↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰より継ぐ  作者: 秒針
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/17

第四話 名待ち《ロストネーム》

アレン・グレイヴの葬送から二日後、葬送所を訪れたのは一組の親子だった。


 亡くなったのは七十二になる老婆だという。長く患っていた病が昨夜になって急に悪化し、家族に看取られながら息を引き取った。


「母を、お願いできますか」


 頭を下げたのは、五十をいくらか過ぎた息子だった。隣には孫らしい若い女が付き添っている。泣き腫らした目を伏せたまま、布に包まれた身体から、なかなか離れようとしなかった。


「ああ。預かる」


 ノアは死者の名と年齢、生前に大きな傷や病がなかったかを聞き取り、遺体を預かった。


 老婆の身体に目立った損傷はなかった。長い病で随分と痩せてはいたが、処置に特別な手間はかからない。ノアは身体を清め、乱れた白髪を梳き、こけた頬と口元を僅かに整えていった。


 手を拭いているうちに、その指先に目が留まった。右手の親指と人差し指の腹に、古い火傷の痕が幾重にも重なっている。どれも浅く、とうに塞がったものばかりだった。熱い鍋の縁や竈の火に、何十年も触れ続けてきた手だった。


 アレンのように首を繋ぎ直す必要もなければ、深い傷を隠すために長い時間を費やす必要もない。それでも、手を抜く理由にはならなかった。


 すべてを終えて家族を呼び入れると、息子は母親の顔を見るなり、しばらくその場に立ち尽くした。やがて皺の刻まれた手に自分の手を重ね、長く息を吐く。


「……眠ってるみたいだ」


 日が傾く頃には火葬を終え、家族とともに送り火を焚いた。息子が母の名を呼び、隣で孫娘が震える声で何度も別れを告げる。ノアは木札の端を炎へ差し入れた。火はゆっくりと木肌を這い、墨で記された名へ届いていく。


 ノアは、最後の文字が燃え落ちるまで目を離さなかった。


 何も起こらなかった。木札はただ灰になり、送り火はいつものように静かに揺れていた。


 家族を見送ったあと、ノアは一人で石台に残った炎を眺めた。


「……やっぱり、あいつだけか」


 木札をつまんでいた指先が、少し熱かった。炎へ差し入れたのだから、当たり前だった。ノアは火を始末し、その日の片付けへ戻った。




 静けさが破られたのは、翌日の昼前だった。


 外から、車輪が土を踏む音が近づいてくる。馬具の鳴る乾いた音がひとつして、葬送所の前で止まった。聞き慣れた音だった。


 ノアは洗っていた布を桶の縁へ掛け、濡れた手を拭って外へ出た。


 入口の前に、王国の紋章を付けた小さな荷馬車が停まっている。荷台には、白布を掛けられた細長いものが積まれていた。形を見れば、用件はだいたい分かる。


 御者台から降りてきたのは、三十代半ばほどの男だった。左の眉が、端の方で細い傷痕に途切れている。胸元には役所の徽章を付けていた。男はノアの顔を確かめるように一度見てから、口を開いた。


「葬送士のノアで間違いないか?」


「ああ。いつもの人は?」


「北区で急な仕事が入った。今日は俺が代わりだ」


 男は懐から、折り畳まれた書類を取り出した。


「東街道から少し外れた場所で見つかった。男だ。発見から五日。告知も出したが、誰も名乗り出なかった」


 受け取った紙は湿気を吸い、役所特有の几帳面な字が並んでいた。男。推定四十歳前後。発見場所は王都東方、東街道脇。目立った外傷なし。身元を示す物、なし。


 名前の欄だけが空白で、代わりに別の文字が記されていた。


 ――東街道・イ四十一号。


 ノアは紙から目を上げた。


「名待ち(ロストネーム)か」


「ああ」


 役人は短く答え、荷台へ視線を移した。


「これ以上は安置所に置いておけない。身体を火へ送ったら、骨は名待ち(ロストネーム)の納骨所へ。あとで身元が分かれば、役所から知らせる」


「事件性は?」


「今のところはない。争った跡も、刃物の傷も見つかってない。死因までは分からんが、事件として扱う理由はないそうだ」


「……分かった」


 身元の分からない死者は、珍しくない。告知を出しても名を呼ぶ者が現れなければ、見つかった場所と、管理区分の一字と、番号が与えられる。遺体は名前が見つかるまで待ってはくれないから、腐る前に身体だけを火へ送り、骨と灰を符号とともに納骨所へ収める。名を記す木札が作れないので、送り火は焚かれない。だから彼らは、骨になったあとも待ち続ける。自分を知る誰かが現れ、本当の名を呼んでくれる日まで。この国では、そうした死者を名待ち(ロストネーム)と呼んでいた。


 ノアも先代の手伝いをしていた頃から、その骨壺を何度も見ている。名前の代わりに符号だけを記した白い札。棚の奥で、静かに年月を重ねていく壺。数年後に家族が見つけた者もいた。十年を過ぎて、ようやく名を取り戻した者もいた。そして、先代が死んだ今も、番号のまま棚に残っている者がいる。


「それじゃあ、頼んだ」


 役人の声で、ノアは書類から顔を上げた。


 役人と御者が荷台から遺体を降ろし、ノアとともに中へ運び入れる。白布に包まれた身体を作業台へ横たえると、二人は短く頭を下げて出ていった。やがて車輪の音が遠ざかり、聞こえなくなった。


 作業台には、白布に覆われた一人の死者が残された。


「……四十一号、か」


 死者にとっては、名前で呼ばれようが番号で呼ばれようが、もう何も変わらないのかもしれない。けれど、この男が生きていた頃、誰かが「四十一号」と呼び、その声に彼が振り向いたことなど、一度もなかったはずだった。


 ノアは白布へ手を掛け、顔のあたりまで下ろした。


 現れたのは、痩せた男だった。記録の通り、四十歳前後に見える。顎には数日分の髭が伸び、頬も落ちていたが、長く路上で暮らした者に特有の荒れ方はしていない。


 眠っているようにも、苦しみながら死んだようにも見えない。ひどく疲れた人間が、そのまま目を覚まさなくなったような顔だった。


 白布をさらに下ろし、身体を確かめていく。


 右の脇腹に、目立つ痣があった。手のひらの半分ほどの大きさで、色は赤褐色。輪郭はいびつで、どこか木の葉を思わせる形をしている。ノアは位置と大きさ、形を記録に残した。


 大きな打撲はない。刃物の傷もない。役人の言った通り、一目で事件を疑わせるものはなかった。そして、死因を示すものも、どこにもなかった。


 衣服を外していくうちに、書類にはなかったものが見えてくる。


 上着は随分と使い込まれていた。肘や裾には何度も繕った跡があり、そのたびに手元の糸を使ったのか、縫い目の色がところどころ違う。それでも、破れたまま放ってある箇所は一つもなかった。物を粗末にする男ではなかったらしい。


 両手にも、小さな傷がいくつも残っていた。親指と人差し指の付け根には、とりわけ硬い皮膚ができている。ノアはその手を持ち上げ、掌を眺めた。


 アレンの手とは違う。剣の柄を長年握ってきた硬さではない。昨日送った老婆の、火に触れ続けた指とも違った。


 指先に残る細かな傷と、爪の際に染みついた黒ずみ。土を耕す手でも、剣を振るう手でもない。何かを切り、穴を穿ち、縫い合わせていく仕事を、長く続けてきた手に見えた。


「……職人か?」


 腰帯を外し、上着やズボンの物入れを確かめる。所持品の確認は役所でも済んでいるはずだが、遺体を預かる際には、身につけていた物を葬送士がもう一度調べることになっていた。


 最後に、古びた革靴へ手を掛けたときだった。


 片方を傾けると、中で何かが滑った。石床に、小さな金属音が落ちる。


 足元に転がっていたのは、指先ほどの薄い銅片だった。拾い上げると、端には小さな輪が途中で千切れたような跡が残っている。何かに吊るしていたのか、別の品に付いていたのかは分からない。表面に文字はない。刻まれていたのは、三本の麦穂を束ねた印だった。


「……何だ、これ」


 ノアは卓上の書類を取り、所持品の欄を確かめた。銅片の記載はない。靴の奥に入り込んでいたのなら、最初の確認で見落とされても不思議ではなかった。


 銅片をいったん卓上へ置き、衣服を改めて調べ直す。上着の裏地をめくり、繕った裾へ指を通す。腰帯の内側も、小袋の底も確かめた。靴にも、工房や持ち主を示す刻印はない。布地も、王都で珍しくないものだった。


 結局、手掛かりとして残ったのは、三本の麦穂の銅片だけだった。


 ノアは銅片を掌に載せ、親指で表面をなぞった。


 どこかの店の印か、村の印か。少なくとも、ノアの記憶にある印ではなかった。


 本来なら、この銅片を役所へ届ければ済む話だった。新しい所持品として記録に加えられ、いつか身元を尋ねてくる者が現れれば、照合の材料になる。


 ただ、役所がこの印一つのために人を出すことはないだろう。必要な確認も告知も済んで、誰も名乗り出なかったから、ここへ運ばれてきたのだ。名待ち(ロストネーム)は、この男一人ではない。


 役所へ渡してしまえば、自分の仕事は終わる。


 ノアは、昨日の送り火を思い出していた。息子が母の名を呼び、孫娘が何度も別れを告げていた。あの火の前には、名を呼ぶ者がいた。この男には、まだ誰もいない。


 足元にまで転がり出てきたものを記録の束に紛れ込ませ、いつ来るとも分からない偶然を待つだけというのは、どうにも据わりが悪かった。


「……少しくらいなら、調べるか」


 誰に聞かせるでもなく呟き、ノアは銅片を卓上へ戻した。


 それから、男の身体を清めた。髪を整え、爪の間に残った汚れを落とし、火へ送るための支度を一つずつ済ませていく。名が分からなくても、やることは変わらない。


 夕刻、男は火葬炉へ入った。炎が落ち着くのを待って骨と灰を拾い、一つの骨壺へ納める。


 送り火は焚かなかった。ノアは骨壺の傍らに白い札を置き、筆を取った。書いたのは人の名ではなく、納骨所でこの骨壺を取り違えないための番号だった。


 ――東街道・イ四十一号。


 墨が乾くまで、しばらくその文字を見つめる。


 これは、名前ではない。


 ノアは筆を置き、卓上の銅片を取った。上着の内側へ入れると、指に紙が触れた。二つに畳んだままの、名前の半分だけが残った切れ端だった。


 銅片を、その隣へ収める。三本の麦穂の刻みが、指の腹に小さく引っかかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。