第十二話 認識票
ブルーノの声が、途切れた。
炉の中で、薪が崩れた。ノアは、手の中で冷めていく茶碗を見下ろしていた。
イルゼ、バルトロ、ヨハンナ。炎の向こうで見た三つの背中に、名前が付いた。
森の手前で、足を止めた。何もない所で。
何もない林の手前で、自分も足を止めたことがある。見えるものは何もなく、音もしなかった。ただ胸の奥が冷たくて、その先へ行きたくなかった。
「俺も――」
声が出かけて、ノアは口を閉じた。ブルーノの目が、こちらを見ている。
「……何だ」
三年前、勇者が森の手前で足を止めた理由を、昨日会ったばかりの葬送士の胸の冷たさで説明して、何が片付くというのか。
「何でもない。続けてくれ」
戸口の脇で、エリスが杖を握り直す音がした。ブルーノは少しのあいだノアを見ていたが、やがて窓の外へ目を戻した。
「子供は、まだ泣いてた」
勇者が来た道を戻り始めると、一行が黙ってそれに続いた。もう一つの分隊も、その分隊長の号令で向きを変えた。命令は、命令だった。
子供は、森の入口に膝をついていた。外套から外された手を、まだ前へ伸ばしたままだった。
ブルーノは、子供の前にしゃがんだ。
「母さんは、家にいるのか」
子供は、何度も頷いた。
「……戸、閉めてって……ぼくが出たら、ちゃんと閉めるからって……」
声は、そこで途切れた。靴の脱げた方の足の裏が、泥と血で黒くなっていた。
ヨハンナが戻ってきて、子供を抱き上げた。子供はその腕の中で身をよじり、森へ手を伸ばして叫んだ。母さん、と。何度も。ヨハンナは子供を抱えたまま、一度も振り返らずに街道の方へ歩いていった。泣き声は、遠ざかっても途切れなかった。
ブルーノの分隊は、まだ動いていなかった。
分隊長のマティアスが、森の上を見ていた。煙はもう、空の低いところを半分汚している。
「勇者様」
マティアスの声に、勇者が足を止めた。
「俺の分隊なら、様子を見てくるくらいはできます。森を抜けて、村が見える所まで。それだけです」
「行くな」
「見るだけです」
「マティアス」
勇者が振り返り、マティアスを見た。それから、分隊の一人一人を順に見ていった。ブルーノの顔の上でも、その目は一度だけ止まった。
「行くな」
理由は、やはり言わなかった。街道の方から、まだ子供の泣き声が聞こえていた。
マティアスは、しばらく勇者を見返していた。それから、こちらへ向き直った。
「行くぞ」
誰も、異を唱えなかった。ブルーノは、右手で剣帯を締め直した。戸を閉めて待っている、と言った子供の声が、まだ耳の奥に残っていた。
十二人が、森へ向かって歩き出した。
「行くな!」
背中に、怒鳴り声がぶつかった。この二か月、勇者が声を荒らげるのを、ブルーノは一度も聞いたことがなかった。
「戻れ! 命令だ!」
ディーンが一歩、こちらへ踏み出した。腰の剣に手が掛かっている。止めに来るのか、付いてくるのか、ブルーノには分からなかった。その肩を、勇者の手が押さえた。ディーンは勇者の顔を見て、何も言わずに下がった。
それから、名前が呼ばれ始めた。
マティアス。エーリク。
毎朝の点呼と同じ順で、一人ずつ。ブルーノの名前も呼ばれた。最後が、ヤンだった。ブルーノは、振り返らなかった。誰も、振り返らなかった。
声が途切れたのは、木々の陰へ入る間際だった。ブルーノは、そこで一度だけ振り返った。
勇者は、森の入口に立っていた。左手は胸に当てたままで、もう片方の手は、何も握っていなかった。
森の中は、明るかった。
木漏れ日が道に斑を落とし、鳥が鳴いている。外から見たのと同じ、ありふれた森だった。ブルーノは剣を抜き、マティアスの背中を追った。すぐ後ろで、ヤンの息が弾んでいる。
道の真ん中に、小さな靴が片方落ちていた。泥の付いた革紐が、ほどけたまま伸びている。ヤンが走りながらそれを拾い、腰帯に挟んだ。
「あの子のですよ。返してやらないと」
奥へ進むほど、煙の匂いが濃くなった。焦げた藁と、獣脂の燃える匂いだった。この森を抜けた先に、村があるはずだった。
気づいたときには、鳥の声が止んでいた。
梢も揺れていない。木々の上の空では、煙が横へ流されているのに。十二人の足音と息だけが、やけに大きく聞こえる。ブルーノは、首の後ろの毛が逆立つのを感じた。若い頃から兵隊をやってきて、こんな森は初めてだった。
マティアスが、片手を上げた。全員の足が止まる。
道は、二人並べば肩が触れるほどの幅しかない。言葉を交わさずに、列が詰まった。最後尾の者が来た道へ向き直り、間の者は左右の木立へ交互に剣先を向ける。ブルーノは、マティアスのすぐ後ろで右の藪へ剣を向けた。背後で、ヤンが弓に矢を番える音がした。マティアスだけは、剣の柄に手を掛けたまま、道の奥を見据えている。
何十という群れを、この顔ぶれで潰してきた。
前の方から、声がした。
「……誰か……いないのか」
かすれた、男の声だった。道が曲がる先、木々の向こうから聞こえてくる。
「生き残りだ」
マティアスが言った。
「誰か、いないのか……助けてくれ……」
途切れ途切れの声だった。痛みに喘ぎながら、確かに、人の言葉で助けを求めていた。
ブルーノは、柄を握り直した。声は、こちらの足音が止まっても、同じ大きさのまま続いている。近づいても来ないし、遠ざかりもしない。
「……分隊長」
「分かってる」
マティアスは、声のする方を見たまま言った。
「それでも、人の声だ」
マティアスが、二本の指で前を示した。列は形を崩さないまま、一歩ずつ進み始めた。足元の枯れ枝を、誰も踏まなかった。
曲がり角の先で、木立が切れていた。煙の匂いの中に、小さな空き地が開けている。十二人が、木立の縁に沿って広がった。
倒れた木の上に、誰かが腰掛けていた。
こちらに背を向け、背中を丸めている。灰色のぼろを纏った、痩せた男に見えた。肩が、小さく震えていた。
「……助けてくれ」
さっきと同じ、かすれた声だった。その背中から聞こえていた。
「しっかりしろ。助けに来た」
マティアスが、列を離れて駆け寄った。
背中が、伸びた。
立ち上がったのではなかった。腰掛けたまま、背骨が一つずつ継ぎ足されていくように、その身体は高くなっていった。頭が低い枝に届き、枝を押し上げて、なお止まらない。マティアスの足が、途中で止まった。
それが、振り返った。
顔は、人の顔だった。目も、鼻も、口も、あるべき場所にある。ただ、そのどこにも、何も浮かんでいなかった。肌は乾いた灰のような色をしていて、口の周りだけが、赤く濡れていた。
「……助けてくれ」
その口が、同じ声で言った。唇は、ほとんど動いていなかった。
それから、首を傾げた。十二人の顔を、端から順に見ていく。毎朝、勇者が隊列の前でそうしていたのと、同じ見方だった。
「あの男は、来ないのか」
今度は、別の声だった。低く、静かで、どこにも痛みのない声だった。
人の言葉を話す魔物がいる。兵隊をやっていれば、一度はそういう話を聞く。声持ち、と古参の兵は呼んでいた。酒の席の与太話だと、ブルーノは思っていた。
マティアスが、剣を抜いた。
そこから先を、ブルーノは順番どおりには覚えていない。
覚えているのは、木の裂ける音だ。太い幹が、内側から弾けるような音だった。マティアスの背中が、横へ消えた。誰かの叫び声が、途中で切れた。斬りつけた誰かの剣が、灰色の腕の上を、火花も立てずに滑っていった。
ブルーノさん、とヤンが呼んだ気がする。振り向いたかどうかは、覚えていない。
右手が、剣ごと何かに挟まれた。痛みより先に、熱さが来た。裂けた幹が倒れてきて、左脚の上に乗った。
そのあいだもずっと、あの声は聞こえていた。かすれた男の声が、すぐ近くで、助けてくれと繰り返していた。
気がついたときには、誰かに引きずられていた。背中の下で、落ち葉と土が擦れていく。梢の隙間から、空が見えた。煙のせいで、色の分からない空だった。
目を開けたとき、ブルーノは森の外の草の上に寝かされていた。
胸の上に、誰かの外套が掛けられていた。そばの草には、血を吸った布が何枚も落ちている。右の手首は、布で固く縛り上げられていた。その先が、どうなっているのかは見えなかった。
「……ヤン」
掠れた声が出た。返事はなかった。
首を動かすと、森の入口が見えた。
勇者が、そこに立っていた。
ブルーノたちが森へ入ったときと、同じ場所だった。同じ姿で、左手を胸に当てたまま、森の奥を見ていた。
「何が、いた」
ノアが訊いた。
ブルーノはすぐには答えなかった。卓の上の左手が、茶碗の縁を掴んだ。
「……人の形をしたものだ。声持ちだ。上の方の連中は、ロゴスとか呼ぶらしいがな。剣は、通らなかった」
茶碗の縁で、指の節が白く浮いた。ブルーノの目が、縫い閉じられた右の袖口へ落ちた。
「戻ったのは、四人だ。村は、焼けた。煙は、次の日の昼まで上がってた。あいつが一緒に来てりゃ、八人は死ななかった。村の連中も、何人かは助かった」
声は、平らだった。
「あの人は、その後どうした」
「次の朝、一人で森へ入った」
その夜は、森の入口から少し離れた畑の端に野営が張られた。止血の布を何度も替えられた身体は、もう動かせる状態ではなかった。
夜明けの光の中を、勇者が森へ入っていくのを、ブルーノは担架の上から見ていた。
熱で、景色が揺れていた。右の手首から先が、焼けるように疼く。添え木を当てて布で巻かれた左脚は、爪先一つ動かせなかった。誰も連れていかなかった。ディーンでさえ、森の入口で待たされていた。
勇者が戻ってきたのは、昼前だった。
顔からは、昨日の白さが消えていた。代わりに、何も浮かんでいなかった。外套は、泥と煤で黒ずんでいた。それでも裾の、小さな手の形の跡だけは、どこにあるのか分かった。
勇者は、ブルーノの担架の脇に膝をついた。ブルーノの左手を取り、その掌を上へ向けさせる。
鉄の札が、一枚、載せられた。革紐が付いたままだった。紐は途中で千切れ、黒く固まったものがこびりついている。
「マティアス」
勇者が言った。
もう一枚。
「エーリク」
もう一枚。名前を一つ言うたびに、一枚。森へ入っていく背中に名前を呼んだときと、同じ声だった。掌の上で、鉄が重なっていく。七枚目で、ブルーノは目を閉じた。
八枚目は、聞かなくても分かっていた。
「ヤン」
冷たい重さが、掌の上で増えた。勇者は、その上からブルーノの指を一本ずつ折り曲げて、札を握らせた。
「持って帰れ」
それだけ言って、勇者は立ち上がった。
「……自分で、届けろ」
声になったかどうかは、分からない。勇者は、振り返らなかった。
そのまま、ヨハンナの方へ歩いていった。その膝で眠っている子供の脇に膝をつき、腰から何かを外して、その足元へ置いた。
片方だけの、小さな靴だった。
握らされた左手を、ブルーノはいつまでも開けなかった。右手は、もうなかった。
ブルーノは、壁際の棚へ顎を向けた。
「坊主。あの箱を取ってくれ」
棚の上に、掌に載るほどの木箱が一つあった。蓋の角は擦れて丸くなり、留め金のまわりだけが、何度も指で触れられた色をしている。ノアが卓に置くと、ブルーノは左手で蓋を開けた。
中には、鉄の札が八枚入っていた。
どれも革紐が付いたままだった。打ち込まれているのは、番号だけだ。ゆうべの井戸端で、月明かりの下に揺れていたのと、同じ形をしていた。
名待ちにしないための札だと、カイルは言った。
「……家族には、届けてないのか」
ノアが訊くと、ブルーノは箱の中へ目を落とした。一番上の一枚の縁を、左の親指がなぞった。
「三年、その棚の上だ」
ノアは、一番上の札を手に取った。思っていたより重かった。打ち込まれた番号の溝に、乾いた泥が詰まっている。
「名前は」
「全部、覚えてる」
ブルーノは、ノアの手の中の札を見た。
「それは、ヤンだ。粉屋の三男で、弓は隊で一番だった。本人は、灰で焼くパンの方が自慢だったがな。誰より先に起きて、火を熾した」
それだけ言うと、ブルーノは口を閉じた。残りの七枚の名前は、出てこなかった。
「軍には、あいつが名前で届けた。掃討の戦で死んだ、とだけな。家には、それで知らせが行ってる。札なんぞ、もう要らなかったんだ。なのに、あいつは俺に寄越した。命令に逆らって死んだ連中の札を、わざわざな」
「届ければいい」
ノアが言うと、ブルーノの目がこちらを向いた。
「届けて、何て言う。勇者の命令に逆らって、勝手に死にました、か」
ノアは、すぐには返せなかった。
葬送所に来る遺族は、いつも、もう知っていた。死んだことを伝えるのは、ノアの仕事ではなかった。
ノアは、手の中の札を見た。
「家族のところにあるのは、知らせの紙一枚なんだろ」
ブルーノは、黙っていた。
「これは、ヤンが首から下げてた物だ。子供の村を見に行った日も」
札を、箱へ戻した。
「灰でパンを焼くのが自慢だったことも、誰より先に起きて火を熾してたことも、紙には書いてない。ヤンが拾った靴が、ちゃんとあの子のところへ返ったことも。あんたは、それを見てたんだろ」
ブルーノは長いあいだ、箱の中を見ていた。それから左手で、ゆっくりと蓋を閉じた。箱は棚へ戻されず、ブルーノの膝の上に置かれた。
帰り際、戸口へ向かったノアの足が、壁の前で止まった。
入ってきたときには、扉の陰になって見えなかった。壁の釘に、一振りの剣が掛かっている。鞘には細かな銀の象嵌が施されていて、鍔の付け根に、翼を広げた鳥の紋が刻まれていた。柄に巻いた革は、一度も汗を吸ったことがないように乾いている。
「勇者様の一行に付けられたときに、隊の全員に配られた。飾りだ。戦には、自分の剣を使った」
背中で、ブルーノが言った。
「どのみち、この手じゃろくに振れん」
ノアは振り返った。ブルーノは、膝の上の箱に左手を載せたまま、ノアの腰のあたりを見ていた。何も下げていない腰だった。
ブルーノは何か言いかけて、やめた。代わりに、別のことを訊いた。
「坊主。あいつの身体は、どうだった」
窓の光を背にして、ブルーノの顔はよく見えなかった。ちゃんと送られたのか、と詰所で訊いたときと、同じ声だった。
「傷だらけだった。古いのも、新しいのも。腕にも、胸にも。数えきれないくらいあった」
ブルーノが、わずかに身じろぎした。
「……あいつが?」
「ああ」
「あいつに傷を付けた魔物なんぞ、俺は見たことがない。何が来ても、あいつには先に分かってるみたいだった」
ブルーノは、窓の外の楡へ目をやった。
「あいつは――避ける男だった」
ノアは、清めた身体を思い出していた。前腕から肩、胸元にかけて重なった、斬り傷と刺し傷と焼け焦げた痕。古いものの上に、新しいものが重なっていた。
避ける男の身体には、見えなかった。
「王都へ帰る前に、もう一度来い、坊主」
ブルーノはそう言って、顔を背けた。
畑の間の道を、二人は黙って歩いた。
懐には、銅片と、三つの名前と、名前の半分。町の方から、昼の鐘が聞こえてきた。役場では、古い台帳が待っている。
町の屋根が見えてきた辺りで、エリスが足を止めた。道の脇に、小さな林があった。ノアも、気づくとそちらを見ていた。
「ラグナへ来る途中」
エリスが言った。
「あなたが止まったとき、何が聞こえてたの?」
ノアは、すぐには答えられなかった。
「……何も。ただ、嫌だった」
エリスは、林からノアへ目を移した。それ以上は訊かず、また歩き出した。
ノアは、その背中を見ながら歩いた。
送り火の夜、アレンの胸の奥で鳴った警鐘を、ノアは知っている。獣の気配もなく、葉擦れの音も変わらない森で、このまま進めば射抜かれる、と告げた音だった。
森の手前でも、きっと鳴っていた。
次の朝、一人で森へ入ったときも、鳴っていたのだろうか。




