第七話 痕跡
王都を出てしばらくの間、街道の両側には大小の農地が広がっていた。
朝露を含んだ畑では、もう何人もの農夫が働き始めている。道沿いには小さな農家や納屋が点々と並び、野菜や乳桶を積んだ荷車が、王都の方へ向かっていった。
振り返れば、薄い朝靄の向こうに西門がまだ見える。城壁も、それほど遠くはない。それなのに、石畳を離れて土の道を歩いているだけで、王都が随分と後ろへ退いたように感じられた。
五人は縦に並んで街道を進んでいた。先頭はガルド。少し後ろをレナが歩き、エリス、ノアと続いて、一番後ろにカイルがいる。
前を行く三人の背中を見ているうちに、ふと、送り火の夜の森がよぎった。弓を背負った女と、杖を手にした女。あの記憶の中でも、三つの背中が少し前を歩いていた。
ノアは小さく頭を振った。あれは、自分の記憶ではない。
門を出て半刻ほど経った頃、後ろのカイルが声を掛けてきた。
「ノア。今のうちに、道中のことを話しとくぞ」
ノアは肩越しに振り返った。
「道中?」
「この辺りはまだ人の行き来も多いけど、先へ進めば街道も静かになる。その前に、最低限は知っといてもらった方がいい」
カイルは歩調を変えないまま続けた。
「お前はラグナで、あの銅片の持ち主を調べる。俺たちはラグナ街道に出てる牙狼の調査と討伐。行きも帰りも、基本は一緒だ。お前の用事が済んだら、王都まで一緒に戻る」
「牙狼を見つけたら?」
「状況次第だな。街道から大きく外れずに追えるなら、その場で動く。森の奥まで追うなら、お前をどうするかも含めて、その場で決める。少なくとも、何もない街道に一人で置いていくような真似はしない」
「何頭くらいいるんだ?」
「それが、まだはっきりしてない」
答えたのは先頭のガルドだった。前を向いたまま、低い声だけが返ってくる。
「報告だけ見れば、五頭から八頭。だが、同じ群れを何度も見たのか、別の群れが混じってるのかまでは分からん。襲撃の跡が残っていればそこから追えるが、古ければ雨や風で消えてるし、人や荷車に踏み荒らされてることもある」
「だから、道中でも探すのか」
「足跡でも、毛でも、糞でもいい。新しい痕跡を拾えれば、そこから動きを追える」
依頼を受けたら、居場所の分かった獲物を狩りに行く。そういうものではないらしい。まず、どこにいるのかを探すところから始まる。
「じゃあ、何頭倒せば終わりって依頼でもないんだな」
「そういうこと」
カイルが頷いた。
「街道に牙狼が増えて、商隊にも被害が出た。その原因を調べて、街道を普通に使える状態へ戻すのが仕事だ。群れが一つなら、そいつらを追う。別の群れまで入り込んでるなら、それも組合へ報告する」
「倒した数は、どうやって証明する?」
「右耳だ」
カイルは自分の右耳を指した。
「片方に決めておけば、一頭を二頭分として申告できない。牙や爪、毛皮は状態が良ければ売れるし、肉も持てる分は持って帰る」
魔物の素材が売り買いされることくらいは、ノアも知っていた。
「牙狼も食えるのか」
「食えるぞ。うまいかどうかは別だけどな」
「美味しくはないわね」
前を歩くレナが振り返った。
「肉は硬いし、少し癖もある。香草を使えば、まあ食べられるくらい」
「腹に入れば一緒だろ」
エリスが、肩越しにカイルを見た。
「料理は任せない」
「何でだよ」
「今ので十分」
魔物は人を襲う。その一方で、毛皮は衣服や防具になり、牙や爪は加工品になり、肉は人の腹を満たす。肉屋の軒先に吊るされた魔物の肉なら、ノアも何度も見てきた。その肉がどんな身体についていたのかは、考えたこともなかった。
ガルドの腰には、いくつもの小袋に混じって、小ぶりなナイフが下がっている。あれも、そのための道具なのだろう。死体を扱うという点では、葬送士と遠くない。けれど、死んだあとに何を残すのかという点では、まるで違っていた。
やがて、二頭の馬が五人の脇を追い越していった。軽装の旅人を乗せた馬は土を蹴り、たちまち街道の先へ小さくなっていく。
「三日かかるなら、馬の方が早いんじゃないか?」
「ただ向かうだけならな」
カイルが答えた。
「今回は、牙狼の跡を拾いながら歩く。馬を使えばこっちの跡も増えるし、古い跡を潰すこともある」
「魔物が近くにいれば、馬が怯える」
ガルドが短く付け足した。カイルがノアへ視線を向ける。
「それに、お前は馬に乗れるのか?」
「乗ったことくらいある」
「一人で?」
ノアは前を向いた。カイルの口元が上がる。
「だと思った」
「うるさい」
前の方で、レナが小さく笑った。
「で、こっちの方が大事だ」
カイルが、軽い調子を消して言った。
「何かあったときの動きだけは覚えといてくれ。普段はガルドが先頭で、その後ろが俺。エリスが続いて、最後尾がレナだ。ガルドが敵を見つけたら俺が前へ出る。エリスは後ろから魔法、レナは全体を見ながら弓で援護する」
今の並びは違う。その理由は、言われなくても分かった。
「今日は俺がいるからか」
「そういうこと。前はガルドたちに任せろ。後ろから何か来たら俺が止める。お前が覚えるのは一つだけだ。自分でどうにかしようとするな。止まれと言ったら止まる。伏せろと言ったら伏せる。走れと言ったら走る」
「……分かった」
守られる側だとはっきり言われると、どうにも居心地が悪かった。だが、腰に剣すら下げていない自分が嫌がったところで、何も変わらない。
ノアは、自分の掌に目を落とした。市場で荷車が倒れる前に、胸の奥で鳴ったもの。送り火の夜の森で、矢より先に届いたもの。あれが何なのか、まだ誰にも話していない。
「……スキルってのは、生まれつきなのか」
カイルが目を瞬いた。
「急にどうした」
「ただ訊いてるだけだ」
「生まれ持った資質が、育つうちに形になる。だいたい一人に一つ。出ない奴もいる」
「後から増えることは?」
「増える?」
カイルは首を傾げた。
「一つ出た奴に、二つ目が出たって話は聞いたことないな。何でだ?」
「別に」
ノアは、掌を握り込んだ。カイルもそれ以上は訊かず、腰の長剣に軽く触れた。
「それと、スキルと技術は別物だ。俺の剣とか、レナの弓とか、ガルドが痕跡を読む目は技術。何度も繰り返して、身体に覚えさせるもんだ。スキルは、その上に乗る。出れば身体の伸び方も変わって、鍛えれば普通の人間よりずっと上まで伸びる」
「だからって、スキルが出ただけで強くなれるわけじゃないわよ」
前を歩くレナが口を挟んだ。
「身体が強くなっても、弓の引き方まで勝手に覚えるわけじゃないもの」
「たとえばレナの――」
「勝手に話さないで」
カイルが言いかけたところで、レナが振り返りもせずに遮った。
「人のスキルを外で言いふらすなんて、冒険者のすることじゃないでしょう」
カイルは肩をすくめて、今度は前のエリスを見た。ノアもつられてそちらを見る。エリスの手にあるのは細身の杖だけで、腰には刃物の一本も下がっていない。
「剣は持たないのか」
「使えない」
エリスは前を向いたまま答えた。
「魔法が使える人間には、スキルが出ない。身体も、あまり伸びない。だから前には出ない」
「魔法は、何でも使えるのか」
「三つまで。それ以上は、身体に入らない」
「何回でも使えるのか」
「魔力が続く分だけ。使えば減って、休まないと戻らない。尽きたら、三つとも使えない」
エリスは少しだけ間を置いて、付け足した。
「あと、眠くなる」
「敵に懐まで入られたら?」
「困る」
表情を変えずにそう言うので、冗談なのか本気なのか分からなかった。
「だから、そこまで通さないのが俺たちの役目ってわけだ」
カイルが言うと、エリスは小さく頷いた。
ノアは、杖を握るエリスの手を見た。細い指だった。葬送所へ運ばれてくる兵士や冒険者の手とは違う。思い返せば、門を出てから、道が狭まるたびにガルドが先に草を踏み分け、荷車とすれ違うときにはレナが外側へ回っていた。剣を持たずに歩ける場所が、三人の間に作られていた。
ノアは最後にカイルを見た。
「お前のは?」
カイルの口元が、わずかに上がる。
「切り札」
「名前は」
「秘密」
「お前も言わないのか」
「レナのは、俺が話していいもんじゃない。俺のは、普段から使うもんじゃないんだよ」
「使わなくて済むなら、その方がいいものよ」
前を向いたまま、レナが言った。その声だけは、先ほどまでと少し違っていた。
ノアはもう一度カイルを見た。本人は相変わらず笑っている。
「必要になれば分かる」
「役に立たない説明だな」
「今のお前が覚えるのは、俺のスキルじゃなくて隊列の方」
「分かってる」
「そこは素直なんだな。ロイドさんの説教も、少しは効いてるのか」
「効いてない」
「帰ったら続きをやるって言ってたもんな」
「やらなくていい」
「本人に言えよ」
レナが肩を揺らした。エリスは一度だけカイルへ目を向けたが、何も言わなかった。まだ朝の冷たさを残した街道に、笑い声だけがしばらく軽く残った。
昼が近づくにつれ、道沿いの農家は数を減らしていった。畑は途切れがちになり、代わりに低い草地と雑木林が街道の両側へ迫ってくる。王都へ向かう荷車とも、いつの間にかすれ違わなくなっていた。
先頭のガルドは、ときおり街道を外れた。土に指を当て、倒れた草の根元を確かめ、低い枝の傷へ目を凝らす。すぐに戻ることもあれば、しばらくしゃがみ込んだまま動かないこともあった。ガルドが立ち去ったあとで同じ場所を覗いてみても、ノアには踏まれた土と折れた草しか見えなかった。
「何かいた?」
戻ってきたところで、ノアが訊いた。
「鹿。野兎。それと昨日の荷車だ」
「それは……」
言いかけて、ノアは言葉を切った。前を歩くレナの背中が、目に入った。
ガルドが一度だけ、ノアを見た。
「……ああ、スキルだ」
それから、街道の先へ目を戻した。
「追痕。見落としそうな跡が、目に付きやすくなる。何の跡で、いつのもので、どっちへ向かったか。それを読むのは俺の仕事だ。門を出てから、ずっと使ってる」
「どうして、教えてくれるんだ」
「相手が何であれ、見つける前が一番危ない」
ガルドは前を向いたまま言った。
「俺が止まれと言ったとき、何を見て言ってるのか分かってる奴の方が、早く止まる」
ノアは左手の林を見た。低い枝が道の方へ張り出し、膝ほどの下草が奥まで続いている。何かが伏せていても、街道からは見分けられそうになかった。
依頼の牙狼は、第二等級の彼らにとって強敵ではない。朝からの話で、ノアはそう理解していた。それでも、四人の誰も気を抜いていない。勝てる相手と、油断していい相手は違うらしい。
そう思ったとき、胸の奥を、冷たい指が撫でた。
ノアの歩みが鈍る。何も見えない。音もしない。左手の林では、風が枝葉を揺らしているだけだ。それなのに、この先へ進むことを、身体のどこかが嫌がっていた。
知っている感覚だった。
言うべきか、ノアは迷った。何も見えていないし、聞こえてもいない。何を見て言っているのか、自分でも説明できない。口にすれば、怖がりの戯言にしか聞こえないだろう。だが、市場でも根拠はなかった。根拠のないまま声を出して、その直後に車軸は折れた。
「……ノア?」
すぐ前を歩くエリスが振り返った。
「どうしたの」
「……待って」
五人の足が止まる。カイルの視線が、すぐにノアへ来た。
「何か見えた?」
「何も」
「音は」
「聞こえてない。ただ……なんか嫌だ」
口にしてみると、我ながら曖昧すぎた。カイルが眉を寄せる。笑い飛ばされるかと思ったが、カイルは笑わなかった。その目だけが、ノアから林へ移った。
「止まれ」
ガルドの声が、低く落ちた。街道の左端へ寄り、しゃがみ込む。浅く窪んだ土を指先で払い、踏まれた草の倒れた向きを確かめ、三歩先の低い枝から灰色の毛を一本摘み上げた。
「牙狼だ。三頭。たぶん全部成体」
ガルドは毛を指先で揉んだ。
「跡は新しい。四半刻も経ってない。……まだ近い」
ノアは、自分の胸に意識を戻した。冷たいものは、まだ消えていない。ガルドが痕跡を見つけるより、自分が足を止めた方が早かった。
「ノア。エリスの後ろから動くな」
カイルの剣が、鞘を滑る音がした。
そこから配置が変わるまで、数呼吸もかからなかった。誰も指示を出していない。ガルドが片手斧を抜いて林の方へ向き直り、その二歩右でレナが矢をつがえる。エリスがノアの一歩前へ出て杖を両手で構え、カイルはノアの右斜め後ろから半歩だけ位置を変えて、ノアと右手の草地の間に身体を入れた。剣を振るうだけの間合いは取りながら、手を伸ばせば届く距離は崩さない。
気づけば、ノアだけが四人の真ん中に収められていた。前には出ないと言っていたエリスまでが、自分の一歩前に立っている。
笑っていた顔から、余計なものが消えていた。誰も騒がず、誰も慌てない。冗談を交わしながら歩いていた四人と同じ人間とは思えないほど、静かだった。その静けさの中で、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。
林の奥で、枝が折れた。
低い唸りが、それに続く。茂みを割って現れたのは、灰色の獣だった。形は狼に似ている。だが、ノアの知る狼よりひと回り以上大きい。肩の肉は厚く盛り上がり、太い四肢の先で爪が土を掻いた。口元から突き出した二本の牙が、唾液に濡れて鈍く光っている。
一頭。その後ろに、もう一頭。さらに一頭。三対の目が、街道の五人を捉えた。
喉が乾いていることに、ノアは気づいた。魔物に食い荒らされた遺体なら、何度も整えてきた。噛み千切られた肩も、爪で裂かれた腹も見てきた。けれど目の前のそれは、息をして、こちらを見ている。自分たちを殺せる生き物として、そこにいる。
「三頭だけか?」
カイルの声は、道中と変わらなかった。
「見える範囲ではな」
「なら、問題ない」
牙狼たちが、ゆっくりと散っていく。一頭は正面に残り、ガルドと向き合って低く身を沈めた。もう一頭は林の縁を伝って左へ。最後の一頭は街道を横切り、右の草地を大きく弧を描いて回り込んでいく。正面が目を引き、左右が囲む。群れで獲物を仕留めるために、何度も繰り返してきた形なのだろう。
ノアは首を巡らせた。三頭を一度には見られない。右を見れば左の茂みが視界から消え、左を見ればカイルの剣先が見えなくなる。
「ノア、前」
エリスが、振り返らずに言った。
「右は、カイルが見てる」
ノアは正面へ向き直り、胸当ての縁を握った。
ガルドは正面から目を離さない。レナの鏃は左の一頭を追い、エリスは中央で杖を構えたまま動かない。右の草地へ回った一頭だけを、カイルが受け持っていた。視界の端で、その一頭がカイルの肩越しにこちらを見た。胸の奥の冷たさが、ひと息に濃くなった。
右の牙狼が地を蹴った。カイルは正面から受けず、半歩だけ外へ身体をずらして、すれ違いざまに長剣を走らせる。一撃だった。首元から血を散らした獣が、飛び込んだ勢いのまま土の上を転がっていく。カイルは追わない。一瞬だけ振り返ってノアの位置を確かめ、すぐに残る二頭へ目を戻した。
左の一頭が動いたのは、ほとんど同時だった。林の縁から斜めに、エリスへ向かって一直線に飛び込んでくる。
レナが弦を引き絞った。大きく構えることも、狙いを定めて長く止まることもない。ただ、その一瞬、彼女の目が、走る獣の一点で止まった。眉間だった。弦が鳴り、矢は走る牙狼の眉間を正確に貫いた。頭が大きく仰け反り、前脚がもつれる。勢いのまま土を滑り、二度転がって、それきり動かなくなった。レナはもう、次の矢に手を伸ばしていた。
残った正面の一頭が、一度だけ後肢を引いた。続けざまに仲間を失って怯んだのか、その目が、前に立つ四人の間を渡っていく。ガルド。レナ。エリス。カイル。
そして、ノアで止まった。
その瞬間、胸の奥の冷たさが形を持った。撫でられるのではない。鳩尾の下を、内側から握り込まれる。来るのは自分のところだ、ということだけが分かった。どこを狙われるのかまでは、分からない。胸の内側と目の前の獣が、同じことを告げていた。獲物を選ぶ目だった。
牙狼が、ガルドの正面から身を翻した。後ろ脚が土を横へ蹴る。ノアがその向きに気づいたときには、ガルドはもう踏み出していた。
そこから先は、時間が妙に間延びして見えた。灰色の身体が低く伸び、前脚が地面を掻くたびに距離が縮む。十歩。エリスの杖先が持ち上がる。七歩。右の視界の端で、カイルが剣を引き戻しながら半歩前へ出る。牙の間から、唾液の糸が後ろへ流れていく。
走れ、と脚が言った。ノアは動かなかった。
逃げた背中を、ノアは知っている。魔物に殺された遺体を整えるとき、深い傷のほとんどは背中と脚にあった。逃げて、追いつかれて、後ろから噛まれた傷だ。前を向いたまま死んだ者の身体の方が、ずっと少ない。止まれと言われたら止まる、とカイルは言った。走れとは、まだ誰も言っていない。ノアは奥歯を噛んで、その場に立った。
「エリス!」
「分かってる」
エリスの声は、平坦なままだった。
「――土縛」
牙狼の前脚の下で、地面が盛り上がった。土が蔓のように脚へ絡みつき、走る勢いを根元から奪う。前のめりになった巨体が、エリスのすぐ脇、ノアから三歩のところでつんのめった。それでも牙狼は爪を立て、絡みつく土を引き裂こうともがく。
そこへ、ガルドが追いついていた。最初の一歩で詰めた距離のまま、片手斧が振り上がる。厚い刃が首筋に落ちた。鈍い音がして、灰色の身体が一度だけ大きく跳ね、それきり力を失った。
「終わりだ」
唸り声も、土を蹴る音も消えた。風が木の葉を擦る音だけが、何事もなかったように続いている。
ノアは、その場から動けなかった。
ほんの数呼吸の間だった。三頭の牙狼は地面に伏し、四人のうち誰一人、傷を負っていない。息を乱している者すらいなかった。
カイルが剣の血を払い、鞘へ収める。
「ノア」
呼ばれて、ようやく顔を上げた。
「怪我は?」
「……ない」
「ならいい」
その声が道中と少しも変わらなかったことの方が、ノアの耳には残った。
胸の冷たさは、いつの間にか消えていた。右手を胸当てから離そうとして、指が革に食い込んでいることに気づいた。一本ずつ力を緩める。縁には、爪の形が四つ残っていた。




