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第一事案:夜行性(前)

 山道に入ると、明らかに空気が変わった。署から車を走らせて、四十分ほどが経っていた。

 早速、の言葉どおり、俺の初仕事は速やかに、しかしぬるっと始まった。

 事務室で簡単に報告の内容については共有されたが、「なんかしょっちゅう刺さっている」だけでは何が起きているのかいまいちよくわからず、質問しようにも何を聞けばいいのかよくわからず、そもそも共有している龍狩さん自身もよくわかっていないようで、「大抵はとりあえず現場に行って通報者と話します」という行き当たりばったりとしかいいようのない言葉に従って俺の運転で署を出発し、現在は市の端っこに位置する山中で車を走らせている。

 正体不明の危険な存在と対峙することへの不安を差し引いても、何かふわふわしたものの上を歩かされているような、妙な心許なさがつき纏っていた。

 加えて、暑さが頭を鈍らせた。俺たちに割り当てられた公用車は旧式で、極限までオプションを削がれていた。冷房などほとんど飾りだ。全開で回してもさっぱり涼しくならない。空気が入れ替わるぶん、窓を開けたほうがまだましだった。ただでさえ白骨崎は交通量が多い。茹った頭で運転以外のことを考えるのは自殺行為でしかなかった。

 わけのわからなさと暑さからくる苛立ちに心の余裕を殺がれてさらに苛立つ、という悪循環のなか、四十分。やっと人間の適応できそうな気温になってきた。

 午後の光が高い木を透かして星のように瞬く。開け放った窓から飛び込んでくる風は冴えていた。息を吸う。馴染みのない香りだ。爽やかで、しかし湿っている。ひと息ごとに汗が冷えていった。

 解放感を押し留め、ぬめるステアリングを握り直す。他の車両は激減したとはいえ、山道には慣れていない。端の割れたアスファルトには、落ち葉が散らかっていた。

「現場が山際で、よかったですね」

 助手席の龍狩さんに、状態確認も兼ねて、話しかける。

「ほんとうに」

 応じる声は掠れていた。ガソリン車の低い唸りが覆いかぶさる。ちょっと涼しい風を浴びたくらいでは拭えそうにない疲労感に満ちていた。

「大丈夫ですか?」

 横目に確認すると、脱水に失敗したシャツのような有様だった。街なかではかろうじて縦にしていた身体を崩し、窓の方へしなだれている。顔には生気がなく、汗を吸った前髪が束になって、吹き込む風に遊ばれていた。

 予想以上の消耗具合に思わず苦笑してしまうが、笑いごとではない。

「だいじょうぶです……」

 返事は大丈夫に聞こえない。

「………」

 現場に着くまでに持ち直してくれるといいが。

 ぐったりした先輩を連れて、初仕事に向かうのは避けたい。正体不明のもの——推定「やばい巨大な宗教団体」とやり合うならなおさらだ。気が急くあまり飲み物を持ってこなかったことを後悔した。この先、調達できる場所などあるだろうか。森はどんどん深くなる。人家など、影もない。期待できそうになかった。

 話しかけて励ますべきか。少し前に自販機を見た気がするが、戻ろうか。と悩みはじめたころ。

 ふと、鈴を振るような音に気づいた。

「——」

 周囲を確認する。サイドミラー、バックミラー。不審物どころか、他の車両も見当たらない。

「………」

 そもそも、これは一点から響く音ではない。もっと立体的だ。囲まれているような、飲み込まれるような——

「蜩ですよ」

 肩が跳ねた。反射的に視線を左にやる。生乾きの龍狩さんが笑っていた。緊張が消し飛ぶ。

「これが? まだ、四時ですよ」

 身体を傾けて、窓越しに空を確認した。青い。夏の太陽は高度を保っている。龍狩さんがかすかな笑い声を漏らした。

「なんと、蜩は朝にも鳴きます」

「『日暮し』なのに?」

 意味がわからなかった。

 意味はわからないが、正体不明の鈴の音は呆気なく環境音と化して、耳から遠ざかっていく。入れ替わりに、じわじわと恥ずかしさが込み上げた。こんな日の高いうちから、何を怖がっているのか。そもそも、俺はおばけなんて信じていないのではなかったか。引いたはずの汗が戻ってくる。濡れたシャツが気持ち悪い。胸ポケットの霊感の素が湿りそうだ。

 ふと、龍狩さんが身じろぐ気配がした。崩れた姿勢を整えている。シートベルトの位置が気に入らないようだ。伸ばして、縮めて。

「逸軌さん、地元どこですか?」

「火々かほやですが……」

 県庁のある市の名を告げる。

「じゃあ、都会っ子ですね」

 思いがけず優しい声に、いたたまれなさが増した。視界の端で、痩せた手がシートベルトを放す。

「山って意外にいろんな音がするんですよ。静かだから、風とか野生動物の立てる音が、よく聞こえるんですよね。最初はびっくりしますけど、そのうち慣れます」

 励まされてしまった。謝るか、礼を言うか。迷っているうちに「だけど」と続いた。

「慣れないほうがいいですよ」

 龍狩さんの地元は、聞きそびれた。


 ◯


 車は小さな集落にある神社の前に停めた。苔むした階段の下、鳥居の横に、申し訳程度の駐車スペースがあった。龍狩さんが役所の人から聞いた話によると、神を祀る場所、というより、地域の集会所として使われているそうだ。役も、地元の人の持ち回りらしい。聞く限りでは「やばい巨大な宗教団体」の影は感じられない。

 通報者の住む集落は、隣市との境にある山の中腹に位置していた。山道沿いを人の数だけ切り広げて村にしたような印象だった。片道一車線の道路脇に家を並べたような形で、あまり奥行きがない。書割を連想する。家々が道の片側にしかないことも、舞台じみた印象を強くした。一方、道の反対側には田圃が広がっている。人家の様子だけ見れば物寂しく感じたかもしれないが、若い稲に満ちた田圃が縦横に何枚も連なっているお陰で、受ける印象はとても健やかだった。開けて、明るい。

「いいところですね」

 思わず声が弾んだ。日差しに眼を細める。涼しいとはいわない。風がなくなると、さすがに暑い。けれど、暴力的というわけではなかった。のどかな風景も相俟って、夏が嬉しかったころを思い出す。

「ほんとですねえ」

 腑抜けた声が応じた。ドアの鍵を確認する姿は萎れている。山道で僅かに取り戻した覇気は、直射日光に消し飛ばされたようだ。不意に、うつむけた頭をさらに下げた。倒れるのではないかと身構える。

「長いこと運転していただいて、ありがとうございました」

 お辞儀されたらしかった。

「いえ、新鮮で面白かったです」

「車線分かれてない道とか?」

「連続カーブとか」

「ははは」

 痩せた腕が庇を作った。細い影の下、車を挟んで、黒い眼がこちらを見る。自然と背筋が伸びる。龍狩さんはおざなりな笑みを見せた。

「それじゃあ早速、通報者のところに行きましょうか」

 通報者は集落に長く住んでいるという老人だった。女性の独り暮らし。神社から歩いて五分。たどり着いた住まいは平屋だ。低い屋根に黒い瓦が鈍く光っている。庭先に茂っている花木の赤紫がよく映えた。毒々しいほどだった。

「夾竹桃です。食べると死にます」

「食べませんよ……大丈夫ですか?」

 龍狩さんのコメントには雑さが混じっていた。心配になってこっそり様子を窺う。

 開けた田圃道に山陰はまだ届かない。二人揃って汗だくだが、それにしても龍狩さんの消耗は激しい。息が荒く、湿った包帯を掻く指にも、力がなかった。

 病人に無理を強いているようでいたたまれない。

「少し休みますか? そのへんの日陰で……」

「ははは。じき、涼しくなりますから、大丈夫ですよ」

 ごめんくださーい。

 おとないが蝉しぐれに重なった。蜩とくまぜみが混じっている。慌てて意識を龍狩さんから玄関へと向けた。しかし、昭和硝子の向こうは沈黙している。耳を澄ませると、床を踏みしめる音が近づいてくるのがわかった。一歩一歩、確かめるようなリズムだ。年齢を重ねた人に特有の響き。

「はぁーい、はい」

 やがて引き戸が開き、小柄なお婆さんが顔を見せた。

「……どなた?」

 上背のある男が二人。老人は俺たちの影にすっぽりと収まってしまう。心細げに見上げてきた。

「お忙しい時間に失礼いたします。市役所環境保全課の、龍狩と申します」

 首から下げた名札を掲げる。

「県警の緋瓦です」

 倣って、手帳を見せる。

 「警察」の二文字に老人の顔がこわばった。失敗したな、と思った。龍狩さんは構わず、続ける。

「市役所に通報をいただいた件で参りました。それで、現場を見る前に少し、お話を聞かせていただけないかと思いまして。お時間いかがでしょうか」

「まー、暑いなか、ご苦労さまです。どうぞ、どうぞ」

 不思議なことに、通報者はすぐに警戒心を解いたようだった。眼は丸く、声は明るくなる。すんなりと敷居をまたがせてくれた。どんな魔法を使ったのだろう。龍狩さんを横目に見る。相変わらず、どこもかしこも尖った造形にへらへらした笑みを浮かべている。変わった様子はない。

 座敷に上がるよう勧められたが、断って式台に座らせてもらう。三和土から立ち上る土の香りが近づき、暑さは遠ざかった。

「ちょっと待ってねえ。今、お茶持ってきますから」

「いえいえ、お気遣いなく……」

 奥へ戻ろうとする通報者を、龍狩さんが呼び止めた。汗で眼鏡が下がる。恥ずかしそうに押し上げる。見下ろしてくる老人の笑顔は、優しい。

「あんた、そんな真っ赤な顔で、遠慮するもんじゃないよお」

 龍狩さんが、遠慮を重ねようとする気配がした。

「甘えましょう」

 遮った。意外そうにこちらを見る。

「このあと、現場を見にいくんでしょう。倒れられたら、自分が困ります」

 老人の眼が細くなる。しわの奥で、笑う。

「ほぉら、おまわりさんも、心配だって。ねえ」

「ええ」

 老人と視線を交わした。共犯者の顔になる。挟まれた龍狩さんは俺を見て、老人を見て、薄い肩をしんなりとさせた。そのまま小さく頭を下げる。照れたように笑った。

「……では、ありがたくいただきます。本当は喉がからからで」

 はいはい、待っててねえ。

 楽しそうな声が、遠ざかる。

 気だるい沈黙が降りた。

 玄関は開かれたままだ。傾きはじめた陽が差し込んでくる。暗い土間を四角く切り取る。白く光る。蝉の音はそこから響いてくるようだった。空間は繋がっているはずなのに、光のなかと影のなかとで世界が隔てられている。さっきまでいたざわめく夏が、どこか遠く感じられる。

 龍狩さんがぽつりと言った。

「……茶、次は用意してきますね」

 自分で。

 どこか、自らに言い聞かせるような響きだった。いつも茶を用意していた人間の気配が滲んでいる。俺を突き放しているようにも聞こえたが、気づかないふりをした。

「次からは自分が持ってきますよ」

 努めて気やすい調子で買って出ると、龍狩さんはふっと笑うような吐息を漏らした。いいのか悪いのか判断がつかず、視線だけで様子を窺う。眼鏡を通さない眼つきは、やはり鋭い。失敗したか、と不安になった、が。

「ありがとうございます」

 なるほど、と思った。どこもかしこも尖っているが、声だけは柔らかい。正体は不明だが敵ではない、と感じさせる。

「……事務所のお茶っ葉、使っていいですか」

 優しげな声に不安を拭われ、心置きなく持ち物リストに「茶」と書き込んだ。

「どうぞ、どうぞ」

 ひっそりとした会話に板の軋む音が混じる。家の奥から、ゆっくりとした足音が戻ってきた。乾いた素足が板を擦る音が、近づいてくる。


 ◯


 通報者の話はこうだった。

 先月、藪の中にある池に子どもが落ちて大騒ぎになり、柵を拵えた。有り合わせの材料で作った、簡素なものらしい。その柵の支柱に、しょっちゅう小動物が刺さっているのだという。ねずみ、りす、山鳩。

「こないだは、あらいぐまが刺さっててねえ」

「怖いですね」

「ねえ。あたし、朝、あの近くを散歩するんだけどねえ。道からも気づくくらいで、びっくりしちゃって」

「大きいですからねえ。こんなもんですか」

「そうそう」

「これ、刺さっていたら、びっくりしますね」

「でしょう」

 思ったよりも悍ましい話だった。閉口する俺をよそに、二人の交わす言葉はゆったりしている。まるで世間話だ。この温度感に馴染める自信はないので、黙って耳を傾けつつ、情報を整理する。

 ことの次第からぱっと思いつく原因——犯人は、変質者だ。特殊環境問題としてわざわざ出張ってくるべき事案とは思えなかった。

 龍狩さんは、何を「変だ」と思ったのだろうか。

 会話は続く。

「百舌ではなさそうですね」

「このへんには、おらんしね」

「池に何か、おばけが住んでるって話、ありませんでしたか?」

 唐突で直球すぎる問いにぎょっとした。通報者も首を傾げる。

「おばけ?」

「ほら、大人は話を大きくして脅かすでしょう。蝮が多い茂みを、化物が出るなんて言って」

「ああ」

 そういうのは、ないねえ。

「昔は夜、山犬が出たけど。もともと、日が落ちたら、あのへんに近寄るもんはおらんかったしね。魚も住んどらん池だから、釣りもできんし」

「普通の池で、普通の藪なんですね」

「そうそう」

 龍狩さんはあっさり引き下がった。本気でおばけの話が出てくるとは思っていなかったとでも言いたげな、執着のなさだ。勝手に身構えておいてなんだが、妙な肩透かし感がある。

 やはり、変質者ではなかろうか。

 そう思っているのは通報者も同じらしい。ふと顔を曇らせた。

「……近ごろは、街の人が走りに来るから。自転車とか、バイクとかね。だいたいみんな、感じのいい人たちだけどねえ」

 小さな体躯が、さらに萎む。

「ご安心ください。相手が人間なら、自分が捕まえますので」

 気づけば口を挟んでいた。勝手に喋ってまずかったかと思ったが、龍狩さんも明るく頷く。

「そうですそうです。なんたって、こちらは県警の方ですから。強いですよ」

 大雑把な太鼓判だ。それでも通報者のまとう緊張は緩んだ。龍狩さんが柔らかく言葉を重ねる。

「何が原因でも、頑張って調べますので」

 すぐ、いつものとおりになりますよ。


 ◯


 通報者の家を出ると、陽は更に傾いていた。山の稜線に掛かっている。遠くの木立に刻まれて、光が鋭さを増していた。眩しさに眼を細める。一方で、暑さは和らぎはじめていた。

「ありましたよね、有名な怖い話。ネットの」

 痩身が大きく伸びをする。かき、こき。小枝を踏むような音が鳴る。来たときよりも、幾分元気そうだった。歩き出す。

 俺は隣に並び、頭を下げた。

「あまり、そういうものに詳しくなくて、すみません」

 なにせ、本当に「おばけ」に対処することになるとは思っていなかった。準備してあるのは「どんなものとでもやり合ってやる」という気概だけだ。龍狩さんは虚をつかれたようにつり目を丸くした。

「あれ、すみません」

 そして簡潔に「有名な怖い話」を聞かせてくれた。

 ある保育園の柵には、虫やとかげが刺さっていることがある。小動物が犠牲になるに至って保育士たちは不安に思うが、子どもたちはそうでもなさそうだ。当然のこと、仕方のないこととして受け入れているように見える。それどころか、犯人を知っているようでさえあるが……

「という感じの話です」

「……似てますね」

 有名というからには、全国区の妖怪なのだろうか。「おばけ」の正体がなんにせよ、似たような内容の事例を知っておいて損はないだろう。ひょっとしたら「やばい巨大な宗教団体」が見立て犯罪を行っている可能性もある。表向き怪談話に対処している体をとっている理由のひとつかもしれない。とすると、龍狩さんはこの怪談を知っていたから、この通報を「変だ」と判断できたのだろう。

 正体ばかり気にして、建前について深く考えなかったのは反省点だ。再び頭を下げた。

「勉強しておきます」

「や、いいですよ」

 龍狩さんは慌てたふうに手を振った。煙を払う仕草だ。

「怪談話と似てる事案はちょいちょいありますけど、ただ似てるだけでなんの関係もないのがほとんどです」

 今回も関係ないでしょう。

 軽く笑い飛ばす声に、微かな違和感を覚えた。まるで冗談みたいな話ぶりだ。俺の反省は呆気なく掻き消えた。代わりに、通報者との会話を聞いていたときに漠然と覚えた違和感が戻ってくる。

「……今回は、なんの言い伝えも噂もないようでしたね」

 慎重に話を振ってみる。

「だいたい、どこもそんなもんです。本当にないのか、馴染みすぎていてわざわざ思い出さないのかの差はありますけど」

 どちらでもよさそうだった。その軽さに背中を押されるようにして、口を開く。

「龍狩さんは、本当におばけがやっていると思ってますか?」

 あえて、今回の件には限らない聞き方をした。相棒相手にぼろを誘うようなやり方をするのは、少し居心地が悪かった。俺の胸中をよそに、こちらを向いた鋭い眼には特段の緊張もない。ただ、ゆっくりと瞬く。先を促されたのだと判断した。

「怖い話も言い伝えも、話半分にしている感じがして。通報者への確認も、どちらかというと野生動物の仕業を疑っているように聞こえたので」

 こちらを観察する眼を、まっすぐに見つめ返す。

 龍狩さんは俺の眼差しを一度受け止め、それからゆるりと視線を巡らせた。

「じつのところ」

 空へ向いた。瞳に光が差し込む。

「わからないんです」

 またそれか。

 知らず強張っていた肩が、がっくりと落ちる。それなりの覚悟を持って踏み込んだつもりだっただけに、気落ちは大きかった。

 こちらの落胆をよそに、龍狩さんは淡々と続ける。

「変だと思って調べたら、別に変なことは何もなかった、ということは、よくあります」

「……自分はやはり、変質者だと思うのですが」

 開き直って正直な感想を述べた。

 生き物をおもちゃにする人間はいる。それを他人に見せて喜ぶ人間も、いる。舌の奥が苦くなった。

 わかりやすく現実的な答えを口にする一方で、心のどこかに否定して欲しい気持ちがあるのも自覚していた。

 真相が俺の推測どおりただの不審者のいたずらだとすると、今回は俺が求めている「おばけ」の事案ではないということになる。知りたいことはお預け、というわけだ。

 「変質者の仕業だ」と言われても、「それはちがう」と言われても、複雑な気分だった。

 対する龍狩さんはあっさりしたもので、簡単に頷いた。

「じつは、市役所の意見もそっち寄りだったんです。私も、そうだろうな、とは思います」

「では——」

 時間の無駄じゃないか。

 思わず身を乗り出しかけたが、「けど」と遮られる。

「警察に回る前に、横取りしました」

「……気になることが?」

「うーん」

 返事は曖昧な唸りだった。暗い眼が遠くを見る。道を挟んだ向こう、実りはじめた稲穂は山陰の中だ。

「柵ができてすぐ、というのが、なんとなく、変だなーと思いまして」

 誰も気づかなかっただけで、もともと何か居たんじゃないかな、って。

「どうです?」

 その「何か」が、龍狩さんのいうところの「おばけ」なのだろうか。

「………」

 俺が黙り込むと、龍狩さんは笑った。

「まあ、わかんないですけどね」

 何度も聞いた結論だ。これ以上尋ねても、何かすっきりする答えは返ってきそうにない。現地で調査する以外に道はなさそうだ。お互いそれきり黙って、足を進めた。


 ◯


 通報者に教わったとおり、来た道を山手に向かって更に進み、途中で集落の奥へ続く道へと入った。舗装はされているが、車はすれ違えないだろう。先へと視線を投げる。段になった畑と、ぽつりぽつり家が見える。書割の集落に奥行きが生まれた。人影はない。

 少し進んだあたりで、立ち止まる。左手の藪に人の通った跡があった。現場はこの奥だろう。藪の奥は既に暗い。通報者の話では、道から現場の様子が窺えるようだったが、今は何も見えない。影に沈んでいる。夜が駆け足に近づいてきていた。

 薮の前で龍狩さんはぐるりと周囲を見回した。気になることがあるのかと思えば、ポケットから煙草を出して、申し訳ないような、照れたような曖昧な笑みを見せた。

「吸ってもいいですか?」

 路上喫煙の目撃者を気にしていたらしい。悍ましい事件の現場を目前にして、どうにも緊張感が薄い。

「……どうぞ」

「ありがとうございます」

 言うなり、紫煙が細く立ち上った。長い影を背に、くっきりと線が引かれる。頭上でほつれたあたりへ、すぼめた口から煙が吐かれた。白線が乱れる。龍狩さんが片手に携帯灰皿を構えた。これから得体のしれないものを調べにいくというのに、両手を塞いで大丈夫なのだろうか。

「いきましょうか」

 こちらの心配をよそに、龍狩さんは藪のなかへと躊躇なく分け入っていく。濃く、草と土の香りが立つ。足音はじくじくと水気を孕んでいた。枯れ枝が地面から突き出している。龍狩さんは避けずに踏み折る。革靴に傷がつこうがお構いなしだ。

 煙を吐くついでのように語りだした。

「おばけって、結構縄張り意識が強いみたいなんです。なので、今回のがおばけなら、たぶん今夜も現場にいると思うんですよ」

「犯罪者も似たところ、ありますね」

「ははは。人もおばけもおんなじですね。ちなみに、私の縄張りは白骨崎市内です。ご承知おきください」

 おばけとしてですか、人としてですか、と聞きそうになったが、やめた。どちらでも、俺たちの仕事に変わりはない。縄張りの外だろうと、担当範囲で何かあれば出かけなければならない。見せられた地図の上では、「縄張り」などほんの一部だった。

「この辺ですかねえ」

「おそらくは。結構暗いな……」

 現場は木立を丸く切り開いたようになっていた。夏草が高く伸びている。昼間なら、それなりに日差しが入るのかもしれない。天を仰ぐ。周囲の木々は高い。梢に縁取られた空はまだ茜色だが、西日はここまで届かなかった。あたりは薄布を通したように見えづらい。そんな視界でも、池は目を凝らさずとも全容が確認できる、小さなものだった。

 全体の印象は、新興住宅の庭に似ていた。池も大人ならかろうじて飛び越せる程度の大きさだ。水面は空を映し、底が見えない。

「これが問題の柵、ですね」

 取り囲む柵は、畑を囲う用の網と軸を利用したものらしい。ここへ来るまでに、集落のあちこちで見た。人工的な緑の網に、草色の細い棒が絡めてある。

「ひとまずぐるっと見てみましょうか。変な罠とか仕掛けられてると危ないので、念のため触らないように気をつけてくださいね」

 龍狩さんは何が罠を仕掛けていることを想定しているのだろうか。

「……了解です」

 聞きたい衝動に駆られたが、ここで尋ねてもすっきりする答えはないだろう。振り切り、外周に沿って歩きはじめた。

 等間隔に並んだ支柱をいちいち確認する。数歩歩いては、立ち止まる。手は触れずに目視する。何かの儀式をしている気分になった。こっそりと池の中心を見る。波ひとつ立ってはいない。ただ赤黒く、静まっている。

 一周してみて、現場は一点だと結論づけた。死骸を片づけたときに雪いだのだろう、支柱はどれもきれいなものだ。しかし、問題の場所だけは網が変色していた。小動物の体液を吸ってどす黒い。「生贄」という言葉が頭に浮かぶ。不快感とともに、寒気がざらりと肌を撫でた。

「人にしろおばけにしろ、何かこだわりでもあるんでしょうか……刺す柱をここに決める、理由とか……」

「別に、他とちがった様子はないんですけどねえ」

 支柱の頭は、俺たちの胸の高さだ。どれも頂点は概ね同じ位置にある。根本に生えている草も特に変わりない。名前は知らない。笹の葉を細く長く引き伸ばしたような草だ。どこでも見かける。

 眺めていても埒が明かないな。

 意を決して歩み寄ろうとしたら、制された。龍狩さんは灰皿と煙草を右手に任せ、足許の夏草を無造作に折り取った。

 問題の支柱の上でひらひらと振る。

「………」

「………」

 何も起きない。

 草を放り捨てた。ネクタイをピンから抜いて、同じように振る。

「………」

「………」

 何も起きない。

 上を見て、下を見る。

「……儀式か何かですか?」

 尋ねる声は想定していたよりもひっそりとしてしまった。怯えているようで少し恥ずかしい。

「いや、何かいるなら、何か起きるかと思って。でも、何もいないのかな」

 ネクタイで支柱の頭を叩く。

 何も起きない。

 罠は発動せず、「おばけ」も当然ながら現れない。

「そもそも、さんざん地域の人が柵を弄っているわけですし」

「確かに。やっぱり、不審者だったのかな」

 神妙に頷く。ネクタイを放り出す。

 支柱の上に、骨ばった手を翳す。

 白い手が絡みついた。


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