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灰より継ぐ  作者: 秒針
第一章

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第十一話 見捨てた男

カイルの靴底が、床を擦った。踏み出しかけた足が、そのまま止まる。


「……ベルガントで、か」


「あの人は、ベルガントで――」


「戦が終わった後だ」


 男の声が、カイルの言葉を断ち切った。


「冒険者が引き上げても、俺たちはあの国に残った。勇者様と一緒にな」


 男は、自分の足元へ目を落とした。ズボンの裾から覗く楢の義足が、床板の上で動かずにいる。


「この脚は、その村に置いてきた」


 ノアは、男の顔から目を離せなかった。送り火の夜、炎の向こうから流れ込んできたものを、身体のどこかがまだ覚えている。湿った森の匂い。空気を裂く矢の音。止まれ、伏せろ、と、すぐそばの者たちへ向けて叫ぶ声。あの声の主が、村を一つ見捨てたのだという。


 炎の中では、三つの背中も見た。弓を背負った女、大荷物を背負った男、杖を手にした女。勇者様と一緒に、とこの男は言った。あの三人の顔も、知っているのだろうか。


「どこの村だ」


 ノアが訊くと、男は杖の柄を握り直した。


「坊主は、よく訊くな」


 男の目が、奥の机へ流れた。兵士は筆を止めたまま、顔を上げずにいる。


「続きは、ここじゃ話せん」


 男は扉へ向き直り、肩で押し開けた。夕暮れの風が、詰所の中へ流れ込んでくる。


「北の外れに、楡の木が一本立ってる。その脇の家だ。聞きたきゃ、来い」


 木の脚が敷居を越えたところで、男は一度だけ足を止めた。


「勇者様の悪口が聞きたいだけなら、酒場へ行け。あそこなら、いくらでも聞ける」


 乾いた木の音が、通りの向こうへ遠ざかっていった。


 扉が閉まってから、奥の兵士が筆を置いた。


「……あの人の前で、勇者の話をする奴はいなかったんだ」


 誰に言うでもない口調だった。


「戦から戻ってしばらくは、家から一歩も出なかったらしい。ここへ茶を飲みに来るようになったのは、ここ一年ほどだ」


 兵士は、壁際の長椅子へ顎を向けた。


「処刑の触れ書きが届いた日は、そこに一晩中座ってた。誰とも口をきかずにな。俺たちは、何も訊かなかった」


 ノアは長椅子を見た。座面の端だけが擦れて、白っぽく色が抜けている。


 ちゃんと、送られたのか。そう訊いた男の声が、まだ耳に残っていた。


 兵士は机の上の書類を揃え直し、ノアを見た。


「葬送士の仕事に、口を出す気はない。送れと言われて、送ったんだろう」


「……ああ」


「だが、勇者の話を訊いて回るのは、ここまでにしとけ」


 兵士の目が、一度だけ机の下へ落ちた。昼間、男の子の絵を落とした木箱のあるあたりだった。


「坊主の名前を控えるようなことは、させてくれるなよ」




 詰所の脇の掲示板には、何枚もの紙が重ねて貼られていた。荷馬車の通行の決まり、迷い牛の知らせ、収穫祭の日取り。その真ん中に、他より新しい一枚が、四隅を釘で留められている。


 反逆の罪により、元勇者アレン・グレイヴを処す。


 名前の字だけが、ひときわ大きく刷られていた。


 同じ名前を、ノアは筆で書いたことがある。送り火の前で、木札に墨を含ませ、一画ずつ。最後の一字の濁点が、少しにじんだ。


 刷られた字は、どこもにじんでいなかった。


 カイルは先に立って、宿の方へ歩いていく。いつもなら何か言いそうな背中が、詰所を出てから一度も振り返らない。


 隣で、エリスも足を止めていた。見ているのは掲示板ではなく、ノアの胸元だった。


「さっきの紙。あの人、足で隠してた」


 上着の胸へ伸びかけた手を、ノアは途中で止めた。


「……見てたのか」


「見えた。兵士からは、見えてなかった」


 エリスは、掲示板の字へ目を移した。


「捨てないの?」


 すぐには答えられなかった。拾ったのは、処刑の翌日だった。露店の足元で、名前の半分だけが、人に踏まれて泥にまみれていた。


「……捨てたら、また誰かに踏まれる」


 エリスは、しばらく掲示板を見ていた。


「ガルドには、言わない。言ったら、捨てろって言うから」


「エリスは、言わないのか」


「言わない」


 杖の先が、石畳を一つ叩いた。


「でも、次に拾ってくれる人がいるとは、限らない」


 エリスは先に歩き出した。軒先の灯りが、一つ、また一つと点り始めていた。




 宿は、街道に面した二階建てだった。一階の食堂では、旅の商人や荷運びの男たちが大皿の煮込みを囲み、声を張り上げている。


「親父、こっちにもう一皿だ!」


 ガルドとレナは、奥の卓を取って待っていた。


 席に着くと、ノアは写してきた三つの名前を卓に置き、明日、役場で古い台帳を出してもらえることを話した。ガルドは一通り目を通し、紙をノアへ返した。


「明日は、商隊がやられた場所を見に行く。来た道を半日戻って、街道から林へ入る。朝は早いぞ」


「俺は残る。役場と、北の外れの家に行く」


 四人の目が、こちらを向いた。


「詰所にいた人だ。ベルガントで、アレン・グレイヴの部隊にいた。村を一つ、見捨てた男だって言ってた」


 ガルドの匙が、一度だけ止まった。カイルは、杯の縁を指でなぞっている。その横顔へ、レナが言った。


「あんたも、ベルガントにいたんでしょ」


「……今は、やめてくれ」


 カイルは杯から目を上げない。レナは肩をすくめ、自分の皿へ戻った。


 ガルドは匙を置いた。


「その家には、いつ行く」


「食ったら、すぐ行く」


「明日にしろ。日が落ちてから、よく知らない男の家の戸を叩くもんじゃない」


 ノアは、浮かせかけた腰を下ろした。ガルドはエリスを見た。


「エリス、明日はこいつに付いてやれ」


「分かった」


 エリスは頷いた。ガルドには言わない、と掲示板の前で言ったときと、同じ顔だった。


 宿の女将が、焼いた林檎の皿を卓の真ん中に置いていった。皮に焦げ目のついた林檎から、甘い湯気が立っている。エリスの匙が、そちらへ向きを変えた。


 カイルが、ようやく顔を上げた。


「林檎なら、パイの方がいいな」


「……どこの?」


 エリスが訊いた。


「店じゃない。ルークんとこの、おふくろさんのだ。しょっぱいんだけどな。あれより美味いのは食ったことがない。毎年、顔を出すと焼いてくれるんだ」


「……いいな」


「帰ったら、ちょうどその時期だな」




 夜更けに目を覚ますと、カイルの寝台は、毛布が畳まれたままだった。


 枕元に畳んだ上着の内側へ、指を入れる。銅片と、写した三つの名前と、その奥に、名前の半分。番号でしか呼べない男の名前を探しに、この町まで来た。その同じ懐に、自分の手で焼いたもう一人の男の名前が入っている。


 ノアは上着を羽織り、そっと部屋を出た。


 宿の裏手の井戸端に、カイルは座っていた。井戸の縁に背を預け、小さな杯を手の中で転がしている。中身は、ほとんど減っていない。


「寝てりゃいいのに」


「寝たよ。少しだけ」


 ノアは、少し離れた石に腰を下ろした。夜気が冷たい。どこかで犬が吠えた。


「大規模侵攻に、援軍で行ってたんだな」


「ああ」


「あのときは、先代が何日も寝ないで葬送を続けてた。西門から、帰ってきた怪我人の荷車が毎日のように入ってきて、そのうちの何人かは、そのまま葬送所へ回されてきた。俺は十四だったけど、何か普通じゃないことが起きてるのは、何となく分かった」


 カイルは杯の中を見たまま、しばらく黙っていた。


「……あの荷車に積んだのは、俺たちだ」


 それから、ノアの方へ顔を向けた。


「お前の先代は、今どうしてる?」


「俺が送った」


「……そうか」


 井戸の底で、水の落ちる音がした。カイルはそれ以上、何も訊かなかった。ノアも、言い足さなかった。


「大規模侵攻のこと、聞かせてくれないか。アレン・グレイヴも、そこにいたんだろ」


「何で、そこまで知りたい」


 ノアは、膝の上の自分の手を見た。


「あの人の名前を、木札に書いた。顔を拭いて、髪に絡んだ血をほぐして、曲がったまま固まった小指も、そのままにして送った。それなのに、あの人がどんな声で笑ったのかも、俺は知らない」


 カイルが、襟元に指を入れて、擦り切れた革紐を引き出した。月明かりの下で、小さな金属の板が揺れる。


「これ、何か分かるか?」


「認識票だろ。兵隊の」


 葬送所には、ときどき兵士の遺体が運ばれてくる。首から下がった金属の板を、ノアも何度か外したことがあった。


「冒険者にも配られたんだ。向こうで死んだとき、誰だか分かるようにってな」


 表に打たれているのは、番号だけだった。


「名待ちにしないための札だって、配った奴は言ってた」


 カイルは、板を握り込んだ。拳の中で、革紐が軋んだ。


「……今日は、話せない」


 ノアは、黙って頷いた。


「王都に帰ったら、話す。顔を出すところがあるんだ。その後なら、たぶん話せる」


 カイルは板を襟の内側へ戻し、杯にようやく口をつけた。


「ただ、これだけは言っとく。俺が向こうで見たアレン・グレイヴは、逆の男だった」




 翌朝、ガルドたちは日の出前に宿を発った。役場の職員には、昼過ぎに来いと言われている。古い台帳を蔵から出すのに、午前いっぱいかかるらしい。


 北の外れは、畑と牧草地の境だった。家並みが途切れたところに、楡の木が一本、枝を広げている。その脇に、低い石積みの平屋があった。


 男は、家の前で薪を割っていた。切り株の台には丸太を嵌めて立たせるための切り込みが刻んであり、男はそこへ丸太を据えては、左手だけで手斧を振り下ろしている。乾いた音がして、薪が二つに分かれた。


 男が顔を上げた。ノアと、その後ろのエリスを見て、手斧を切り株へ打ち込む。


「来たか」


 家の中は狭く、よく片付いていた。寝台が一つ、小さな卓に椅子が二脚。片方の椅子にだけ、薄く埃が積もっている。床板のあちこちに、杖の先が穿った小さな窪みが並んでいた。


「茶は自分で淹れろ。そこの棚だ」


 男は埃のない方の椅子に腰を下ろし、義足を付けた左脚を前へ伸ばした。ノアが炉で湯を沸かすあいだ、エリスは戸口の脇の丸椅子に座り、杖を膝に横たえた。


 茶碗を三つ、卓に並べる。ノアはもう一脚の椅子の埃を手で払って、腰を下ろした。男は自分の茶碗を左手で包み、一口だけ飲んで、卓へ置いた。


「名前、まだ訊いてなかった」


 ノアが言うと、男は少しのあいだ黙っていた。


「……ブルーノだ。ブルーノ・ハーゲン」


 それから、ノアの顔を見た。


「お前は」


「ノア。ノア・エルデン」


「ノアか」


 ブルーノの目が、戸口の脇へ移った。


「エリス」


 訊かれる前に、エリスが答えた。ブルーノは小さく頷き、茶碗の湯気へ目を戻した。


「どこまで話したか」


「村を一つ、見捨てた男だって」


「……ああ」


 ブルーノは、窓の外の楡へ目をやった。


「戦が終わって、二か月ほど経った頃だ。冒険者もよその国の兵も帰った。だが、ベルガントの軍は、あの侵攻ですり減ってた。村の守りまでは、とても手が回らん。それで、あの戦を生き延びた兵の中から、二十四人が選ばれた。勇者様の一行に付けられて、周りの村を回るためにな。討ち漏らした魔物の群れが、まだあちこちの森に残ってた。俺も、その一人だった」




 三年前。ベルガントの西の街道は、乾いていた。


 二か月前まで、この道を逆向きに、荷車と避難民が埋めていた。今は轍の跡が固まり、道端の草がまた伸び始めている。村を一つずつ回って柵を見て、近くの森に残った群れを潰していく。この二か月、それが隊の仕事だった。群れ一つ、取りこぼしたことはない。


 ブルーノは隊列の中ほどを歩きながら、右手で剣帯の位置を直した。歩くたびに、腰の剣が腿を叩く。若い頃から聞き慣れた音だった。


 先頭を、勇者が歩いていた。


 外套は、刷り物の絵で見るほど白くはなかった。裾が泥を吸って灰色になり、肩のあたりには、焦げて繕った跡がある。そのすぐ後ろを、一行の三人が歩いていた。弓を背負ったイルゼと、杖を持ったヨハンナ。少し遅れて、仲間の分まで大きな荷を負ったバルトロ。


 一行と隊列のあいだを、ディーンが歩いていた。肩より長い黒髪を後ろで括り、どちらからも半歩ずつ離れている。目だけが絶えず動き、畑の畝や森の縁を撫でていた。この二か月、ブルーノはこの男の声を、数えるほどしか聞いていない。


 勇者は、ときどき理由もなく歩みを緩めた。辺りを一度見回し、何事もなかったように、また歩き出す。最初の頃は、そのたびに隊列が詰まって、後ろで誰かが舌打ちした。二か月経った今では、誰も気にしない。勇者様の癖だ、と皆が言っていた。


 出立の朝には、隊列の端から端まで歩いて、一人ずつ名前を呼ぶ。最初の朝、ブルーノはそれを点呼の代わりだと思った。三日目の朝、勇者は誰の顔も確かめずに、二十四人を呼び終えた。


「腹、減りましたね」


 隣で、ヤンが言った。粉屋の三男で、隊で一番若い。十七で選ばれたのは、ヤン一人だった。弓を持たせれば、隊の誰より遠くの的を射抜く。顎の髭は、まだ生え揃っていない。


「さっき食ったろう」


「あんなの、食ったうちに入りませんよ」


「次の村で、何か出るさ」


 子供が走ってきたのは、そのときだった。


 街道の右手に、黒々とした森が横たわっている。その中から延びてくる細い道を、小さな影がこちらへ駆けてくる。転び、起き上がり、また走る。


「勇者様、助けて!」


 六つか七つの男の子だった。片方の靴が脱げ、泥だらけの素足が覗いている。そのまま隊列の先頭へ飛び込み、勇者の外套の裾を両手で掴んだ。息が続かず、言葉が切れ切れに零れる。森の向こうの村。魔物。柵が、もう。母さんが。


 勇者は膝をつき、子供の顔の高さまで目を下ろした。


「村は、この森の向こうか」


 子供が、何度も頷いた。


 ヤンが列を抜けて駆け寄り、水筒の栓を抜いて差し出した。子供は水筒には目もくれず、外套の裾を握ったまま離さなかった。


 森の上に、黒い煙が上がっていた。一本、また一本と増えて、空の低いところで一つに混じり合っていく。


 勇者は立ち上がった。外套の裾を子供に掴ませたまま、森へ向かって歩き出す。


 隊列が、それに続いた。誰も、命令を待たなかった。ブルーノは剣の柄に手を掛け、足を速めた。隣でヤンが、走りながら兜の紐を結び直している。前を行く勇者の背中が、いつもより大きく見えた。


 街道を外れると、さっき子供が駆けてきた細い道が、森の奥へ延びていた。


 その入口で、勇者が足を止めた。


 歩みを緩めたのではなかった。踏み出しかけた足が、地面の上で止まっていた。すぐ後ろでイルゼも止まり、隊列が詰まって、誰かの肩がブルーノの背にぶつかった。


 ブルーノは、勇者の肩越しに森を見た。


 何もなかった。木が並び、道が奥へ続いているだけだ。鳥が鳴き、梢が風に揺れている。煙の匂いさえ、ここまでは届いていない。いつもの森の音だった。


 勇者の左手が、外套の上から胸を押さえていた。


 顔から、血の気が引いていた。紙のように白い。唇の色まで褪せている。いつもなら、群れが森から姿を見せるより先に、もう剣を抜いている男だった。


 イルゼが、勇者の横へ半歩寄った。森の奥へ顔を向けたまま、低く何か言っている。唇が動くのは見えたが、声はブルーノのところまで届かなかった。


 勇者は答えず、森の奥を見ていた。どこか一点ではない。木々の向こうにあるもの全部を、一つずつ確かめていくような目だった。右手が剣の柄へ伸び、握らないまま、離れた。


 子供の泣き声だけが、続いていた。


 どれほどそうしていたのか、ブルーノには分からない。長くはなかったはずだ。それでも、煙は一本増えていた。


 勇者が、こちらへ振り返った。


「引き返す」


 低い声だった。誰も、すぐには動かなかった。


「……勇者様?」


 ヤンの声が、裏返っていた。


 分隊長が、一歩前へ出た。


「村は、この先です。まだ柵の内側に人が――」


「分かってる」


 勇者は、分隊長を見なかった。


「引き返す」


 一行の誰も、何も訊かなかった。イルゼだけが勇者の横顔を一度見て、すぐに目を伏せた。訊かないことに、慣れているように見えた。ディーンは森に背を向け、隊の方へ向き直っていた。勇者の背中を、こちらから隠すように見えた。


「勇者様!」


 気づけば、ブルーノは声を上げていた。


「この子の村ですよ!」


「ブルーノ」


 名前を呼ばれた。毎朝の点呼と、同じ声だった。


「下がれ」


 それだけ言うと、勇者は子供の前に膝をついた。


 外套の裾を掴んでいる小さな指を、一本ずつ外していく。爪の中まで泥の入り込んだ、細い指だった。子供は首を振り、声にならない声を上げ、もう片方の手でもう一度裾を掴んだ。勇者は、その手も外した。


 勇者の唇が、何か動いた。ブルーノのところまでは、聞こえなかった。


 勇者は立ち上がり、来た道へ向き直った。


 白くない外套の裾に、小さな手の形の泥が残っていた。

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