6.夏の終りの日の邂逅
婚約解消を言い出したエミーリエは、ベルンハルトがどれだけ宥めても懇願しても、解消の撤回には頑として首を縦に振らなかった。
それ以上の会話のないまま、エミーリエを邸宅に送り届けたベルンハルトは、翌日の訪問を約束し子爵邸へと帰って行った。
翌日、約束どおり男爵邸を訪ねたベルンハルトにもたらされたのは、エミーリエの失踪の一報だった。
「エミーリエに何をした!」
「私を疑わないでください。お姉様が勝手に出て行ったのよ」
アガーテを振り切ってエミーリエの捜索を始めたベルンハルトだったが、そもそもエミーリエには親しくしている友人はいない。懇意にしている親戚もおらず、家を出て訪ねるような相手は誰もいないのだ。
それでも、ベルンハルトの前から姿を消したエミーリエ。どれだけの絶望を感じさせてしまったのか。
何の成果もなくベルンハルトが疲弊しながら自室に帰ったところ、部屋の中に異質な何かの気配を感じた。
警戒しながら足を進めると、窓枠に佇む人の影が見えた。
「エミーリエ!」
そこにいたのは紛れもなく、捜し続けていたエミーリエだった。
エミーリエの目の前まで駆け寄ると、震える手を差し出しながら殊更ゆっくりと問いかける。
「エミーリエ、どこにいたんだ? ずっと捜していたんだ」
その時、ふわりとベルンハルトの前髪を風が揺らした。ふと見ると、普段は閉まっている両開きの窓が全開に開いている。
開いた窓から見える月の光を背に、その光を浴びて広がるエミーリエの銀色の髪は、まるで蜻蛉の翅のように虹色に煌めいていた。
すぐにでも飛び立ってしまいそうなエミーリエを見て、ベルンハルトは思わず手首を掴んだ。
「エミーリエ!」
「私に人の世は生き辛いのです」
どこか遠い目をしてエミーリエがそう呟いた。
「アガーテのことはすまない。でも、君だけを愛しているのは本当だ」
「私には人の心を理解するのが難しいのです。私を愛していると言うあなたの赤ちゃんがアガーテのお腹にいることが。私を慮るようなことを言いながら、陰で私の境遇を楽しんでいる人たちが……私には分からないのです」
――オイデ。
妖精の囁きには応えてはならない。妖精の甘言に耳を貸せば、きっとひどい目に遭うのだと。
けれど、人の世で裏切られることよりは悪くないはずだ。
――コチラにオイデ。
「ええ、行くわ。私をここから連れて行って」
――ケイヤクはセイリツシタ。
開いた窓からベルンハルトの部屋に強い風が吹き荒れた。強風に煽られ数歩後ろに下がったベルンハルトだったが、腕で顔を覆いながらエミーリエを求めて手を伸ばす。
「さようなら」
微かに聞こえた声が強風の中に消えると、音を立てて窓が戸を閉じた。
部屋の中にはエミーリエがいた痕跡は何も残っておらず、夢でもあったかのように元の静けさを取り戻していた。
◇
ベルンハルトの前から姿を消しエミーリアは、その後誰の前にも姿を現すことはなかった。
男爵たちはエミーリエの自発的な失踪と思っているが、ベルンハルトだけはエミーリエが妖精に連れ去られたのだと知っていた。
エミーリエが消息不明になり、ベルンハルトの婚約者はアガーテに挿げ替えられた。子爵家と男爵家との家同士の約束であったことと、アガーテの腹にベルンハルトの子が宿っていることから、両家の当主がそう推し進めた。
「俺はあの女に陥れられたんだ!」
ベルンハルトがいかに訴えても子爵は受け入れなかった。今、男爵家との関係が決裂すると、領地の経営が立ちゆかなくなる。
また、無様な息子の顛末を知った者たちの笑い物になるくらいなら、姉妹を入れ替えた婚姻という醜聞の方がましだと考えたのだ。
「どうか領地のために耐えてくれ。このことで男爵家から有利な条件を得ることができた」
やがてアガーテが男児を産み、その子はいずれ子爵家の跡取りとなる立場になった。
夫婦の関係は完全に冷え切っている。
ベルンハルトに於いては、妻となったアガーテには憎しみという感情しかない。そもそも、関係は最初から破綻していた。
当主同士が話を決め、子供ができたため結婚はしたが、アガーテが輿入れしてきた日から夫婦の寝室は別々だった。
すでに子は成したのだから触れる必要すらないと、初夜ともいえる夜にベルンハルトは冷たくそう言い放った。
「ベルンハルト様、私は正式なあなたの妻です。どうして寝室を別にするのですか?」
「お前は子爵家にその血を入れたいだけだろう? それなら、君の悍ましい策略ですでに叶っているじゃないか」
「悍ましいだなんてひどいわ」
「お前が俺からエミーリエを奪ったんだ。決して許しはしない。嫌なら持参金を持って、男爵家に帰るといい」
その後、ベルンハルトと子爵夫妻は本邸を生活拠点とし、アガーテは別邸で暮らすようになった。
「食事に毒でも盛られでもしたらたまらないわ」
子爵夫人がそう言って、アガーテが共に食事をすることを認めなかったのだ。
赤い顔をして怒りに震えていたアガーテだったが、現当主夫人にそう言われては従うしかなかった。
屋敷の使用人たちもある程度のことを察しているらしく、アガーテへの風当たりは強かった。
幼い頃から度々屋敷へ滞在していた、銀色の髪の可憐な婚約者の少女。ベルンハルトが大切にしていたのを屋敷の者たちは知っているのだ。
異母姉を陥れ、ベルンハルトを罠にかけて漸く手に入れた妻の座は、非常に居心地が悪く、思っていたものとは程遠かった。
◇
ベルンハルトの耳に一つの噂話が届くようになった。
妖精世界の扉が開くといわれる夏の終わりの日に、子爵家の街外れの森でエミーリエによく似た少女を目撃したというのだ。
一度はただの噂と一笑に付していたが、その話はずっとベルンハルトの頭に片隅に残っていた。
なぜなら、エミーリエを見たというのが、元庭師であったり、御者であったり、エミーリエのことを知る者が含まれていたからだ。
夏の終わりが近づくようになると、日に何度もそのことが脳裏をかすめるが、ただの戯れ言だと忘れたふりをした。
しかしどうにも我慢ができず、気がつけばベルンハルトはエミーリエが現れるという森に足を運んでいた。
すでにエミーリエが姿を消してから、五年が経とうとしていた。
子供の頃、エミーリエと並んで歩いた懐かしい森の道。あの頃は広いと思っていた小道が、思ったよりも狭い脇道だったのだと知る。
令嬢の集まる茶会や宝石やドレスには興味を示さず、自然豊かな場所を好み、森で楽しそうに笑っていたエミーリエを思い出して堪らない想いが胸に去来する。
あの時、エミーリアにすべてを打ち明け、許しを乞ういていたら彼女はまだ隣にいてくれたのだろうか。
あの日愚かにもパウラの奸計にはまらなければ、エミーリエとの幸せな未来があったのだろうか。後悔と悔しさが胸の奥を締めつける。
ベルンハルトが獣道を進み、開けた場所へと足を踏み入れると、どこからかクスクスと笑う少女の声が聞こえてきた。
「ふふふ。そんなに速いと足がもつれてしまうわ」
聞き間違えるはずのない愛おしい声。
「エミーリエ?」
もう一度その声を聞きたいと、声の聞こえた方へと足を早める。
聞こえてくる声を頼りに、獣道から草木を掻き分け、少し開けた場所に出ると、そこにいたのは姿を消したあの日と同じ姿をしたエミーリエだった。
以前とは違い、あの美しい銀色の髪が虹色に色を変えていた。軽やかなステップを踏む度に虹色の髪が宙を舞い、輝く鱗粉でも纏っているかのように、エミーリエが動く度に周りに光を放っている。
エミーリエは周りにいる小さな妖精たちと笑い声をあげながら、楽しそうに輪になって踊っている。
かつて一度でも、エミーリエがこんなに晴れ晴れとした笑顔をしていたことがあっただろうか。
「エミーリエ!」
少女はぴたりと足を止めると、駆け寄ってきたベルンハルトを首を傾げながら見つめている。
「だぁれ?」
不思議そうに見ている瞳はこちらを見ているようで見ていない。底の知れない湖の底を見ているような、そんな不思議な目をしていた。
「エミーリエ。ここにいたんだね」
エミーリエの元気な姿を目にして、ベルンハルトの目に涙が浮かぶ。
もう二度と逢えないと思っていた少女が目の前にいる。
「どうか戻って来てくれ。変わらず今でも君を愛しているんだ」
この機会を逃しては、またエミーリエを失ってしまうとベルンハルトは必死だった。
ベルンハルトはエミーリエに触れようと手を差し出すが、エミーリエは一歩下がって身を捩る。
「あいして……?」
エミーリエの目は確かにベルンハルトを見ているのに、間に磨り硝子でも置いたような隔たりを感じる。大きな瞳はベルンハルトを見ているようで見てはいない。
エミーリエは初めてのものを見るかのように、戸惑っているようにも見える。
「君が戻らないなら、どうか俺も君の元へ連れて行ってくれ。もう君のいない世界は耐えられないんだ」
ベルンハルトが涙混じりにそう言うと、エミーリエは再びクスクスと楽しそうに笑い始めた。
エミーリエは笑いながら、踊る妖精たちの輪から足を踏み出すと、薄衣の真っ白なスカートの裾を翻しながら跳躍するとふわりと爪先で着地した。
「妖精は嘘が嫌いなの。だから、嘘つきのあなたは連れていってあげない」
エミーリエがそう言ってベルンハルトをちらりと見たかと思うと、その姿は夢のように消えていた。
踊っていた小妖精たちも、キラキラと周りを飛んでいた小さな何かもすべてが消え、足下には白いキノコが綺麗な円状に並んでいた。
かつて、エミーリエがフェアリーリングと教えてくれたものと、ベルンハルトだけが森に取り残されていた。
「エミーリエ! お願いだ。俺も連れて行ってくれ」
生き物の気配のしない森の中に、ベルンハルトの声だけが響いている。
リィン。
静けさを取り戻した森のどこかで、あの日贈った鈴の音の澄んだ音が聞こえたような気がした。




