7.扉の開く夜
子爵領の外れには港がある。
隣国との交流も行われている港には、他国からの荷物や人の行き来も盛んである。そのせいか、ときに自国では流感していない病が持ち込まれることがある。
今年も領内で流行病が発生した。
最初は小さな咳から。その内に発熱し、身体の節々が強い痛みに襲われる。脱水症状やひどい倦怠感の末に命を落とす者も少なくなかった。
子爵はすぐに港を閉じ、王都から薬を取り寄せ、医者の派遣も願い出た。それでも患者は一向に減らない。
病の毒牙は子爵家にも及んだ。
罹ったのはベルンハルトとアガーテのまだ幼い息子。高熱が何日も続いた後、静かに息を引き取った。
アガーテは半狂乱で悲しみ、葬儀のために男爵家の両親も子爵家にやって来ていた。
そして今は、ベルンハルトがその熱に冒されている。
医者の見立てでは、今日か明日というところだ。
ベルンハルトが休む部屋にアガーテが入って来ると、ベルンハルトは痛みの引かない頭を上げて冷たい視線を送る。
「……子爵夫人になり損ねたな」
「あの子を亡くし、夫まで亡くそうとしている私にその言い草ですか」
「漸く……お前との結婚から解き放たれる。俺の過ちを突きつけられているようで、あの子供の存在が辛かった」
「子供に罪はありませんでしょう!」
大切だった子を悪し様に言われ、アガーテは思わず病床の夫に声を荒げていた。
「子供にはなくとも……お前に罪があるだろう?」
「ひどいわ」
「俺の死後は……従弟が子爵家を継ぐ。お前は男爵家に帰るだけだ」
しかし、アガーテには帰る場所などもうなかった。
復讐のためか、ベルンハルトがアガーテとの間に起こったことを、周りに喧伝して回っているからだ。
紳士の集まりで賭け事の敗者に与える罰則。負けた者が秘密を暴露するという、仲間内の軽い遊びだ。
そこでベルンハルトは、エミーリエからアガーテに婚約者が挿げ替えられた顛末や、現在の夫婦間のことを赤裸々に語ったのだ。
衝撃的な話は、その紳士たちから婚約者へ妻へと伝わり、アガーテを茶会に誘う者がいなくなった。
「最近、お誘いをいただけませんのね」
何も知らないアガーテが懇意にしている夫人にそう尋ねたことで事態が発覚した。
「夫や婚約者に媚薬を盛られては困りますでしょう? アガーテ様をお誘いすると他の方が参加を躊躇されますのよ」
意味深に目を細め、扇で口元を隠しながら夫人はそう告げた。
「ベルンハルト様は他の方たちに面白おかしく噂されていますのよ。どうしてあのようなことをわざわざお話しされたのですか!」
夫人から話を聞いた夜、アガーテは禁じられている本邸へと押しかけ、執務室にいるベルンハルトを咎め立てた。
「エミーリエに非がなかったことを知らせておかないと、可哀想じゃないか。エミーリエの名誉のためなら、他人になんと言われようと構わない」
目の前で騒ぎ立てるアガーテに、心底面倒臭そうに椅子に座ったままのベルンハルトが答える。
「私の立場を考えてはくださらないのですか?」
「なぜ考える必要がある?」
この数年ですっかりと変わってしまった夫が、冷たい目をして呆れたようにアガーテを一瞥した。すぐに手元の書類に目を通すと、アガーテの存在を無視してペンを走らせた。
「今はまだ小さく意味がわからないとしても、将来あの子の耳に入ったらどうなさるおつもりですか」
「両親の罪だ。受け入れるしかないだろう」
顔も上げずにそう答えた。
唇をきつく噛みしめながら、アガーテは執務室を駆け出したのだった。
その後、男爵家に少しの間だけ実家に戻りたいと願ったアガーテからの手紙が届いた。しかし、実家の弟はそれをよしとしなかった。
ベルンハルトの暴露話は弟の耳にも届いており、今姉が戻ってくれば、不仲の噂を後押しすることになると懸念したのだ。また、実家に戻ったままアガーテが離縁し、出戻ってくることになってはたまらない。
異母姉の婚約者に薬を盛って、無理矢理関係を結んだアガーテ。
過去の悪行が露見して、社交界で爪弾きにあっているアガーテ。
どこをとっても、今更男爵家に迎え入れるべきではない、むしろ距離を置くべきだと父親に進言したのだ。
弟はつい最近、新妻を迎えたばかりだ。それにより何の非もないはずの妻までもアガーテの噂によって、好奇の目に晒されている。
「僕はあの日、エミーリエ姉様を階段から落とすようメイドに指示していたあなたを見ていました。気に入らないことがあれば、今度は僕の妻にもそうするおつもりか?」
冷たい返事が弟から帰ってきた。実弟はすでに姉を男爵家の家族から排除していた。
◇
ゴホゴホと大きな咳が止まらないベルンハルトは、寝台に突っ伏しながら何度も咳を繰り返す。
ゼェゼェと音の鳴る喉が落ち着くのを待って横臥すると、窓の外にエミーリエが姿を消した夜と同じ月が浮かんでいた。
何日も食事を摂れずにいる身体は痩せ細り、目は窪み頬はこけすっかりと面変わりしている。
「やっと……この生を終えられる」
エミーリエを失ってからは、生きている理由を見つけられずにいた。
エミーリエと夫婦になり子が生まれ、ふたりで子爵領を盛り立てていくことを夢見ていた。悩むことや迷うことがあっても、ふたりであれば乗り越えられると信じていた。
あの日森で見たエミーリエを思い出す。
人の世の苦悩から解き放たれた晴れ晴れとした笑顔のエミーリエ。
貴族社会に馴染めずに、それでもベルンハルトのために溶け込もうと努めていた、あの頃の人形のような笑みではなかった。
妖精に囲まれて踊る姿は、巧みに描かれた宗教画のように美しかった。
今も妖精たちと、苦悩のない世界で生きているのだろうか。
いよいよ息が苦しくなってきたところで、ベルンハルトは頬を撫でる風に気がついた。
リィン。
澄み切った鈴の音が静かな部屋に軽やかに響いた。
「お姉様!」
アガーテの悲鳴にような声が聞こえてきた。
声がした方へ顔を向けると、そこにはベルンハルトを見下ろしながらエミーリアが立っていた。
虹色の髪をはためかせながら、窓際からベルンハルトのいる寝台へと近づいてくる。
「一緒に来る? 今のあなたなら連れて行ってもいいと妖精が言っているの」
かつて、嘘を重ね魂の曇ってしまったベルンハルトは妖精に拒絶された。
しかし、悔恨に苛まれ、過ちを偽らずにいる現在のベルンハルトに妖精が興味を持っているのだ。
「……お願いだ。連れて……行ってくれ」
息も絶え絶えにベルンハルトが懇願する。
「駄目よ! ベルンハルト様は私の夫なの。連れて行くなんて許さないわ」
「どうして? 彼はあなたのことなど愛していないのに?」
そう言うエミーリエの顔にははっきりと嘲笑の色が浮かんでいた。それはパウラやエミーリエの顔色を窺いながら息を潜めていたエミーリエとは全く別人のような表情。
「アガーテどうした?」
アガーテの大声が聞こえたのか。
男爵とパウラがベルンハルトの病室にやって来た。顔には感染避けのための表面に蝋を引いた重布をして、恐る恐るという体で部屋への中へと入ってくる。
「まさか、エミーリエ」
そこにいたのは、失踪して何年も経つエミーリエだった。
「どうして年を取っていないの」
死者が化けて出たとでも思ったのか、青い顔をしたパウラが震える手で口を覆う。
「彼を迎えにきたの」
男爵には、そんな不可思議な現象に覚えがあった。
前男爵夫人クラーラは男爵家の墓地の埋葬されているが、その中に何も入っていないことは男爵を含む数人しか知る者はいない。
確かに葬儀前夜までは棺の中に横たわっていたのだが、男爵が最後の別れをしようとしたそこに妻はいなかった。
教会関係者と数人で必死の捜索を重ねたが、クラーラが見つかることはなかった。汚れない魂だから神の御許に召されたのだと教会関係者が詭弁を弄し、そのままクラーラは何事もなかったかのように埋葬された。
教会内で遺体が消えたことを騒ぎ立てたくなかったのだろう。
「エミーリエ。教えてくれ。そこにクラーラはいるのか?」
男爵がエミーリエの母親の名を呼ぶ。
何年も前に姿を消した娘が、失踪当時と寸分違わない姿で目の前に立っている。それならば、煙のように姿を消した妻も一緒にいるのかもしれない。
「お母様は怒っているの。あなたが最後の約束を守らなかったから」
クラーラとの約束。
死を目前に控えたクラーラの心残りは、遺していく幼い娘のこと。
妻のことは盲目的に愛している夫だが、常々娘への愛情は薄いように感じていた。
『どうか、あの子をお願いします。エミーリエが笑って暮らせるように……どうか……あの子を大切にしてあげて』
泣きながら懇願する妻に、男爵は確かに頷いてみせたのだった。それを見たクラーラは安心したように息を引き取った。
「クラーラは生きているのか?」
「お母様は妖精の取り換え子。人の体が死んだときに本来の世界へと戻ったの」
時に妖精は、妖精の子と人の子を入れ換える遊びをする。
クラーラはそうやって入れ換えられた妖精の子だった。取り換えられた子は、何も知らないまま人の中で育ち、人として生きる。そして、ただの人として死ぬと、妖精の世界へと再び戻るのだ。
「クラーラに会わせてくれ! 頼む。もう一度クラーラに……」
誰よりも愛していた妻。
初めて逢った日に恋に落ち、何を犠牲にしてでも手に入れたいと願った愛しい人。
妻を亡くし、生きる希望もなく後妻を娶り、領地経営に心血を注ぐことで無為に日々を過ごしていた。
もう一度妻に逢えるなら、この世界など捨てても構わない。
そんな夫をパウラは信じられないような目で見ていた。死んだ前妻に気持ちも残していることは知っていた。歯噛みするようか思いで、男爵家に嫁いできた。
それなのに、目の前の夫はまた自分を捨てようとしているのだ。
「ふふ。あなたの魂は曇っているから連れて行ってあげない」
エミーリエは楽しそうに笑いながら、ベルンハルトに手を伸ばす。
もう思うように動かない身体に必死に力を入れて、片手をエミーリエに伸ばすと、その手がエミーリエに触れた途端、ふわりとベルンハルトの身体が浮き上がった。
先ほどまでの、病に冒された身体が嘘のように軽やかに動く。
頬はふっくらとし、痩せこけた肢体はエミーリエと別れたあの頃の姿に戻っていた。そのまま、エミーリエの背に両手を回し、失っていた小さな温もりを腕の中に納める。
「ずっと逢いたかったよ」
「今のあなたの言葉に嘘はないから、今度こそずっと一緒にいましょう」
「ずっと一緒にいよう」
顔を上げたエミーリエにベルンハルトが唇を寄せると、頬を薔薇色にして綻ばせたエミーリエが、ベルンハルトの背に回した手に力を入れた。
「行きましょう」
「やめて! お姉様、私の夫を連れて行かないで!」
アガーテがベルンハルトの手を掴もうと駆け寄る前に、リィンと鈴が鳴ってふたりの姿が宙に消えた。
「ベルンハルト様!」
「クラーラに会わせてくれ!」
偽りを繰り澱のように濁ったいくつかの魂を残して、永遠を誓った恋人たちは姿を消した。
それから数年後。
代替わりした子爵領の森で、亡くなったはずのベルンハルトと元婚約者が楽しそうに踊っているという噂がまことしやかに囁かれるようになった。




