第五話 三本の麦穂
四十一号を火へ送った翌日、ノアは三本の麦穂の銅片を懐に入れ、王都へ向かった。
葬送所を出る前に、作業場の奥の骨壺へ一度だけ目を向けた。白い札の墨は、もう乾いていた。
最初に向かったのは、商人や職人の店が集まる一角だった。
朝の通りには荷車が行き交い、届いた荷を運び込む者や、軒先へ品を並べる商人の声が飛び交っている。頭上には、金槌と炎、束ねた薬草、革靴、針と糸と、店ごとの商印が並んでいた。
三本の麦穂。図柄だけを見れば、まず思いつくのは穀物を扱う商会だ。
一軒目の店で、ノアは懐へ手を入れた。指先に、畳んだ紙が触れる。それを奥へ押しやって、銅片だけを取り出した。
店の主人は、銅片を手に取るなり首を傾げた。
「麦の印か。これだけじゃ分からんな」
「似たものは多い?」
「そりゃあな。一本麦なら農家にもあるし、束ねた麦なら粉屋や酒屋も使う。こいつは三本だから少し珍しいが……少なくとも、うちの取引先じゃない」
二軒目でも三軒目でも、返ってくる答えは似たようなものだった。見たことがない。どこかで見た気がする。地方のものではないか。店や土地の名前まで出てくる者はいなかった。
名前の分からない男のことなら、こうして誰にでも訊いて回れる。誰もが名前を知っている男のことは、誰に訊けばいいのかも分からない。
四軒目を出たところで、ノアは足を止めた。
今の店の印なら、この通りの誰かが知っているはずだ。誰も知らないのなら、今は使われていない古い印ということもある。それなら、長く商売を続けている店の方が、覚えているかもしれない。
ノアは通りを見渡し、軒先の看板の傷み具合を一つずつ確かめていった。塗り直したばかりの看板を過ぎ、色の褪せた看板を過ぎて、通りの端で目を留める。
金槌と二本の釘を組み合わせた商印だった。板は黒ずみ、金具は錆び、釘の図柄も半分ほど掠れている。昼を少し過ぎた頃、ノアはその古びた金物屋の戸をくぐった。
店内には、農具や鍋、馬車の部品から、用途の分からない小さな金具まで、長い年月の間に集まった品が所狭しと並んでいた。
「すまない。これを知らないか」
声を掛けると、店の奥から白髪の老人が出てきた。鼻の上に丸い眼鏡が乗っている。
老人は銅片を受け取ると、三本の麦穂へ顔を近づけた。表を確かめ、裏返し、今度は眼鏡を鼻先までずらして、裸眼でも見る。
「ああ……」
何軒回っても聞けなかった声だった。ノアは顔を上げた。
「知ってるのか?」
「これなら覚えとるよ」
老人は皺の寄った指で、麦穂の刻印をなぞった。
「ラグナの印だな」
「ラグナ……北西の宿場町だったか?」
「そうだ。知っとるのか」
「名前だけは」
老人は眼鏡を掛け直した。
「王都から北西へ、歩けば三日ほどだ。北へ抜ける街道の途中にある町でな。商人や冒険者なら、世話になった奴も多いだろう」
「この三本麦が、ラグナの印なのか?」
「昔のな」
老人は銅片を、窓から差し込む光へかざした。
「昔のラグナは麦畑ばかりの村だったらしい。それで三本の麦穂を村の印にしていた。だが街道が整って宿場として栄えてからは、屋根と麦穂を組み合わせた印に変わった。今の若い連中なら、三本麦だけ見せられても、ラグナとは分からん奴の方が多いだろう」
「行ったことがあるのか?」
「若い頃にな」
老人は懐かしそうに笑った。
「仕事で何度か通った。今ほど宿も店も多くなかった頃だ。当時は村の看板にも荷札にも、この三本麦がよく使われとった。だから覚えとる」
ノアは銅片を受け取った。
四十一号がラグナの人間だったとは限らない。生まれ育った土地なのかもしれないし、旅の途中で手に入れただけかもしれない。それでも、昨日まで番号と小さな銅片しかなかった男に、初めて一つの土地が結びついた。
「……行けば、何か分かるかもしれないな」
呟くと、老人が眉を上げた。
「お前さん、ラグナまで行く気か」
「ああ」
「一人で?」
「そのつもりだけど」
老人は露骨に顔をしかめた。
「やめとけ」
「何でだ」
「三日だぞ。王都の外を三日も一人で歩く気か」
「街道を行けば着くんだろ」
「道に迷うかどうかを心配しとるんじゃない」
老人は呆れたように息を吐いた。
「王都の周りなら兵の巡回も多い。だが、一日も離れりゃ事情は変わる。野盗もいるし、魔物も出る。夜になったからって、街道に灯りが点くわけでもない」
言われなくても、そのくらいは知っている。葬送所に運び込まれてくる遺体には、街道で魔物に襲われた者もいた。自分で旅をしたことはほとんどなくても、その危険がどんな傷を残すのかは、何度も見てきた。
「それに最近、ラグナの辺りじゃ牙狼が出とるらしい。街道近くまで下りてきて、この前は商隊も襲われたと聞いた」
老人の視線が、ノアの腰へ落ちた。そこに剣はない。
「お前さん、戦えるのか」
「ほとんど」
「ほとんどってのは、こういう時は戦えんって意味だ」
老人は店の外へ顎を向けた。
「どうしても行くなら、冒険者を雇え。二つ先の通りを左へ行けば組合がある。剣と盾の印が出とるから、見れば分かる」
「冒険者か……」
「金は掛かるが、死ぬより安い」
ノアは銅片を懐へしまった。
「ありがとう」
店を出ようとしたところで、呼び止められた。
「待ちな。ラグナに何の用がある」
「名前」
「名前?」
「この銅片を持ってた男の」
老人は少しだけ目を細めた。
「死んどるのか」
「ああ。名待ちだ」
老人はしばらく、ノアの顔を見ていた。やがて何も言わずに背を向ける。
「……ちょっと待っとれ」
返事も待たず、品物の積み上がった店の奥へ消えていく。木箱を動かす音がして、何かを引きずり出す音が続いた。戻ってきた老人の腕には、使い込まれた革の胸当てが抱えられていた。
「ほら」
放るように渡され、ノアは慌てて受け止めた。厚い革を何枚か重ねた、簡素なものだった。表面に擦り傷は残っているが、縫い目も留め具もまだしっかりしている。
「これは?」
「昔、代金の足しにと旅人から引き取ったもんだ。売り物にするには古いが、着る分には問題ない」
「別にいらない」
「三日の道を歩く奴が、その格好で何を言っとる」
老人は鼻を鳴らし、それから少しだけ声を落とした。
「名前を探しに行った奴まで名待ちになったんじゃ、笑えんからな」
ノアは胸当てへ目を落とした。返す言葉が、すぐには見つからなかった。
「……ありがとう」
「最初からそう言えばいい」
老人は、もう用は済んだとばかりに店の奥へ戻っていった。
店を出ると、通りには昼の光が落ちていた。抱えた胸当ては、見た目よりも重い。
二つ先の通りを左へ。言われた道の先に、剣と盾の印が見えた。




