第一話 反逆者
処刑台の裏手、群衆の視線が届かない搬出口の影で、葬送士の少年は白木の棺に敷いた白布の皺を、指の腹で一つずつ伸ばしていた。
処刑台一つ隔てた向こうで、万の群衆が叫んでいる。石造りの建物に反響する声が分厚い壁となって広場を圧迫し、初秋の冷たい風すら、人々の吐き出す熱気と汗の匂いに呑み込まれて淀んでいた。
「殺せ!」
「裏切り者め!」
その怒号の底には「勇者様が裏切るはずがない」「何かの間違いだ」という声も混じっていたが、すぐに罵声に掻き消された。つい先日まで、同じ男を人類の希望と称え、花弁を散らして出迎えていた広場だった。
今日、この広場で行われるのは、魔物と通じたとされる大逆人――かつての英雄、勇者アレン・グレイヴの公開処刑だった。
「……随分な熱気だな」
少年は、錆びた鉄の匂いのする風を嗅ぎながら呟いた。
装飾一つない無骨な棺の傍らには、遺体を清めるための水桶と清拭用の布、血を吸わせるための分厚い麻布が、整然と並べてある。
「おい、葬送屋」
背後から声をかけられた。振り返ると、革鎧の上から王国軍の外套を羽織った、二十代半ばほどの兵士が立っている。兵士は眉をひそめ、棺にも道具にも近づこうとしないまま、視線だけを走らせた。
「準備はできてるんだろうな」
「できてる」
ぶっきらぼうな返事に兵士の眉がぴくりと動いたが、咎めている暇もないのだろう。それ以上は何も言わなかった。
「なら、処刑が終わったらすぐに遺体を運べ。日没までに火葬を始め、今夜中に送り火まで済ませるんだ」
「勇者様のご遺族は?」
「いない、と上からは聞いている」
兵士は言葉を区切り、処刑台の裏へ視線を向けたまま声を落とした。
「それに、もう勇者ではない。ただの反逆者だ。公に関係者として名乗り出る馬鹿はいない」
「そうか」
少年はそれ以上問わなかった。遺族がいようがいまいが、仕事は変わらない。遺体を受け取り、血と泥を拭い、崩れた身体を可能な限り縫い合わせ、火へ送る。
生きている人間は嘘を吐くし、機嫌も変わる。死者は違う。ただ静かに、そこにいる。少年には、それが心地よかった。
「勇者様を返せぇっ!」
不意に、広場の喧騒を裂いて女の金切り声が響いた。直後に鈍い打撃音と怒声が重なり、縋るような声は人の波に沈んでいく。
少年は手を止め、処刑台の隙間から表を覗いた。
処刑台の中央に、男が跪いている。粗末な麻の囚人服を着せられ、両腕を後ろで縛られたその背は、絵本に描かれる威風堂々たる勇者とは程遠く、ひどく細く見えた。純白の外套も、輝く聖剣もない。風に揺れる長い髪の隙間から覗くのは、ただ死を待つ一人の罪人の横顔だった。
「――アルヴェリア王国の名において告ぐ!」
役人の甲高い声が、罪状を読み上げ始める。王国への叛逆、魔物との内通、人類への裏切り。言葉が重なるたび、群衆の憎悪は熱を帯びて膨れ上がっていく。それでも、どれほど罵声を浴びせられようと、アレンは俯いたまま微動だにしなかった。
少年は静かに視線を外し、手元の布を畳み直した。
(一度で終わればいいが)
斬首された遺体は扱いが厄介だ。首を繋ぎ合わせるだけでも骨が折れる。処刑人の腕が悪く、二度、三度と斧を落とされれば、首の皮一枚を残して肉がひどく裂け、修復にも時間がかかる。
「最後に言い残すことはあるか!」
役人の声が響いた途端、荒れ狂っていた広場が水を打ったように静まり返った。少年の指も止まる。
処刑台の上で、アレンが僅かに顔を上げた。
呪詛を吐くのか、命乞いをするのか、それとも無実を叫ぶのか。万の視線が、男の唇に縫い付けられる。
だが、長い沈黙の末――英雄は何も語らなかった。
やがてゆっくりと頭を下げ、自ら冷たい木台へ首を預ける。
「執行!」
銀色の巨大な斧が、秋の陽光を弾いて高く振り上げられ、迷いなく落ちた。
分厚い肉と骨を断ち切る、湿った鈍音。
一拍の空白のあと、堰を切ったように群衆が爆発した。歓喜、怒号、狂乱、そして慟哭。
少年は棺の蓋に手を掛けた。今日弔う死者が一人増えた。ただ、それだけのことだ。
しばらくして、搬出口へ二人の兵士が担架を下ろした。一人は、さっきの兵士だった。血まみれの麻布を無言でめくると、首を失った身体と、無造作に転がされた頭部があった。
少年は慣れた手つきでしゃがみ込み、切断面から溢れる暗い血を新しい布で押さえる。血を吸って張り付いた囚人服の前を、裂いて広げた。その作業の途中、勇者の右手が不意に視界へ入った。
関節はごつごつと肥大し、掌は岩のように硬く荒れている。右手の小指は、過去に折れたまま固まったのか、不自然に曲がっていた。視線を這わせれば、前腕から肩、胸元に至るまで、大小無数の傷痕が重なり合っている。斬り傷、刺し傷、そして焼け焦げた痕。
細く見えた身体は、無駄な脂を削ぎ落とされた、生き残るためだけの歴戦の肉体だった。
「……ひどい傷だな」
思わず漏らすと、さっきの兵士が、アレンの脇腹の古傷から目を逸らした。
「……そこは、北方戦線で負った傷だ」
兵士は、傷の方を見ないまま続けた。
「俺も、あの戦場にいた。崩れかけた隊の前に立って、味方が退くまで、一人で受け止めてた。遠くから見ていただけだがな」
「そうか」
「日没までに頼む」
「分かった」
兵士たちが足早に立ち去り、薄暗い搬出口には、少年と遺体だけが残された。
つい先ほどまで王国を揺るがす騒ぎの中心にいた男は、冷たい石畳の上で、物言わぬ亡骸として横たわっている。
「英雄だろうが、大逆人だろうが……死ねば、皆同じだ」
少年は清浄な布を広げ、アレンの頭部を包もうと手を伸ばした。
その時、半ば開いた瞼の隙間から――濁った灰色の瞳が、こちらを見据えているような気がした。
当然、そこにもう光はない。
少年は小さくため息をつき、冷えかけた瞼に指を添えて、そっと閉じてやった。
「勇者様」
口にしてから、少しだけ妙な気分になった。聞いている者はいない。兵士の言った通りなら、この男はもう勇者ですらないのだ。
それでも、少年には肩書きなどどうでもよかった。
「ちゃんと送る」
そう言って、頭部を麻布で静かに包む。
返事はない。死者は何も語らないし、こちらへ何かを求めることもない。
少年がそう思っていられたのは、その夜、送り火に木札をくべるまでだった。




