第八話 焼け跡
戦いが終わっても、一行はすぐには街道へ戻らなかった。
レナは番えた矢を外さないまま、林の奥へ目を配っている。カイルは長剣を抜き直し、倒れた三頭の頭へ順に剣先を向けた。鼻先を軽く突いても、どの牙狼も動かなかった。
「死んだふりをする奴もいる」
ノアの視線に気づいたのか、カイルは振り返らずに言った。
ガルドは周りの土をもう一度見渡し、新しい跡がないことを確かめてから、ようやく片手斧を腰へ戻した。代わりに小さなナイフを取り出し、最初の一頭の頭を膝で押さえて、右耳の根元へ迷いなく刃を入れる。朝、カイルから聞いた討伐の証だった。
胸当てから離した指先には、まだ震えが残っていた。
「走らなかったな」
いつの間にか、カイルがこちらを見ていた。
「……背中を噛まれた遺体なら、何度も整えてきた」
カイルは一拍黙った。
「そうか」
怖かったかとも、大丈夫かとも訊いてこない。普段なら余計な一言を足しそうな男が、こういうときだけ妙にあっさりしている。ノアには、そのくらいがちょうどよかった。
「こいつは、値にならんな」
ガルドが、カイルの斬った一頭の背へ手を滑らせていた。
気づけば、ノアはその傍らに膝をついていた。作業台の上の身体を見るときと同じ目で、毛並みを追っていく。他の二頭より荒い毛。肩口と後肢に、白く引きつれた古傷がいくつも走っている。どれも塞がってから長い。牙の先は丸く擦り減り、一本は根元近くで欠けていた。人の遺体なら、こういう身体からは年が読める。
「年寄りか」
「牙狼としてはな」
ガルドが口元を持ち上げ、欠けた牙を確かめた。
脇腹の毛が、一か所だけ固まっていた。ノアが指で掻き分けると、肋の下に深い傷があった。牙の跡のように二列には並んでいない。穴は一つだけで、縁の皮膚が裂けて外へめくれ、まだ赤い肉が覗いている。指が二本入りそうなほど太かった。
「これは、今日の傷じゃない」
ガルドの手が止まった。ノアの指の先を覗き込み、しばらく黙って傷の縁を見ている。
「……三日か、四日ってところか。牙でも爪でもない。何かに突かれて、抉られてる」
「この辺に、そんな魔物いたか?」
カイルが訊くと、ガルドは首を横に振った。
「いない。少なくとも、俺は知らん」
ノアは、傷から指を離した。脇腹にこれだけの穴を抱えたまま、この一頭は二頭と並んで、ここまで歩いてきたことになる。
少し離れた所で、レナがようやく矢を矢筒へ戻した。眉間に突き立った一本を引き抜き、血を布で拭い始める。
ノアは、その手元を見ていた。弦を引き絞るほんの一瞬、彼女の目が走る獣の一点で止まったのを、覚えている。訊きかけて、やめた。朝、言われたばかりだった。
視線に気づいたのか、レナが顔を上げた。
「見てたでしょ。撃つ前」
「……ああ」
「穿眼。朝、カイルが言いかけたやつよ。相手の身体の、矢が通りやすい場所が見えるの。鱗の薄いところとか、古傷とかね」
「勝手に話すなって言ってたのに」
横からカイルが口を挟んだ。レナは眉一つ動かさない。
「人に言いふらされるのが駄目なだけ。自分で話す分には、私の勝手よ」
それから、矢を光にかざした。
「牙狼なら頭や首が狙い目なのは分かってる。でも個体差はあるし、思い込みで撃ちたくないの。見えるのは場所だけ。そこへ通すのは、私の腕」
同じ古傷が、レナには矢の通る場所に見え、ノアには生き延びてきた年月に見える。
「……矢って、放たれてから避けられるものなのか」
ノアが訊くと、レナは眉を上げた。
「距離によるけど、普通は無理ね。弦を引く腕や鏃の向きが見えていれば、狙いから外れることはできる。でも、放たれた矢を見てから動くのは、よほど離れていないと難しいわ」
ノアは、それ以上は訊かなかった。送り火の夜の森で、矢はまだ放たれてもいなかった。斜面の上には、何も見えていなかった。
「……お肉」
エリスがぽつりと言うと、ガルドは顔も上げずに答えた。
「全部は持てん。今夜の分だけだ」
「よし」
カイルが声を上げた途端、レナが露骨に顔をしかめた。
「何で喜ぶのよ」
「新鮮だぞ」
「新鮮でも牙狼は牙狼でしょ」
「腹に入れば――」
「一緒」
エリスに先を取られ、カイルが口を止める。
「朝も聞いた」
命を奪い合った場所とは思えないほど、四人の空気はもう元へ戻りつつあった。ノアだけが、まだそこへ戻りきれていない。
指の震えは収まり始めていた。代わりに、頭から離れないものがある。送り火の夜。荷車の前。そして今日。三度重なったものを、偶然の一言で片づける方が難しかった。
「ノア」
カイルが言った。
「さっきの『なんか嫌だ』。あれ、何だったんだ」
「……たまたま」
「たまたま、ねえ」
カイルは片眉を上げたが、それ以上は訊かずに肩をすくめた。
自分でも説明できないものを、他人に説明できるはずがない。
ふと顔を向けると、エリスがこちらを見ていた。
「ガルドより、先だった」
独り言のような声だった。エリスはノアの返事を待たずに、杖を持ち直して視線を外した。
ガルドは最後の右耳を切り取り、三つをまとめて布に包んだ。すぐには立ち上がらず、牙狼が現れた林の奥へ視線を巡らせている。
「妙だよな」
カイルが言うと、ガルドは土へ目を落としたまま答えた。
「ああ。目撃が増えてるのは、もっとラグナ寄りだ。商隊が襲われたのもそっちだ。ここまで王都側へ出てきたって報告はなかった」
「何かに追われて、ここまで来たんじゃないのか」
ノアが言うと、ガルドは脇腹に穴のある一頭へ、もう一度目をやった。
「傷だけ見れば、そうなる。だが、突かれたのはこいつ一頭だ。三頭まとめて追われたのか、こいつだけが群れからはぐれたのかまでは分からん」
「……依頼の群れとは限らない」
エリスが、横たわる三頭を見下ろして言った。
「結局、向こうまで行って調べるしかないか」
「最初からその予定だ」
カイルが頭を掻き、ガルドは短く返した。分からないことを、都合のいい答えに変えない。この四人にとっては、それが当たり前なのだろう。
ガルドは、状態のいい二頭の毛皮を剥ぎ始めた。必要な部分だけを手際よく切り分け、肉も今夜の分と、持ち運べる程度だけを取る。それから荷袋を探り、小さな金属瓶を取り出した。
「それは?」
「焼却液だ。置いていけば、臭いで獣や別の魔物が寄ってくる。街道の近くには残さん」
「生きてる奴にかけたら?」
ガルドは瓶の栓を確かめながら答えた。
「燃える。だが、すぐには倒れん。燃えたまま走って、燃えたまま噛みついてくる。飛び火すりゃ、こっちも同じように燃える」
「それに、その一瓶で、さっきの毛皮が三枚は買える」
カイルが横から付け足した。
残った死骸へ、透明がかった液が少しずつ振りかけられていく。ガルドの腰の革帯には、同じ液を詰めたらしい素焼きの小瓶が三本、栓をして下がっていた。
カイルが枯れ枝を集めて死骸の間へ組み、レナが周りの枯れ草を払って土を出す。準備が整うと、エリスが杖を向け、小さく絞った火球を足元へ放った。
炎が液に触れた途端、火は牙狼の身体を這うように広がった。薪の燃え方とは違う。表面を舐めるのではなく、肉へ食い込むように燃えていく。
葬送所で扱う火とは違う。人の身体を灰へ還すための火でも、その名を送るための送り火でもない。ただ、道に死骸を残さないための火だった。
年寄りの牙狼の身体が、最後に崩れた。白く引きつれた古傷も、脇腹の新しい傷も、欠けた牙も、炎の中で見分けがつかなくなっていく。あれだけのものを抱えて生き延びてきた身体が、四半刻で、ただの黒い塊になった。
火が落ち着くと、ガルドは長い枝で焼け残りを崩し、灰の上から土を被せた。煙が消えたのを確かめてから、ようやく立ち上がる。
傷だらけの身体を、ノアはもう一つ知っている。
その夜は、街道から少し外れた草地で野営した。林からは離れ、四方の見通しが利く場所を、ガルドが選んだ。
ノアは枯れ枝を拾い集め、太さごとに分けて組んだ。細いものから火を移し、太いものへ回す。空気の通り道は塞がない。火葬炉の薪と、組み方は変わらなかった。
「……手際いいな」
カイルが覗き込んだ。
「火は毎日使う」
エリスが杖の先を向けると、組んだ枝の芯に小さな火が生まれた。
牙狼の肉は、レナが香草と一緒に串へ刺して焼いた。焼き上がる間際に、ガルドが外套の内から小さな瓶を出し、赤い粉を一振りした。カイルが手を出しかけると、エリスが黙って串を遠ざけた。
レナから串を一本渡された。昼間、自分めがけて走ってきた牙狼の肉かもしれない。ノアはしばらく、それを持ったままでいた。噛むと硬く、脂の少ない筋が歯に残る。遅れて、赤い粉の辛さが鼻の奥へ抜け、獣の匂いを押し流した。
「食っとけ。明日も歩く」
言われるまでもなく、ノアは二口目を噛んでいた。残さずに、飲み込んだ。
食事のあいだ、四人はよく喋った。前の依頼先で宿代を踏み倒されかけた話。エリスが宿の煮込みに、黙って塩を足していた話。
「薄かった」
「宿の親父の目の前でやるなよ!」
「目の前ではやってない」
「後ろでもやるな!」
レナが吹き出し、ガルドの肩まで僅かに揺れた。ノアの口元も、知らないうちに緩んでいた。
「お、笑った」
目ざとく見つけたカイルに、ノアは顔をしかめてみせた。
「お前がうるさいだけだ」
「それは否定しない」
「しなさいよ」
レナの声に、また笑いが起きた。
最初の見張りはガルドだった。焚き火の向こうで、灰色の外套が膝を抱えている。カイルはすぐに寝息を立て始め、レナとエリスも毛布にくるまって動かなくなった。ノアは仰向けのまま、目を開けていた。
胸の冷たさが濃くなったのは、二度とも、獣の目が自分を捉えたときだった。右から回り込んだ一頭が、カイルの肩越しにこちらを見たとき。最後の一頭の目が、四人を渡って自分の上で止まったとき。牙が自分へ向けば、冷たさは強くなる。けれど、どこを狙われるのかまでは、最後まで分からなかった。
あの森の男は、違った。警鐘は一点を指していた。右前方、斜面の上。頭を射抜かれる、と。男は迷わずに叫び、三人は泥濘へ伏せ、矢は、さっきまで頭のあった場所を抜けていった。止まれ。伏せろ。今朝、カイルの口から聞いたのと同じ言葉だった。自分は、「待って」と言うのがやっとだった。
あの男の身体の奥で鳴っていたものと、今日、自分の胸を冷やしたものが、同じなのだとしたら。
ノアは、処刑台の裏で裂いた囚人服の下を思い出していた。前腕から肩、胸元にかけて重なった、大小無数の傷痕。斬り傷、刺し傷、焼け焦げた痕。葬送所で身体を返して拭いたとき、背中の傷は、前に比べてずっと少なかった。
逃げた者の傷は、背中と脚に残る。今日、それを思い出したから、自分は走らなかった。
あの男の傷は、前にあった。
どこから何が来るのか、来る前に分かる男だった。あれほどの傷を負うまでに、何度も、来る前に気づいていたはずだ。それでも、傷は残った。
脇腹の古傷のことだけは、聞いている。崩れかけた隊の前に立って、味方が退くまで、一人で受け止めていた。遠くから見ていただけだ、とあの兵士は言った。
ノアは毛布の下で、自分の脇腹に手を当てた。あの男の古傷があった場所だった。指の下には、何の跡もない自分の皮膚があるだけだった。
焚き火が爆ぜて、ガルドが薪を一本くべた。
避けなかったのか。避けられなかったのか。傷の数だけある答えを、ノアはまだ一つしか知らない。




