第十話 ラグナ
王都を発って三日目の昼前、街道の先にラグナの屋根が見えてきた。
歩けば三日ほどと聞いていたから、半日早い。カイルたちは夜明け前に野営を畳み、空が白む頃にはもう歩き出している。誰かが指示を出す前に、それぞれが自分の仕事に手を付ける。旅に慣れた者の歩き方とはこういうものなのだと、ノアはこの三日で知った。
「ノア」
後ろから、カイルに呼ばれた。
「足、痛いだろ」
「痛くない」
「さっきから歩き方が変わってる」
「気のせいだ」
背後で、笑う気配がした。
本当は、昨夜からふくらはぎが重い。右足の小指の付け根にも、一歩ごとに小さな引っかかりがあった。
街道脇の木陰で、カイルはノアを倒木に座らせた。
「靴、脱げ」
「大げさだ」
「町に入ったら、どうせ一日中歩き回るんだろ。今のうちだ」
渋々脱いだ靴の下で、小指の付け根が赤く腫れかけていた。まだ潰れてはいない。
カイルは自分の荷袋から、細い布を一本取り出した。
「見とけよ。次からは自分でやるんだからな」
布を二つに折って厚みを作り、赤くなったところへ当てる。その上から、指の付け根だけを一周半。
「きつく巻きすぎると、血が止まって指が冷える。巻き終わりは、こうやって内側に折り込む。外に出しとくと、靴の中で擦れて、別のところに豆ができる」
迷いのない手つきだった。
「……詳しいな」
「昔、そういうのにうるさい兵士がいてさ」
カイルは自分の足元へ一度だけ目を落とし、それから何でもないように立ち上がった。
「にしても、初めてなら十分よ」
水筒を傾けていたレナが言った。
「俺は最初から行けると思ってたけどな」
「昨日、何回ノアの足を見てたと思ってるの?」
「そりゃ護衛なんだから見るだろ」
「子供じゃない」
ノアが靴を履き直しながら言うと、カイルが眉を上げた。
「十七だろ?」
「二十二が言うな」
ガルドの肩が、僅かに揺れた。笑ったのかもしれない。
近づくにつれ、ラグナの姿がはっきりしてきた。街道の両側に畑が広がり、その向こうに家並みが何列も続いている。入口へ近づくほど荷車や旅人が増え、街道沿いには宿や食堂が並んでいた。
町の入口に、太い木の柱が一本立っていた。上の方に、屋根の形と一本の麦穂を組み合わせた印が彫られている。
ノアは足を止め、懐から銅片を取り出した。表面は擦れ、ところどころに緑青が浮いている。それでも、真ん中に刻まれた三本の麦穂は形を残していた。
三本の麦穂が、屋根と一本の麦穂になった。四十一号がラグナの人間だったと決まったわけではない。それでも、番号と銅片しかなかった死者から、初めて辿り着けた場所が目の前にある。
「まず詰所だ」
ガルドが町の中へ目を向けた。
「道中の三頭を報告する。こっちが掴んでることも聞いておきたい」
警備の詰所は、石造りの簡素な建物だった。正面に王国軍の紋章が掛かり、壁際には使い込まれた長椅子が一つ置かれている。奥の机の前には、先客がいた。母親らしい女と、七つか八つの男の子だった。
机の向こうで、年嵩の兵士が一枚の刷り物を指でつまんでいた。純白の外套の男が、丘の上で剣を掲げている。王都の露店で、店主が裏返して木箱の底へ重ねていたのと、同じ絵だった。絵の下には、名前が大きく刷られたままになっている。
アレン・グレイヴ。
「子供のすることだ。今日は取り上げるだけにしておく」
兵士は絵を二つに折り、机の下の木箱へ落とした。箱の中には、同じ色の紙が何枚も重なっていた。
「だが、次はない。大人が持ってりゃ、ここで名前を控えて、王都へ送るところだ」
母親は何度も頭を下げ、男の子の手を引いて出ていった。男の子は扉の前で一度だけ振り返り、机の下を見た。
ノアの手は、上着の胸を押さえていた。
「待たせたな。用件は」
ガルドが組合の依頼書を机に置き、王都から半日の林の脇で牙狼を三頭仕留めたことを告げた。聞き終える頃には、兵士の眉間に深い皺が寄っていた。
「……そこまで王都寄りに出てたのか。町の近くで見たって報告は増えてるが、そんなに離れた場所の話は初めてだ」
「商隊が襲われた件は」
「七日ほど前だ。ラグナから王都へ向かってた商隊が一つやられた。死人は出てないが、荷馬を一頭持っていかれてる。牙狼だけじゃない。角兎、灰猪。街道の近くで見たって話が、ほかにもいくつか来てる」
「いつから」
短く訊いたのは、エリスだった。
兵士はすぐには答えなかった。何かを思い出すように、眉を寄せる。
「……それは、覚えてる。アレン・グレイヴが処刑された日だ」
ノアは顔を上げた。
「あの日の夕方、街道の近くで灰猪を見たって報告が二件入った。珍しいこともあるもんだと思っただけだったんだが、それからだ」
「処刑の日で、間違いないのか」
気づくと、ノアは口を開いていた。兵士が、初めてノアの方を見た。
「間違いない。処刑の触れ書きがここへ届いたのは、三日後だった。紙の日付を見て、灰猪の報告と同じ日だと気づいた。妙な符合だと思ったから、覚えてる」
あの日のことなら、ノアも忘れていない。処刑台の裏で、あの男の身体を引き取った日だ。
「明日、商隊がやられた場所から当たってみる」
ガルドが依頼書を受け取って下がると、ノアは懐の奥へ指を入れた。畳んだ紙の手触りを避けて、銅片だけをつまみ出し、机に置く。
「もう一つ、訊きたい。これを持ってた人を探してる」
「ああ、三本麦か。昔のラグナの印だな」
兵士は銅片を摘み上げた。
「名前は」
「分からない。四十前後の男。痩せ気味で、右の脇腹に、木の葉みたいな形の赤褐色の痣がある。手には細かい傷が多くて、親指と人差し指の付け根が硬い。爪の際に、黒ずみが残ってた」
兵士は腕を組み、しばらく考えてから首を振った。
「悪いな。俺は王都から回されて十年ちょっとだ。それより前の人間となると、さっぱりだ」
それから、壁際の長椅子へ目をやった。
「古い話なら、夕方まで待つといい。ここで育った男で、昔の同業だ。日が傾く頃になると、茶を飲みに顔を出す。それまでに、東通りを回ってみろ。鍛冶、木工、革。古い店が集まってる」
ガルドとレナは宿を押さえ、明日の道を確かめに行くことになった。ノアには、カイルとエリスが付いた。
東通りでは、思った以上に時間がかかった。
鍛冶屋の店主は、事情を聞くと黙って自分の掌を広げて見せた。火傷の痕と、細かな傷がいくつも走っている。木工所の親方の手も、似たようなものだった。刃物を扱えば指に傷が増え、道具を握り続ければ皮膚の硬くなる場所ができる。四十一号の手と重なるところはある。けれど、どれも決め手にはならなかった。
「手なんて、仕事ではっきり違いが出るもんだと思ってた」
二軒目を出たところで、カイルが頭を掻いた。
「出ることもある。でも、決めつけて間違えるくらいなら、分からないままの方がいい。間違った名前で送るよりは」
カイルが、少し黙った。
「……それは、そうだな」
いつの間にか、エリスが隣にいなかった。振り返ると、通りの角の屋台の前で足を止めている。鉄板の上で、麦の粉を練って薄く延ばした焼き菓子が、香ばしい匂いを立てていた。戻ってきたエリスは、紙に包んだ三つのうち二つを、黙ってノアとカイルに差し出した。
「歩くと、お腹が減る」
ノアも一口かじった。焦げた麦の匂いが、鼻へ抜けていく。素朴で、少し甘い。四十一号も、子供の頃にこれを食べたのかもしれない。
東通りの奥に、軒先に鞍を吊るした店があった。扉を開けた途端、生革の重い匂いと、煮詰めた獣脂の匂いが鼻を突く。奥の作業台では、六十を越えたくらいの店主が、厚い革に目打ちを当てて木槌で叩いていた。とん、とん、と、同じ間隔で穴が並んでいく。
店主は、三人に目もくれなかった。穴を開け終えると、蝋を引いた糸の両端に針を付け、縫い始める。針を抜くたびに、糸を親指と人差し指の間へ巻き取り、手首を返して強く引き締めた。
ノアは、その指の付け根を見ていた。糸が食い込むのは、四十一号の手が硬くなっていたのと、同じ場所だった。
「その糸、いつもそうやって引くのか」
店主が、初めて顔を上げた。
「革を縫うなら、誰でもこうだ。締めが甘けりゃ、縫い目がすぐに緩む」
ノアが事情を話すと、店主は針を置き、自分の手を差し出した。親指の付け根から人差し指の脇にかけて、皮膚が厚く盛り上がっている。爪の際には、染料の色が沈んでいた。同じではない。それでも、今日見てきたどの手よりも、四十一号の手に近かった。
「じゃあ、馬具職人だったのか?」
カイルが訊くと、店主は首を振った。
「そこまでは言えん。靴屋も鞄屋も、革を縫う。似てるだけだ」
似ているだけのものを、似ているだけだと言ってくれる。その方が、ずっと信用できた。
「この町から王都へ出た革の職人を、知らないか」
「出ていった奴なら、何人もいる。誰がどこで何をしてるかまでは知らん」
「届けは、どこかに残ってるか」
「役場だ。古い住民台帳がある」
役場の年配の職員は、転出の届けを綴じた帳面を何冊も抱えてきた。王都へ移った者のうち、年の頃の合う男を一人ずつ拾い、古い住民台帳と突き合わせて生業の欄を確かめていく。窓から差し込む光が、机の上を少しずつ移っていった。
「……王都へ移った届けがあって、革を扱ってたのは、三人だな」
三つの名前が並んでいた。この中に四十一号がいるとは限らない。届けを出さずに町を出た者もいれば、王都の近くを通りがかっただけの者もいる。
ノアは、懐の上から銅片に触れた。金物屋の老人が若い頃に見た、今はもう使われていない印だ。四十前後の男が、自分で手に入れた物とは思いにくい。誰かから渡された物なのかもしれない。
渡した誰かの家が、まだこの町にあれば、右の脇腹の痣を知っている者もいるだろう。
「この三人の、昔の家は分かるか」
職員は、窓の方へ目をやった。差し込む光は、もう机の端まで来ていた。
「古い方の台帳を出さんと分からん。今日はもう閉める。明日、出しておいてやる」
ノアは紙と筆を借り、三つの名前を一字ずつ写していった。名前を書くのは、葬送所でいつもしていることだった。四十一号の札には、まだ番号しか書かれていない。
写した紙を二つに折り、懐へ入れる。
役場を出ると、通りの影が長く伸びていた。一日歩き回っても、小指に巻かれた布は少しもずれていなかった。
詰所の扉を開けると、昼の兵士が机から顔を上げ、顎で壁際を示した。
「来てるぞ」
長椅子に、男が一人腰掛けていた。湯気の消えかけた茶碗を手にして、傍らに杖を立て掛けている。頬に古い刃の傷が一本。兵隊らしい骨張った顔つきなのに、肌は日に当たっていない色をしていた。短く刈った髪には、白いものが多く混じっている。
「昔のラグナの人を探してるって坊主か。話は聞いてる」
ノアは懐から、写してきた紙を引き出して差し出した。
男は茶碗を長椅子に置いた。座り直すついでのように、左の脚を前へ投げ出す。長く座っていた者が膝を伸ばすような動きで、足先がノアの靴のすぐ脇で止まった。それから、左手で紙を受け取った。右の袖は、手首の先で丸く縫い閉じられていた。目を細めて一つずつ名前を追い、やがて首を振る。
「どれも、顔までは浮かばんな。俺は若い頃から兵隊で、町を空けてばかりだった」
紙が返された。男は空いた左手を、そのまま差し出した。
「三本麦を持ってるとも聞いた。見せてくれ」
ノアが懐から銅片を出して載せると、男は擦り減った三本の麦穂を、親指でなぞった。
「……懐かしいな。俺がガキの頃には、これの付いた古い看板や道具が、まだあちこちに残ってた」
銅片が、ノアの手に戻された。
「悪いな。役に立てなくて」
ノアは首を振った。
「さて」
男は立て掛けてあった杖を取り、それを支えに立ち上がった。前へ伸ばしていた左の足が、床から退く。
その下に、畳んだ紙が一枚落ちていた。半分ほど開いて、刷られた字が覗いている。
グレイヴ。
ノアの息が止まった。写した紙を引き出したとき、重なって一緒に出たのだ。
男は、奥の机へ一度だけ目をやった。
「落としてるぞ」
低い声だった。兵士は、書類から顔を上げていない。
ノアは屈んで紙を拾い、懐の奥へ押し込んだ。指先が、うまく言うことを聞かなかった。顔を上げると、男はもうノアを見ていなかった。
男が一歩踏み出す。左脚は膝の下から先がなかった。使い込まれた楢の義足が、ズボンの裾から覗いている。擦れて黒ずんだ木肌に、継ぎ目の金具が鈍く光っていた。乾いた木の音が、詰所の床をこつりと叩いた。
紙の上に載っていたのは、その木の足だった。
「戦で?」
カイルが、男の袖と脚へ目を向けていた。
「……三年前、ベルガントでな」
カイルの顔つきが、僅かに変わった。
「俺も行ってた。冒険者の援軍でな。どこの隊にいた?」
男は、カイルの顔を一度だけ見た。
「アレン・グレイヴの部隊だ」
懐を押さえていたノアの指が、止まった。
エリスの視線が、男から、ノアの胸元へ移るのが分かった。
「……そうか」
カイルが、小さく息を吐いた。
「まあ、お互い、生きて帰れてよかったな」
男はすぐには答えなかった。縫い閉じられた右の袖口に、目を落とす。それから、口の端を緩めた。
「……そうだな」
男は扉の方へ歩き出した。木の脚が、一歩ごとに床を鳴らす。
懐の奥で、畳んだ紙の角が胸に当たっていた。
ノアは、懐を押さえていた手を下ろした。
「待ってくれ」
木の音が止まった。扉の前だった。男は杖を右の脇に挟み、左手を取っ手に掛けた。
「アレン・グレイヴは、どんな男だった」
男は、振り返らなかった。奥の机で、兵士の筆が止まった。
「……何で、そんなことを訊く」
ノアは、少しだけ迷った。
「俺が、あの人を送ったから」
取っ手を握った指に、力が入った。
「……送った?」
「葬送士なんだ。処刑の後、身体を預かった」
男が、取っ手から手を離した。脇の杖を左手に取り直し、ゆっくりと振り返る。その目が、ノアの顔から胸元へ下り、もう一度顔へ戻った。
「ちゃんと、送られたのか」
「ああ」
「……そうか」
男はしばらく、ノアを見ていた。
「なら、一つだけ教えてやる」
口の端に残っていた笑みが、消えていた。
「村を一つ、見捨てた男だ」




