第1話 晴天に婚約破棄
空は、どこまでも晴れ渡っていた。
雲ひとつない青空。
王宮の高い窓から差し込む陽光が、白亜の回廊を眩しいほどに照らしていた。
磨き上げられた大理石の床。
天井から連なる魔石のシャンデリア。
金細工の柱には、アステリア王家を象徴する紋章が刻まれている。
五歳の頃から何度も訪れてきた場所だ。
それでも、この王宮を歩くたびに思う。
ここは、我が故郷とはまるで違う。
エレノア・フォルティス。
私は北の国境を守るフォルティス辺境伯家の長女であり、五歳の頃からこの国の第一王子、カイル殿下の婚約者でもある。
だから王宮へ来ること自体は珍しくない。
王太子妃教育、茶会、夜会、式典。
これまで何度となく、この廊下を歩いてきた。
けれど、この日の呼び出しだけは少し違っていた。
『話したいことがある。時間をもらえないだろうか』
届いた書状には、それしか書かれていなかった。
茶会でもなく、公務でもない。
当然ながら、王太子妃教育の予定でもない。
何の用件とも告げられず、カイル殿下から直接呼び出されるのは初めてだった。
「でも、今日はこのドレスで正解だったわ」
歩きながら、少しだけ裾を持ち上げる。
白銀の生地が、窓から差し込む光を柔らかく弾いた。
父から十六歳の誕生日に贈られた、大切な一着。
辺境伯フォルティス家を象徴する意匠が随所に施され、雪原を思わせる白銀の生地には、青にひとしずく紅を溶かしたような宝石が散りばめられている。
フォルティス家の象徴である白銀の狼も、よく見なければ分からないほど繊細な銀糸で刺繍されていた。
愛を囁くより剣を振るう方が似合う父が、職人と何度も話し合って作らせたのだと母から聞いた時は、本当に驚いた。
王家を象徴する黄金も美しいけれど、私はこの色の方が好き。
雪の色。故郷の色。
そして――私の肌や髪によく似合う色。
雪明かりのような白銀は、母から受け継いだプラチナブロンドによく馴染む。
胸元に散らされた青い宝石も、勿忘草色の瞳をいつもより鮮やかに見せてくれていた。
社交界ではありがたいことに、母譲りの美貌だと褒めていただくことが多い。
若かりし頃の母は、この世のものとは思えないほど美しかったのだと、社交の場でお会いする貴婦人方から幾度となく聞かされた。
もっとも、それは昔話ではない。
三人の子を産んだ今なお、その美しさは少しも色褪せることなく、父が一目で恋に落ちたという話にも、誰も疑問を抱かないほどだ。
そんな母を射止めた父はといえば、寡黙で武骨な辺境伯。
私は、そんな「世界一の美女」と「鬼神」とまで謳われた辺境伯との間に生まれた長女だった。
「旦那様は、お嬢様にお似合いになるものだけは昔からよくご存じですから」
「さすがはお父様ね」
「はい」
「お母様を射止めただけのことはあるわ」
ミアが堪えきれないように笑った。
今でも二人が並ぶ姿を見るたびに、男女の縁とは本当に不思議なものだと思う。
父と母のように恋をして、想いを育み、やがて夫婦になる――。
そんな物語に憧れたことがないと言えば、嘘になる。
けれど、私にとってカイル殿下は、未来の夫である前に家族のような人だった。
殿下のことは大切だ。
きっと、これからもずっと大切なのだと思う。
ただ、それが父と母の間にあるものと同じなのかと問われれば、少し違う気がしていた。
今さら恋に憧れたところで、どうにもならない。
それを不幸だと思ったこともない。
だから、それでいい。
ずっと、そう思っていた。
「――エレノア様」
ミアの声で足を止める。
いつの間にか、目的の部屋の前まで来ていた。
王族がごく親しい者を招く時に使う、小さな私室。
いつもの応接間とは違うことに、わずかな違和感を覚える。
「珍しいわね」
やはり、何か込み入った話なのだろうか。
「……何のお話かしら」
そう呟いた、その時だった。
廊下の向こうから、黒い人影が近付いてくる。
宮廷魔術師だけに許された漆黒のローブ。
裾には紫銀の刺繍が走り、胸元には王家直属を示す徽章。
歩く音すらほとんど立てず、その人は私の前で足を止めた。
「レオニス様」
「フォルティス嬢」
レオニス・アルヴェルト。
十五歳にして王国史上最年少の宮廷魔術師となり、同時にカイル殿下直属の護衛に抜擢された青年。
それから三年経った今も、殿下の傍らに仕え続けている。
夜の色をわずかに溶かしたような、黒に近い灰色の髪。
磨き抜かれた灰水晶を思わせる瞳。
色白の肌に整った目鼻立ちは、華やかというより、どこか静謐な美しさを感じさせる。
主君たるカイル殿下が太陽ならば、レオニス様は月。
そんな例えがよく耳に入った。
もっとも、ご本人はそんな評判にはまるで興味がないようだけれど。
口数が少なく、いつも冷静。
必要以上のことは話さず、表情が大きく動くところもほとんど見たことがない。
それでも、幻想的というか、どこかミステリアスというか。
カイル殿下とはまるで性質の違う華が、この方にはあった。
何度も顔を合わせてはいるけれど、二人きりで言葉を交わす機会となれば、正直数えるほどしかない。
「レオニス様も、殿下に呼ばれていたのですね」
「はい」
「どのようなご用件か、伺っております?」
「いえ、私は何も」
「あら。では、二人とも何も知らずに呼ばれたのですね」
「そのようです」
そこで会話が途切れた。
彼が余計な言葉を紡がないのはいつものことなので、特に気にはならない。
けれど、不意に。
「……そのような色のドレスは、珍しいですね」
思いがけず隣から声がして、私はレオニス様を振り返った。
「やはりそう思われますか?」
王太子の婚約者として人前へ出る時には、王家の色を取り入れた衣装を纏うことが多い。
こうした白銀や青を基調としたドレス姿を見せる機会は、確かに少なかった。
「父から誕生日に贈られたものなんです」
裾へ目を落とし、思わず笑みが零れる。
「あの無骨な父が選んだとは思えないくらい素敵で、とても気に入っているんです」
白狼と恐れられる父を知っている人なら、この可憐なドレスとの取り合わせには少しくらい笑ってしまうだろう。
けれど、レオニス様は笑わなかった。
灰色の瞳が、静かに私を見る。
「……よくお似合いです」
「え?」
思いがけない言葉に、一瞬だけ目を見開く。
けれど彼の表情は、いつもと何一つ変わらない。
「ありがとうございます」
きっと、社交辞令なのだろう。
それでもレオニス様からそんな言葉を聞くのは珍しくて、少しだけ嬉しくなった。
私が笑うと、彼は小さく頷き、すぐに視線を正面へ戻した。
その時、扉の前に控えていた侍従がこちらへ頭を下げた。
「エレノア・フォルティス様、レオニス・アルヴェルト様がお見えです」
扉が開いた。
「失礼いたします」
レオニス様と並んで部屋へ入る。
そこで私は、少しだけ目を見開いた。
カイル殿下は、すでにソファへ腰を下ろしていた。
そして、その隣には。
「……セレーネ様」
セレーネ・アルヴェルト様。
アルヴェルト公爵家の次期当主であり、私の後ろにいるレオニス様の妹だ。
兄よりもわずかに青みの強い、夜空を思わせる濃紺の髪が、腰まで真っ直ぐに流れている。
長い睫毛に縁取られた瞳は、星の光を閉じ込めたような金色。
兄に負けず劣らず整った顔立ちをしているけれど、およそ愛想というものがない。
そのせいか、静かな美貌にはどこか人ならざるものめいた神秘的な雰囲気さえあった。
あまり親しく話したことはないけれど、目が合えばきちんと会釈をしてくださるようで、今日も私が軽く頭を下げると、セレーネ様も静かに会釈を返す。
その隣に座るカイル殿下へ目を移して、妙に納得してしまった。
陽光を集めたような黄金の髪を持つカイル殿下と。
夜空のような濃紺の髪に、星のような金の瞳を持つセレーネ様。
華やかな太陽と、静かな夜。
対照的なのに、不思議なくらい絵になる。
「エレノア」
私に気付いたカイル殿下が立ち上がる。
黄金より少し淡い蜂蜜色の髪が、窓から差し込む光を受けて煌めいた。
鮮やかなエメラルドの瞳。
笑えば太陽のようだと、誰もが口を揃える人。
けれど今日のその笑顔には、いつもにはない硬さがあった。
「お待たせして申し訳ありません、殿下」
「いや。俺が急に呼んだんだ」
そう答えてから、殿下は私の隣にいる人物へ目を向けた。
「レオニスも来たか」
「お呼びでしたので」
「ああ。とりあえず二人とも座ってくれ」
私はセレーネ様の向かいへ腰を下ろす。
けれど、レオニス様は当然のようにカイル殿下の斜め後ろへ回った。
いつもの護衛の位置だ。
それを見た殿下が、呆れたように眉を上げる。
「レオニス。空いているのはお前の席だよ。座ってくれないか」
「……私は殿下の護衛です」
「知ってる」
即答だった。
「私のことは、どうかお気になさらず」
「今日はそうもいかないんだ」
殿下が空いた椅子を指差す。
「レオニス、座れ」
「……殿下」
「今日は公務の話じゃない。それに、お前もまったく無関係じゃないだろ」
「セレーネの兄なんだから」
「…………」
殿下の言葉を受けて、レオニス様の視線が妹へ向く。
けれど、視線の先のセレーネ様は何も言わなかった。
「だから今日は護衛としてじゃなく、俺の友人としてここに座ってくれ」
一瞬だけ、レオニス様の目が細められた。
友人。
カイル殿下らしい言葉だと思う。
身分や立場を忘れる方ではない。
けれど、それだけで人との間に線を引くこともしない。
王太子の護衛として仕えるレオニス様を、必要な時には一人の友人として扱う。
こういうところが、この人の少しずるいところなのだ。
一拍置いて、レオニス様が小さく息を吐いた。
「……承知しました」
案の定、折れた。
「相変わらず堅いな」
「殿下が軽すぎるのです」
「お前たちしかいないんだから、今日くらい許してほしいものだ」
「……はあ」
渋々といった様子でレオニス様が席へ回り込み、残された一脚――私の隣の椅子へ腰を下ろす。
思わず、口元が緩んだ。
どうやら二人は、人前で見るよりずっと気安い関係らしい。
これで。
カイル殿下。
セレーネ様。
レオニス様。
そして私。
四人が一つのテーブルを囲んだ。
けれど、誰も口を開かない。
沈黙が落ちる。
「…………」
なんだろう。
ものすごく空気が重い。
セレーネ様は、口元にごく薄い微笑を浮かべている。
レオニス様は普段通りの無表情。
おふたりが口を開かないのはおそらくいつも通りだ。
だからこそ、カイル殿下がおかしいことがよく分かる。
いつもなら迷うことなく言葉を選ぶ人が、何度も指を組み直している。
私を見る。
セレーネ様を見る。
また私を見る。
とうとう私は首を傾げた。
「殿下」
「なんだ」
「何か、申し上げにくいことがおありなのでは?」
「……なぜそう思う?」
「お忙しい御身がわざわざこのような場を設けて、そのうえで言い淀んでいらっしゃるのですもの。よほどのことでしょう?」
隣で、セレーネ様がわずかに俯いた。
薄い肩がほんの少し揺れる。
「……ああ」
「でも、私たちの間に隠し事は不要ですわ。そうでしょう?」
見つめた先で、カイル殿下が悲しそうに眉を寄せる。
「エレノア」
「はい」
「俺は、君にとってなんだ?」
「幼い頃からの友人ですし、女姉妹しかいない私にとっては、兄のような存在でもあります」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、何より――婚約者ですわ」
「……ああ。そうだな」
殿下が大きく息を吐いた。
ふと視線を感じて隣を見やると、レオニス様と目が合う。
灰水晶の瞳が、こちらを見ていた。
ほんの一瞬だけ、その瞳が揺らいだように見えた。
「……?」
けれど私が首を傾げるより早く、彼は静かに視線を逸らした。
やっぱり、不思議な方だ。
そう思っている間に、カイル殿下が姿勢を正した。
一瞬にして空気が変わる。
私の幼馴染ではなく。
アステリア王国第一王子としての顔。
エメラルドの瞳が、真っ直ぐ私を見た。
「エレノア」
「はい」
一度、殿下は静かに息を吸った。
「――君との婚約を、解消してほしい」
世界が、ほんの一瞬だけ止まったように錯覚する。
――この時の私は、まだ知らなかった。
まさしく青天の霹靂のように告げられたその言葉が。
決められた道から外れることなどないと思っていた私の未来を、あっさりと変えてしまうことを。




