第九話 次の勇者
「巡回に出た時刻より、異常なしを確かめた時刻の方が早い」
ロイド・グレンツが紙を机の向こうへ滑らせると、トーマ・ハインは身を乗り出して覗き込み、首を傾げた。何がまずいのか、まだ分かっていない顔だった。
「お前は巡回に出る前から、異常がないと分かるらしいな」
「あ……すみません」
「謝る暇があるなら、書き直せ」
壁際で、分隊長のレオン・ヴァルツが小さく笑った。
「またかよ。今月三回目だろ」
西門の脇に建つ、警備隊の詰所だった。ノアたちが門を発った翌朝で、机の上には夜のうちに上がってきた報告書が積まれている。トーマの一枚は、昨夜から西側の城壁に足した夜番のものだった。ラグナ街道の牙狼の件がどうにも腹に落ちず、ノアを見送ったその足でロイドが命じた見張りだ。
扉が開き、セシル・アーヴェンが紙の束を抱えて入ってきた。各分隊の報告も、他の門からの連絡も、ロイドの机に着く頃には、たいてい彼女の手で一度揃えられている。
「王宮から各門へ通達です。それと、中央から警備の応援要請が」
通達を三行目まで読んだところで、ロイドは小さく息を吐いた。
「……決まったか」
「次の勇者ですか? ユリウス・レインですよね?」
トーマの筆が止まっていた。
「本日午前、王宮にて任命。正午から、中央広場で国民への披露が行われます」
セシルが言うと、トーマの顔がぱっと明るくなった。
ユリウス・レインの名は、ロイドも知っている。王都を拠点にする第一等級の冒険者で、国外へ向かう依頼では西門を使うこともあった。こちらが通行証を確かめ終えるまで、急かしもせずに黙って待つ男だった。
通達には続きがあった。勇者一行を新たに組み直すこと。旧一行にいた者が一人、指南役として加わること。その者の名は、書かれていなかった。
「応援は」
「各門の守備隊から人を、とだけ。西門から出せるのは一個分隊が上限だと、先方にはもう伝えてあります」
「もう?」
「隊長なら、そこを上限にされると思いましたので」
ロイドはセシルの顔を眺め、椅子の背にもたれた。
「……俺の仕事は、どこに残ってる」
「どの分隊を出すかは、隊長に決めていただきます」
「レオン。お前のところだ。俺も行く」
詰所の中が、一瞬だけ静かになった。警備隊長が自ら広場の人垣の整理に出ることなど、まずない。
「隊長が出るほどのことじゃないでしょう」
「足りないから行くんじゃない」
ロイドはそれ以上、理由を言わなかった。
「勇者様が決まったなら、これで一安心ですね」
トーマが、弾んだ声を出した。
「ずっと空いたままじゃ、みんな不安でしたから。種の違う魔物までまとめて押し寄せてきて、国ごと潰すっていう、魔物の大規模侵攻。あれがこの国に一度も来たことがないのは、勇者様と聖剣のおかげだって」
「証明されたわけではありません」
セシルが、帳面から目を上げずに言った。
「記録に残る大規模侵攻は、四度。四度とも、アルヴェリアの外で起きています。勇者と聖剣が遠ざけてきたのか、たまたま免れてきただけなのか、四度では判断できません」
「でも、周りの国だって、うちにならって勇者を立てたじゃないですか。効き目がなきゃ、真似なんかしませんよ」
「真似をしたことと、効いたことは別です」
「夢がないなあ」
「事実と願望は、分けた方がよろしいかと」
「でも三年前のベルガントだって、勇者様が駆けつけたから持ち直したって――」
レオンの目が、ちらりとロイドへ動いた。
ロイドは答えなかった。視線は、扉のすぐ脇の壁へ向いていた。人の背丈ほどもある大斧が一本、太い金具に掛けられている。柄の革は手の形に黒ずんでいる。門の勤めでロイドが腰に下げるのは、支給の長剣だけだ。大斧は、もう長いこと、そこから外されたことはない。それでも、油だけは切らしたことがなかった。
セシルが、通達の下からもう一枚を抜き出した。西門管轄の巡回報告から、魔物の目撃だけを拾ったものだった。家畜が一頭、夜のうちに引きずられていった。ベルク街道の脇で、灰色の獣を見た。一つずつなら、どれも珍しい話ではない。横には、昨年の同じ時期の数が書き並べてあった。
「西の三つの街道すべてで、増えております。ラグナだけの話ではないかと」
ロイドは紙を置かなかった。
「東、南、北にも問い合わせてくれ。増えてるなら、いつからか」
「夕方までに揃えます」
正午の鐘が鳴る前から、中央広場は人で埋まっていた。
大通りには色とりどりの旗が渡され、広場の縁には露店が並んでいる。焼いた腸詰めの脂の匂いに、揚げ菓子の甘い匂いが混じる。北の端に、白い布を張った壇が組まれていた。
ロイドはレオンの分隊を広場の西側へ散らし、トーマは自分の隣に置いた。目を離せば、壇の方へ吸い寄せられていきそうだったからだ。
処刑の日、ロイドは西門を離れなかった。門を空けるわけにはいかないと、自分に言い聞かせた。それが半分は嘘だということは、自分でも分かっていた。
石畳の一角が、周りより白かった。何度も水を流して、擦り洗ったのだろう。石と石の継ぎ目にだけ、洗い落とせなかった黒いものが細く残っている。あの日、ここに処刑台が組まれていた。今は、腸詰めを頬張る男が、子供の手を引く母親が、壇を見ようと首を伸ばしながら白い石を踏んでいく。足元を見る者は、一人もいなかった。
露店の一つに、刷り物の一枚絵が吊るされていた。純白の外套を翻した男が、輝く剣を高く掲げて丘の上に立っている。王都の子供なら、一枚くらいは持っている絵だ。
絵の下の、名前が刷られていたはずの場所に、小さな紙片が貼ってあった。ユリウス・レイン、と手書きの文字が並んでいる。紙片は、少しだけ斜めに貼られていた。その右の端から、下に刷られた名前の最後の一字が、半分だけ覗いている。
ヴ、と読めた。
正午の鐘が鳴ると、大通りの奥から歓声が波のように押し寄せてきた。近衛の騎馬に前後を守られて、新しい勇者の一行が広場へ入ってくる。
壇へ上がった者たちの先頭に、ユリウス・レインがいた。肩には純白の外套、腰には一振りの剣。どちらにも、見覚えがあった。門を通るたびに、別の男の肩で翻り、別の男の腰で揺れていたものだ。
長弓を負った背の高い女と、杖を手にした若い男が、それに続いた。どちらも名の知れた冒険者で、門で何度か顔を見ている。ユリウスの半歩後ろには、もう一人、男が立っていた。
「バルトロ・アイゼンだ!」
トーマが声を上げた。周りでも、同じ名前がいくつも上がる。
アレンの一行が門を出入りするたび、決まって一番大きな荷を背負っていた男だ。野営の道具も食料も仲間の分まで担いで、列の最後を平然と歩いていた。今日は、何も背負っていない。仕立てのいい上着を着て、新しい勇者の後ろに立っている。
壇の脇で、王宮の役人が巻物を広げた。
「先の勇者が道を誤り、空となっていた勇者の座に、本日、新たな者を迎える」
よく通る声だった。隣で、トーマの手が一度だけ止まった。すぐにまた叩き始める。さっきより、大きな音だった。壇の上のバルトロは、眉一つ動かさなかった。
役人はユリウスの名を三度呼び、その功を一つずつ読み上げていった。二人の仲間の名が続き、最後に、指南役の名が読み上げられた。先の一行にあって長く勇者を支え、王宮の調べにより反逆への関与なしと認められた者、バルトロ・アイゼン。広場は、もう一度沸いた。
西門の詰所の壁には、今もディーン・クロウの手配書が貼ってある。同じ一行にいた二人のうち、一人は門で探され、一人は新しい勇者の後ろに立っている。
アレン・グレイヴは、西門を通るとき、必ず門兵の名を呼んだ。勇者が門番の名など覚えてどうする、とロイドは思っていた。配属されて間もない若い兵の名でも、一度聞けば、次からは間違えなかった。トーマも、呼ばれた一人だ。初めて名を呼ばれた日、トーマは一日じゅう、詰所でそのことを話していた。
最後に見たのは、処刑の一年ほど前になる。日の暮れかけた門の内側で、頭巾を深く被った男が、荷馬車の脇から一歩退いた。轅が跳ねたのは、その後だった。
アレン様、とトーマが声を掛けた。男は一度だけトーマを見て、何も言わずに通り過ぎた。頭巾の陰で、目の下が黒く沈んでいた。仲間の姿はなかった。男は門をくぐらず、その脇から職人町の裏通りへ入っていった。それきりだった。
その夜、トーマは詰所で、アレンの話をしなかった。
壇の上では、役人が巻物を巻き終えていた。先の勇者の名は、最後まで呼ばれなかった。
「勇者ユリウス・レイン。聖剣を」
ユリウスが、腰の剣を抜いた。正午の光を跳ね返す、白く硬い刃だった。それが頭上へ掲げられた瞬間、広場は割れるような歓声に包まれた。
あの剣が鞘から抜かれるところを、ロイドは一度だけ見たことがある。三年前だ。それ以上は、思い出さないようにした。
人垣が一斉に前へ傾いた。何百という身体が、壇へ、剣へと寄っていく。
その中で、一人だけ、流れに逆らっている者がいた。くすんだ茶の外套を着た、痩せた男だった。前へ詰める人々の肩を押し分けて、後ろへ、後ろへと下がっていく。顔は、壇へ向けたままだった。
「レオン、ここを持て。トーマ、動くな」
ロイドは人と人の隙間へ身体をねじ込んだ。茶の外套が、肩と肩の間に見えては隠れる。男は広場の縁まで下がりきると、露店の裏の路地へ滑り込んだ。
路地の口へたどり着いたときには、もう誰もいなかった。干された洗濯物が、風に揺れているだけだった。
持ち場へ戻ると、ロイドはレオンを呼んだ。
「あの路地の口に、一人立たせろ。茶の外套の痩せた男を見たら、止めて名を訊け」
「何かありました?」
「分からん。だから立たせる」
ロイドは、もう一度壇を見上げた。ユリウスは、剣を鞘へ納めるところだった。あの男が下がり始めたのは、その剣が抜かれた、ちょうどそのときだった。
歓声の中で、バルトロだけが群衆を見ていなかった。その目は、ユリウスの背中に据えられていた。剣を掲げる腕の高さも、民へ向ける顔の角度も、一つずつ確かめるように。
初めて大役を務める教え子を見守る、指南役の目なのだろう。
西門へ戻ったのは、日が傾きはじめた頃だった。
詰所の机には、セシルが四枚の紙を並べて待っていた。東門、南門、北門。それに、朝の西門の分。
「四つ全部で、昨年の同じ時期のおよそ倍です」
セシルは壁の地図の前へ歩み、炭筆を取った。王都を真ん中に、門から延びる街道が描かれている。目撃のあった場所に、一つずつ印が付けられていく。西に。東に。南に。北に。
レオンが地図の前へ寄ってきた。トーマも、書き直した報告書を置いてその後ろに立った。
炭の印は、王都の周りに散らばっていた。どの方角にも偏りがない。そしてどれも、王都から一日と離れていなかった。
「去年までは、もっと遠くでした。数だけではなく、場所も王都へ近づいています」
「この地図を写して、守備隊の本部へ上げろ。写しはもう一枚作って、ここに残せ」
「承知しました」
ロイドは、西の印の一つに目を留めた。ラグナ街道の、王都から半日ほどの林の脇。昨日の朝、慣れない胸当てを着けた若造が、四人の冒険者と通っていった道だ。
「この印は」
「今朝、西門から入った商隊の話です。林の脇に焼け跡があったそうです。周りの土に、大きな獣の足跡がいくつも。護衛の見立てでは、牙狼だろうと」
ガルドがいる。カイルもいる。頼んである。そう分かっていても、指の腹が、その印の上から動かなかった。
「焼け跡は、どんな具合だった」
「焼け跡には、きれいに土が被せてあったそうです。燃え残りも、火の気も、まったくなかったと」
ロイドは、長く息を吐いた。
魔物の死骸を焼くだけなら、誰でもする。だが、燃え残りまで崩して土を被せ、火の気を残さずに立ち去る者は、そう多くない。昨日の朝、その道へ出ていった一行の中に、そういう男が一人いる。
「……ガルドだろうな」
呟くと、指がようやく地図から離れた。それでも、肩の力までは抜けなかった。あいつらがあそこを通ったとき、牙狼はもう、王都から半日のところまで来ていたのだ。
「増え始めたのは、いつからだ」
セシルが、もう一枚の紙を差し出した。四つの門の日誌から、報告の届いた日ではなく、目撃のあった日で拾い直して並べたものだった。どの門も、ある日を境に、王都の近くでの目撃が続くようになっている。その日付が、四つ並んでいた。四つとも、同じ日だった。
その日付を、ロイドが忘れるはずはなかった。自分が西門を離れなかった日だ。勇者アレン・グレイヴが、中央広場で処刑された日だった。
「……やっぱり、そうなんですよ」
トーマの声が、少し上ずっていた。
「勇者様がいなくなったから、魔物が寄ってきたんです。でも、今日、新しい勇者様が決まったじゃないですか」
国中の人間が、そう信じている。勇者がいるから、この国は守られている。いなくなれば、魔物が来る。話の筋は通っている。
だが、勇者が死んだことをその日のうちに知っていたのは、王都の人間だけだ。街道の先の町や村に触れ書きが届いたのは、何日も後になる。
「トーマ」
「はい」
「魔物は、触れ書きを読まない」
トーマが口を開きかけ、何も言えずに閉じた。
門の外の魔物たちは、何で知ったのか。東の森でも、西の林でも、南でも北でも。示し合わせたように、その日のうちに。
「セシル。明日からも、目撃が入るたびに印を足していけ。日付もだ」
「承知しました」
「レオン。西の夜番を、もう二人増やせ」
ロイドは、勇者の通達を机の端へ寄せた。




