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(後)

 ぐすん。

 その音は、耳に重たい余韻を残した。

 一瞬のできごとだった。強く引かれて傾いた薄い肩が、震えてこわばる。白い手は瞬く間にいなくなっていた。見間違いだと思ってもおかしくなかった。

 筋張った手の甲に、爪痕が残っていなければ。

 左右に並んだその傷の間に、柵の支柱が生えていなければ。

「——」

 ありえない。

 声にならない悲鳴は、どちらのものとも知れない。俺はそこで止まれない。知らず、息を吸い込んでしまう。

「しぃ……」

 龍狩さんが煙草を挟んだ指を、唇の前に立てる。携帯灰皿は見当たらない。落としたようだ。

 すんでのところで、叫びを喉に留めた。吸った息を、静かに吐く。龍狩さんは僅かに肩から力を抜いた。

「騒ぐと、苦情が、入りますから……」

 煙草を咥えながらそっと立ち位置をずらした。手首の先が、身体の影になる。

「なんで隠すんですか……!」

「いや、見ると、痛いかと……」

 元捜査第一課の刑事をなんだと思っているのか。

 異常事態に対する動揺はとりあえずわきに置く。取り乱しかけたことは、棚に上げた。狼狽も見栄も、今は邪魔だ。

 ありえないものを見たことも、とにかく忘れろ。今は忘れろ。

 必死に言い聞かせながら、龍狩さんが動いた分だけ俺も動いた。問題の支柱に寄りすぎないよう注意して、患部を確認する。

 指の股から手首へ少し下ったあたり、骨の間の柔らかい場所に、細い支柱の頭がひょこりと突き出ていた。人差し指と中指の間だ。唐突すぎて現実味がない。

 少し視線を下げる。どす黒い液体が柵を伝っていた。

「——っ」

 肌が粟だつ。どれだけ理性的であろうとしても、生理的な反応はどうしようもなかった。

「大丈夫ですか?」

 自分の言葉かと思ったが、違った。龍狩さんが俺の様子を窺っている。呼吸は深い。吐くほうに重心を置いていた。痛みを逃している。

「……どちらかというと、それは自分の台詞です。ひとまず抜きましょう。触っても?」

「いや、二次災害があるかも……」

 あの白い手が、脳裏をよぎる。咄嗟に眼を閉じた。きつく。

 忘れろ。考えるのはあとでいい。

「——、わかりました。対応は任せます」

 ネクタイを解いて、応急処置に備えた。

 龍狩さんは浅く頷いて、もぞもぞしはじめる。体重を右足に寄せ、左足に寄せ。左腕を僅かに動かす。支柱もぐらつく。低く呻いた。そのまま抜くのは無理そうだ。やはり手を貸すべきか。

「……ちょっと、煙草、持ってていただいて、いいですか?」

 意外にも方針はすぐに決まったようで、短くなった煙草を差し出された。受け取る。しゃがんで近くに落ちていた携帯灰皿を恐る恐る拾い、断りなしに吸い差しを放り込んだ。つい、支柱の根本に視線が吸い寄せられてしまう。

 あの白い手は、この辺りから伸びてきた。

 暗い上に草が密集していて、様子がよくわからない。しかし、人一人が隠れられるほどではない。であれば何かの仕掛けが隠されているのだろうか。生き物を選んで捕らえる罠が。瞬きするたび、夕闇に浮かぶ白い手の残像が閃いた。手を突っ込んで、そこに何もないことを確認したくなる。

「………」

 考えるな。今はまだ、そのときじゃない。

 頭を振る。少なくとも、下手に掻き分けるのは止したほうがいい。そこに、何がいるにしても。

 勢いをつけて立ち上がった。

「大丈夫ですか?」

 龍狩さんはじっとこちらを見ていた。俺が柵から離れるのを待っていたようだ。申し訳ない。

「すみません。何でもありません。……どうぞ」

 半歩身を引いた。途端、龍狩さんは素早い動作で支柱を掴み、手のひらを引っこ抜いた。

「っ——⁉︎」

 まさかの直球、小細工なしの力技だった。止める暇も声を出す隙もなかった。

 空気が張り詰める。

「………」

 何かからの二撃目はない。龍狩さんは、悲鳴のひとつも上げない。栓を失った穴からあふれ出したものが、夏草を打った。雨の降りはじめの音がする。細い葉に、黒い点が散った。

「はーあ、痛い痛い」

 警戒を解いた声は、こちらへの気遣いかと思うほど嘘くさかった。顰めた顔もわざとらしい。ただ右手だけは、しっかりと左手首を握っていた。止血に慣れている。

「……失礼、します」

 柵から解放された手を捕まえる。身構えてしまった身体がぎくしゃくしてしまう。龍狩さんからの抵抗はなく、負傷した手はすんなり預けられた。筋の浮いた手の甲にぽつりと穴が空いている。じっくりとは、見るまい。ネクタイで患部をぐるぐる巻きにして、きつく結ぶ。微かに息を詰める音が聞こえた。痛いだろうが、堪えてもらうしかない。貫通している。

 簡単なものだが、応急処置は終わりだ。どちらからともなく、深いため息が漏れた。

「ありがとうございます。……ちょっと、一回、下がりましょうか」

 血濡れた支柱に一瞥をくれる。異論はない。黙って頷き、草をかき分けて退避した。

 木立の始まる少し手前。龍狩さんは放り出すように座り込む。俺は片膝を立て、少し前かがみに構えた。高い夏草に身を潜めるような形になる。いつでも動ける。臆病だと笑われても構わなかった。

 龍狩さんは笑わなかった。変わりに軽く、ため息をつく。ひと仕事終えたような調子だ。

「迂闊でしたね。驚かせて、すみません。ネクタイも」

 話しぶりは、もうしっかりしている。

「謝らないでください。安物です」

 穴の空いた手が、握って、開かれる。震えて上手くいかない。小動物を愛でるような動きだ。黒いネクタイが薄暗がりに光る。濡れている。

 不意に、わきに置いていた動揺が戻ってきそうになった。ひとつ深呼吸する。追い払う。

「救急車、呼びますか?」

「いや、いいです。大げさですよ。病院行くと、労災でごちゃごちゃ面倒くさいし」

 労災隠しする気満々だ。

「せめて、出直しましょう」

「いや、だめです。もったいない」

「何がです」

 時間か? 少し苛立つ。

「ガソリン代も公費ですから」

 言葉を失った。

「あと単純に、面倒くさいですし」

 ははは。

 もはや苛立ちも湧かない。

「けど、しんどいはしんどいので、ちょっと、休憩がてら、様子を見ましょう」

 状況も、整理したいですし。

 龍狩さんは使い物にならなくなった左手を、あぐらをかいた膝に安置した。煙草に火をつける。求められるまま、携帯灰皿を返す。暗い眼が少し笑った。じっくりと煙を吸い込み、最初の一口を吐き出す。池の方へ視線を投げた。

「見ました?」

 何か、居ましたね。

「——」

 瞬間、否定の言葉が、いくつも頭に浮かんだ。それを片っ端から、あの白い手がかき消していく。痩せた手を確かに掴んだ五指。何も、誰もいない茂み。穴の開いた手のひらは眼に焼きついていて、気のせいだとごまかすことを許さなかった。

「——……はい」

 観念した。俺も池の方を見る。足許がひやりとする。震え出す。

「初めておばけを見た感想は?」

「龍狩さんの負傷に全部持っていかれました」

 冗談を言ったつもりだった。耳で聞くと、強がる子どものようだった。

 おばけだ、と認めた途端、動揺が、はっきりと戻ってきた。内臓が、ぐぅっと押し上げられるような、引き絞られるような感覚があった。怖い、という言葉を懸命に打ち消す。打ち消しながら、気づく。頭はおばけだと認めたのに、感情はまだ抵抗していた。たった今見たものを、懸命に否定しようとしていた。

 だって、こんなことはありえないのだから。

 俺が知ろうとしたのは、こんな真相ではなかった。「おばけ」と呼ぶしかない、何か恐ろしい、だけど現実的な脅威が存在しているはずだった。相手は「やばい巨大な宗教団体」のはずだった。そうじゃないなら、せめて不審者でなければならなかった。

 自然現象でも人間の仕業でもない、そんなものは存在しないはずだった。

 ——信じてないだろ、でも、本当に出るよ。

 聞き慣れた、だけどもう二度と聞くことのない笑い混じりの声が、耳の奥で甦る。

 ——信じてるよ。怖いな。

 口先だけで、同調してみせたことを覚えている。

「——……」

 心のうちで、改めて頷いた。ごめん、確かに信じてなかったよ。でも、本当に出たな。本当は、出てほしくなかった。

 途端、構えた身体がこわばり、縮んだ。震えを抑えようと、硬くなる。身体が勝手に守りの姿勢に入ってしまう。噛み締めた奥歯が痛い。

 ふと、子どものころの感覚が思い出された。ときどき、眠る前にベッドの下を確認することがあった。何もいないと九割九分確信していたから、できていたことだった。あれは、「本当にいない」と十割確信するための儀式だ。

 今日も、俺はその感覚でいた。そして実際、そういう儀式でなければならなかった。だって、一度も考えたことがない。

 いないはずのものがいたら、どうしたらいいのか、なんて。

「さすが、刑事さんは冷静ですね」

 弾かれたように男を見る。皮肉か。

「頼りになります」

 迎えたのは他意のない横顔だった。先ほどまでと、何ら変わりなかった。鋭い造形に、柔らかい声。

 ——本当に出るけど、怖くはないよ。

 また、前任者の言葉が甦った。俺の吐いた不誠実な台詞への返答だ。笑った顔は、なんとなく自慢げだった。

 ——相棒がいるからね。

「——……」

 出たものは、出た。だけど、対処方を知っている人がそばにいる。そしてその人は、今は俺の相棒だ。戻ってきた動揺が、ゆっくりと鎮まっていく。

「……今後も、努力します」

 声を絞り出した。指先には、龍狩さんのぬるい体温がまだ残っていた。

 自分が怖がっているのだと認めると、安心した。


 ◯


「あ、ほら、あれ」

 煙草の火が前を示す。言われるままに眼を凝らした。支柱の根本はよく見えない。ただ、茂った夏草が揺れている。風はない。少し重みのある音がする。土を掻き、草をちぎる。

 何かをまさぐる音がする。

 腰が浮く。

「——」

 龍狩さんが、ふう、と煙を吐いた。逃げだす気配はない。あぐらをかいて煙草をふかす様は、つき合いで花火でも眺めるように気だるげだ。

「ちょいちょいあるんですよ。空き地に何かを作ってみたら、おばけのねぐらのそばだった、っていうこと」

 市街地ではあんまりないですけど、田舎は空いてる土地が多いから。

 支柱がぐらつき、網が波打つ。ぺちゃぺちゃと湿った音がする。

「あれは……っ」

 口を閉じていられない。

「……あれ、は……何を、してるんですか?」

 そんなものは聞かなくても想像がつく。

「いや、そうじゃないな……」

 言葉を探す。何かをしゃぶる音がする。

「ええと……」

 頭の中で、言葉が散らかる。

「ホンニンに聞くわけにいかんので」

 静かな声が、会話の糸を攫っていく。

「経験に基づく、こうかな、という想像ですけど」

 あれは昔からあそこで、ずっと、水場にきた生き物を捕まえて、食べてきたんじゃないですかね。そこへ急に柵ができて、捕まえようとした獲物が支柱に引っかかるようになってしまって。

「通報された、わけですか……」

「たぶん、ですよ。それで今は、血の一滴も惜しいほど腹が減っているんじゃないかな」

 怪談として語るには、何とも気の抜けた話だった。

「……これまでに人的被害がなかったのが奇跡ですね」

「それはどうかなあ」

 龍狩さんは言ってから、あ、という顔をした。俺はきっと、え、という顔をしただろう。ひととき見つめ合う。

 沈黙を破ったのは龍狩さんだった。

「いや、まあ、昼間、柵を作った人が無事だったようですから、多分あれ、夜行性でしょうし、このへん、夜は人なんか来ないようですし、噂も言い伝えも……」

 ごまかすのが下手だ。

「龍狩さん」

 ごまかされておきたい気もした。

「自分は見学者ではなく、新人です」

「……そうですね。すみません」

 悪びれない謝罪だった。ふう、とまた、紫煙を吐く。

「誰も気づいてないだけで、食われた人はいたと思います」

「人がいなくなって、気づかないなんてこと、あるでしょうか。こんな、人の少ない土地で」

「それはそうなんですけど」

 跡形もなく消えちゃったら、どこでどういなくなったかなんて、わからないでしょう。

「………」

「この集落の帰ってこなかった迷子のうち何人かは、食われてると思いますよ。あれに」

 悍ましさでいうのなら、「やばい巨大な宗教団体」や不審者とどっこいどっこいだった。それなのに、語る声も瞳も凪いでいる。理不尽だと怒ればいいのか、犠牲者を悼めばいいのか。受け止め方がわからない。

 先ほど覆った常識ですら、まだ受け止めきれてはいなかった。

 不意に右手の茂みが音を立てた。思わず腰を浮かせる。

「………」

 ——山ではいろんな音がする。

 獣だろう。恥ずかしさが込み上げて、座り直そうとした。

 ——だけど、慣れないほうがいいですよ。

「………」

 身体を低くした。茂みの奥に眼を凝らす。龍狩さんがひっそりと笑う気配がした。

「逸軌さん、めちゃくちゃ飲み込みが速いですね」

 休憩は終わったのだと悟った。息を殺す。返事もできない。

 ぱちん、と鳴ったのは、龍狩さんの携帯灰皿か。そんな小さな音にも、肩が力む。池を取り巻く木立の底に、暗闇が溜まっている。その奥から、音がする。獲物を探す音が。

「……っ」

 近づいてきている。呼吸が引き攣った。悲鳴のなりそこないのように喉の奥に突っかかる。先手を打つべきだろうか。手で触れることはわかっている。

 音に向けて身構えたせいで、龍狩さんは視界の外に出てしまっていた。何かから視線を外したくない。だが、頼みの綱が見えないままなのも怖い。

「探されてますね」

 声だけがそばにいた。落ち着いている。気を抜いているようですらある。気を抜いてもいい状況なのだろうか。教えてほしい。背後で、無造作に立ち上がる気配があった。

「そういえば、蜩は朝も鳴くって言いましたけど」

 あれ、温度に反応してるらしいですよ。

 ——ねずみ、りす、山鳩、あらいぐま。

 ぐっと襟が引かれた。大した力ではない。抵抗するのは容易かった。だからこそ、引かれるに従った。痩せた腕の力に。

「っ」

 横ざまに転ぶ。眼前を白い手が横切った。

 腰を抜かしている暇はない。すぐさま立ち上がる。周囲を見渡すと、そこここで夏草が揺れていた。ときおり、沈んだところが白く光る。ざらざらとまさぐっている。

 囲まれている。

 音の源を探って視線を巡らせた。どこもかしこもざわついている。草原全体がひとつの大きな生き物のように蠕動していた。背中にも、腹の中にも見える。めまいがする。

「どうしましょうか」

 ふと煙の匂いが鼻先を掠めて、手足の感覚が戻ってきた。悪夢から引き戻されるようだった。隣に長身が並ぶのが視界の端に映った。

「——……」

 何も言えなかった。咄嗟に言葉を飲んだ。下手に口を開けば何を言ってしまうかわからなかった。ただ、自分が「逃げよう」と言ってほしがっているのは、わかっていた。同時に、そんな台詞は絶対に、言われたくなかった。

「たつ、がり、さん……」

 かろうじて呼んだ声は、掠れていた。黒い眼がこちらを見ているのを感じる。矛盾した心を見透かされるようだった。場違いに、羞恥心が込み上げる。

 視線が外されたのを、肌で感じた。思案げな吐息が夜気を柔らかく震わせる。

「状況によっては、柵をずらして終わりにしてもよかったんですけど、これは、今後も人間を食いそうですね」

 喉が渇く。

 語る声は、乾いている。

「殺しましょうか」

 結論は、二人でやることを前提にしていた。

 ほっとした。逃げ道を絶たれて、覚悟が決まる。手が腰へ向かった。シャツの下のグリップに、触れる。

「……おばけに銃って、効くんでしょうか」

「おばけによりますけど、肉食のおばけには効くことが多いです」

 肉食のおばけ。今回みたいなやつか。シャツを引っ張りだす。その下の得物に手をかけた。

「ただ、このへん人家が近いので、外すとえらいことになります」

 的は細く、たくさんある。そして俺は平静とはいえない。発砲は控えたほうがよさそうだ。グリップから指を解く。

「……指示を、お願いします」

 俺には相手が一体なのか、群なのかすら判断がつかない。自分に何ができるのかもわからない。

 囲いは狭まってきている。気が急いた。

「どうするのがいいかな」

 龍狩さんは検討を続ける。前職ではあまり覚えのないのんびりとした調子だった。危険を前にしているのなら尚更だ。一時間前であれば苛立ったのかもしれないが、今は焦りながらも待っていられる。

 率直に言って、新人など追っ払ってしまったほうが、効率がいいはずだ。それでも「逃げろ」と言わずにいてくれている。俺の気持ちを汲んでいるのか、何か理由があるのか。やはり真意はわからないが、指示を聞き漏らさないよう、耳を澄ませた。

「とりあえず、足許に気をつけていただいて……」

 即座に足許を見る。白いものが二本突き出していた。

 どうすべきかは、考えなくてもわかった。

「——ッ」

「うわ」

 振り向きざま、隣の胸ぐらを掴む。勢い任せに痩身を木立の中へ突き飛ばした。視界の端で、白い手が宙を握る。痩身は簡単に吹っ飛んだわりに、重い音を響かせた。

 同時に、俺の足首に、冷たいものが絡む。

「——」

 悲鳴を飲んだ。冷静ぶる余裕などない。木立からは、ばきばきと枝を折る音がする。体勢を立て直しているようだ。そちらへ走りたくなる。何かの気配が、一斉にこちらを向いたのを感じる。

「うわ、しまった。すみません。今、外しま——」

「来ないでください!」

 精いっぱいの、強がりだった。

「処理は任せます! お願いします!」

「ちょっと、手荒になりますけど……」

「任せます!」

 もう構っていられない。脚を振る。手は外れない。獲物を捕らえた何かは必死だ。爪がズボン越しに食い込んでくる。綱引き状態だった。手の届く範囲に縋れそうな木はない。腰を落とす。身体を動かしているのが経験か、生存本能か、もうわからない。

 間近に見た五指は人と同じ形をしていた。しかしひと目で人ではないとわかる。先の丸い爪を備えた細い指には、白い毛がびっしりと生えていた。生白い地肌が透けている。通報者の話を思い出す。昔、このあたりには山犬が出た。それは本当に山犬だったのか。得体のしれなさに鳥肌が立つ。他人を庇ったことを、後悔しそうだった。時間の問題だ。視界にもう一本、現れる。先ほど空気をつかまされた手が、俺を見つけた。加勢する。増えていく。力比べではまだ負けていないのに、腰が引けた。踏ん張ろうとした脚が滑る。これは、だめだ、転ぶ。

「——ッ」

 ふつっ、と。

 浮遊感とともに、白い手の群が見えなくなった。

 そのまま派手に地面へとひっくり返った。どっと、自分の呼吸音と動悸が耳をふさぐ。生きている音が身体の内側を騒がしく満たした。その向こうで、夏草の揺れる音がしていた。だが、生き物の立てる音には聞こえない。風か。頭が、状況を飲み込もうと回転する。

 龍狩さんが、何かしたのか。殺したのか。手荒に。助かったのか。でも、なら、なぜ。

 なぜ、動けないんだ?

 全身がずっしりと重い。あちこちがちくちくする。安心したせいだとか、夏草が当たっているだとか、そうではない。まだ、あの手はここにいる。あの丸い爪が、俺を捕らえている。脚が痛い。では、なぜ消えた。

 はっとして胸ポケットに手をやった。

 ない。

 髪と爪と血のついた布が——霊感の素が。

 転んだ拍子にすっぽ抜けたらしい。

 脅威が、五感から消えた。

 汗が吹き出す。無我夢中で半身を起こした。暗闇に引き込もうとする力に抗う。歯の根が合わない。呼吸、動悸、奥歯。自分の立てる音で、頭がいっぱいになる。

 が。

「——そのままで」

 ぱん。

 静かな声と破裂音が、すべて払った。

 銃声かと思った。それにしてはくぐもっている。音源を探る。

 藪のなか、龍狩さんの両手が合わさっていた。痩せた腕を池に向けて差し伸べている。夜闇にすっと白く線を引いたようだ。風に吹かれた柳に似て、頼りない。

 柏手だ。

 突然、身体が軽くなる。

 一瞬遅れて、何かが降り注いだ。感触はないし、見えない。聞こえない。気配だけが、一帯をしっとりと濡らした。

 残響が消えて、静かになる。耳に痛いほどの静寂だった。夏草はもう、揺れていない。

「……——」

 不意に、ずしりときた。心臓が跳ねたが、ちがうとすぐに気づいた。この重みは今度こそ、気が抜けたせいだ。これには身を任せていい。安堵とともにその場に転がった。

 夜空を見上げる。星は見えない。そこへひょこりと、ばつの悪そうな顔が覗いた。

「遅くなって、すみませんでした。上手く音が鳴らなくて」

 両手を合わせて見せる。ごめん、の仕草だ。左手は力が抜けていた。穴が空いている上に、強く打ち合わされた、手だ。血が時計の革ベルトに溜まり、溢れて肘へと伝っている。包帯もシャツも赤く染めていた。

「だいじょうぶ、ですか……」

「どちらかというと、それは私の台詞ですね」

 可笑しそうに笑った。親しげな笑い方だった。それもすぐ、視界の外へ消える。視界は再び、暗い夜空だけになった。身体は反射的に追いかけようとした。が。

「少し、休んでいてください」

 僅かに遠ざかった声が見透かしたように言った。

「……すみません」

 情けないが、お言葉に甘えることにする。緊張から解放されて、四肢が笑えるほどに震えていた。とてもすぐには起き上がれそうにない。気を鎮めようと、眼を閉じる。薄い葉が擦れ合う音がする。人の手が夏草をかき分ける音だ。夜気はすっかり冷えていた。大して運動していないのに、全身が汗をかいていた。

「ありましたよ」

 程なくして、龍狩さんが戻ってきた。瞼を上げると、逆さの視界に黒い巾着が下げられた。夜空よりも、平べったい黒。霊感の素だ。草まみれになっている。探してきてくれたらしい。

「どうぞ。急に見えなくなって、びっくりしましたよね」

 ははは。

「ありがとうございます。……絶対なくさないなんて言って、こんなことになって、すみません」

 上体を起こす。動けなかったら、と背筋がひやりとした。そんなことはなかった。起こした身体を折る。頭を下げる。震えの引いた手を伸べて、巾着を受け取った。

 途端、景色が様変わりした。

 方々にどす黒いものが飛び散っている。ペンキの入った風船が爆ぜたような有様だ。池の方を中心に、放射状に広がっているようだった。夜闇にも黒々としている。俺自身も、濡れていた。シャツもズボンもべたべたとまだらになっている。生臭さが鼻を突く。息が詰まる。込み上げる吐き気を堪える。口許にあてがった手も、粘っていた。

 無言で龍狩さんを見やった。苦笑とともに、ハンカチを差し出された。遠慮する余裕はない。頭をへこへこと下げながら受け取って、口と鼻を覆う。他人の匂いが、悍ましい異臭を遠ざけてくれた。

 滲んできた涙に潤んだ視界で、龍狩さんが肩越しに現場を振り返る。

「おばけを潰したあとって、見えない人には、夕立のあとみたいに感じるそうですね」

 私には、わからないんですけど。

 常に見えている男は、慣れているようだった。凄惨な景色を前に、淡々と首を傾げている。

「——、………」

 返事をしたいが、無理だった。さらさらした唾液があとからあとから湧いてくる。幾度も飲み下す。龍狩さんは見兼ねた様子で、手を差し出した。

「霊感の素、一回預かりましょうか。手放せば、臭いもしないらしいですよ」

 断固として首を横に振った。もう一度言われたら、断れる自信がなかった。これ以上気遣われないよう、無理矢理に口を開く。

「っ、ぶし、た……?」

 龍狩さんが手を引っ込めた。そのまま、空の手をじっと見る。

「こう……何というか……えーっと…………潰しました」

 説明をあっさりと諦めた。潰したこと以外、わからない。無言で見つめると、さすがに悪いと思ったらしい。少し考えるようなそぶりを見せ、言葉を足した。

「私、土地か、土地の何かと相性がいいようで、市内なら、雑にやっても、とりあえず何とかなります」

 市内なら。

「縄張り、ですか……」

「そうそう」

 頷きながら、右の手のひらをシャツの胸で拭う。白い布地は、あまり汚れていない。木立の中にいたせいか。ズボンのポケットから端末を出した。青白い光が顔を照らす。

「今日、夜中、雨みたいですから、片づけはいらないかな。明日晴れなら、ざっと流さなきゃいけないんですよ。見える人が来たら、びっくりしちゃうので」

 ということで。

 暗い瞳が俺を見下ろす。柔らかく撓む。

「お疲れさまでした」

「——……」

 虚を突かれた。

「今回の仕事はこれにて完了です。いや、報告書の作成とかありますけど、まあ、現場作業に比べたら」

「……どうということは、ないですね」

「でしょう」

 ははは。


 ◯


 藪を抜け出す。

 道は青白く、明るい。空を仰ぐ。月が低く出ていた。振り向くと、現場は闇に包まれている。黒く、深い。手のひらを見る。汚れている。足許を見る。影が落ちている。地面に、足がついている。

 助かった。

 やっと、実感が湧いた。妙に浮ついていた疲労が、現実の重みを持つ。祭りのあとはこんな感じだったな、と思った。賑やかな夢から覚めたような、異世界から戻ってきたような、一方で日常へと忙しく追い立てられるような、そんな感覚。

 かき、こき。

 小枝を踏むような音がした。顔を向けると、龍狩さんが大きく伸びをしていた。その仕草は、藪に入る前と変わりない。

 ふと、日常が、作り話と接続されてしまった気がした。

 視線が重なる。柳のような男は何気ない仕草で首を傾げた。

「帰りましょうか」

 どちらからともなく、来た道をゆっくりと辿りだした。

 道沿いの家々には、もう明かりがついていた。窓から薄黄色い光が漏れている。不思議なほど、人の声は聞こえない。カーテン越しのぼんやりとした灯りだけが、暮らしの気配を感じさせた。

 ひと足ごとに現場から遠ざかる。全身の生臭さと、龍狩さんの手の傷は変わらない。借りっぱなしのハンカチで鼻を覆う。

「次から、車で待ってますか?」

 囁くように、龍狩さんが言った。弾かれたようにそちらを見た。車道側から見る横顔は逆光になっている。顔が見えずとも、意味するところは明らかだった。

「………」

 答えあぐねる。龍狩さんは急かさない。代わりに、冗談だとも言わない。二人分の足音が、やけに響く。開けた田圃沿いの道には、音を遮るものがなかった。

 暗い道の先を見る。

「……自分は、何が前任者を殺したのか、知りたくて特殊環境問題対策係にきました」

 反応はない。薄々察していたのだろう。事務机の腕時計が、まぶたの裏で閃いた。

「仕事の話は聞いていましたが、正直なところ、信じてはいなかったんです」

 何か隠しているのだ、と信じ込んでいた。その正体を、知りたいと思っていた。

「それで、あいつが何をしているのか、よくわからないでいるうちに、失いました」

 答えは初めから、教えてくれていたのに。

 今日、眼の前に示されるまで、もっと、現実的な問題に殺されたのだと、信じていた。

「だから、ここに来ました」

 あいつは、俺の知らなかった現実で、死んだのだ。

 脅威が去って落ち着いた頭で改めて認めると、知りたかったことをこの眼で見たのだという実感がやっと湧いてきた。充足感はない。ただ、置き去りにされたような感覚だけがあった。間に合わず見送ったときの、やるせなさに似ていた。

 言葉が途切れる。互いに消化しているのがわかった。前に出した爪先が、小石を蹴る。民家の明かりのなかへ転がっていく。通り過ぎて、闇に溶ける。

 先に口を開いたのは、龍狩さんだった。

「……知ることは、できましたか?」

 答えを確信している声だった。素直に頷く。

「はい」

 細い影が、撓んだ。肩の荷を下ろしたように見えた。

「それじゃあ——」

「いえ」

 穏やかな声を、遮った。薄い肩が硬くなる。自分が重荷になっていると、それだけでわかった。構わずに続ける。

「次からも、一緒にいきます」

 はっきりと、宣言する。

「あいつのしていたことには、意味があったとわかったんです。だから、やります」

 言いながら、自分勝手だな、と思った。青臭いところも、嫌だった。

 それでも、車で、血みどろになった男を出迎えるほうが、嫌だった。

 口を噤む。食い下がる準備をする。今度の沈黙は、少し長かった。

「……そうですか」

 やがて返った答えは、それだけだった。了解以上の含みはない。拍子抜けした。横目に窺う。平然としている。俺という重荷は、既に整理されてしまったようだった。いいのか悪いのか、判断に迷う。

 ふと、暗い瞳がこちらを見た。唇の端が微かに上がった。

「車に、着替えが積んであります。よかったら」

 呟くように話す。

「助かります」

 それでも響く。

 夜道は静かだ。傍らの家々では、知らない人が生きている。気配だけがあって、俺たちとは交わらない。

 そのまま会話は、ふつりと途切れた。ラジオのつまみを回したように。


 ◯


 着替えると幾分さっぱりした。誰のシャツかは尋ねなかった。大きさも、ろくに確認しなかった。汚れた服はゴミ袋に詰め込む。硬く硬く、口を縛った。

 救急箱も積まれていたが、龍狩さんは「応急用だから」と使わなかった。俺のネクタイで足りているという。負傷した左手の代わりに、右手を差し出してきた。首をひねる。

「なんですか?」

「帰りは、私が運転しますよ」

 ぎょっとした。鍵を渡せということか。

「……自分が、運転します」

「大丈夫ですか?」

「それは自分の台詞ですね」

 有無を言わさず助手席に押し込む。抵抗はされなかった。運転席に乗り込む。顔色をじっと観察される。譲らないぞ、という意志を込めて、エンジンを始動する。

「では、お願いします」

 合格のようだ。窓を開けて、走り出した。

 少し肌寒いくらいの夜風が前髪を玩ぶ。ヘッドライトが夜道を丸く切り抜く。その先は見えない。行きよりも、ゆっくりと進む。前にも後ろにも、車はない。会話もない。

 助手席の様子を窺う。相棒は窓の外へ視線を投げていた。山は暗い。手前の木々だけ照らされて、向こう側は塗りつぶしたように黒い。深い夜を背景に、横顔は青ざめて見えた。暗いせいか、疲れているのか。出血のせいも大きいだろう。

「龍狩さん、眠っても大丈夫ですよ」

 状態確認も兼ねて、話しかける。

 黒い瞳だけがこちらを向いた。ライトを返して閃く。やんわりと笑う。

「いえ、やっと涼しくなったので」

 眼が覚めてきました。

 この男も、夜行性か。


 第一事案 了

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