第二話 送り火
乾いた車輪の音が、静まり返った王都の外れに一定の間隔で響いていた。
城壁を抜け、人家から距離を置くようにひっそりと佇む葬送場への道。少年は、アレン・グレイヴの遺体を納めた無骨な白木の棺を荷車に載せ、ゆっくりと引いていく。
沿道を行き交う者たちは、荷車に目を留めるなり弾かれたように視線を逸らした。好奇の目を向けていた老人も、棺の横を通り過ぎる瞬間には息を潜め、足早に立ち去っていく。誰も棺に近づこうとしなかった。
今日、王国から出された触れが、見えない鎖となって人々を縛っている。――『反逆者を公に擁護すること、遺体に触れること、葬送を妨げることは、反逆への加担とみなす』。王国が命じた葬送だけが、その例外だった。
「……静かなもんだ」
少年は前だけを見て歩いた。
葬送場へ着く頃には、太陽はすでに西へ傾き始めていた。
荷車を石造りの葬送所へ寄せ、棺を中へ運び入れる。建物の中央には処置台が一台。壁際には水桶、清拭用の布、針と糸、化粧道具、櫛が整然と並んでいる。どれも見慣れたものだった。
棺の蓋を開くと、白布に包まれた身体の隣に、小さな包みがもう一つ置かれていた。少年は水を用意し、桶に浸した布を固く絞って、頭部を包んでいた麻布を静かに開いた。
アレン・グレイヴの顔が現れる。
死者を整えるとき、最初に落とすのは血と汚れだ。顔に固着した血と泥を丁寧に拭い、長い髪に絡みついた赤黒い塊をほぐしていくと、処刑直後の生々しさが少しずつ薄れていった。けれど、目の下の黒い影だけは、何度拭っても消えなかった。
次に、切断面を合わせる。僅かにずれた顎の角度を直し、正面と横から形を確かめて、針に太い糸を通した。冷たい肉に針を刺し、一針ずつ縫い合わせていく。傷を消す魔法ではない。残された者が直視できる姿へ整える、手仕事だ。首周りの縫い目が目立たぬよう薄く化粧を施すと、運び込まれた時の凄惨さは、ほとんど残っていなかった。
身体を拭き上げ、最後に両手を取る。
そこで、少年の手が止まった。
右手の小指が、途中から不自然に曲がっている。指の腹でそっと触れると、骨は歪な形のまま完全に癒着し、硬く冷えていた。
「……これは、このままでいいな」
生きていたときからそうだったものを、死んだからという理由で別の形に変える必要はない。少年は曲がった小指を伸ばさず、他の指とともに胸元へ置いた。
死者を整えるのは、生者のためだ。先代はそう言っていた。残された者が、死者の顔を見て、ちゃんと別れられるようにするためだと。
では、今夜は誰のためなのか。
遺族はいない。見送る者もいない。少年はその問いを、白布の下へ押し込めた。
髪を整え、顔に汚れが残っていないことを確かめる。足元から少しずつ身体を包み、顔だけを残して、手を止めた。
しばらく、その顔を見た。眠っているようには見えなかった。
最後に、顔へ白布を掛けた。
日がさらに傾き、空が薄く茜色に変わる頃、少年はアレンの棺を火葬炉へ運んだ。
炉の内部には、棺を滑らせて入れる低い石台があり、その下に、火が均等に回るよう薪が組まれている。荷台から棺を少しずつ滑らせて石台に収め、蓋を開き、白布に乱れがないことを、もう一度確かめた。
それから、火種を手に取る。
「アレン・グレイヴ」
死者本人に向けて、その名を呼ぶ。
「今より、あなたの肉体を空へ送ります」
火種を移すと、炎は乾いた薪を舐め、パチリと音を立てて棺を包み込んだ。少年は数歩下がり、揺らめく炎の熱を顔に受けながら、静かに見守り続ける。聞こえるのは、炎が木と肉を食む音だけだ。
――不意に、奇妙な揺れが起きた。
風は止まっているのに、炉の中の炎だけが、何かに押されたように片側へ大きく傾いたのだ。赤く揺らめく火の向こうに、一瞬、立ち尽くす人影が見えた気がした。目を瞬かせると、そこには元の通りに燃え盛る炎があるだけだった。
「……処刑場の熱気に、当てられたか」
小さく息を吐き、薪を足した。
夜も更け、炉の火が静まる前に、少年は燃え残りの火種をひとつ取り分けておいた。やがて炉が冷え、白い灰と骨だけになったアレンを拾い集めると、最後に、一枚の無垢の木札を取り出した。
この国では、死者が冥府の門を潜る際、生前の地位も罪も意味を持たない。必要なのは、己が何者であったかを示す「名」だけだ。だから葬送士は、木札に名を記し、送り火にくべる。
少年は筆に墨を含ませ、暗い炎の明かりを頼りに、一文字ずつ記した。勇者でも、反逆者でもない。ただの男の名を。
『アレン・グレイヴ』
取り分けた火種に細い薪を組むと、闇の中に小さな炎が生まれた。同じ火で肉体を送り、同じ火で名を送る。それが、この国に古くから残る葬送の作法だった。
少年は炎の前に座り、両手で木札を持った。墨の名が、送り火の淡い光に照らされている。
本来なら、ここには遺族がいる。家族が死者の名を呼び、生きているうちに伝えられなかった言葉を伝え、木札が燃えていくのを見届ける。
だが、今夜は誰もいなかった。広場で彼を英雄と呼んだ者も、反逆者と罵った者も、泣いていた者も、その死を喜んでいた者も、ここにはいない。いるのは、一人の死者と、一人の葬送士だけだった。
「アレン・グレイヴ」
静かに、その名を呼ぶ。小さな炎が、風もないのに揺れた。
「その手で、長く戦った者よ」
木札を火へ近づける。
「迷わずお行き」
札の端が炎に触れると、乾いた木肌に小さな火が移った。初めは頼りなく揺れていた炎が、木札の縁をゆっくりと這い、細い煙を夜空へ昇らせていく。火は少しずつ文字に近づいた。
アレン。
墨が焦げ、黒く滲む。
グレイヴ。
一文字ずつ、名が炎の向こうへ消えていく。少年は何も言わず、それを見つめていた。
木札が燃え尽きれば、葬送は終わる。死者は名とともに門の向こうへ行き、残された者は現世へ戻る。
いつもなら。
最後の文字が炎に呑まれた、その瞬間だった。
灰の匂いではない。雨に濡れた青草と、濃密な木の葉の匂いが、鼻腔を殴りつけた。
顔を上げると、送り火も、石壁も、夜空も消えていた。視界を埋めているのは、鬱蒼とした深い森だ。枝葉の隙間から木漏れ日が落ち、遠くでせせらぎが鳴っている。頬を撫でる風も、足裏の柔らかな土の感触も、あまりに生々しい。
「……は?」
立ち止まろうとした。だが、足が止まらない。視線すら、自分の意志では動かせなかった。誰かの身体の奥に閉じ込められ、その目を借りて外を見ているような、奇妙な感覚。
少し前を、三人の男女が歩いている。弓を背負った女。大荷物を背負った男。杖を手にした女。
誰も知らない。会ったこともない。それなのに、彼らの背中を見ているだけで、ひどく懐かしい感情が胸の奥から湧き上がってくる。何度も野営の火を囲み、下らない冗談を言い合った記憶の残滓が、波のように押し寄せた。
『もうすぐ街道だ。今日は何も出なかったな』
荷を背負った男が、振り返って笑う。
その瞬間、胸の奥でけたたましい警鐘が鳴り響いた。
(危ない)
獣の気配はない。葉擦れの音も正常だ。何の根拠もないのに、このまま進めば、頭を射抜かれるという確信だけが、全身の毛穴を粟立たせる。警鐘は一点を指していた。右前方、斜面の上。
少年には何も分からなかった。だが、この身体の持ち主は知っていた。
『止まれ!』
少年のものではない、野太く鋭い声が響いた。三人が弾かれたように足を止める。
『伏せろ!!』
全員が泥濘へ飛び込んだのとほぼ同時に、ヒュンッ、と空気を裂く音が連なり、先ほどまで彼らの頭があった空間を、無数の矢が通り過ぎて背後の木々に突き刺さった。
『敵襲!』
荷を背負った男の叫びに応え、視界の主は片膝を立て、腰の剣を抜き放った。
視界の端に、その右手が映り込む。
硬く荒れた掌。
そして――途中から不自然に曲がり、そのまま癒着した右の小指。
「――っ!」
視界が、粉々に砕け散った。
気がつくと、少年は石台の前に手をついていた。
息が荒い。肺が足りない空気を求めて大きく動き、額から落ちた汗が、石床に小さな染みを作る。顔を上げれば、そこにあるのは送り火だった。石台も、夜空も、周囲の石壁も、何一つ変わっていない。
森だけが、消えていた。
「何だったんだ、今の」
自分の声が、妙に遠く聞こえる。
両手を持ち上げる。右手も左手も、見慣れた自分の手だった。けれど、頭の中には別の手が残っている。硬く荒れた掌。途中から曲がった右の小指。忘れようとしても、輪郭が薄れない。
今日、自分が胸元へ置いた手だった。曲がった小指を、伸ばさずに残した手だった。
炎へ目を向ける。木札の最後の欠片が、赤く燃えながら崩れていった。
「アレン・グレイヴ……」
声にしても、返事はない。あるのは、送り火が小さく揺れる音だけだった。
今見たものを、夢だとは言い切れなかった。森の匂いも、身体を貫いた警告も、あの右手も、あまりにはっきりと残りすぎていた。
燃え尽きた木札から、細かな灰が舞い上がる。ひとひら、またひとひらと炎の熱に押し上げられ、暗い空へ溶けていく。
少年は送り火の前に座ったまま、それを見上げていた。
灰がすべて夜の中へ消えても、しばらく立ち上がることはできなかった。った。




