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序(後)

「モノとかイキモノに何かあると、だいたい、市役所か警察に通報がありますよね」

 壊れてるとか、死んでるとか。

「ありますね」

 壊されたとか、殺されたとか。

 小さなソファベッドの端と端に座って、ぽつぽつと言葉を投げ合う。互いの間には、ぬるい空気が居座っていた。空調が低く唸る。

「逸軌さんは、捜査第一課にいらしたんでしたっけ」

「はい」

「大ごとに対処されてきたんですね」

 曖昧な印象だった。

「はあ……」

 俺も、曖昧に頷く。

 めまいはもう引いている。代わりに気忙しくなっていた。原因はわかっている。仕事の核心について——この部署が何と戦っているかについて、早く聞きたくてたまらないせいだ。

 俺は、前任者を殺したものが何だったのかを知りたくて、この部署に異動してきたのだから。

 この部署——特殊環境問題対策係は、常識的な対応では解決できない事件事故を解決するための部署だという。

 入庁時から耳にしたことはあったが、大きな組織ならばどこにでもあるような都市伝説の類だと思っていた。

 ある同期曰く「どこの都道府県でもひとつは設置しているらしい」だとか。

 ある先輩曰く「配属されたが最後、定年まで勤め上げられた者はいないらしい」だとか。

 聞こえる噂はどれも無闇にもっともらしかったり恐怖心を煽ったりするもので、どれひとつとっても冗談としか思えなかった。加えて、必ず絡めて語られる仕事内容というのが、嘘くささを加速させていた。

 「幽霊を祓う」「妖怪と戦う」「怪現象を鎮める」などなど。

 語り手によって言葉はちがっていたが、いずれにせよ胡散臭いことこの上なかった。

 俺の転属関係の書類に判をつく立場の人たちですら、「超常現象」と口にするとき気恥ずかしそうな半笑いを浮かべていた。まるで「本気で言っているわけではないんだけど」と言い訳するような、そんな顔を。

 いくら記憶を探ってみても、これまで会った人のなかに、真剣に語る人は存在しなかった。

 ただ一人、前任者を除いては。

 ——本当に、白い服を着てて髪の長い幽霊でさ。

 ——宇宙人かと思ったら、普通にただの妖怪で。

 ——いないものの影が差すって定番の怪現象が。

 彼だけは、飲んでいても素面でも、大真面目に「超常現象」の話を語って聞かせた。俺も、最初こそ茶化していたが、次第に話を合わせるようになった。

 「超常現象」を信じたわけではない。

 表立って口にできないものに対処しているのだと判断したからだ。

 こいつは優秀だから、いつか片をつけて本当のことを話してくれる日が来るだろう。

 ひょっとしたら俺の力が必要になって、打ち明けてくれることがあるかもしれない。

 気長に、そして同時に覚悟を決めて、怪談話の皮を被った「任務」にひとつひとつ耳を傾けていた。

 そして、前任者が俺に本当の話をする日は永遠に来なくなってしまった。

 俺が「待ち」の姿勢をとっていたばかりに。

「………」

 そうしてやっと、自分から動き出すことにした。

 待っていても、前任者を殺したものの正体は誰も教えてくれないのだと、気づいたから。

「市役所は、あれです」

 龍狩さんののんびりした声が、過去に飛ぼうとする思考を断ち切った。横を見れば、鋭い眼が見るともなしに机の上へと視線を投げている。緊張感の薄い横顔だった。

 個人的な気負いから俺が前のめりになる一方、現在確認できる、真相を知っているだろう唯一の人である龍狩さんは、どうも話を急ぐつもりがないらしい。「何から説明しようかなあ、一から説明させていただこうかな」と、核心には触れずに身近なところから話しはじめた。ゆったりとした語り口は、仕事の説明というよりもどこか世間話じみていた。

 痩せた手が汗をかいたコップを取り上げる。縁に歯が当たる音がした。

「鹿が死んでるとか、鳩が死んでるとか、そんな感じです」

 声がコップの中でくぐもった。そのまま茶を呷る。突き出た喉仏が上下する。一回、二回。深く息をついた。

「そういうのが全部、うちに共有されます」

 声音は幾分すっきりしていた。まとわりついていた暑さから、ようやく逃げ切れたようだ。コップをローテーブルに戻す。伝い落ちた水の輪にきちんと重なっている。茶は三分の一ほど減っていた。

 あくまでのんびりした調子に勝手に苛立ってしまうが、焦っても仕方がない。初日から喧嘩を売れるほど好戦的なたちでもない。逸る気持ちは一旦わきに置いて、相槌を打った。

「全部、ですか」

 とりあえず言われたことを繰り返してはみたが、規模感が全くわからない。何も理解していないのが丸わかりのぼんやりとした声が出た。

「……全部、というのはどのくらいのものなんでしょうか」

 腑抜けた相槌を誤魔化すように問いを重ねると、龍狩さんがこっくりと頷いた。

「正確に言うと、県をざっくり東西に割って、東半分が私どもの担当です」

 わたくしども。

 耳慣れない響きだ。龍狩さんは市役所の人間なんだな、と思った。俺や、前任者とはちがう分野の人間だ。話の進め方がちがうのも、当然のことかも知れなかった。

「市町村の垣根を超えて、あれが壊れた、これが死んでる、という話が集まってきます。具体的には——」

 言いながら、龍狩さんがチューブファイルとコップを脇に寄せる。無造作な手つきに背筋がひやりとした。危なっかしく机の隅へと追いやられるコップを眼で追ってしまう。

 龍狩さんは無事作った空白に、県の地図を広げた。破れを補修した跡がある。セロハンテープは乾いて切れていた。

「この線の、右っかわです」

 筋ばった人差し指が地図の上を滑る。真ん中よりやや右に赤く境界線が引かれていた。

「……広いですね」

 つい、呟く。細く、色褪せた赤ペンの線は几帳面だった。各自治体を分断しないよう、市町村の境目を丁寧になぞっている。合併の情報を書き込んだ筆跡は、何人かのものが混在していた。龍狩さんが小さく笑う。

「面積も市町村数も、県庁のある西側のほうが広くて多いです。楽させていただいてますよ」

「……それでも、広いでしょう」

「……まあ、広いですね。出張もたくさんありますし」

 この広範囲を、二人で賄え、と。反射的に頭の中で算数が始まった。各市町村の人口の合計、割る、担当者の数。曖昧だった規模感が現実味を帯びた。地図の上に視線を滑らせる。白骨崎市を起点に守備範囲を囲う。市境、県境、海岸線。眼が回る。

「………途方もない、ですね」

 思わず漏らすと、暗い瞳がひょいとこちらを向いた。言葉もなく、見つめ返す。視線は俺の心を探るように静止したあと、逸れていった。

「確かに、仰るとおりではあるんですけど、ちょっと、どうしようもない事情があって」

 言いながら宙を見つめる。

「二十年ちょっと前までは、県内の各自治体にうちみたいな部署が設置されていたらしいんですが、殉職者が多かったそうで。だから、市町村を跨いででも、ちゃんとした人材に任せよう、と、なったみたいで」

「そうしたら、ちゃんとした人材がいなかったと」

「そういうことです」

 すんなりと肯定が返ってきた。我が意を得たり、といった様子で頷いてすらいる。半分冗談のつもりだったのに。

 俺はどんな顔をしたのだろうか、龍狩さんは取りなすように笑ってみせた。

「ただ実際私たちの仕事になるのは、共有された通報のうち、一割以下——自然現象でも人間の仕業でもないな、という案件だけですよ」

 ようやく、本題に入った。喉が鳴りそうになるのを堪えて、頷く。

「……いわゆる、超常現象、ですね」

 俺の一番聞きたかった部分、特殊環境問題対策係の対処する事案についてだ。

 不意に求めていたものを差し出されて気が急いてしまう。

「——超常現象っていうのは、幽霊とか、怪奇現象……怪談話に出てくるようなものだと聞いているんですが」

 矢継ぎ早に飛び出しそうになる質問を懸命に飲み込んで、慎重に言葉を重ねた。まずは噂の真相を確認する形で話を進めることにする。

 前任者は警察内部の友人にすら本当のことを語らなかった。つまり、慎重さや口の固さを求められるはずだ。堪え性なく切り込んでいって人格面に不安を持たれるのは上手い手だとは思えなかった。

 この首の後ろがひりつくような感覚には覚えがあるな、と思ったら、手強い容疑者に尋問するときと同じものだった。

 尋問されている相手は大騒ぎの俺の胸中など知らぬ顔で、薄い唇の端を柔らかく上げた。

「そんな感じのものです」

 非常にあっさりと肯定してくれた。前振りだろう。視線で先を促す。龍狩さんが頷く。

「さっきお伝えしたとおり、そういうのに対応できる人材が県内にあんまりいないみたいで、県庁側と白骨崎の二箇所で回してる感じです」

 人材不足問題についての補足だった。超常現象に対する追加情報はない。さらに続きがあるのかと待ち構えてみるが、龍狩さんは「困ったもんですよね」とでもいうような苦笑とともに茶を啜っている。

「………」

 これは待っていても超常現象の正体について教えてくれそうにない。

 少し迷い、自分からもう一歩踏み込んでみる。

「あの……対応できる人材、というと、その……龍狩さんには霊感がある、ということなんでしょうか」

 れいかん、と舌に乗せた途端、自分の言葉が嘘くさく聞こえた。今さらのように、俺の転属手続きの最中に照れ笑いを浮かべていた人たちと同じ気持ちを味わった。これは確かに、少し恥ずかしい。

 俺の冗談じみた質問を受けて、龍狩さんが冗談じみた笑いを見せる。

「照れくさいので、ひとに聞かれたときは、おばけが見える、と説明しています」

 おばけがみえる。

 頼りない響きだった。確かに「霊感」と真面目腐って言うよりは恥ずかしさが薄いのかもしれないが、何人も殉職者が出る仕事で生き残ってきた人間には似合わない。続けて浮かべた笑顔も、死線を超えてきた者とは思えない、やんわりしたものだった。

「あと、ほら、霊感とか言うと、相手によってはめちゃくちゃ詰められるんですよ。逸軌さんはどうですか?」

「あまり馴染みはないですが、論破しようとは思いません」

 それはおばけや幽霊を信じているからではなく、あまり関心がないからだった。仕事の外で「自分は霊感がある」と言われても「そうなんですね」以外に言うことはない。特環事案として語られるそれらにはついては関心があるものの、隠語か何かだろうと推測していた。何か、表立っては触れられない恐ろしいもの——例えば過激なカルト宗教のようなものの話なのだろう、と。

 しかし、ここで下手に詰めて攻撃的な人間、真相を暴きにきただけの野次馬だと捉えられてはかなわないし、オカルトにはあまり興味がないなどと言ってやる気がないと誤解されるのも御免だ。信頼を得るべく、真摯に視線を合わせた。

「どうぞ、ご安心ください」

 龍狩さんからしたら、すがるように見えたかもしれない。事実、自分は秘密を明かすに足る人間だと、真実を教えてくれと祈るような気持ちだった。

 気持ちが通じたのか、龍狩さんは、神妙に頷いた。

「助かります」

「いえ」

「まあ、そのへん、人を遣す前によくよく確認してくれって、県警の方にはお願いしてるんですけどね」

「ええ」

「あと、怖がりだと大変ですよ、とも伝えてまして。大丈夫ですか?」

「はあ……」

「よかったよかった」

 また茶に口をつけた。

「………」

 「——というのは表向きの話で」という言葉を期待して、待つ。

「………」

 龍狩さんをじっと見つめる。ゆるく首を傾げられる。

「やっぱりちょっと怖いですか?」

「あ、いや……」

「ホラー映画とかで予習しとくと、多少ましになるかもしれません」

「はあ……」

「現実に出るおばけも似たようなものですから」

 超常現象を超常現象のまま処理されてしまったことに愕然とする。

 確かに、異動の希望を出したとき、上司から散々確認された。幽霊とか怪物とかに大真面目に向き合う部署らしいぞ、大丈夫か、後悔しないか、と。俺はその全てに強い意志を持って頷いた。

 だが、本当に役所や警察がそんなものにかかずらっているわけがあるか。

 何か重要なことを聞き逃しているのかと、慌てて龍狩さんの言葉を思い返すが、「おばけ」の正体は見えてこない。もしや、係員しかいない場でも、はっきり口にできないようなものなのだろうか。

 それとも試されているのだろうか。

 自力で正体に辿り着けという、いわば入門試験のようなものなのか。二十年以上も前から日本全国に発生している、対処に特殊な才能が必要な、しかも人を殺せる、怪奇現象じみた何か。やはりカルト教団くらいしか思いつかない。妙な連中が妙な儀式のためにとんでもないことをしている、程度の推測が、俺の想像力の限界だ。

 思い切って聞いてみたら、答え合わせしてくれるのだろうか。

「悩ませてしまってすみません」

 沈みかけた意識を掬われた。知らずうつむいていた顔を上げると、龍狩さんがソファに背中を預けるところだった。背もたれにぶつかって、痩身は見た目よりも重たい音を立てる。

「いや、大丈夫です。自分こそ、なんだかすみません……」

 慌てて頭を下げると、薄っぺらい笑みを返された。笑っているのに、瞳の奥は薄暗い。

「なんか、頼りないですよね。ぶっちゃけ、私もそんな、ちゃんとした人材ではないんですよ、寺生まれとか神社生まれとか。多少見えて聞こえて、対抗手段があって、くらいで」

 心許ないですよねえ、と結んだ。あくまでも「おばけ」を「おばけ」として扱う態度に、心許なさが募る。

 俺はどんな顔をしたものか、龍狩さんは優しい笑みを見せた。瞳の暗さを隠すように、眼を細める。

「でも、仕事量とか、人材不足とかはそんな心配しなくて大丈夫ですよ」

 どうも俺の戸惑いは、龍狩さんの中では「仕事が回せるのかどうかという不安」と受け取られたらしい。ふっと、背もたれから身を起こした。

「しばらくは私が入院しちゃってたので忙しいかも知れませんけど、普段はわりあい平和なんです」

 再びコップに口をつける。そういえば、俺はまだ茶に手をつけていなかった。倣って冷たい茶を含む。思ったより喉が乾いていたようだった。ひと口、ふた口と続けて、戸惑いに苦くなった口の中を雪ぐ。

「ほとんどは通報を受けたところが対応してくれて、そのまま解決します。うちの対処が必要なのはひと月あたり多くて十件くらいで、それも概ね一件あたり一日で片づきますし」

 気になっているのはそこではないが、それでも少し、肩から力が抜けた。少なくとも物量面では、なんとかなりそうだ。ずいぶん中身の減ったコップを机に戻した。

「……少し、安心しました」

 しかし肝心の不安については聞きづらい。超常現象に対処する部署と承知の上で異動してきた手前、今さら「本当は何に対処しているんですか?」と聞くのは気が引ける。信じてないのに了承したのか、と言われたら返す言葉もない。追い返されても文句は言えない。試しに想像する。散々「殺人とか凶悪な犯罪に対処する部署だが大丈夫か」と説明を受けた上で捜査第一課に異動希望を出しておいて、「本当はどんな事件の捜査をしてるんですか?」と聞く新人。俺でも追い返したい。

 直球で聞くのは、なしだ。

 悩んだ末、相手が「おばけ」である体で、深掘りしてみることにした。

「自然現象でも人間の仕業でもない、の判断はどうするんですか?」

 龍狩さんは思案げに天井を仰いだ。長い指が包帯をさする。

「なんか変だなーと思ったら様子を見に行って、これは変だなーとなったら、調査して、これはうちの事案だな、となったら対処する感じです」

「なんか、変、ですか」

 曖昧な基準だった。「おばけ」の正体以上に、仕事の進め方のほうが不透明かもしれない。思わず生ぬるい眼をしてしまったらしく、龍狩さんが補足した。

「目安としては、変に繰り返すとか、変な目撃情報があるとか、変な言い伝えがあるとか」

「なるほど。変ですね」

 としか言いようがない。補足情報すら曖昧だった。龍狩さんが頷く。一度、二度。

「よくわからないですよね」

「正直に言うと、わかりません」

 話からは、特定の組織を相手にしているわけではないのかな、それともものすごく大きな組織なのかな、という印象を受けるが、逆にいうとそれだけだ。仮に相手を「おばけ」だと想定しても、仕事の具体的なイメージが湧いてこない。俺はいったい何をさせられるんだろうか。

「とりあえず、よその部署ではよくわからなかったモノコトに対応する、と考えていただければ……いいのかなあ」

「……最後の砦、みたいな感じなんでしょうか」

「かっこいいですね」

 ははは。

 笑いながら腕を掻く。包帯が毛羽立った。

「まあでも、その『よくわからない』というのが、うちの一番の問題なんですよね」

「……どういうことですか?」

 「問題」という言葉に、つい、反応する。腰が浮きそうになるのを堪えた。龍狩さんは俺を見ず、ほとんど空になったコップを眺める。

「人手不足なんて、警察や役所に限らず、どこも似たようなものでしょう? しんどいですけど、納得はできるというか、まあ理屈はわかるな、と思えるというか。だけど、うちのよくわからなさって、飲み込みようがないんですよね」

 滔々と語って、ふ、と息継ぎをした。

「私、十年くらいこの仕事やってますけど、未だに自分が何をしているのかよくわからないんですよ」

 虚ろな、ひんやりとした声だった。背筋が震える。瞳は暗く、頬を覆うガーゼが、青白い。硬そうな指が、積まれたチューブファイルの表紙を突く。青い表紙に爪の先が当たった。思いがけず鋭い音が立つ。窓のない部屋に、よく響いた。

「よくわからないのに、自治体を跨ぐわ、役所と警察の仕事に踏み込むわで。いや、まあ、理屈はわかるんですよ。設置自治体と県の警察とが揃ってたほうが、事務的にうまく回るんですよね。市民の方と話すときも、印籠があったほうがスムーズですし」

 わたくし、こういうものです。

 と、刑事ドラマでお馴染みの動作をしてみせた。見えない警察手帳を掲げる手が解ける。空の手のひらがこちらに開かれた。

「でもぶっちゃけ、実務は私ひとりで問題ないんです」

 やんわりと引かれていた線が、壁として立ち上がるようだった。

「だから大丈夫ですよ、まだ。断っても」

「——」

 す、と、頭が冴えていく感覚がした。

「自分が何をしているのかよくわからないうちに死ぬっていうのも、何だかなって感じでしょう」

 暗い眼が事務机の方に向かう。しかし、視線がたどり着く前に、まぶたに押し隠された。代わりに俺が見る。三つ並んだ腕時計を。

 前任者も、同じように言われただろうか。守備範囲はばかみたいに広くて、人材は足りてなくて、一緒に働く自分はちゃんとした人材ではなくて、仕事はよくわからなくて、お前もたぶん前任者たちと同じように死ぬ、と。

 いなくても問題ないから、別に逃げてもいい、と。

「——……仕事の内容は、よくわかりませんが」

 自分の左手首に触れる。安物の時計が、微かな振動を伝えてくる。メタルベルトが体温にぬるんでいる。

「わからないまま放っておけば、モノやイキモノが、今後も壊れたり死んだりするわけでしょう」

 前任者は、あそこに並べられてたまるか、という気持ちで買ったのだろうか。

 いや、考える意味はない。遺志を継ぐためにここにきたわけではない。俺がここにきたのは、彼が何と向き合っていて、何に殺されたのかを知るためだ。そして、それを今ごちゃごちゃと悩む必要だってなかった。正体なんて、仕事が始まれば嫌でもわかる。答えを急ぐあまり、忘れていたようだ。

「であれば、できることをやる意味はある、と、自分は思います」

 そして何より、対処する相手が何だったとしても、知って終わりにするつもりはない。知ったあとも、責任は果たすつもりでここにきた。

 焦りが引いていく。真相を知りたい私情をわきに置き、特殊環境問題対策係の新人として、背筋を伸ばして、龍狩さんに向き直った。

「それだけわかっていれば、自分には十分です」

 我ながら青臭い台詞だ。その台詞が本音に近いところにあるのが、いたたまれない。身じろぎを堪える。

「……そうですか」

 痩せた指先が口許を覆った。煙草の吸口を運ぶ仕草だ。知らない人を見るように、俺を見る。

 正解がわからず、笑って見せた。

「……それに自分は、わざわざ希望を出してきたわけですし、やる前から逃げたりしませんよ」

 一拍置いて、龍狩さんは頷いた。筋張った首がふらつく。

「では、細かい話はやりながら、追々。時間があるときにこのへんの綴、見てみてください」

 説明の延長としての言葉だった。拍子抜けした。はい、と応じるよりない。示されたチューブファイルの山を見る。背表紙には、年度と分類が記されていた。業務報告書綴。壁の書棚にも、同じ厚みのものが並んでいる。机に出されたぶんだけ、空白がある。この中に、三名分の死亡事故が、混ざっているのだな、と思った。

 龍狩さんは腰を上げて事務机に向かった。自席の引き出しに手をかけて振り返る。

「逸軌さん、おばけは見えるほうですか?」

「いや、全く」

 ファイルから視線を剥がし、躊躇なく首を横に振った。異動前に、幽霊は見えなくても構わないと言われていた。そういう点からも、「おばけ」が隠語であるという疑いを強めていた。

「これまでの人生、怪奇現象とは無縁でした。『今のもしかして……』なんていう勘違いすら皆無です」

 むしろおばけの正体を暴きにきているわけだが、そこまで言う必要はない。その他は正直に申告すると、龍狩さんは首を縦に振った。

「なるほど」

 そして引き出しから何かを出し、こちらへ戻ってくる。

「では、これ。勤務時間中は持っていてください」

 黒い巾着袋だ。差し出されるまま受け取る。手のひらに収まる。生地はぺらぺらで安っぽい。指先で中身を探ると、畳まれた布と、何か細かな、硬い感触が触れた。

 なんだこれ。

 戸惑い混じりに、立ったままの龍狩さんを見上げる。

「霊感の素です。持っていると、見えたり、聞こえたり、ほんのり耐性がついたりします」

「……、中身は見てもいいんですか?」

 一瞬、いくらですか? と聞きそうになった。

「いいですけど、気持ち悪いだけですよ」

 ははは。

「………」

 逆に興味が湧いた。ここまで直球の超常現象アイテムを支給されるとは思わなかった。中身を想像する。言葉どおりのものだとしたら、ぱっと思いつくのは御札のたぐいだ。しかし、それにしては分厚い。ごわごわしている。畳まれた布だろうか。「おばけ」の正体が宗教関係の何かだとしても、それっぽいものを身につける理由はなくもない。組織に潜入する際に疑われないために、とか。開ければ、おばけの正体に近づけるだろうか。絞り口の縦結びを親指でいじる。さて。

 俺の躊躇をどう受け取ったものか、龍狩さんは少し迷う素振りを見せた。一瞬、脅かすように、からかうように唇の端を上げる。しかし思い直したようで、衒いのない、何気ない笑みを作り直した。

「私の髪と爪と、血のついた布が入っています」

 なくしたら言ってくださいね。また作るので。

 ずしり、と袋が重くなった。

 細い髪と硬そうな爪と、頬を覆うガーゼと。

 思わず無言になる。おばけを信じていなくても、開ける気が一瞬にして失せる言葉だった。手の中の巾着袋を改めて見る。安っぽい布は簡単に裂けてしまいそうだ。嫌な想像が頭をよぎった。こぼれ落ちて散らばる、人間のかけら。眼の前の人から、削り取られた一部。

「これを持ち歩けるかどうかが第一関門です。できますか?」

「……もちろんです。ただ、絶対なくさないようにしないとな、と」

 中身が本当に言うとおりのもので、しかも相手取っている宗教関係のものなのだとしたら、悍ましい団体だとしかいいようがない。気合を入れ直す。こわばった俺の肩に、軽やかな笑い声が降ってきた。

「ははは。そんなに構えなくて大丈夫ですよ。いざとなればその場で作れますから」

 あっさりと言いのけた。おまけに胸ポケットから爪切りを出してみせる。髪と爪と血。なるほど、爪切りひとつでこと足りる材料だ。だが、そんなに何気なく作るべきものではない気がする。改めて、俺とはちがう分野の人間なのだと実感した。自分に向けて、しっかりと頷く。

「絶対、なくしません」

 少し迷って、ひとまずシャツの胸ポケットに押し込んだ。頭の中で、買い物リストの一番上に書き足す。丈夫な袋と紐。

 爪切りは再び、龍狩さんの胸ポケットに消えた。

「ほんじゃ、早速なんですけど、仕事してみましょうか。ちょうどよく、というのも嫌な感じですが、今、市内でなんか変なことが起きているので」

「詳しく聞かせてください」

 食い気味に尋ねる。焦る必要はないと承知の上で、わかるものなら早く知りたい。「おばけ」の、前任者を殺したものの正体を。

 龍狩さんは腕を組み、曖昧に俺を見た。

「なんか、刺さってるらしいんですよね、しょっちゅう」

 早速よくわからない。

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