5.妖精の囁き
——メズラシイタマシイのイロをシテイル。
妖精たちはベルンハルトを初めて見た日に、そう言ってベルンハルトに興味を示していた。
——ヒトのセカイにアワナイ。
——タマシイがクモリカケテイル。
——モッタイナイ。
そう口々に言う妖精の言葉を聞いて、ベルンハルトはエミーリエと同じく貴族社会に馴染めずにいる人なのかと考えた。妖精は社会から少し外れている者や、孤独を感じている者を好むからだ。
自分に近しいものを感じて、エミーリエは一方的に親近感を募らたのだった。
人に関わらないように生きてきたエミーリエだったが、ベルンハルトと会ったあの日、珍しく初対面の少年に対して放っておけない気分になり随分と踏み込んだ話をした。
頭のおかしい女だと思われてもいい。少しでも自分と近い少年の心が軽くなればと、奢った思いがあったようにも思える。
その結果、ベルンハルトはエミーリエを厭うことなく、むしろ心を開いてくれたようだった。
アガーテとの間に何もないとベルンハルトが言った時、エミーリエはすぐにそれは嘘だと見抜いていた。
ベルンハルトとの出会いは政略結婚の婚約者という関係だったが、それ以上に寄り添った関係であると、何があってもエミーリエの味方でいてくれる人だと信頼していた。
だからこそ、ベルンハルトの嘘に気づいてしまった。
なんでも話してくれていたベルンハルトが、エミーリエに隠し事をした。
そのことがどうにもエミーリエを打ちのめした。
——アノオトコはウソをツイテイルヨ。
ベルンハルトの嘘を知った時から、エミーリエの周りに姿の見えない妖精が纏わり付くようになった。妖精は人を騙すことはあるが、嘘はつかない。
——ダカラ、イッショにオイデ。
そう言って、エミーリエを誘惑するのだ。
◇
その後も、ベルンハルトが屋敷を訪れる度に、アガーテが同席するようになり、ベルンハルトに伴われて夜会へ参加しても、なぜかアガーテがベルンハルトの近くを陣取るようになった。
以前であれば、そんなアガーテにベルンハルトは弁えるよう窘めていたが、今は違っていた。エミーリエのことを気遣いながらも、アガーテの好きなようにさせていた。
「アガーテが無理を言って申し訳ありません」
「エミーリエが気にすることはないよ」
後ろめたさを隠すように無理に笑うベルンハルトに、胸騒ぎがする。
「アガーテが何か言いましたか?」
「いいや。何も言わないよ」
それを聞いたエミーリエが、とても悲しそうに睫毛を伏せた。それを見てもベルンハルトは何も伝えられる言葉がなかった。
また、一つベルンハルトが嘘を重ねた。
エミーリエを夜会や茶会に参加させるのを嫌っていたパウラだったが、今では積極的にエミーリエに参加させている。
しかし、そのたびにアガーテがベルンハルトの隣を譲らないのだ。
「あれではどちらが婚約者かわかりませんわね」
「令息も婚約者より大切にされているようですわ」
クスクスと笑いを漏らす令嬢たちの声がエミーリエの耳にも届いていた。
パウラがエミーリエを社交に参加させるのは、婚約者よりその異母妹を大切にしている様を周囲に見せつけ、エミーリエを惨めな目に遭わせる為なのだろうか。
やはり、自分はこの世界には馴染むことができないようだ。
——ココにオマエのイバショはナイ。
知っているわ。
——ダレモオマエをヒツヨウとシテナイ。
分かっているの。
それでも、ベルンハルト様には必要とされていると思っていた。
——ソレはイツワリだ。
ええ、そうね。
必要とされているのは私ではなかった。
「子爵令息とアガーテ様。よくない噂が流れていますわよ」
顔見知りの令嬢が親切めかして教えてくれるが、それか親切ではないことをエミーリエは知っている。
「ふわふわとしたあの方が、婚約者の浮気を知ったらどうなるかしら?」
「いつまでもああやって笑っていられるものかしらね」
他の令嬢たちと話しながら、意地悪な笑みを浮かべていたことを知っている。
妖精がエミーリエにわざわざ知らせてくるからだ。
◇
——オマエのイモウトのハラに、アノオトコのコがイル。
そう妖精が囁いても驚きはしなかった。
すべてが繋がった気がした。
エミーリエよりも、アガーテを気遣うようになったベルンハルト。アガーテがふたりの間にいても、咎めることはなくなっていた。
もう今ではどちらが婚約者なのかすら分からないのだ。
何度訪ねてものらりくらりと言葉を躱し、嘘をつき続けるベルンハルト。胸騒ぎの正体はこれだったのかと、真実がエミーリエの目の前に突きつけられた。
ベルンハルトのことはエミーリエのことを理解してくれる、たった一つの宝物のように思っていた。
彼がいたから、苦手な社交界にも馴染もうと努力をしていた。
——オマエのノゾミをカナエてアゲヨウ。
妖精がいつもの言葉を囁いている。
◇
秘密裏に婚約を解消しろと迫るアガーテだったが、ベルンハルトが頑なに婚約解消しないことで、最近はいつも苛々としていた。
「次にお父様が領地から帰ってきたら、真実を話します。私たちはすでに関係があるのだと言って、お姉さまとの婚約を解消していただきます」
「そんなことはさせない! それを言えば子爵家として違法な薬を盛られたことを訴える」
いくら男爵家が融資をしているとはいえ、まさか子爵家の嫡男に薬を使って関係を結んだとは父親に言えないのだろう。
パウラも親戚筋を企みに荷担させていたことを表沙汰にはしたくないようで、表だっての動きはなく、アガーテとベルンハルトの動きを静観している。
しかし、そろそろアガーテの我慢の限界が来たようだ。
「ひどいわ! ベルンハルト様に純潔を捧げたのに、なぜそのようにひどいことをおっしゃるのですか」
「誰がそれを望んだ! 俺の婚約者はエミーリエだけだ」
「だったら、お姉さまに言います」
「証拠もないのだから、言ったところでエミーリエは信じない。また、いつものお前の妄言だと思うだけだ」
アガーテとの関係は膠着状態のままだった。
もう少しで社交シーズンは終わる。王都を離れ領地に戻り、アガーテとの距離を取るつもりだった。
それまではとベルンハルトは必死にあらがっていたが、それで納得するようなアガーテではない。
社交の季節はどこかしらでひっきりなしに招待状が飛び交う。
ベルンハルトと向かう馬車の中で、エミーリエは向かいに座るベルンハルトを見つめていた。
悲しみを湛えた水色の瞳が、ベルンハルトをじっと見据えている。すべてを見透かすようなその瞳に、自分の醜い部分が見えているのではないかと恐れ、思わず目を逸らしまった。
ベルンハルトは目を逸らした後、すぐに取り繕ってエミーリエに優しい目を向けたが、エミーリエは沈んだ顔をしている。
「今のは、違うんだ」
「婚約を解消いたしましょう」
アガーテとベルンハルトのことで何かしら思うところはあるだろうとは感じていた。エミーリエが何かを言いたそうにしていることにも気づいていた。
「それだけは駄目だ」
「アガーテのお腹には、あなたの赤ちゃんがいるそうです」
「……え?」
アガーテが余計なことを言ったのかと考えたが、いつも付きまとってくるアガーテはそんなことは一言も言っていなかった。
もし、妊娠していたとしたら、すぐさまベルンハルトに結婚を迫ってくるだろう。
「何を言ってるんだ?」
「妖精が教えてくれました。まだとても小さいそうですが、もうすぐアガーテも気づくはずです」
「妖精が?」
半信半疑でそう呟いたベルンハルトに、エミーリエは話を続ける。
「ベルンハルト様は、先日お見えになった時にアガーテに私には絶対に言うなと口止めされましたね? 証拠もないのだから、言ったところでエミーリエは信じないと」
それは正にベルンハルトがアガーテに言った言葉そのままだった。エミーリエに真実を告げると脅すアガーテに嫌気がさして、思わず言ってしまった言葉だ。
ベルンハルトがごくりと唾を飲んだ。
どうしてエミーリエが知ってる?
その話は周りの誰にも聞かれないように、アガーテと二人きりの時に話したはずだ。
「……妖精がエミーリエのために知らせてくれたのか?」
「私のためではないでしょう。私は彼らの娯楽なのです。彼らは私に真実を告げて、私が苦しむのを見て楽しんでいるのです。ですが、彼らは嘘はつきません」
薬を盛られたとはいえ、確かにアガーテと一夜を共にしてしまった。
エミーリエには隠し通すつもりだった。いずれ真実を告げるにしても決して今ではなかった。
愛しているのはエミーリエだけなのに。
「婚約を解消しましょう。ベルンハルト様の気持ちがアガーテに向かっているのには気づいていました。ですが、言い出す勇気が持てず、ずるずると今日まで引き延ばしてしまいました」
「違う! エミーリエ聞いてくれ!」
下を向くエミーリエの美しい湖面のような瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
そして顔を上げたエミーリエは、ベルンハルトがかつて見たことのある表情をしていた。それは、初めて会った日の感情の読めない人形のような顔。他をすべを排除した顔。
エミーリエの空虚な世界の中に、唯一踏み込めるのは自分だと自負していた。同じく、自分の中に踏み込めるのもエミーリエだと。
だが、もうエミーリエの世界にベルンハルトは拒絶されてしまった。
「アガーテが好きなのだと、あなたから言って欲しかった」
「聞いてくれ。エミーリエが足を痛めて欠席した夜会で、夫人とアガーテに薬を盛られた。それでそのまま訳が分からないまま……」
それが真実なのかは最早どうでもよかった。
「……妖精と契約をしてしまったのです。ここから連れ出してほしいと」
「エミーリエ、どうか許してくれ。あれは……」
言葉を続けようとしたベルンハルトだったが、目の前のエミーリエがそれ以上言うなとばかりに首を横に振った。
「お腹の子には父親が必要です」
エミーリエに子ができてもがきっと誰も喜びはしないけれど、アガーテの子であればパウラも屋敷の者たちも喜ぶのだろう。
——ムカエにイクヨ。
ごく近くで妖精の羽音が聞こえた気がした。




