第三話 残されたもの
その夜、少年はほとんど眠れなかった。目を閉じるたびに、送り火の向こうに現れた森が浮かんでくる。
薄暗い部屋で、右手を顔の前へ持ち上げる。小指は、真っ直ぐ伸びている。あの森で剣を抜いた手は、小指が途中から曲がっていた。夕方、自分の手で胸元へ整えたばかりの指だった。会ったこともない三つの背中に込み上げた懐かしさだけが、まだ消えずにいる。
「……アレンの記憶でも見たっていうのか」
答えの出ないまま、窓の外が白み始めた。
朝の葬送場には、昨夜の出来事など初めからなかったかのような静けさが戻っていた。墓地の向こうに広がる森から、早起きの鳥の声が聞こえている。
少年は送り火を焚いた石台の前にしゃがみ込み、昨夜の灰へ指先を伸ばした。灰はすっかり冷えている。アレン・グレイヴと記した木札も、もう原形を留めていなかった。
指先で灰を軽く崩してみる。
何も起きなかった。森が現れることも、知らない誰かの声が聞こえることもない。乾いた灰が崩れて、指先を薄く黒く染めただけだった。
「……そりゃそうか」
この石台から、病で静かに息を引き取った老人も、戦から戻れなかった兵士も送ってきた。名を呼び、木札を送り火にくべ、炎が消えるまで見届ける。数え切れないほど繰り返してきたが、送り火の向こうに別の景色が現れたことなど、一度もなかった。
昨夜だけが違った。石台も、火も、送り方も変えていない。違っていたのは、送った死者だけだ。
「死んでから面倒を増やすなよ」
少年は立ち上がり、いつものように石台を掃き始めた。灰を片付け、炉に残った煤を落とし、昨日使った針や器具を洗う。昨夜、自分の身に何が起きたとしても、次の死者は待ってくれない。
昼前、少年は不足した品を買い足すため、王都へ向かった。
中央広場では、職人たちが処刑台の板を外していた。そのすぐ脇で商人が野菜を並べ、焼きたてのパンを抱えた女が人混みを足早に抜けていく。昨日、この場所で一人の男の首が落ちた。
少年は解体途中の処刑台を一度だけ見て、市場へ向かった。清拭に使う布。丈夫な糸。木札を作るための薄い木板。必要なものを頭の中で確かめながら、人々の間を縫って歩く。
客を呼ぶ商人。値段を巡って言い争う女たち。石畳を叩く蹄の音、荷車の車輪が転がる音。いつもの王都だった。
そのはずだった。
不意に、胸の奥を冷たい何かが撫でた。
少年の足が止まる。
「……?」
痛みではない。理由も分からないまま、身体のどこかが警戒していた。
周囲に視線を走らせる。店先では女が野菜を手に取り、隣で商人が釣り銭を数えている。荷運びの男は木箱を肩に担ぎ、通りの向こうでは子供が母親の手を引いていた。異変らしいものは見当たらない。
昨夜の森が、脳裏をよぎった。敵の姿を見るより前に、矢が放たれるより前に、身体の奥だけが先に危険を告げていた。
――危ない。
何が危ないのかは分からない。少年は目に入るものを一つずつ追い、やがて、通りの向こうから近づいてくる一台の荷車に視線を止めた。
大きな木箱を何段にも積み上げた、ごく普通の荷車だった。御者は前を見て手綱を握り、その脇を荷主らしい男が歩いている。荷車は少年の立つ側へ寄るように進んでおり、このままなら、間もなく目の前を通り過ぎる。
胸の冷たさが強くなった。
左の車輪が僅かに揺れている。真っ直ぐ回っているように見えて、ときおり不自然に横へぶれ、そのたびに小さな軋みが聞こえた。
――ミシッ。
荷車は止まらない。少年は無意識に一歩下がった。冷たさは引かなかった。このまま近づかせてはいけないという感覚だけが、説明できないほど鮮明だった。
「止まれ!」
考えるより先に声が出た。御者が驚いて少年を見る。
「何だ?」
問われても、うまく説明できなかった。車輪は揺れ、軋んでいる。だが、何が起きるのかまでは分からない。
「いいから、止めろ!」
御者が戸惑いながら手綱を引こうとした、その瞬間。
乾いた音が通りに響いた。荷車の左側が大きく沈み、折れた車軸に支えを失った荷台が、少年の立つ側へ傾く。積み上げられた木箱が、一斉に崩れた。
周囲から悲鳴が上がる。少年も反射的にその場を離れようとして、視界の端に、幼い少女の姿を捉えた。
大人たちが慌てて逃げる中、その子だけが、小さな紙を握ったまま、崩れてくる木箱を見上げて立ち尽くしている。
自分だけなら避けられる。
少年は、逃げかけた足を少女の方へ返した。胸の冷たさが、喉元までせり上がった。
数歩で距離を詰め、腕を掴んで、自分の方へ強く引き寄せる。その勢いのまま二人は石畳へ倒れ込み、ほとんど同時に、すぐ脇へ大きな木箱が落ちた。鈍い音を立てて箱が砕け、中の果物が石畳の上を転がっていく。少女の手から紙が離れて、石畳を滑った。
少女はしばらく呆然としていたが、やがて恐怖が追いついたように顔を歪め、大きな声で泣き出した。
「ミア!」
人混みの向こうから、女性が駆けてくる。少女の前に膝をつき、その小さな身体を強く抱き締めた。
「大丈夫? どこか痛くない?」
「だ、大丈夫……」
少女はしゃくり上げながら答える。膝に僅かな擦り傷があったが、それ以外に目立った怪我はなかった。
「ありがとうございます。この子がもし、あのまま……」
母親は娘を抱き寄せたまま、何度も頭を下げた。
「大きな怪我がなくて良かった」
そう答えて立ち上がったものの、少年の視線は、横倒しになった荷車に向いていた。
折れた車軸と、散らばった木箱を順に見れば分かった。もし何も感じないまま同じ場所に立っていたなら、自分もあの下にいた。
昨夜の森と、同じだった。
「お兄ちゃん」
声を掛けられて振り返ると、母親に抱かれた少女が、涙の跡を頬に残したまま、こちらを見ていた。
「ありがとう」
「……怖かっただろ。もう大丈夫だからな」
「うん」
少女が頷く。少年はそれを確かめて離れようとしたが、背を向けたところで呼び止められた。
「待って」
振り返ると、少女はまだ赤い目のまま、今度は先ほどよりしっかりと少年を見ていた。
「お兄ちゃん、名前は?」
「名前?」
「うん。助けてくれた人の名前、知りたい」
その言葉を聞いた瞬間、なぜか、昨夜の木札が頭に浮かんだ。一人の死者の名として記し、声に出して呼び、送り火に託した名。
少年は少しだけ黙って、口を開いた。
「……ノア。ノア・エルデン」
「ノア」
少女は、確かめるようにその名を口にした。
小さな声だった。けれど、自分の名前を他人の口から聞くのが妙に久しぶりな気がして、ノアは僅かに目を瞬いた。
「ありがとう、ノア」
少女はようやく少し笑った。
倒れ込んだ場所に、少女が握っていた紙が落ちていた。ノアは拾い上げた。手のひらほどの、角の擦り切れた刷り物だった。何度も触ったのだろう、描かれた男の顔だけが、擦れて薄くなっている。
「これ、お前のだろ」
「うん。アレン様だよ。悪い魔物から、みんなを――」
母親の手が、少女の口を塞いだ。もう片方の手が、ノアの指から刷り物を抜き取り、前掛けの下へ押し込んだ。
周りで何人かが、こちらを振り返っていた。母親は顔を強張らせたまま辺りを見回し、ノアと目が合うと、怯えたように頭を下げた。娘を抱き上げ、何も言わずに人混みの中へ消えていく。口を塞がれたままの少女が、母親の肩越しに、まだこちらを見ていた。
振り返っていた者たちも、何事もなかったように自分の買い物へ戻っていった。
市場の外れに、刷り物を売る露店があった。
店主が、軒先に吊るしていた一枚絵を、一枚ずつ下ろしている。純白の外套を翻した男が、輝く剣を高く掲げて丘の上に立つ絵だった。さっき母親が前掛けの下へ隠したのと、同じ絵だった。絵の下には、男の名前が大きく刷られていた。
店主は下ろした絵を裏返し、黙って木箱の底へ重ねていく。燃やすでもなく、破るでもなかった。
ノアは、吊るされたまま残っている一枚を見上げた。
剣の柄を握る右手が描かれている。傷一つない白い指が、五本とも真っ直ぐに柄へ添えられていた。
「これ、本人に似てるのか」
気づくと、訊いていた。店主は手を止めずに、鼻で笑った。
「似せてどうする。凱旋のときに遠くから拝んだ顔なんざ、誰も覚えちゃいねえよ。買う奴が欲しいのは、こういう勇者様だ」
最後の一枚が下ろされ、裏返され、箱の底へ消えた。
昨日、自分が触れた手は、こうではなかった。小指は、途中から曲がったまま固まっていた。この街の誰も、あの手を知らない。
ノアは、広場の方を振り返った。
魔物と通じた大逆人。崩れかけた隊の前に立ち、味方が退くまで一人で受け止めた男。最後に言い残すことはあるかと問われ、無実を叫ぶことも、命乞いもせずに、自分から首を台へ預けた男。
同じ男のはずなのに、一つにならなかった。
露店の足元に、紙の切れ端が一枚落ちていた。下ろすときに破れたのだろう。人に踏まれて泥の付いたその紙には、刷られた名前の半分だけが残っていた。
グレイヴ。
ノアはそれを拾い上げ、泥を指で払った。昨夜、自分が木札に記したのと同じ名前だった。
名前しか知らない死者なら、いくらでも送ってきた。それで足りないと思ったことは、一度もなかった。
切れ端を二つに畳んで、懐へ入れる。反逆者の名前を持ち歩いているところを、誰に見られるか分からない。それでも、そこに捨てていく気にはなれなかった。
「……どんな男だったんだよ、あんたは」
呟きは、行き交う人々の声に紛れて消えた。




