第四話 名待ち《ロストネーム》
アレン・グレイヴの葬送から二日後、葬送所を訪れたのは一組の親子だった。
亡くなったのは七十二になる老婆だという。長く患っていた病が昨夜になって急に悪化し、家族に看取られながら息を引き取った。
「母を、お願いできますか」
頭を下げたのは、五十をいくらか過ぎた息子だった。隣には孫らしい若い女が付き添っている。泣き腫らした目を伏せたまま、布に包まれた身体から、なかなか離れようとしなかった。
「ああ。預かる」
ノアは死者の名と年齢、生前に大きな傷や病がなかったかを聞き取り、遺体を預かった。
老婆の身体に目立った損傷はなかった。長い病で随分と痩せてはいたが、処置に特別な手間はかからない。ノアは身体を清め、乱れた白髪を梳き、こけた頬と口元を僅かに整えていった。
手を拭いているうちに、その指先に目が留まった。右手の親指と人差し指の腹に、古い火傷の痕が幾重にも重なっている。どれも浅く、とうに塞がったものばかりだった。熱い鍋の縁や竈の火に、何十年も触れ続けてきた手だった。
アレンのように首を繋ぎ直す必要もなければ、深い傷を隠すために長い時間を費やす必要もない。それでも、手を抜く理由にはならなかった。
すべてを終えて家族を呼び入れると、息子は母親の顔を見るなり、しばらくその場に立ち尽くした。やがて皺の刻まれた手に自分の手を重ね、長く息を吐く。
「……眠ってるみたいだ」
日が傾く頃には火葬を終え、家族とともに送り火を焚いた。息子が母の名を呼び、隣で孫娘が震える声で何度も別れを告げる。ノアは木札の端を炎へ差し入れた。火はゆっくりと木肌を這い、墨で記された名へ届いていく。
ノアは、最後の文字が燃え落ちるまで目を離さなかった。
何も起こらなかった。木札はただ灰になり、送り火はいつものように静かに揺れていた。
家族を見送ったあと、ノアは一人で石台に残った炎を眺めた。
「……やっぱり、あいつだけか」
木札をつまんでいた指先が、少し熱かった。炎へ差し入れたのだから、当たり前だった。ノアは火を始末し、その日の片付けへ戻った。
静けさが破られたのは、翌日の昼前だった。
外から、車輪が土を踏む音が近づいてくる。馬具の鳴る乾いた音がひとつして、葬送所の前で止まった。聞き慣れた音だった。
ノアは洗っていた布を桶の縁へ掛け、濡れた手を拭って外へ出た。
入口の前に、王国の紋章を付けた小さな荷馬車が停まっている。荷台には、白布を掛けられた細長いものが積まれていた。形を見れば、用件はだいたい分かる。
御者台から降りてきたのは、三十代半ばほどの男だった。左の眉が、端の方で細い傷痕に途切れている。胸元には役所の徽章を付けていた。男はノアの顔を確かめるように一度見てから、口を開いた。
「葬送士のノアで間違いないか?」
「ああ。いつもの人は?」
「北区で急な仕事が入った。今日は俺が代わりだ」
男は懐から、折り畳まれた書類を取り出した。
「東街道から少し外れた場所で見つかった。男だ。発見から五日。告知も出したが、誰も名乗り出なかった」
受け取った紙は湿気を吸い、役所特有の几帳面な字が並んでいた。男。推定四十歳前後。発見場所は王都東方、東街道脇。目立った外傷なし。身元を示す物、なし。
名前の欄だけが空白で、代わりに別の文字が記されていた。
――東街道・イ四十一号。
ノアは紙から目を上げた。
「名待ちか」
「ああ」
役人は短く答え、荷台へ視線を移した。
「これ以上は安置所に置いておけない。身体を火へ送ったら、骨は名待ちの納骨所へ。あとで身元が分かれば、役所から知らせる」
「事件性は?」
「今のところはない。争った跡も、刃物の傷も見つかってない。死因までは分からんが、事件として扱う理由はないそうだ」
「……分かった」
身元の分からない死者は、珍しくない。告知を出しても名を呼ぶ者が現れなければ、見つかった場所と、管理区分の一字と、番号が与えられる。遺体は名前が見つかるまで待ってはくれないから、腐る前に身体だけを火へ送り、骨と灰を符号とともに納骨所へ収める。名を記す木札が作れないので、送り火は焚かれない。だから彼らは、骨になったあとも待ち続ける。自分を知る誰かが現れ、本当の名を呼んでくれる日まで。この国では、そうした死者を名待ちと呼んでいた。
ノアも先代の手伝いをしていた頃から、その骨壺を何度も見ている。名前の代わりに符号だけを記した白い札。棚の奥で、静かに年月を重ねていく壺。数年後に家族が見つけた者もいた。十年を過ぎて、ようやく名を取り戻した者もいた。そして、先代が死んだ今も、番号のまま棚に残っている者がいる。
「それじゃあ、頼んだ」
役人の声で、ノアは書類から顔を上げた。
役人と御者が荷台から遺体を降ろし、ノアとともに中へ運び入れる。白布に包まれた身体を作業台へ横たえると、二人は短く頭を下げて出ていった。やがて車輪の音が遠ざかり、聞こえなくなった。
作業台には、白布に覆われた一人の死者が残された。
「……四十一号、か」
死者にとっては、名前で呼ばれようが番号で呼ばれようが、もう何も変わらないのかもしれない。けれど、この男が生きていた頃、誰かが「四十一号」と呼び、その声に彼が振り向いたことなど、一度もなかったはずだった。
ノアは白布へ手を掛け、顔のあたりまで下ろした。
現れたのは、痩せた男だった。記録の通り、四十歳前後に見える。顎には数日分の髭が伸び、頬も落ちていたが、長く路上で暮らした者に特有の荒れ方はしていない。
眠っているようにも、苦しみながら死んだようにも見えない。ひどく疲れた人間が、そのまま目を覚まさなくなったような顔だった。
白布をさらに下ろし、身体を確かめていく。
右の脇腹に、目立つ痣があった。手のひらの半分ほどの大きさで、色は赤褐色。輪郭はいびつで、どこか木の葉を思わせる形をしている。ノアは位置と大きさ、形を記録に残した。
大きな打撲はない。刃物の傷もない。役人の言った通り、一目で事件を疑わせるものはなかった。そして、死因を示すものも、どこにもなかった。
衣服を外していくうちに、書類にはなかったものが見えてくる。
上着は随分と使い込まれていた。肘や裾には何度も繕った跡があり、そのたびに手元の糸を使ったのか、縫い目の色がところどころ違う。それでも、破れたまま放ってある箇所は一つもなかった。物を粗末にする男ではなかったらしい。
両手にも、小さな傷がいくつも残っていた。親指と人差し指の付け根には、とりわけ硬い皮膚ができている。ノアはその手を持ち上げ、掌を眺めた。
アレンの手とは違う。剣の柄を長年握ってきた硬さではない。昨日送った老婆の、火に触れ続けた指とも違った。
指先に残る細かな傷と、爪の際に染みついた黒ずみ。土を耕す手でも、剣を振るう手でもない。何かを切り、穴を穿ち、縫い合わせていく仕事を、長く続けてきた手に見えた。
「……職人か?」
腰帯を外し、上着やズボンの物入れを確かめる。所持品の確認は役所でも済んでいるはずだが、遺体を預かる際には、身につけていた物を葬送士がもう一度調べることになっていた。
最後に、古びた革靴へ手を掛けたときだった。
片方を傾けると、中で何かが滑った。石床に、小さな金属音が落ちる。
足元に転がっていたのは、指先ほどの薄い銅片だった。拾い上げると、端には小さな輪が途中で千切れたような跡が残っている。何かに吊るしていたのか、別の品に付いていたのかは分からない。表面に文字はない。刻まれていたのは、三本の麦穂を束ねた印だった。
「……何だ、これ」
ノアは卓上の書類を取り、所持品の欄を確かめた。銅片の記載はない。靴の奥に入り込んでいたのなら、最初の確認で見落とされても不思議ではなかった。
銅片をいったん卓上へ置き、衣服を改めて調べ直す。上着の裏地をめくり、繕った裾へ指を通す。腰帯の内側も、小袋の底も確かめた。靴にも、工房や持ち主を示す刻印はない。布地も、王都で珍しくないものだった。
結局、手掛かりとして残ったのは、三本の麦穂の銅片だけだった。
ノアは銅片を掌に載せ、親指で表面をなぞった。
どこかの店の印か、村の印か。少なくとも、ノアの記憶にある印ではなかった。
本来なら、この銅片を役所へ届ければ済む話だった。新しい所持品として記録に加えられ、いつか身元を尋ねてくる者が現れれば、照合の材料になる。
ただ、役所がこの印一つのために人を出すことはないだろう。必要な確認も告知も済んで、誰も名乗り出なかったから、ここへ運ばれてきたのだ。名待ちは、この男一人ではない。
役所へ渡してしまえば、自分の仕事は終わる。
ノアは、昨日の送り火を思い出していた。息子が母の名を呼び、孫娘が何度も別れを告げていた。あの火の前には、名を呼ぶ者がいた。この男には、まだ誰もいない。
足元にまで転がり出てきたものを記録の束に紛れ込ませ、いつ来るとも分からない偶然を待つだけというのは、どうにも据わりが悪かった。
「……少しくらいなら、調べるか」
誰に聞かせるでもなく呟き、ノアは銅片を卓上へ戻した。
それから、男の身体を清めた。髪を整え、爪の間に残った汚れを落とし、火へ送るための支度を一つずつ済ませていく。名が分からなくても、やることは変わらない。
夕刻、男は火葬炉へ入った。炎が落ち着くのを待って骨と灰を拾い、一つの骨壺へ納める。
送り火は焚かなかった。ノアは骨壺の傍らに白い札を置き、筆を取った。書いたのは人の名ではなく、納骨所でこの骨壺を取り違えないための番号だった。
――東街道・イ四十一号。
墨が乾くまで、しばらくその文字を見つめる。
これは、名前ではない。
ノアは筆を置き、卓上の銅片を取った。上着の内側へ入れると、指に紙が触れた。二つに畳んだままの、名前の半分だけが残った切れ端だった。
銅片を、その隣へ収める。三本の麦穂の刻みが、指の腹に小さく引っかかった。




