第15話 我が家の温もり
「あれが、アルスヴィーク城です」
私が生まれ育った場所。
華やかな王宮とはまるで違う。
灰色の石で築かれた城には余計な装飾などほとんどなく、分厚い外壁には狭間が並び、いくつもの塔が城下と峡道を睨むように聳えている。
城というより、大きな砦。
実際、その役目で建てられたものなのだから、当然なのだけれど。
「……堅牢ですね」
「でしょう?」
「城壁を突破されても、ここでもう一度止められる」
「はい。父は、城下を失った時点で負けたようなものだと言いますけれど」
「それでも、その先へは通さない」
「ええ」
幸い、これまで城壁を破られ、城下まで敵兵の侵入を許したことはない。
けれど、どれほど堅牢な城壁にも絶対はない。
万が一そこを破られた時には、住民を避難させ、兵を城へ退かせて籠城する。
アルスヴィーク城は、その最後の砦として造られていた。
白銀の狼が刻まれた門が、重い音を立てて開いていく。
馬車はその下をくぐり、城壁に囲まれた広い中庭へ入った。
正面には、城館へ続く大扉。
左右には兵舎や厩舎へ続く石造りの建物が並び、鎧を身につけた兵士や使用人たちが行き交っている。
外壁の内側へ入っても、やはり華やかさとは程遠い。
ここもまた、城というより砦の一部と呼ぶ方が似合う場所だった。
けれど。
「……!」
正面玄関の前に、見慣れた赤い髪を見つけた。
やがて馬車が止まる。
扉が開くのを待つことすらできなくて、私はほとんど飛び出すように外へ降りた。
「ただいま戻りました!」
「エレノア!」
聞き慣れた声。
けれど、父のものではない。
「お母様!」
思わず駆け寄る。
燃えるような赤い髪が、柔らかな波を描いて背へ流れている。
雪のように白い肌に、鮮やかな瞳。
若い頃には、その美貌から『アステリアの紅玉』と謳われた人。
ロザリア・フォルティス。
私の母だ。
「お帰りなさい、エレノア」
「ただいま戻りました!」
差し出された腕へ飛び込めば、ふわりと懐かしい香りに包まれた。
「姉様!」
その横から、もう一つ小さな身体が飛び込んでくる。
「ルシア!」
「お帰りなさい、姉様!」
母と同じ赤い髪をふわふわと波打たせた少女が、嬉しそうに私の腰へ抱きついた。
ルシア・フォルティス。
六歳になったばかりの、私の妹だ。
以前より少し背が伸びた気がする。
母譲りの華やかな赤髪に、柔らかな顔立ち。
けれど、その表情はどこか私に似ているとよく言われる。
「会いたかったです!」
「私もよ。少し大きくなったのではなくて?」
「三センチも伸びました!」
「まあ! すごいわ!」
得意げに胸を張るルシアを見て、思わず頬が緩む。
愛すべき双子の妹たちは、私がなかなか領地へ戻れない間も、母と共に何度も王都まで会いに来てくれた。
だから、顔を見ること自体が久しぶりなわけではない。
それでも、こうして生まれ育った家で迎えてもらうのは、やはりどこか特別だった。
そのルシアの少し後ろに、もう一人。
「……お帰りなさい、姉様」
「リディア!」
リディア・フォルティス。
ルシアとは双子だけれど、同じ赤髪でも、こちらは癖のない真っ直ぐな髪。
顎の辺りで綺麗に切り揃えられたそれが、風にさらりと揺れた。
性格もルシアとは対照的で、少し離れた場所からこちらを見ている。
けれど。
「ただいま!」
両腕を広げると。
「…………」
一瞬だけ躊躇ってから、こちらへ歩いてくる。
そして、小さな身体がそっと抱きついた。
「ふふ」
「……何ですか」
「いいえ?」
「笑わないでください」
「だって、嬉しいのですもの」
そっと頭を撫でると、リディアはますます顔を伏せてしまった。
「せっかく帰ってきたのですから、姉様にもお顔を見せて?」
「……見せています」
「さっきから頭のてっぺんしか見えませんわ」
「…………」
「リディア?」
覗き込もうとすると、今度は私のお腹へ顔を押しつけるようにして隠されてしまった。
「まあ」
「……恥ずかしいです、姉様」
「どうして?」
「どうしてもです」
「ふふ。では、もう少しこのままでいましょうか」
「……はい」
小さな声で答えながら、腰へ回された腕が少しだけ強くなる。
相変わらずだ。
素直に飛び込んでくるルシアも、恥ずかしがってなかなか近付いてこないリディアも。
どちらも、私の可愛い妹だった。
「二人とも、元気そうで安心しました」
そう言って顔を上げ――。
「あ」
しまった!
すっかり忘れていた。
慌てて振り返ると、少し離れたところで、レオニス様が一人静かに立っていた。
けれど、気を悪くした様子はない。
むしろ、ほんの僅かに目元が和らいでいるように見えた。
「申し訳ありません、レオニス様!」
「いえ。お気になさらず」
「ですが、お客様を放ったまま……」
「久しぶりのご帰宅でしょう」
そう言われて、余計に申し訳なくなる。
母の視線が、私からレオニス様へ移った。
鮮やかな瞳が、ほんの少しだけ細められる。
「こちらが?」
「はい。宮廷魔術師のレオニス・アルヴェルト様です。しばらく我が家に滞在していただくことになりました」
レオニス様が一歩進み、母へ一礼する。
「ご紹介に預かりました。この度は突然の滞在をお許しいただき、ありがとうございます」
「エレノアの母、ロザリアです。遠いところをよくいらしてくださいました」
母はいつもの柔らかな笑みを浮かべる。
「話は伺っております。主人の容態も確認していただけるとのことですので。どうぞ、ご自分の家だと思ってお過ごしください」
「……ありがとうございます」
その横から、二対の瞳がじっとレオニス様を見上げている。
「…………」
「…………」
ルシアとリディアだ。
「二人とも。レオニス様にご挨拶は?」
母に促され、ルシアが慌ててスカートを摘まむ。
「ルシア・フォルティスです。よろしくお願いいたします!」
続いてリディアも、小さく頭を下げた。
「……リディア・フォルティスです」
「レオニス・アルヴェルトです。よろしくお願いします」
レオニス様が、二人にもきちんと頭を下げる。
すると、ルシアがぱっと顔を輝かせた。
「姉様!」
「なあに?」
「私、こんなに美しい男の方、初めてお会いしましたわ!」
「まあ」
思わず笑ってしまう。
「そうね。レオニス様はとてもお綺麗な方ですものね」
「はい!」
ルシアは大きく頷くと、またじっとレオニス様を見上げた。
「でも、そんなに穴が開くほど見つめてしまっては、レオニス様もお恥ずかしいわよ?」
「あっ」
慌てて視線を逸らす。
「申し訳ありません……」
「いえ」
レオニス様は困ったように、ほんの少しだけ目を伏せた。
どうやら本当に恥ずかしかったらしい。
その隣で。
「…………」
リディアは、先ほどから一言も発さない。
けれど、レオニス様から目を離していなかった。
「リディア?」
「……何でもありません」
「そう?」
「はい」
そう答えながら、なぜか私の袖を掴む。
そして、ほんの少しだけ私をレオニス様から遠ざけるように、自分の方へ引き寄せた。
「?」
どうしたのだろう。
久しぶりに会ったから、甘えたいのかもしれない。
そう思って頭を撫でると、リディアは満足したように私の隣へぴたりとくっついた。
「ふふ」
お母様の笑う声がする。
「……お母様?」
「いいえ。何でもないわ」
何がおかしいのだろう。
気にはなるけれど、客人を置き去りにして話し込むのでは先ほどの二の舞だ。
後で聞けばいいだろう。
「お母様。お父様は?」
そう尋ねると、母の表情がほんの僅かに変わった。
「お部屋にいらっしゃるわ」
「こちらにいらしていないということは……まだ、お加減が?」
「ええ。今日は少しお疲れのようだから、ベッドで待つように言ったの。あなたが帰ってくると聞いて、起きて迎えに出ると言って聞かなかったのだけれど」
「お父様ったら……」
「無理をして出てこられても、あなたが心配するだけでしょう? だから私が説き伏せたの」
「そう……ですか」
胸の奥に、小さな不安が落ちる。
手紙では聞いていた。
けれど、実際にこうしてお父様が出迎えにも来られないと知ると、思っていた以上に不安になる。
今回、こうして帰ることができたのは幸いだった。
「まず、お父様のお顔を見てまいります」
「そうしてあげて」
頷いてから、レオニス様を見る。
「申し訳ありません。お部屋へご案内する前に、父へ帰宅の挨拶をしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「でしたら、レオニス様もご一緒に。父もきっと、ご挨拶したいと思います」
「……よろしいのですか?」
「ええ」
母も静かに頷いた。
「主人も、あなたがいらっしゃることは聞いておりますから」
「では、ご挨拶だけでも」
レオニス様がそう答えてから、ふと私を見る。
「エレノア様」
「はい?」
「あまり心配なさらずに」
「……」
「まずは、ガイウス様のご様子を拝見してからです」
静かな声だった。
けれど、それだけで胸の奥に落ちた不安が、ほんの少しだけ軽くなった。
「……はい。お気遣いありがとうございます」
レオニス様が小さく頷く。
「参りましょう」
「ええ」
レオニス様が私の隣へ並び、皆で城館へ向かう。
大きな木の扉をくぐったところで。
「…………」
隣を歩いていたレオニス様が、僅かに目を瞬いた。
「どうかなさいました?」
「いえ。ただ……」
灰水晶の瞳が、ゆっくりと辺りを見回す。
「外から受けた印象とは、随分違うと思いまして」
「ああ」
それなら分かる。
外から見れば、アルスヴィーク城は紛れもなく要塞だ。
けれど、一歩城館へ入れば、石造りの回廊には厚い織物が掛けられ、窓辺には季節の草花が飾られている。
冷たい石床を覆う毛織りの敷物。
磨き込まれた木の家具。
壁を彩る、暖かな色合いの織物。
どれも、私には昔から見慣れたものばかりだ。
「母の趣味です」
「……なるほど」
「外がどれほど寒くても、帰ってきた者を迎える家は、暖かくなくてはならないでしょう、と」
「素敵な考えですね」
「ふふ。母らしいでしょう?」
前を歩いていた母が、聞こえていたのかいなかったのか、こちらを振り返って微笑んだ。
何代ものフォルティス家当主が守り続けてきた無骨な城を、今のような家にしたのは、間違いなく母だ。
懐かしい城の廊下。
柔らかな絨毯。
窓から差し込む、午後の陽射し。
幼い頃から何度歩いたか分からない父の部屋までの道を、今日は初めて、この人と歩いていく。
そのことが、なんだか少し不思議だった。




