかしな話だけれど、私は歳の釣り合う相手だった。


 さすがに、六歳の妹と十八歳のレオニス様を婚約させるとなれば――姉としては、少々思うところがある。


「婚約を取り消せば、フォルティス家を継ぐのは君だ」


 殿下のエメラルドの瞳が、真っ直ぐ私を見据える。


「だから、俺との婚約を解消する」


 ようやく。

 最初の言葉へ戻ってきた。


「そして、レオニスと婚約してほしい」


 私は何も言えなかった。


 そんな私を見つめていた殿下が、一度だけ目を伏せる。


「もちろん」


 少しだけ、その声が変わった。


「それだけが理由だと言うつもりはない」


 殿下の視線が、隣へ向く。


 セレーネ様へ。


「俺には、想う人がいる」


 静かな声だった。


「セレーネだ」


 金色の瞳が、僅かに見開かれた。


 ほんの一瞬。

 いつも感情を表に出さないセレーネ様の顔に、明らかな動揺が浮かぶ。

 けれど、それも瞬きの間だけだった。


 すぐにいつもの澄ました表情へ戻ると、誤魔化すように金色の瞳を伏せる。

 その様子を見れば、殿下のお気持ちそのものを初めて知ったわけではないらしい。


 それでも、こうしてはっきりと言葉にされることまでは予想していなかったのだろう。


 カイル殿下は、そんな彼女に微笑んでから、再び私へ向き直った。


「自分が恋い慕う相手と、生涯を共にしたい」


 その言葉に、胸の奥が微かに揺れた。


「その気持ちに、もう嘘をつきたくないんだ」


 父と母の姿が、ふと頭を過ぎる。

 恋をして、想いを育んで、その人と生きていく。

 私には縁がないと思っていたものを、カイル殿下は見つけたのだ。


「……勝手だと思うか?」


 私は首を横に振ろうとしたけれど、その前に殿下が続けた。


「今回のことを、俺がセレーネと結ばれるために辺境の情勢を利用しただけだと思うなら、それでも構わない」


「殿下」


「だが、王太子として言っていることに嘘はない」


 その瞳は、もう揺れていなかった。


「フォルティスは、この国の盾だ」


 低く、はっきりと言い切る。


「君の父上が築き、守ってきたものを失わせるつもりはない。俺の婚約者でなくなったからといって、君とフォルティスを切り捨てるつもりもない」


 ああ、やっぱり、この人は。

 私が幼い頃から知っている、カイル殿下なのだ。


「だからエレノア」


 殿下は真っ直ぐに私を見る。


「君との婚約を解消したい」


 一度、言葉を切って。


「――レオニスと婚約して、共に辺境を守ってほしい」


 私はすぐには答えなかった。


 カイル殿下の言葉を、一つずつ頭の中で整理する。


 父の体調。

 国境付近で見られる帝国の不穏な動き。

 下手に軍を動かせば、かえって相手を刺激しかねないこと。


 そして、王国最強と謳われるレオニス様がフォルティス家と縁を結ぶことで得られる抑止力。


「……なるほど」


 確かに、理にかなっている。


「正直に申し上げます」


 私は姿勢を正した。


「フォルティス家の人間としては、願ってもないお話ですわ」


 カイル殿下が僅かに目を見開く。


「父の体調については、私も気掛かりでした。まして帝国に動きがあるのなら、なおさらです」


 これまで国境を守ってきたのは父だ。


 けれど、その父が病に伏した今、いつまでも父一人に頼るわけにはいかない。


 私が王太子妃となる以上、いずれフォルティス家を継ぐのは双子の妹のどちらかになるはずだった。


 けれど、二人はまだ六歳。

 父の体調を考えれば、妹たちが領地を任せられる年齢になるまで、これまで通りでいられる保証はない。

 その間は信頼のおける家宰に領地を任せるほかないのだろうと、ひそかに案じていた。


 けれど――私が王太子妃にならないのであれば、話は変わる。


 私が、フォルティスを継げる。

 そう思った瞬間、婚約を失ったことへの寂しさよりも、胸の奥に灯った安堵の方がずっと大きいことに気付いた。


 生まれ育った故郷の行く末を、遠い王都から案じることしかできない。

 そのことを、ずっと歯痒く思っていたのだから。


 だから、私の心はもう決まっていた。


「レオニス様ほどの方に力を貸していただけるのであれば、領地の守りについて抱えていた不安は大きく減ります」


「レオニス様との婚約について、私は前向きにお受けしたいと思います」


「……エレノア」


「ですが」


 言葉を重ねると、殿下が開きかけた口を閉じた。


「それは、あくまで私の都合です」


 私は隣へ顔を向ける。

 灰水晶の瞳と、真正面から視線が重なった。


「レオニス様のお気持ちは?」


「…………」


 なぜか、目の前のレオニス様はピクリとも動かない。


「あの……レオニス様?」


「…………」


 返事はなかった。

 ただ、呆然と私を見つめている。


 いつもなら何があっても揺らがない灰水晶の瞳が、今ばかりは明らかに困惑していた。


 見惚れるほど整ったその顔も、僅かに歪んでいる。


 誰も、何も言わない。

 窓の外からは、先ほどまで聞こえていた小鳥のさえずりさえ聞こえなくなっていた。


 まるで世界まで、彼の返事を待っているかのようだった。


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