第六話 西門の向こう
冒険者組合は、二階建ての大きな建物だった。
入口には剣と盾を組み合わせた印が掲げられ、開け放たれた扉の奥から、人の声が通りにまで漏れている。
ノアは入口の前で一度足を止めた。
冒険者とは、葬送士として何度も関わってきた。護衛の途中で魔物に襲われた者も、依頼先の洞窟で命を落とした者も、仲間に背負われ、血に染まったまま運ばれてきた者もいた。死んだ冒険者なら、何人も見てきた。
生きている彼らが集まる場所へ自分から踏み込むのは、これが初めてだった。
胸当てを抱え直し、扉をくぐる。
酒と食事の匂いに、革と金属の匂いが混じって鼻をついた。受付で報酬の話をする者、酒を片手に笑う一団、壁に槍を立て掛けた者。長い杖を傍らに置き、本を開いている魔術師らしい姿もある。
壁際には、人の背丈を越える木板が据えられていた。護衛、採取、捜索、魔物討伐。何枚もの依頼書が重ねるように貼られ、板面には長年の釘穴が無数に残っている。その隣には一回り小さな掲示板があり、貼られているのは仕事ではなく、王国からの告示や手配書だった。
前を通り過ぎようとして、ノアの足が止まった。
――アレン・グレイヴ。
見覚えのある名前が、紙の中ほどにあった。手配されているのは、もちろん処刑された本人ではない。紙の中央には、肩より長い黒髪の男の似顔絵が描かれていた。細い輪郭に、鋭い目つき。似顔絵だからなのか、元からそういう顔なのか、こちらを警戒するような険しさがある。
――ディーン・クロウ。
元勇者アレン・グレイヴ同行者。反逆罪共謀の疑い。所在不明。発見、または所在に関する情報を得た者は、直ちに王国兵へ届け出ること。
紙の下には、報奨金の額まで記されている。
「……仲間も追われてるのか」
アレンが処刑されたあと、その仲間たちがどうなったのかなど、考えたこともなかった。手配書によれば、ディーンは処刑の前後から行方が分からないらしい。
似顔絵を、もう一度見る。送り火の夜、炎の向こうで振り返って笑った男がいた。大きな荷を背負った、あの男の顔とは違う。あの森を歩いていた三人の中に、この男はいなかった。
アレンを知っている男の顔が、ここにある。どこにいるのかは、王国にも分からない。
今探しているのは、別の死者の名前だった。ノアは掲示板を離れ、受付へ向かった。
「ラグナまで行きたい」
受付の女が顔を上げた。
「護衛のご依頼ですか?」
「一人ではやめておけと言われた」
「今のラグナ方面でしたら、賢明ですね。ラグナ街道で牙狼の目撃が続いていますので、第三等級以上の冒険者を指定された方が――」
「ラグナ?」
横から声が飛んできた。
振り向くと、二十歳を少し過ぎたくらいの男が、少し離れた場所からこちらを見ていた。癖の強い茶色の髪があちこちへ跳ね、日に焼けた顔には人懐っこい笑みが浮かんでいる。白いシャツの上に使い込まれた革の胸当て、腰には長剣が一本。鍛えられた体つきのわりに、立ち姿には妙な気安さがあった。
「ラグナまで行くのか?」
「ああ」
「何しに?」
「カイル!」
少し離れた卓から、女の声が飛んだ。
「知らない人の話に勝手に入らない」
「ラグナって聞こえたんだから仕方ないだろ」
「普通は聞こえても入らないの」
カイルと呼ばれた男は悪びれる様子もなく、ノアの横までやってきた。
「俺はカイル・オルセン。お前は?」
「……ノア・エルデン」
「ノア、ね」
返事が、それまでより半拍だけ遅かった。だがカイルはすぐに笑みを戻し、身を乗り出した。
「それで、ラグナに何があるんだ?」
「何でお前に話す必要がある」
「ないけど、気になるじゃん」
ノアは受付へ向き直った。
「続けてくれ」
「カイル。戻ってきなさい」
先ほどの女が立ち上がった。赤みを帯びた髪を高い位置でひとつに束ねた、細身の女だった。切れ長の目のせいで気が強そうに見えるが、身のこなしは軽い。椅子の背には、彼女の背丈ほどもある長弓が立て掛けてあった。
同じ卓には、あと二人いる。顎のあたりで黒髪を切り揃えた女は、白い顔にほとんど表情を浮かべず、膝の横に黒木の細い杖を置いていた。灰色の外套を羽織った三十代半ばほどの男は、暗い髪に白いものが少し混じり、黙ってこちらを観察している。派手な武具はないが、長く屋外を歩いてきた者の焼けた肌と、鋭い目が印象に残った。
「次の仕事を決めてる途中でしょう」
「だから、ちょうどいいんだって」
カイルが依頼板へ顎を向けた。何枚もの紙の中に、一枚だけ新しいものがある。
――ラグナ街道周辺・牙狼討伐。
隅には、第三等級以上を示す印が押されていた。
「この前、商隊が一つ襲われたらしい」
「それは知ってるけど」
赤髪の女が眉を寄せる。
「私たち、南街道の護衛を受けるところだったでしょ」
「まだ受けてない」
「ほとんど決まりかけてたじゃない!」
黒髪の女も、依頼書へ目を移していた。表情は変わらないが、紙面を追う目だけが僅かに細くなる。
「……街道まで出てる。今年は早い」
「珍しいのか?」
ノアが訊くと、黒髪の女は頷いた。
「牙狼自体は珍しくない。森に獲物がいるなら、街道まで出る必要はない」
もう一度、依頼書へ目を落とす。
「商隊まで襲ってるなら、何かある」
「エリスはすぐ難しく考えるんだよ」
「考えないよりはいい」
エリスと呼ばれた女は、依頼書から目を上げなかった。カイルは肩をすくめ、改めてノアを見た。
「護衛を探してるんだろ? だったら、ラグナまでは俺たちと一緒に来ればいい」
「何でそうなる」
「俺たちもラグナ街道へ行く。行き先が同じなら、一緒に歩けばいいだろ」
「カイル」
赤髪の女が、低い声で名前を呼んだ。
「まさか、この人を牙狼討伐に連れていくつもりじゃないでしょうね」
「違うって。ノアはラグナまで行くだけ。俺たちは街道沿いで牙狼を探す。たまたま同じ道を使うって話だ」
「痕跡が森に入ってたら?」
灰色の外套の男が、初めて口を開いた。低く落ち着いた声だった。
「そのときはノアを連れていかない。街道沿いの宿に置くか、距離次第じゃ先にラグナまで送る。それから俺たちだけで追う」
男は少し考え、短く頷いた。
「それならいい」
こちらの事情も聞かないうちから、森へ入るときのことを先に確かめている。ノアは、灰色の外套の男を見直した。
話を聞いていた受付の女が、帳面を閉じた。
「念のため。ノアさんは討伐には加わらず、組合の護衛契約も発生しません。ただし危険があれば、皆さんの指示には従ってください。よろしいですね?」
「それくらいは分かる」
「本当に?」
横からカイルが言った。
「何だよ」
「いや、なんとなく人の言うこと聞かなそうだから」
「お前にだけは言われたくない」
赤髪の女が小さく吹き出した。
ノアは依頼書へ目を戻した。
「第三等級以上ってあったけど、受けられるのか」
「ああ」
カイルは腰から小さな金属札を取り出した。組合の印の下に、等級を示す刻印が入っている。
「第二等級。上から二つ目だ。一応、結構強い」
「自分で言う?」
赤髪の女が呆れたように口を挟む。
「そういうことを自分で言うから安っぽくなるのよ」
「それより」
灰色の外套の男が言った。
「ラグナへ行く理由くらい、聞いたらどうだ」
カイルが一瞬黙る。
「……それもそうだな」
このままでは話が終わりそうにない。ノアは小さく息を吐き、懐から銅片を取り出して掌に載せた。
「これを調べに行く。昔のラグナの町の印らしい」
四人の視線が、三本の麦穂へ集まった。灰色の外套の男の目が、僅かに細くなる。
「三本麦か」
「知ってるのか?」
「去年、護衛でラグナを通った。今の町の印は屋根と麦穂だったが、古い建物には、これに似た印が残っていた。同じものかどうかまでは分からん」
金物屋の老人の話とも合う。カイルが、銅片とノアを交互に見た。
「これを調べるためだけに、ラグナまで?」
「死んだ男が持ってた」
カイルの顔から、笑みが少し引いた。
「死んだ男?」
「身元が分からない。名待ちになってる」
「名前を探してるのか。役所の仕事?」
「違う」
「誰かに頼まれた?」
「それも違う」
「じゃあ、何で?」
「手掛かりを見つけたから」
「それだけ?」
「ほかに何が要る」
カイルはしばらくノアを見ていた。やがて、ゆっくりと口元を緩める。
「やっぱり面白いな、お前」
「俺はもう、お前が少し面倒だ」
赤髪の女が、今度ははっきり吹き出した。
「早かったわね」
「まだ知り合って十分も経ってないぞ」
「十分あれば足りる」
灰色の外套の男が、依頼板へ目を向けた。
「俺は牙狼で構わん。南街道の護衛より報酬もいい。それに、街道まで出てきてる理由は少し気になる」
「去年もいたのか?」
「ああ。だが、街道へ出るほどじゃなかった」
エリスも、黙って頷いた。三人の視線が、赤髪の女へ向いた。
「……何よ。多数決みたいに見るのやめてくれる?」
「反対?」
赤髪の女は大きく息を吐いた。
「今の規模なら、私たち四人で問題ないでしょうし。報酬も上なら、私もいいわ」
「決まり」
カイルが依頼板へ向かう。
「待て」
ノアが呼び止めた。
「本当に依頼を変えるのか。俺が来たからだろ」
「半分くらいはな」
「残りは?」
「こっちの方が面白そう」
「それを理由に入れないで」
赤髪の女が即座に言った。カイルは笑いながら依頼書を板から外した。紙の剥がれる乾いた音が、組合の喧騒に紛れた。
手続きを終えて戻ってくると、カイルは卓の三人を順に示した。
「レナ・セルヴィス、弓。エリス・セレイン、魔術師。ガルド・ローデン、斥候」
「人を指差さないで」
レナが言い、エリスは無言で会釈し、ガルドは短く顎を引いた。
「出発は明後日。日の出前に西門」
「明後日?」
「討伐場所の詳しい話も聞いておきたいし、三日歩くなら準備もいる」
ノアは葬送所のことを考えた。ラグナまで三日。往復だけで六日はかかる。留守の間は、先代の頃から付き合いのある葬送士に急な依頼を引き受けてもらえば、どうにかなるだろう。葬送士同士で仕事を融通するのは、珍しいことではない。
問題は、そこまでして行く必要があるのかということだった。王国から頼まれた仕事は終わっている。四十一号の身体は火へ送り、骨も壺へ納めた。あとは納骨所へ運べば、誰にも責められない。それが普通だった。
ノアは、懐の上から銅片に触れた。今朝までは、この印の先に何があるのかさえ分からなかった。今はラグナという町がある。そこへ行けば、番号ではない名前で、あの男を呼ぶ者がいるかもしれない。
「……日の出前だったな」
カイルが笑った。
「西門」
「確認しただけだ」
「分かった。待ってる」
「だから――」
「カイルは一度こうなると聞かないわよ」
レナが笑いながら言った。ノアは言い返すのをやめた。エリスはいつの間にか、卓の端に置かれた菓子を口へ運んでいる。
やはり、生きている人間は面倒だった。
出発の日、西門の向こうにはまだ夜の名残があった。
東の空がようやく白み始めたばかりで、城壁は薄い朝靄の中に輪郭を沈めている。門前では夜番を終える兵士たちが短く言葉を交わし、開門を待つ荷馬車の馬が、ときおり白い息を吐いていた。
カイルたちの姿は、まだ見えない。
ノアは肩の荷を持ち直した。四十一号の骨壺は、納骨所へ移さずに葬送所へ残してきた。留守を頼んだ葬送士にも、そう伝えてある。帰るまで、あの白い札の文字が変わることはない。
胸には、金物屋の老人から渡された革の胸当てがある。紐を締め直してきたものの、腕を動かすたびに革の縁が脇へ当たった。落ち着かないのは、慣れない革のせいだけではない。これほど長く王都を離れるのは、初めてだった。
「……似合わんな」
聞き覚えのある声に、顔を上げる。
門の脇から、一人の王国兵が歩いてくるところだった。四十を少し過ぎたくらいの男で、日に焼けた顔には目尻から頬にかけて細かな皺が刻まれ、短く刈った焦げ茶の髪には白いものが混じっている。大柄というほどではない。それでも立ち姿には妙な安定感があり、近くを通る若い兵士たちは、男の姿を認めると自然と背筋を伸ばした。
「ロイド」
ノアが呼ぶと、男の眉間に皺が寄った。
「ロイド隊長、だ」
「ロイドは、俺の隊長じゃない」
「そういう話じゃない」
「じゃあ何だ」
「お前な……」
ロイドは額に手を当てた。
「何度言えば分かる。年上には、もう少しまともな口を利け。それと、人と関わるのを避けてばかりいるな」
「別に避けてない」
「避けてる。困ったときに手を差し伸べてくれるのは、結局そういう相手なんだぞ」
聞き慣れた説教だった。
アルヴェリア王国軍・王都守備隊、西門警備隊長ロイド・グレンツ。先代が生きていた頃から葬送所に出入りしていて、ノアが仕事を覚え始めた頃から知っている。そして顔を合わせるたび、大抵こうして何かを言われる。
「それより、その格好は何だ。お前が朝っぱらから胸当てなんぞ着けて、西門にいる理由だ」
「ラグナに行く」
「……ラグナ?」
ロイドの目から、気の抜けた色が消えた。
「一人でか」
「違う。冒険者と一緒」
「ほう」
ロイドは少し笑い、ノアの胸当てを指の背で軽く叩いた。乾いた音が鳴る。
「これは?」
「金物屋の爺さんにもらった」
「……お前が?」
「何だよ」
「いや。随分と物好きな爺さんもいたもんだと思ってな」
ノアが睨むと、ロイドは口元だけで笑った。
「ないよりはいい。街道に出るなら着けておけ」
ロイドは留め具と肩紐を順に確かめ、脇で折れ込んでいた革を指で引き出した。ノアが腕を上げてみると、さっきより引っかかりが少ない。
「……その爺さんがお前にこれをくれたってことは、少なくとも嫌われちゃいないってことだ」
「別に好かれようと思ってない」
「そういうところだ。お前は――」
また説教が始まりかけたところで、背後から笑い混じりの声が飛んできた。
「朝から怒られてるな、ノア」
振り返ると、カイルたち四人が街路の向こうから歩いてきていた。カイルは胸当ての上に旅用の外套を羽織り、腰に長剣、背に荷袋。レナは長弓を肩に掛け、エリスは細身の杖を手にしている。ガルドだけは荷が少なく、代わりに外套や腰回りに、いくつもの小袋を下げていた。
ロイドがカイルの姿を認め、片眉を上げた。
「……お前か」
「げ、ロイドさん」
「人の顔を見るなり『げ』とは何だ」
「いやあ、朝からお元気そうで何よりです」
ノアは二人を見比べた。
「知り合いなのか?」
「まあな。説教好きの兄貴みたいなもん」
「誰が兄貴だ」
ロイドは呆れたように言い、片手を自分の腰ほどの高さに置いた。
「こいつが、このくらいの頃から知ってる。夜中に寝小便して、泣きながらシーツを抱えてきたこともあったな」
「やめろって! 何年前の話だよ!」
カイルが珍しく慌てた。
「こ、これでも今じゃ第二等級冒険者なんだぜ」
「等級が上がっても、昔の寝小便までは消えん」
ロイドはガルドへ目を向けた。
「ガルド。ノアを頼む」
「ああ」
「待て。何で俺が面倒を見られる前提なんだ」
ロイドは何も言わず、まずノアの腰へ視線を落とした。剣はない。次に胸当てを見て、最後にノアの顔へ戻る。
「逆に聞くが、何で面倒を見られないと思った」
返す言葉がなかった。カイルが声を上げて笑う。
「大丈夫ですよ。ちゃんとラグナまで連れていきます」
「勘違いするなよ」
ロイドの声が、少しだけ硬くなった。
「お前たちの仕事は、牙狼の調査と討伐だろう。こいつを討伐に連れ回すな。置き去りにもするな」
「分かってます。森の奥まで入るなら、ノアの安全を確保してから動きます」
「ならいい」
ロイドは頷いた。
「ラグナ街道の牙狼は、こっちにも報告が来ている。群れの位置が読めていないらしい。油断するな」
「はい」
「それと」
今度はノアを見る。
「帰ってきたら顔を出せ」
「何で」
「無事かどうか、この目で確かめるためだ」
「子供じゃない」
「俺から見れば、似たようなもんだ」
「返事」
「……分かった」
「敬語」
今度こそ、何も返さなかった。ロイドの眉間に、見慣れた深い皺が刻まれる。
「帰ってきたら、この続きだからな」
「やらなくていい」
「やる」
言い切ったところで、門兵の声が朝の静けさを破った。太い鎖が軋み、重い西門がゆっくりと左右へ開いていく。その隙間から差し込んだ朝の光が、まだ薄暗い石畳の上を長く伸びた。
五人は門へ向かって歩き出した。
門をくぐる直前、ノアは何となく足を緩め、振り返った。
ロイドはもう、こちらを見ていなかった。門の内側で若い兵士を呼び止め、何かを指示している。相手の話を聞きながら眉を寄せ、ときおり城壁の方へ目を向けていた。
今日も、明日も、その次の日も。ここへ来れば、同じように小言を言われるのだろう。
そんなことを考えながら、ノアは前へ向き直った。
門の向こうには、朝日に照らされた一本の街道が伸びている。王都の石畳を離れ、土の道へ足を移す。それだけのことなのに、背後の門兵たちの声や荷馬車の軋みが、ほんの少し遠くなった気がした。




