第16話 北方に忍び寄る影
父の部屋の前まで来ると、私は一度足を止めた。
何度も出入りしたことのある部屋だ。
幼い頃には、仕事中の父に会いたくて、用もないのに訪ねたこともある。
王都へ出てからも、帰省すれば必ず顔を出していた。
それなのに今日は、扉一枚を隔てただけの距離が、妙に遠く感じられた。
「エレノア様」
隣から、静かな声がする。
顔を上げると、レオニス様がこちらを見ていた。
「……大丈夫です」
何も聞かれていないのに、そう答えてしまう。
レオニス様は何も言わなかった。
ただ、ほんの僅かに頷いてくれる。
私は小さく息を吸って、扉を叩いた。
「お父様。エレノアです」
「ああ。入れ」
返ってきた声に、胸が詰まる。
聞き慣れた、低くよく通る声だった。
「失礼いたします」
扉を開ける。
窓から差し込む午後の光の中。
父は、寝台の上で上半身を起こしていた。
「お父様……」
「エレノア」
ガイウス・フォルティス。
今年、四十七になる父は、本来ならば老いを語るような年齢ではない。
北方軍を率いる将として。
アルスヴィークを治める辺境伯として。
そして、一人の武人として。
今なお現役で剣を振るい、冬になれば自ら馬へ跨って国境を巡る人だ。
広い肩も、鍛え上げられた身体も変わらない。
三十代の頃よりは幾分細くなったと母は言うけれど、私から見れば、今でも十分すぎるほど大きな人だった。
けれど。
「…………」
思わず、足が止まる。
顔色が悪い。
元々日に焼けた肌から、どこか血の気が失われている。
頬も、最後に会った時より僅かに痩せたように見えた。
何より、この時間にこの人が寝台にいる光景そのものが、ひどく不自然だった。
「どうした」
「……いいえ」
父の眉が僅かに上がる。
「久しぶりに父親の顔を見て、忘れたか?」
「そんなわけありませんわ!」
「なら、そんなところに立っていないで来い」
「……はい!」
思わず笑ってしまった。
こうして床に伏していても、お父様はお父様だった。
それだけで、強張っていた胸の奥が少しだけほどけ、数歩の距離を一気に詰める。
「ただいま戻りました、お父様」
「ああ。お帰り、エレノア」
差し出された腕へ身体を寄せると、大きな腕が私の背へ回った。
懐かしい。
幼い頃から、何度こうして抱きしめてもらっただろう。
背を包む腕には、しっかりと力がある。
ぽん、と頭へ置かれた大きな手も、記憶の中の父と何も変わらない。
「元気だったか」
「はい」
「そうか」
乗せられた手のひらが頭を撫でる。
――いつものお父様だ。
そう思った。
けれど、抱きしめられた身体は、記憶の中よりほんの少しだけ細く感じた。
広い背も、私を包む腕の力も変わらない。
気のせいだと言われれば、そうなのかもしれない。
それでも、幼い頃から何度となく抱きついてきた身体だ。
私には、その僅かな違いが分かってしまった。
身体を離して、もう一度父の顔を見る。
「……なんだ」
「お顔を見ているだけです」
「見れば分かる」
「でしたら、見させてくださいませ」
「好きにしろ」
ぶっきらぼうに答える声には、いつもの力がある。
けれど、こうして近くで見れば、血の気を失った顔色も、僅かに痩せた頬も、やはり痛々しい。
名残惜しく思いながらも、私は寝台から少し離れた。
ふと、父の視線が私の後ろへ向く。
「それで」
つられるように振り返れば、レオニス様が静かにこちらを待っていた。
そうだった。
いつまでも再会に浸っているわけにもいかない。
「ご紹介いたします。宮廷魔術師のレオニス・アルヴェルト様です」
私が横へ退くと、レオニス様が父の前へ進み出た。
「初めてお目にかかります。レオニス・アルヴェルトと申します」
「ああ。話は聞いている」
レオニス様が一礼する。
「この度は、滞在をお許しいただきありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ。遠いところをよく来てくれた」
「いえ。私が望んで参りましたので」
父が僅かに眉を上げる。
「王国の盾たるアルスヴィークを預かる方の一大事です。当然のことかと」
「……そうか」
父はそれ以上何も言わず、改めてレオニス様を見る。
「ガイウス・フォルティス閣下に直接お目にかかれるとは、光栄です」
「……なんだ、急に」
「王立アカデミーでも、閣下が指揮された戦についての講義がありました。それに、軍記もいくつか拝読しています」
「…………」
父の眉間に、僅かに皺が寄った。
「まだあんなものを読ませているのか」
「お父様の功績ですもの。当然ではなくて?」
「生きている人間の本なんて、俺が死んでからにしてくれ」
「まあ。縁起でもないことを仰らないで」
「そういう意味じゃない」
父が面倒そうに息を吐く。
その様子に、レオニス様の口元もほんの少しだけ緩んだ。
けれど、父が僅かに身体を動かした、その時だった。
一瞬だけ、眉間に皺が寄る。
「……お父様」
「なんだ」
「いつからなのですか?」
父が僅かに眉を上げる。
「何がだ」
「誤魔化さないでくださいませ。お身体のことです」
「誤魔化してはいない」
「でしたら、教えてください」
寝台の傍らへ腰を下ろす。
「手紙では、ここしばらく体調が優れないとしか聞いておりません。お医者様はなんと?」
「今のところ、原因は分からんそうだ」
「分からない?」
「ああ。最初は感染症を疑った」
「感染症……」
「同じ頃、領内で似た症状を訴える者が何人か出た。発熱、吐き気、倦怠感。症状には多少ばらつきがあるがな」
思わず身を乗り出す。
「その方々は?」
「ほとんどが回復に向かっている」
少しだけ、胸を撫で下ろす。
「では、お父様も――」
「いや」
父は静かに首を振った。
「俺だけが、経過がよくない」
「…………」
あまりにも淡々と言うから。
余計に、胸の奥が冷たくなった。
「そんな……」
「大袈裟な顔をするな。まだ死なん」
「そういうことを仰らないでください!」
「分かった、分かった」
まったく分かっていない顔だ。
「お医者様は、他には何と?」
「病そのものは感染症に近いと言っている。ただ……妙な魔力の痕跡があるらしい」
「魔力の……」
そこで、王都を発つ前にレオニス様から聞いた話を思い出した。
一部、魔術的な影響を疑うべき症状がある――と。
「……レオニス様が仰っていたのは、このことだったのですね」
「ええ。私が受けた報告にも、そのように」
「ただし、それがガイウス様の症状を直接引き起こしているのかは分かっていません」
「ああ。医師も同じ見解だ」
レオニス様は慎重に言葉を選ぶ。
「何らかの魔術的作用によるものなのか。病によって身体の状態が変化した結果なのか。あるいは、その二つがまったく別のものなのか。現時点では断定できない、と」
「そう……なのですね」
「特にガイウス様は魔力を持たない。通常の魔導医学で用いる診断基準を、そのまま当てはめることが難しいのも事実です」
私と同じ。
お父様にも、生まれつき魔力がない。
それが今回に限っては、原因を探ることまで難しくしているらしい。
「だから、アルヴェルト卿が寄越されたというわけだ」
父が言う。
「……はい」
レオニス様が頷いた。
「まずは私自身で、ガイウス様の状態を確認させていただくつもりです」
「頼む」
「もちろんです」
そこで話が途切れる。
けれど。
「…………」
父は、何故かレオニス様を見ていた。
何かを考えるように。
「お父様?」
「……いや」
短く答えて、それでも口を開かない。
先ほどまでとは違う。
私の父ではなく、辺境伯として何かを量っているような目だった。
やがて父の視線が、一度だけ私へ向く。
それから、再びレオニス様へ戻った。
「アルヴェルト卿」
「はい」
「王都へは上げていない話がある」
レオニス様の表情が僅かに変わった。
「……私が伺ってもよろしいのでしょうか」
本来なら。おそらく、そうではないのだろう。
レオニス様は王子殿下の命を受けてここへ来ている。
どれほど信頼できる方でも、フォルティス家の人間ではない。
けれど父は、しばらくレオニス様を見つめたあと。
「ああ」
低く答えた。
「貴殿には話そう」
「…………」
「ただし、今から話すことは他言無用で頼む」
「承知しました」
迷いのない返事だった。
父が小さく頷く。
「少し前、領内の鉱山で新しい坑道を掘っていた」
「はい」
「その最奥で、妙なものを掘り当てた」
「妙なもの?」
「石造りの構造物だ」
レオニス様の眉が僅かに動く。
「坑道の中に、ですか?」
「ああ。ただし――」
父が目を細める。
「俺たちが知る石ではない」
「…………」
「淡い光を放っている」
今度こそ、レオニス様の表情が変わった。
「自発光する石材……?」
「ああ。火も灯りもない地下で、石そのものが青白く光っている。切り出した跡も、積み上げた継ぎ目も見当たらん。少なくとも、現在のアステリアで知られている建築技術ではない」
「……遺跡ですか」
「おそらくな」
「そんなものが……」
知らなかった。
王妃教育が本格的に始まってからの三年間、私はほとんど王都を離れられずにいた。
お父様やお母様とは、向こうが王都へ来るたびに会っていたし、手紙だって頻繁に交わしていた。
それでも、領地で起きていることをすべて聞いているわけではない。
「それで……?」
「最初は調査を入れた。鉱山を止める必要があるのか、そのまま採掘を続けられるのか判断する必要があったからな」
そこで。
嫌な予感がした。
「まさか……」
「ああ」
父の声が低くなる。
「体調を崩した者は、全員そこへ入っている」
「…………」
「お父様も?」
「ああ」
「そんな……」
背筋が冷える。
「では、やはりその遺跡が原因なのではありませんか?」
「可能性は高い。だが、分からん」
父は首を振った。
「中へ入った者全員が発症したわけではない。症状が出た者も、程度はまちまちだ」
「それでも……」
「今のところは、遺跡内部に未知の病原が残っていた可能性を最も警戒している」
レオニス様が静かに尋ねる。
「遺跡へ通じる坑道は封鎖した」
「鉱山そのものを?」
「問題の坑道と、その周辺区画だけだ。人の出入りも禁じている」
父が僅かに顔を顰める。
「感染力が強いものではないのかもしれん。発症しなかった者もいるし、今のところ遺跡へ入っていない者への広がりも確認されていない」
「……それでも封鎖を?」
「当然だ」
答えに迷いはなかった。
「今は広がっていなくとも、この先もそうだという保証はない」
「賢明だと思います」
「だから今は、臭いものに蓋をしているだけだ」
父が苦々しそうに吐き捨てる。
「王都へ遺跡の存在まで報告すれば、調査のために学者や魔術師を寄越すことになるだろう」
「……だから、伏せたのですか?」
「ああ。未知の感染症だとすれば、調査に入った者が発症し、それを王都まで持ち帰る可能性もある」
確かに。
原因すら分からない今、人を増やせば、それだけ危険に晒される者も増える。
「それに、本格的に調べるとなれば護衛も必要になる」
「ですが、今は……」
「兵をそちらへ割きたくない」
父の声が低くなる。
「本音を言えば、調べたい。あれが何なのか。病と関係があるのか。何故、俺だけが治らんのか」
「…………」
「だが、せめて国境が落ち着くまでは、封じておくつもりだった」
「国境……?」
父の表情が変わった。
北方を預かる将の顔になる。
「帝国側が、妙な動きをしている」
「……帝国が?」
レオニス様の目が細くなる。
「ああ。俺がこうなったことを、どこからか嗅ぎつけたらしい」
「情報が漏れていると?」
「その可能性はある」
室内の空気が、一瞬で冷えた。
ヴァルディア帝国とは、長らく国交がない。
父の容態を知る者も、屋敷内ですらごく限られている。
それでも向こうが知っているのなら――内通者の存在を疑わざるを得ない。
「ここ最近、国境付近で帝国兵による越境が確認されている」
「国境侵犯……」
「ああ。小規模だが何度か繰り返されている。偵察と考えるのが妥当だろう」
父の言葉を受けて、レオニス様の表情が僅かに険しくなる。
「私が聞いていたのは、侵犯があったらしいというところまででした。複数回となれば、偶然と言い張るには無理がありますね」
そこで、ようやく腑に落ちた。
父はこうして受け答えができるほどには意識もしっかりしている。
それなのに、王都にいた殿下が父の不調をご存じだったことを、少し不思議に思っていた。
けれど、帝国が父の不調を察知したように動き始めたのなら、話は別だ。
北方の守りに関わる異変として、父の容態も含めて王都へ報告が上がったのだろう。
「越境については、陛下から正式に抗議を入れていただいている。だが、向こうは『道を誤った』『国境線を誤認した』の一点張りだ」
偶然を装った越境。
抗議を受けても、引く気配はない。
戦を始めたいのなら、もっと露骨な手段はいくらでもある。
それをしないということは、まだ向こうもこちらの出方を見ているのだ。
――探られている。
父が本当に動けないのか。
父が動けなければ、アルスヴィークがどれほど鈍るのか。
背筋に、薄い寒気が走った。
「さらに昨日、国境から最も近い帝国側の都市に兵が集められているとの報告が入った」
「規模は?」
レオニス様の問いが速い。
「まだ正確には掴めていない。だが、平時の駐屯兵だけではない」
「……増援ですか」
「おそらくな」
空気が、ひりつくように張り詰めた。
父の病。その情報をどこからか掴んだ帝国。そして、国境の向こうで密かに集められる兵。
目には見えないところで、いくつもの思惑が絡み合い、すでに何かが動き始めている。
覚悟して帰ってきたつもりだった。
それでも胸の奥に広がる不安を押し込めるように、私は膝の上で、そっと拳を握りしめた。




