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欠月剣娘百越譚  作者: 宙うし
第2章 西双版納~ラオス
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10.遺骨

 板場も小屋も後ろへ遠ざかった。船は操る者を失ったまま、エンジンだけが低く唸っている。


 船尾から伸びた舵柄は、船頭が落ちたときの向きのまま、細かく震えていた。船首は下流へ向いたかと思えば、横から押し寄せる流れに押され、また斜めに振られる。増水した川は、船を木の葉のように弄んでいた。


「お姉ちゃん、船を止めて!」


 ノイが荷の陰から顔を上げた。


「いまやってる!」


 ロローリャは船尾へ這い、右手で舵柄を掴んだ。体重をかけて押してみる。だが船首は思ったほうへ向かわず、急に右へ振れた。義足が濡れた板の上を滑る。


「なにこれ……どう動かすのよ」


 エンジンのそばには、錆びた金具と細い棒がいくつも突き出していた。手近な一本を押すと、エンジンが甲高く唸り、船はかえって前へ走り出す。


「違う、違う!」


 ロローリャは慌ててレバーを戻した。青いビニールシートがばたつき、荷の間から転がり出た油の缶が船底を走る。ノイは籠にしがみついたまま叫んだ。


「お姉ちゃん、前……前!」


 濁った水面に、太い流木が浮いていた。


 ロローリャは舵柄を力いっぱい押した。船首はわずかに逸れたが、避けきる前に船腹へ鈍い衝撃が走る。


 板が軋み、荷が崩れた。籠がノイの肩を打つ。ロローリャは舵を放し、ノイへ飛びついた。


「痛っ……!」

「ノイ、伏せて!」


 船は流木を擦りながら半回転した。船尾が流れに取られ、船首が岸へ向く。エンジンの唸りが一度跳ね上がり、底で何かを噛むような音を残して黙った。


 それでも流れは船腹を押し続ける。葦の茂る岸が、斜めに近づいてきた。


「掴まって!」


 ロローリャは身体ごとノイを押さえた。


 船底が浅瀬の砂を擦る。船首が泥岸へぶつかり、船体が跳ねた。二人は崩れた荷の間へ転がり、布袋と籠が上から落ちてくる。


 泥へ乗り上げた船首を軸に、船体が横へ傾いた。船べりを越えた水が、船底へ流れ込んでくる。


「お姉ちゃん……ここ、どこ?」

「知らない。とにかく降りるよ!」


 ロローリャは杖を拾い、船べりから泥岸へ突き立てた。先に岸へ降りる。泥は思ったより深く、義足がすぐに吸いついた。


「ノイ、急いで!」

「う、うん!」


 ノイは船べりを越え、葦を掴んで泥へ飛び下りた。


 その直後、流れに押された船尾が大きく振れた。船体が軋み、崩れた荷が川へ流れ出していく。青いビニールシートが水面に広がり、下流へ運ばれていった。


 ロローリャは泥の上へ手をついたまま、川上を見た。


 隠し船着き場はもう見えない。だが、船が流された先は向こうにも分かる。男たちが岸へ上がって川沿いを下れば、じきにここへ来る。


「立って」


 ロローリャは息を整える前に立ち上がった。


「これから……どうするの?」

「まずは逃げるの。ここから離れなきゃ」


 葦の切れ目の先に、低い畑と林が見えた。その向こうには、夕暮れの山が幾重にも重なっている。


「でも、道が分からないよ」

「道を行ったらあいつらにすぐ追いつかれちゃう。だから、いったん山へ逃げよう」


 ノイは川の向こうにかすかに揺らめく、ラオスの灯を振り返った。


(もう、戻れないのかな……)


 泥に足を取られながら葦を抜け、二人は山の黒い影へ向かって走り出した。


 ◇


 隠し船着き場では、岸の男たちが水際へ竹竿を伸ばしていた。


 水へ落ちた案内の男が竿へしがみつき、咳き込みながら泥の岸へ引き上げられた。少し下流では、船頭も葦に掴まっていた。岸にいたもう一人の男が駆け寄り、腕を引いて引き上げる。


 二人とも服から水を流し、息を切らしていた。


「畜生……あの女……」


 案内の男が腹を押さえて呻いた。


「殺してやる。捕まえたら――」

「黙れ」


 腰に山刀を提げた四十過ぎの男が、川下を見ていた。日に焼けた頬に古い傷があり、左の耳が少し欠けている。かつては国境警備の斥候として密輸路を追っていたが、負傷で部隊を離れ、金に困った末、今では追っていた連中の側に回っていた。


「舐めやがって」


 山刀の男は流されていく船を見た。


 舵を取る者はいない。片腕の女と子供に操船などできるはずもない。この増水した川なら、遠くまで行く前に浅瀬か流木へ当たる。


「車を出せ。川沿いを下って、船が岸へ当たったところを探す。あいつらが降りていれば、そこから追うぞ」


 船頭が水を吐きながら顔を上げた。


「あの女、義足だ。子供も一緒なら、山へ入っても速くは動けねえ」

「分かっているなら急げ!」


 岸の小屋の裏には、古いピックアップが止めてあった。岸にいた男が運転席へ乗り込み、山刀の男が助手席へ座る。濡れた案内の男と船頭は荷台へ上がった。


 車は泥を跳ね上げ、川沿いの道を下った。


 舗装の切れたところからは泥道になった。雨でできた水溜まりを越え、葦の茂みをいくつも通り過ぎる。案内の男は腹を押さえたまま、何度も悪態をついた。


「マニワンの奴、あんな厄介なのを抱き合わせやがって」

「小さいほうはともかく、あんなカタワの女、売り物になるのかよ?」

「どんな商品だろうが売れるなら売る。売れなければ捨てる。それだけだ」


 山刀の男が言った。


 しばらく進むと、川岸の木々の間に青いビニールシートが引っかかっていた。男たちは車を止め、斜面を下りた。


 壊れた船が泥岸へ斜めに突き刺さっている。船首は潰れ、荷の一部は川へ流されていた。人の姿はない。


 山刀の男は船を一度見ただけで、葦の中へ入った。


 泥の上に二人分の跡が残っていた。


 一つは小さな足跡。もう一つは、左足の靴底と、右側に残る平たい跡だった。右足の跡は深さが一定で、向きを変えるたびに不自然な角度を作っている。その横には、杖を突いた穴が点々と続いていた。


 山刀の男は跡を追って、葦の切れ目まで進んだ。折れた草は畑の端を抜け、山裾の黒い林へ消えている。


「くそ。山へ入りやがった」


 船頭が息を切らして後ろから追いついた。


「追いつけるか?」

「義足でこの泥だ。ガキも連れてる。速くはねえ」


 男は山刀の柄に手を置いた。


「探せ。二人とも生きたまま連れ戻す。多少痛めつけても構わねえ」


 ◇


 山へ入ると、川音は木々に呑まれた。腰まで伸びた濡れ草と蔓に足を取られながら、二人は濡れた斜面を黙って登った。


「もう少し。あの尾根を越えれば、川沿いから離れられるよ」

「さっきも、もう少しって言った」

「じゃあ、今度のは本当」


 ロローリャは笑おうとしたが、声は息に混じった。


 義足の中へ泥と水が入り、踏み込むたびに重さが増していた。杖を突く右手も痺れている。ノイの歩幅へ合わせようとすると、身体の傾きが大きくなった。


「お姉ちゃん、ちょっと休もうよ」

「ノイ、いま止まったら追いつかれるよ。もう少しがんばろう」

「でも、息が……」

「息なんて、吸えば戻るよ」


 言った本人が、一番深く息を吸った。


 斜面を登りきれず、ロローリャは大きな木の根へ肩を預けた。胸が速く上下し、喉の奥に鉄の味がした。ノイも膝へ手をつき、肩で息をしている。


 遠くで鳥が一斉に飛び立った。


 ロローリャは顔を上げた。


「あいつら……近づいてきてる」

「えっ。分かるの?」

「木々が騒めいてる感じがする」


 ロローリャは周囲を見回した。斜面の上に、岩と土の間へできた黒い穴があった。自然に崩れた穴なのか、昔、人が掘ったものなのか分からない。入口には蔓が垂れ、奥は闇に沈んでいる。


「あそこに、穴がある。隠れよう」


 二人は斜面を這うように上がった。


 穴の中は、外から見るより深かった。天井は低く、壁の一部には崩れかけた石が積まれている。雨水は入口までしか入っておらず、奥の土は乾いていた。


 ロローリャはノイを先に入れ、自分も蔓を掻き分けた。


 数歩進んだところで、ノイが止まった。


「お姉ちゃん」

「しっ。静かに」

「違うの。あそこ……あれ」


 ノイが震える指を向けた。


 穴の奥に、人の骨が横たわっていた。


 頭蓋骨は壁へ傾き、肋骨の間から草の根が伸びていた。腰のあたりには、腐った布と革のようなものが固まり、土と一緒になっている。


 ノイは息を呑み、ロローリャの服へしがみついた。


「人……なの?」

「だいぶ古い骨みたいだね」

「どうして、こんなところに」

「さあ」


 ロローリャは骨のそばへしゃがんだ。腐った布の間に、緑青の浮いた金属のボタンが残っている。胸元には、形の分からない金具もあった。


「これ、元は立派な服だったんじゃないかな。軍人さんかもしれないね」

「ねえ、もう出ようよ。ここ、怖いよ」

「外へ出たら、もっと怖い奴らがいるから我慢して」

「でも……」

「大丈夫。骨は起きないし、追いかけてもこない。それに私、いまからこの骨の人にお願いしておくからさ。ちょっとだけお邪魔しますって」


 ロローリャは入口へ戻り、垂れていた蔓を寄せた。外から穴の中が見えにくくなった。


「少しだけ休もう。あいつらが気づかずに通り過ぎてくれたら……そのあと出る」


 ノイは遺骨から目を離せないまま、ロローリャのそばへ座った。


 ◇


 追跡者たちは、山へ入っていた。


 案内の男と船頭は枝を払いながら進み、もう一人の男は何度も後ろを振り返っていた。先頭の山刀の男だけが、足元から目を離さない。


 折れた草。

 泥のついた石。

 杖の先が滑った跡。

 小さな手が斜面についた跡。


 山刀の男は斜面を上がった。


「本当にこっちで合ってんのかよ」


 案内の男が、腹を押さえながら言った。


「うるせえ。黙ってついてこい」


 山刀の男は木の根に付いた泥を指でこすった。杖穴の間隔が詰まり、義足の跡は深くなっている。逃げる足が、ここで一度乱れていた。


「近いぞ」


 男は顔を上げた。


 斜面の上に、蔓で半ば隠れた穴があった。入口の草だけが下へ倒れ、泥の筋が奥へ続いている。


「あそこだ」


 案内の男が歯を剥いた。


「袋の鼠じゃねえか」


 山刀の男は腰の鞘へ手を置いた。


「ロローリャ! ノイ!」


 低い声が山の中へ響いた。


「聞こえているだろう。二人とも大人しく出てこい!! お前らの名前も顔も割れている。村も家族も分かっている。逃げても無駄だぞ」


 船頭も声を張り上げた。


「今出てくれば、痛い目に遭わずに済むぞ!」


 案内の男は脇腹を押さえ、顔を歪めた。


「俺はもう十分痛い目に遭ったけどな。出てきたら、まず同じところを折ってやる」


 山刀の男が振り返った。


「商品を壊すな」

「少しくらいいいだろ」

「そいつは、買い手が決めることだ」


 ◇


 穴の中まで、男たちの声ははっきり届いた。


 ノイは両手で口を押さえている。息を吸うたび肩が小さく震え、目だけが入口へ向いていた。


「名前……呼んでる」


 指の隙間から、かすれた声が漏れた。


「返事しちゃ駄目」

「でも……、村のことも知ってるって」

「マニワンから聞いたんだよ」

「じゃあ、本当に家にも来るのかな。お父さんたちに……何かしたら」

「ノイ」

「私が逃げたから、家族みんなが──」

「考えないで」


 ノイがびくりと肩を揺らす。


「ごめん。でも、いまは家のことを考えたら駄目。ここから逃げることだけ考えるの。ね」


 穴の外で枝の折れる音がした。


 ロローリャは入口を見た。


「来た……。ノイ、奥へ下がって」

「どうするの?」

「入ってきたら、この杖で叩くよ」

「でも相手、いっぱいいるよ」


 ロローリャは入口を見た。外の光を背にした男たちの影が、蔓の向こうで揺れている。


「分かってる」

「お姉ちゃんも、もう……」


 ロローリャの息は上がり、右手は泥と血で汚れ、義足の継ぎ目には川の泥が詰まっている。船の上では、足場と流れが味方した。だが、ここには逃げ道がない。相手は四人。一人は刃物を持っている。杖一本でノイを守りながら抜けるには、穴が狭すぎた。


 ロローリャは奥へ下がった。背中が古い土壁へ触れる。その足元で、腐った布の下に何かが埋もれていた。


 右手が、冷たいものに触れた。


「え……これって……」

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