11.赤錆びたクラビ
「いつまで待つんだよ」
穴の外で、案内の男が苛立ちも露わに吐き捨てた。
「相手はカタワの女と子供だぞ。引きずり出しゃ終わりだろ」
船頭が長い枝を拾い、入口へ向けた。
「煙を入れるか?」
「馬鹿野郎! 商品を中で死なせる気かよ?」
山刀の男は腰の刃を少し抜いた。幅のある短い刃が、木々の間から差す光を受ける。
「俺が入る。お前らは入口を──」
そのとき蔓が揺れ、ロローリャがゆっくりと外へ出てきた。
濡れた服には泥がこびりつき、髪は頬へ張りついている。義足は泥に染まっており、身体の陰に落ちた右手が、錆と泥に塗れた細長い鉄を斜面に引きずっていた。
「ようやくお出ましか」
案内の男が歯を剥いた。
「このアマ、いちいち手間取らせやがって! お前、俺らのこと舐めてやがんだろ? 少しは殴ってわからせないとダメみてぇだな」
「待て!」
山刀の男の制止も聞かず、案内の男は船で突かれた腹を押さえながら、怒りに任せて踏み込んでくる。
「捕まえたら、まずその足を──」
ロローリャの右手が、身体の陰からゆっくり上がる。
それは赤黒い錆に覆われたサーベルだった。金属拵えの鞘は泥で汚れ、柄にも腐った革がまとわりついている。
案内の男が顔をしかめた。
「何だ、その汚えもんは?」
ロローリャは鞘口を奥歯でくわえ、右手で柄を握り込む。
「どこで拾ったか知らねえが、そんなもん持って勇ましいこったな」
船頭が長い枝を肩へ担ぎ、笑った。
ロローリャは右腕を引いたが、錆びた金属が鞘の奥で噛み、鈍く軋んだ。鞘口から赤茶けた刀身が指二本分ほど現れたが、そこで止まる。
案内の男が吹き出した。
「おいおい、抜けてもねえじゃねえか」
「怪我する前にそんなもんさっさと捨てろよ。商品に傷がつくと面倒なんだ」
船頭が枝で泥を叩くと、運転手も嘲笑った。だが穴へ近づく勇気はないらしく、山刀の男の後ろから顔だけを出している。
ロローリャは鞘を噛んだまま、斜面の下を見た。
案内の男は穴へ近づくため、坂を半ばまで登っていた。その後ろでは船頭が枝を構え、山刀の男が二人の動きを見ている。
ロローリャは奥歯に力を込め、首を反対側へと捻った。バキリと鞘口の錆が弾け飛び、刀身がさらに拳一つ分ほど滑り出る。鞘を口から放したロローリャは、そのまま斜面の下へ身を投げた。
「なっ──」
落下しながら右肩を引き、腰を捻る。口を離れた金属鞘が外へ跳ね、刀身が鞘の中を滑り、赤錆を撒きながら抜けた。外れた金属鞘は勢いのまま斜面へ叩きつけられ、泥を跳ね上げて案内の男の脇を転がる。
男の目が、思わず鞘を追った。その一瞬に、ロローリャが頭上から降ってくる。斜面を蹴った身体は宙で右へ巻き、横倒しになったまま一回転した。右手の刃だけが外へ伸び、丸めた背中がほどけるより早く、錆びた刃が弧を描く。
「ぐあっ!」
案内の男の腿が斜めに裂けた。踏ん張っていた足から力が抜け、男の身体が斜面へ崩れる。
斬り抜けた勢いのまま、ロローリャの身体が斜面に跳ねた。左半身が泥を叩き、潰れた息が喉の奥で詰まる。右の義足は支えにならず斜面の下へ流れかけたが、ロローリャは欠けた左腕の先を斜面へ突き立て、泥を深く抉りながら肩ごと押し込んだ。弾かれた身体はその力で向きを変え、もう一度右へ巻く。遅れて土を捉えた左足が斜面を蹴り、身体の後ろへ流れていた刃が地面すれすれの高さで前へ走った。
船頭が枝を振り上げる。
「このっ──」
枝が落ちるより早く、二度目の旋回がその下へ潜り込んだ。
刃が船頭の膝上を横に裂く。
「ぎゃあっ!」
船頭の脚が折れ、枝が手から飛んだ。男は片膝から泥へ落ち、両手で傷口を押さえながら喚いた。
ロローリャは回転の勢いを殺すように剣先を外へと流し、地面に片膝を突いた。泥に塗れた頬は地を這うように低く、丸められた背中では、息を吸うたびに肩が激しく波打っている。右の義足は留め革が裂け、斜面の下に転がっていた。左脚は泥を噛んで深く折れ、膝から先を失った右脚は、膝を斜面へ押しつけていた。
その右手から、長いサーベルが泥すれすれに伸びていた。刀身には赤茶けた錆が走り、刃もところどころ欠けている。ロローリャの身体は半ば崩れ落ちているが、血を啜った切っ先だけは少しも死んでいない。
その姿は、泥の中に伏せた手負いの獣だった。逃げるための片足を失い、身体にはもう立ち上がる術がない。それでも、近づくものが一歩でも間合いを誤れば、残った命のすべてを刃に注ぎ、喉笛へ食らいつく。
一瞬にして、山から男どもの下品な笑い声が掻き消えた。案内の男は泥の中で腿を押さえてのたうち回り、船頭も傷口を抱えたまま立てずにいる。
運転手が怯えたように後ずさる。その脇を抜け、山刀の男が静かに前へ出た。
「俺がこいつの相手をする。お前は穴を見張っておけ。ガキを逃がすなよ」
山刀の男はもがく二人を一瞥だにせず、腰から短い刃を抜いた。男の目は、血のついた長い刃と、それを握る右手だけを冷徹に測ろうとしていた。
ロローリャは荒い息を繰り返しながら、長い刃を泥の上に這わせ、積もった落ち葉の下へそっと滑り込ませた。錆びた刀身は濡れた葉陰に沈み、どこまで刃が伸びているのか、男の側からは見えなくなった。
「クソッ!」
山刀の男は腰を落とし、刃を身体の前へ構えた。爪先で斜面の足場を確かめながら、落ち葉の下に隠れたサーベルの間合いを探るように、ゆっくりと位置を変えていく。
ロローリャは白猿の教えを守り、泥に伏せたまま、男が踏み込んでくるのを待った。
山刀の男が足を止めた。次の一歩で、互いの刃が届く。
男の右肩がわずかに上がり、重心が前へ移る。ロローリャは、その踏み込みに先んじて地を蹴った。
左脚が泥を弾き、右脚の断端が斜面を削る。欠けた左腕を土へ打ち込み、身体を地面すれすれに走らせると、落ち葉の下から飛び出した刃が男の足首へ低く伸びた。
「ちっ!」
男は山刀を振る前に足を引いた。錆びた切っ先が脛の前をかすめ、泥だけが裂ける。だがロローリャは止まらない。外れた刃の重さを引きずるように身体を沈め、左脚だけで斜面を蹴り直した。
「猿かよ、てめぇ……!」
男の声から、さっきまでの余裕が消えた。片腕。片足。それなのに、ロローリャの身体は泥の上で跳ね、山刀の軌道から一呼吸ごとに外れていく。
欠けた左腕が泥を抉り、肩ごと身体の向きを変える。右脚の断端が斜面にめり込み、左脚がもう一度跳ねた。泥の上を這った刃が、今度は膝の内側へ走る。
「やべぇぞ、こいつ……!」
木の陰で運転手が喉を鳴らした。
男は半歩退いた。長い刃が膝を裂く代わりに、ズボンの布を細く飛ばす。退いたはずなのに、間合いが離れない。地面に伏せたままのロローリャが、泥を蹴り、欠けた腕で斜面を噛み、また足元へ潜ってくる。
「ウィチャイ! 何してる! さっさと斬れよ!」
案内の男が喚く。
「うるせぇ!」
ウィチャイは焦りとともに返事を吐き捨てた。
斬り下ろせば届く。だが、そのためには、ぬかるんだ斜面でもう半歩踏み込まなければならない。
草や枝を叩き払うための幅広い山刀は、近間では強い。だが、落ち葉の下から伸びる長いサーベルより先には届かない。足を出せば脛を刈られる。身を屈めれば、今度は切っ先が胸元へ跳ね上がる。
ウィチャイは山刀を引き戻した。ロローリャの次の動きを捉えようと、その顎がわずかに下がる。
ロローリャは口の中に残っていたものを吐いた。
錆と泥と、鞘口から剥がれた細かな欠片が、ウィチャイの目へ飛ぶ。
「っ!」
男の目が閉じた。
(白爺さんの種飛ばし……)
ロローリャは息を整える間もなく、左脚で泥を蹴った。低く潰れていた身体が、斜面から弾けるように前へ出る。
右手のサーベルが、地面すれすれからウィチャイの懐へ走る。
切っ先が胸元を裂き、布だけでなく、その下の肉まで浅く削った。血が細い線になって浮き、すぐにシャツへ広がる。
ウィチャイの息が止まった。
あと半歩詰めていれば喉だった。あと一瞬、目を閉じるのが長ければ胸の奥まで入っていた。避け切ったのではない。踏み込んだ瞬間、ロローリャの右手の中で柄がわずかに捩れた。
錆びついた柄頭の留めが緩み、茎が柄の中で遊んだのだ。それで切っ先が紙一重逸れ、胸を浅く裂くにとどまった。
ウィチャイは二歩下がった。山刀の柄を握る指が、白くなるほど締まる。
ロローリャの構えたサーベルには、赤黒い錆に混じって、いま斬られたばかりの自分の血が滲んでいた。さっきまで商品としか見ていなかった少女が、自分を斬った刃を握り、なお次の一撃を待っている。
もう一度踏み込めば、次は喉へ来る。
「おい、何を下がってる! ここまで来て手ぶらで帰る気かよ!」
腿を押さえた案内の男がわめき散らすが、ウィチャイの足はすくみ上がり、泥の中で動かない。
やがて奥歯を鳴らし、山刀を下げた。
「もういい。退くぞ」
「は?」
「聞こえなかったのか? 退くと言ってる!」
「おい、商品はどうすんだよ!」
ウィチャイの視線が、泥の中の案内の男へ落ちた。
「お前はその脚で歩けるのか? そうまで言うなら、ここから下まで一人で帰れ」
案内の男の喉が鳴った。言い返しかけた唇が歪み、傷口を押さえる指だけが泥を掻く。
ウィチャイは船頭の腕を肩へ回し、斜面の下にいる運転手へ顎をしゃくった。
「そいつを支えろ」
「俺が?」
「後ろでこそこそ震えてただけだろうが、てめぇ! 役に立たねぇなら、いまここでぶっ飛ばすぞ!」
運転手は青い顔で戻ってきた。案内の男の脇へしゃがみ、泥の中から引き起こそうとする。
「立てよ、ほら、立てって!」
「足が、足が……!」
「知らねえよ!」
案内の男は運転手の肩へ腕を回し、歯を剥いて体重を預けた。
「痛え! いてぇよ! 引っ張るなよ!」
「だったら自分で歩けよ、クソが!」
船頭もウィチャイの肩にすがり、どうにか立ち上がった。裂けた脚に力を入れるたびに膝が崩れ、泥へ落ちかける。
「聞いてねえよ……こんなの……」
船頭はウィチャイへ体重を預けたまま、震える声でこぼした。
四人は互いに身体を支えながら、斜面を下りはじめた。
ウィチャイは船頭を支えながら何度も振り返ったが、ロローリャは泥に伏せたまま、剣先を向け続けた。
やがて四人の姿と足音が木々の奥へ消えると、静まり返っていた山に虫の声が戻ってきた。
その声を聞いた瞬間、右手から力が抜け剣先が土に落ちる。ロローリャは身体を支えきれず、その場に崩れ落ちた。
「お姉ちゃん!」
穴からノイが飛び出し、斜面を駆け下りてきた。泥に足を取られながらロローリャのそばへ膝をつき、血に濡れた服へ震える手を伸ばす。
「お姉ちゃん、大丈夫? どこか怪我したの?」
「大丈夫だよ、ノイ。これは私の血じゃないよ。ちょっと膝とかを擦っただけ」
起き上がろうとした右腕が震え、身体はすぐ泥へ落ちた。
ノイはそこで、ロローリャの義足が外れていることに気がついた。
「お姉ちゃん、足が……」
「外れただけだよ。あそこに落ちてる。ねぇノイ、悪いんだけど取ってきてくれないかな。もう動けなくて」
ノイは斜面の下へ走り、泥の中から義足を抱えて戻ってきた。
留め革は裂け、木の脚は継ぎ目から大きく歪んでいる。
ロローリャは受け取ると、亀裂へ指を這わせた。
「曲がっちゃったな。これじゃ、前みたいには歩けないかも」
「直る?」
「たぶんね。木と紐があれば……でも、今は無理かな」
声は思ったより弱く、最後のほうは息に混じった。
ノイは義足を置き、ロローリャの右腕を自分の肩へ回した。
「お姉ちゃん、私につかまって。もう辺りも暗いし、いったん穴まで戻ろう」
「ありがとう、ノイ。本当に頼りになる妹だね」
ロローリャは一度だけ男たちの消えた森を振り返り、それからノイの肩へ体重を預けた。
二人は泥に足を取られ、何度も止まりながら斜面を登った。ノイの肩は小さく、頼りなかったが、ロローリャにはもう、それ以外につかまるものがなかった。
◇
穴の外は、すっかり夜になっていた。木々の隙間から差し込む月明かりが、穴の入口を淡く照らしている。山の冷たい空気が、穴の中へゆっくり流れ込んでくる。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「私たち、本当に売られたのかな……?」
ノイは膝を抱え、足元へ目を落とした。
「お父さんとお母さんも、知ってたのかな?」
「知らなかったと思うよ」
ロローリャは、間を置かずに答えた。
「あの男が言ったことが、本当とは限らないでしょ。お父さんたちは、本当に服屋で働くんだと思ってたんじゃないかな」
「ほんと?」
「うん。そうじゃなきゃ、ちゃんと働きなさいなんて言わないよ。ノイのお父さんとお母さんは、ノイのこと大事に思ってるもん」
「そうだよね」
ノイは小さく頷いた。
「でも、マニワンおばさんは、知ってたんだよね」
「……うん」
「じゃあ、村に帰ったら、あの人たちの仲間が来るのかな?」
「そうだと思う」
「じゃあ、私、もう家に帰れないのかな? みんなに会いたいよ」
ロローリャには、答えるすべがなかった。
「村にも帰れないなら、どこへ行けばいいの?」
ノイは顔を上げた。
「ここはもう、ラオスじゃないんでしょう?」
「たぶん、タイだと思う……」
「私たち、タイに知ってる人なんていないよ」
「うん」
「明日から、どうすればいいのかな?」
ロローリャは穴の外を見た。
「どうしよう……か」
口に出した声が、ひどく幼かった。
ロローリャは、自分の声に驚いた。
ノイを守ると言い、男たちへ剣を向けたばかりなのに、壊れた義足を前にした途端、昆明のスラムへ流れ着く前の幼い自分へ戻っていた。
字も読めず、金の数え方も知らず、片足で立つことさえできなかった自分。
あのころから何も変わっていないような気がした。
隣には、自分を頼るノイがいる。けれど、明日の朝、最初の一歩をどう踏み出せばよいのか分からない。
ロローリャは膝を抱え、軍人の遺骨と、そばに置かれた古いサーベルを見た。
それから、誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやいた。
「怎么办啊……王大兄」
ついに剣を……ッ!
ここまで読んでくださりありがとうございました。
ようやく2章も終わり、次章からタイ編開始です。
タイといえば仏様?
引き続きよろしくお願いいたします。




