4.ベルンハルトの嘘
エミーリエと初めて会ったのは、十をいくつか過ぎた頃、父親に連れられて男爵領の屋敷を訪ねたときだった。
ベルンハルトとそう年齢の変わらない男爵令嬢は、真っ直ぐに伸びた光を放つ銀色の髪と、長い睫毛に縁取られた吸い込まれそうに澄んだ水色の目をしていた。
日焼け一つない真っ白な肌と、子供らしさの残るふっくらと薄紅に色づいた柔らかな頬。微動だにせずに佇むエミーリエはまるで精巧な人形のようで、本当に生きているのかと疑うほどに美しい少女だった。
大人たちの会話を聞いているのか聞いていないのか、エミーリエは伏し目がちな瞳でじっと一点を見つめていた。
よく喋る男爵夫人に辟易していたところ、男爵が剣の訓練場への案内をエミーリエに申しつけた。
「はい。お父様」
そう言いながら素直に頷いたエミーリエは、使用人とともに男爵家の訓練場へ案内するため部屋を出た。
男爵家の使用人に案内されながら、毛足の長い絨毯を歩き、階段を下り屋敷の裏へと歩いて行く。
男爵の屋敷を初めて見たが、近年新しく建てられた屋敷らしく、階段一つをとっても手摺りに精緻な彫刻が施されている。外観も石造りの重厚な造りとなっており、その外壁の装飾は貴族の屋敷の中でもひときわ目を引くものだった。
貴族に列せられて日が浅いことから、金で爵位を買った成り上がりと揶揄されてはいるが、領地運営も商売も順調で、下手な貴族よりも財力のある家だ。
扉から外に出ると熱を帯びた風が体を包んだ。
太陽の光を浴びて葉を伸ばす庭園の木々は、広い庭を青青と彩っていた。
「ご令息様、こちらです」
「ベルンハルトでいいよ」
「はい。ベルンハルト様」
庭園の奥から、幾人物もの男たちの声が聞こえてくる。
男爵家では領地の治安維持のために、独自に騎士を抱えているのだという。木剣がぶつかる音も聞こえることから、この先に訓練場があるのだろう。
エミーリエは寡黙なまま狭い歩幅で歩を進める。特に話しかけてくるでもなく、黙々と目的地までを歩いていた。
ベルンハルトの知る同じ年頃の娘と比べても、随分と落ち着いている。
「訓練場など、令嬢は行きたがらない場所だろう? ここからは俺だけで行くことにしようか」
「いえ、平気ですので、このままご案内します」
抑揚のないこえでエミーリエが言う。
「……ベルンハルト様は剣がお好きなのですか?」
「そうだな」
「見るのをやめますか?」
エミーリエは前方歩いている使用人をちらりと見ると、小声でベルンハルトにそう告げた。一瞬、ベルンハルトはあの不思議な瞳に見透かされたのかと焦りを見せたが、すぐに取り繕うように表情を整えた。
「いや、案内してくれ」
見学もせずに戻ったと知った子爵が何と言うか、考えるだけで面倒だ。
「……妖精が言うには、無理がたたると魂が曇るのだそうです」
「は? 妖精?」
「妖精は私に無理をやめるようにとよく言います。魂が曇ると面白くないのだそうです」
エミーリエが唐突に話し始めた荒唐無稽ともいえる話を、ベルンハルトは目を丸くして聞いていた。
「君は妖精を信じているのか?」
「どうでしょう?」
エミーリエは答えを曖昧にしたまま話を続けた。
「そのせいというわけではないのですが、私は少し自由に過ごすことを覚えました。色々と無理をした方が上手くいくこともあるのですが、本当に嫌なことは結構やめてます」
年齢は変わらないはずのエミーリエの、達観ともいえるその表情にベルンハルトは落ち着きのないものを感じた。おかしな子供の戯れ言というには信じられるような何かがあった。
やがて、使用人が訓練場への通用口を開けると、耳をつんざくような荒々しい声が聞こえてきた。
「私、変わっているでしょう?」
使用人が騎士に何かを説明している間、エミーリエが自嘲めいたことを言う。
エミーリエは死別した前妻の娘だと聞いている。なんとなくあの気の強そうな継母が、継子にそう言っているのだろうと想像ができた。
「……変わってはいるかもな。令嬢がそんなことを言っていたら、社交界ですぐに噂されるぞ」
エミーリエ本人こそが妖精のような容姿をしている。
社交界の令嬢たちとの足の引っ張り合いでは、真っ先に標的にされそうだ。
「そうですね。私には、この人の世は生き辛いようです」
「俺にそんなことを言っていいのか?」
「妖精たちがあなたを気にしています。たぶん、あなたは少しだけ私と似ているのだと思います。気に障ったならごめんなさい」
生き辛いと言われてベルンハルトは苦笑した。
剣術は貴族の令息の嗜みと言われているから嫌々習ってはいるが、その必要性が分からない。剣の腕はそれなりで、不得手だからやりたくない訳ではない。
積極的に剣を持たないベルンハルトに業を煮やした子爵が、剣術に長けていると評判の男爵領の騎士を見せるために、この場を設けたのだろう。
礼節を重んじて家名の品位を保ち、規範に従って道を外すことがないように生きることが、貴族の嫡子としての義務だ。他者に弱音を吐くことや、他の貴族に足下を掬われるようなことはできなず、絶えず気を張っていなければならない。
窮屈な生活にほとほと嫌気がさしていたところだった。だが、貴族に生まれたからには、守らなければならないことがある。
そのため、実際には剣術をやめることはないだろう。
しかし、この貴族令嬢らしからぬ少女は、やめたいならやめてもいいと言う。
「……本当は剣術には興味がないんだ。貴族の子息としてやらされているだけで、今日も本当は憂鬱だった。でも、無理ならやめてもいいというのは考えたこともなくて、少し気が楽になったよ。本当に無理がたたったら、魂が曇る前に泣いて喚いてやめさせてもらうことにする」
「そうですか」
エミーリエがそう言いながら表情を緩めると、今日初めて本当の表情が見えた気がした。
その後の訓練場での見学は苦痛ではなかった。騎士の中に入り剣を振り、思ったよりも有意義な時間を過ごすことができた。
その間エミーリエは、また元の人形のような表情に戻って、ベルンハルトのずっと訓練を見ていた。
男爵家で出逢った少し風変わりな令嬢は、そのままベルンハルトの婚約者となった。
思えばこの日のことも、最初から仕組まれていたことなのだろう。婚約を厭って話すら聞かずにいたベルンハルトが、エミーリエのことを拒絶しなかったことで、父親が当初の予定どおり縁を結んだのだと予想できた。
子爵夫人である母親が、家格の劣る男爵家との縁をよくも許したものだと思っていたら、どうやら男爵家とは婚約を条件とした融資の取り決めがあったらしい。
現在の子爵家は度重なる悪天候と、それを補填するために起こした事業の失敗により困窮していた。そのため、子爵が息子との婚約の合意をさせるべく、エミーリエとの顔合わせとなったようだ。
最初にそれを聞かされていたら、恐らく反発しただろう。
父親の手の平の上であることは業腹だったが、エミーリエとの婚約と聞いて少しも嫌悪の感情が浮かばなかったことに驚いた。
ベルンハルトは思っていたよりもエミーリエを気に入っていたらしい。
エミーリエは最初から貴族特有の腹のさぐり合いもなく、どちらかといえば心の弱さを見せた相手だ。気負うこともなく、自分を偽ることもなく自然体でいられた。
最初は口数が少なく本心を見せることもなかったエミーリエだが、非常に控えめにだが胸の内を吐露してくれるようになった。
エミーリエの男爵家での境遇を知って、どうにか態度を改めさせようかとも思ったが、男爵夫人を敵に回すのは厄介だと分かりそれをやめている。
男爵夫人は社交の場の一切にエミーリエを参加させないが、特に本人は気にしておらず、積極的に社交に出たがっているわけでもない。
ベルンハルトもそれをよしとして、男爵領や子爵領で婚約者との親交を深めた。それは、自分だけの可憐な少女を、他に見せたくない気持ちも強かった。もし、他の貴族の目にとまれば、もっと高位の貴族令息に横槍を入れられることになるかもしれない。
◇
エミーリエを本当に大切にしたいと、幸せにしたいと思っていたのだ。
エミーリエを救うことができるのは自分なのだと自負していた。
「私の純潔を捧げたのですから、責任を取ってくださいますわね」
薄暗い乱れた寝台の上で、アガーテがしどけない態度でベルンハルトを見上げているが、真っ赤に彩られた唇が発する言葉を上手く理解できないでいた。
「何を言っているんだ」
だが、何があったのかは、寝台の様子を見れば一目瞭然だった。
パウラが呼び止めた給仕に渡された酒を飲んでから、ベルンハルトの意識は朦朧としていた。
暗い部屋に入り、エミーリエに贈ったドレスとエミーリエの香りがした。そこからは無我夢中でエミーリエを貪っていた。
「あの酒に何を入れた?」
大きな声を出して屋敷の使用人がやって来ては困る。ベルンハルトは声を潜めながら、アガーテに真実を話すよう問いただす。
しかし、アガーテはベルンハルトの言動を予測していたかのように、全く意に介していない。
「何のことでしょう? ベルンハルト様の体調が思わしくないと聞いて、様子を窺いに来ただけですわ。そうしたら、ベルンハルト様が私の想いを受け入れてくださったの」
アガーテは緩く首を傾げると胸の前で両手を組んで、うっとりとベルンハルトに微笑みかけた。
「ふざけるな!」
「私たちのことを知ったら、お姉様はどんな顔をなさるかしら?」
思わず大声をあげたベルンハルトだったが、アガーテはどこ吹く風だ。
急に真顔になると、挑発するようにベルンハルトを上目遣いで見る。
「脅す気か?」
「脅すだなんて、恐ろしいことをおっしゃらないでください。ですが、今後は私のことも気にかけてくださいませね」
◇
エミーリエの足の腫れが引いてきた頃、ベルンハルトが男爵家にやってきた。
「ベルンハルト様、お待たせしました」
また、ベルンハルトの来訪を知らされていなかったエミーリエは、呼びに来たメイドと共に応接間へと向かった。そこには予想どおり、アガーテが自分の客とでもいうように、ベルンハルトをもてなしていた。
よくある光景だが、今日はそのふたりの様子にエミーリエは違和感を覚えた。
いつもであればすぐにアガーテを退出させるベルンハルトが、アガーテの顔色を窺っているように見える。
しばらく、応接間に居座り続けたアガーテだったが、ベルンハルトに向けて思わせぶりな笑みを浮かべると、そのまま退席していった。
「アガーテと何かありましたか?」
何かがおかしいという感覚を保ったまま、エミーリエがベルンハルトへ問いかけた。
「いいや、何もないよ」
ベルンハルトはエミーリエと目も合わさず、俯いたままそう答えた。




