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灰より継ぐ  作者: 秒針
第一章

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第十三話 名を呼ぶ人

戸を叩こうとして上げた手を、ノアは一度下ろした。


 町の東の外れの、低い石垣に囲まれた古い平屋だった。軒先の看板は、色が褪せて字も読めない。


 役場の古い台帳では、死んだ者の名前に細い線が一本ずつ引かれていた。昨日写した三つの名前のうち、ゲルト・ミュラーの親は十年前に二人とも死に、オットー・ベックは家族ごと王都へ移っていた。職員の太い指は、最後の名前で止まった。


「ヨナス・ハルト。親はもういないが、姉が一人、東の外れの家にいるはずだ。マルタって名だ。親父さんの代からの革屋だよ」


 線を引かれた両親の名前の下に、マルタとヨナスの名前が並んでいた。どちらにも、まだ線はない。


「何て言うか、決めた?」


 後ろで、エリスが訊いた。


 ノアは、首を横に振った。


 届けて、何て言う。今朝、ブルーノはそう言った。届ければいい、と言ったのはノアの方だった。


 ノアはもう一度手を上げ、戸を叩いた。


 しばらくして戸が開き、四十半ばほどの女が顔を出した。前掛けをして、縫いかけの革の手袋を持っている。針を挟んだ指の付け根に、硬いたこが盛り上がっていた。親指の付け根から、人差し指の脇にかけて。


 同じ場所に、ノアは葬送所で触れたことがあった。


「何か入り用? 修理なら、奥で受けるけど」


「マルタ・ハルトか」


 女が目を細めた。


「そうだけど」


「王都の葬送所から来た。葬送士の、ノア・エルデンだ」


 手袋の上で、針が止まった。


 マルタの目がノアの顔から、肩の後ろのエリスへ移り、またノアへ戻ってきた。その短い間に、何かが決まってしまったのが分かった。どう切り出すかを、ノアはまだ選んでいなかった。選ぶより先に、葬送士という言葉の方が戸口をくぐっていた。


「……ヨナスのこと?」


 声は、ほとんど息だった。


「名前の分からない男の骨を、一つ預かってる。それがヨナスかどうか、確かめに来た」


 マルタは長いあいだ、ノアの顔を見ていた。手袋を握る指に、力が入っていく。やがて、戸を大きく開けた。


「入って」




 奥は作業場になっていた。生革と煮詰めた獣脂の匂いが、壁にまで染みついている。


 壁一面に道具が掛けてあった。革包丁、目打ち、木槌、太さの違う縫い針を差した革の束。どれも手入れはされていたが、半分ほどには、薄く埃が積もっていた。


 マルタは作業台の端に手袋を置き、二人に椅子を勧めた。自分は、立ったままだった。


「確かめるって、どうやって」


「身体に、目立つ印はあったか」


 マルタは眉を寄せ、自分の右の脇腹に手を当てた。


「ここに、痣がある。生まれつきの。赤っぽくて、形が――」


 指先が、前掛けの上に何かを描いた。


「母さんは、葉っぱって呼んでた。洗ってやるたびに、葉っぱが付いてるよって」


 ノアは、膝の上で手を握った。


 どちら側とも、どんな形とも、ノアはまだ言っていなかった。


 手のひらの半分ほど。赤褐色。木の葉を思わせる、いびつな輪郭。葬送所で、自分の手で記録したものだった。


「……同じ痣だった」


 マルタは作業台の縁に片手をつき、もう片方の手で、置いたばかりの手袋の縫い目を何度もなぞった。


 ノアは懐から銅片を出し、作業台の上に置いた。


「靴の中に、これが入ってた」


 マルタはそれを摘み上げ、千切れた輪の跡に爪の先を当てた。それから、壁の方へ目をやった。


 ノアも、その目を追った。


 埃の積もった方の道具には、柄の根元に一つずつ、小さな札が下がっていた。指先ほどの、薄い銅の札。窓の光を受けて、刻まれた三本の麦穂が鈍く光った。


「父さんの道具の札よ。自分の道具には、一つずつこれを付けてた。昔の町の印だって」


 声が、掠れた。


「あの子が王都へ出るとき、一本だけ目打ちを持っていったの。父さんの、一番古いやつ」


 目打ちを並べて掛けた列の端に、釘が一本だけ、何も掛けられないまま残っていた。


 銅片が、作業台の上へ戻された。


「札だけ、持ってたんだね」


 ノアは、その銅片を見下ろした。


 目打ちの柄に下がっていた札が、役所の調べでも届かなかった靴の奥に入っていた。葬送所で転がり出たときは、紛れ込んだのだろうと思った。けれど、柄から千切れた札が、たまたま靴の奥まで入り込むことなど、あるのだろうか。


 役所の書類には、身元を示す物、なし、とあった。道具も一本もなかった。その中で、この札だけが残っていた。


「……いつ?」


 マルタが訊いた。


「見つかったのは、十日あまり前。王都の東の街道の脇で」


「顔は、見られる?」


「骨しか、ない」


 マルタの手が、作業台の縁を掴んだ。


「……焼いたの? 誰にも、知らせないで」


「名前が分からなかった。俺が焼いた」


 マルタは作業台の縁を掴んだまま、長いあいだ立ち尽くしていた。壁の道具の影が、床の上で伸びていった。


「……最期は、苦しんだ?」


「分からない。傷も、争った跡もなかった。眠ってるようにも、苦しんだようにも見えなかった」


 眠っているようだった、と言うこともできた。けれど、それはノアが見た顔ではなかった。


 マルタの指が、作業台の縁から離れた。


「……どんなだった? あの子」


 ノアは、四十一号を清めた日のことを思い出した。死んだ理由は分からない。けれど、あの身体を拭いたのはノアだった。


「痩せてた。上着の肘と裾に、何度も繕った跡があった。縫い目の糸の色が、ところどころ違ってた」


 マルタの喉が鳴った。


「糸を、買わないのよ。あの子。革を縫った残りで、何でも繕っちゃうの」


「破れたままのところは、一つもなかった」


 ノアは、迷ってから続けた。


「爪の際に、黒い染みが残ってた。落とせるだけは、落とした」


 マルタは、作業台の縁についた自分の手を見下ろした。爪の際に、同じ色が沈んでいた。指を一本ずつ握り込み、その手を前掛けの中へ隠した。


 隠した手はそのままに、マルタはもう片方の手で引き出しを開け、紐で束ねた手紙を取り出した。


「毎年、春に一度来てたの。字が下手でね。店は相変わらず静かだ、とか。そんなことばっかり」


 束の一番上の封の裏に、王都の地名が書いてあった。西門に近い、職人町の裏通りだった。


「ここが、店か」


「そう。看板も出してない、小さな革屋」


 西門の近く。ロイドの詰所から、歩いて行ける辺りだった。


「読んでもいいか」


 マルタが頷いた。


 ノアは紐を解き、一番古い手紙から順にめくっていった。どれも短かった。店は相変わらず静かだ。春先の雨で、革がなかなか乾かない。隣の鍛冶屋の犬に、子が四匹生まれた。大きく右へ傾いた字が、紙の半分も埋めないうちに終わっている。


 横から覗き込んでいたマルタが、ふっと息を漏らした。


「犬の子の数まで……」


 笑い声だった。一度こぼれると、止まらなくなった。マルタは染みの残る手で口を押さえ、肩を揺らして笑い続けた。エリスが、窓の方へ目を逸らした。笑い声がいつ別のものに変わったのか、ノアには分からなかった。それも途切れると、作業場には、竈の灰が崩れる音だけが残った。


 ノアは、次の手紙をめくった。


 何通かに、同じことが書いてあった。


 ――店は相変わらず静かだ。それでいいって言ってくれる客もいる。


 客の名前は、どこにもない。どんな男なのかも、何を直しに来たのかも。その客のことだけが、何年も続けて手紙の終わり近くに置かれていた。


 三年前の春の手紙を最後に、客のことは出てこなくなっていた。次の年にも、その次の年にも。店が静かだという一行だけが、変わらずに続いている。


「この客のこと、何か聞いてるか」


「それしか書いてこないのよ、あの子」


 マルタは、掠れた声のまま束を覗き込んだ。


「……そういえば、いつの間にか書かなくなってたわね。来なくなったのかしら、くらいに思ってた」


 一番下の、一番新しい手紙は、今年の春のものだった。


 ――店は相変わらず静かだ。秋になったら、一度帰る。


 窓の外では、刈り取りの済んだ麦畑が、夕方の色に変わりはじめていた。


 マルタは手紙を一通ずつ揃え直し、紐を掛け直した。結び目を作る指が、一度ほどけて、二度目でようやく締まった。




 マルタは、それから一度も座らなかった。


 窓から差し込む光が床を横切り、壁の道具まで届いた。どこか遠くで、夕方の鐘が鳴った。マルタは顔を上げ、作業場の隅の竈を見た。


「……夕飯、作らなきゃ」


 ノアたちに言ったのではなかった。毎日この鐘で手を止めてきたのだろう。竈に火を起こし、籠から玉葱を取って刻み、鍋に脂を引いて、玉葱を広げる。そこで、木杓子を握ったまま竈の前で動かなくなった。


 鍋の底で、脂が細かく爆ぜ始めた。甘い匂いに、焦げる匂いが混じる。


 気づいたときには、ノアは竈の前に立っていた。マルタの手から木杓子を抜き取り、底から玉葱を返す。薪を一本引いて、火を弱めた。


「……ごめん」


「いい」


 マルタは竈から一歩下がり、壁の柱に手をついた。


 焦がさないように、けれど色が付くまで、木杓子で底から返し続けた。玉葱が茶色くなったところで、竈の脇の籠に目をやる。麦の袋が入っていた。マルタを見ると、頷きが返ってきた。


 マルタは棚へ手を伸ばし、椀を出して竈の脇に並べた。一つ、二つ、三つ。


 麦を多めに入れ、水を足して、火を弱める。麦が水を吸ってふくらんだ頃、手が迷わず鍋の縁へ伸びた。


 掴んだ瞬間、熱が親指と人差し指を刺した。火から鍋をずらすまで、指は離れなかった。見ると、二本の指の腹に、うっすらと赤い跡が付いていた。


 塩を一つまみ、最後に入れた。


 三つの椀によそって、作業台へ運ぶ。マルタは椀を両手で包むように持ち、湯気に顔を寄せた。一口すすって、目を閉じた。


「……美味しい」


 エリスは、自分の椀を持ったまま、ノアを見ていた。


「ノア」


「何だ」


「料理、できるの?」


 ノアは、自分の椀に目を落とした。茶色く煮えた玉葱が、麦の間に沈んでいる。


 できない。葬送所の台所で作るのは、黒麦の固いパンを湯でふやかしたものくらいだ。玉葱をここまで炒めたことは、一度もない。


 それなのに手は、火を弱める加減も、木杓子を返す間も、鍋をずらす時も、全部知っていた。


「……できなかった」


 エリスはそれ以上訊かず、椀に口をつけた。二口目までの間が、いつもより長かった。




 椀が空になると、エリスが黙って立ち、三つを重ねて水甕の方へ運んでいった。マルタがようやく椅子に腰を下ろした。


「……骨は、どこに?」


「王都の葬送所で預かってる」


「送り火は?」


「まだだ。名前が分からなかったから」


「名前が分からないと、送ってもらえないの?」


「名前を書いた木札を、火にくべる。書けなかったから、骨壺には番号しか付いてない」


「番号……」


「東街道、イ四十一号」


 マルタの口元が、片方だけ持ち上がって、すぐに戻った。


「あの子、昔から、呼ばれても振り向かない子だったのよ。作業に夢中になると、三回呼ばないと顔を上げない」


 紐を掛け直した手紙の束に、手のひらが載った。


「番号じゃ、一生振り向かないわね」


 それから、ノアを見た。


「私も行く。王都まで。名前は、私が呼ぶ」


 声から、掠れが消えていた。ノアは頷いた。


「書いて。ヨナス・ハルトって」


「王都に戻って、店を見てから書く」


 マルタの眉が寄った。


「まだ、疑ってるの?」


「疑ってない。痣も、札も、手紙の宛先も、全部ヨナスを指してる」


 ノアは、置かれたままの銅片を見た。


「でも、送り火に書く名前は一度きりだ。間違った名前で送ったら、もう呼び直せない」


 口にしなかった理由が、もう一つあった。父親の目打ちが、あの店に残っているかどうか。


 マルタは黙って、ノアの顔を見ていた。それから、壁の道具へ目を移した。埃の積もった方の半分だった。


「王都の店は、私が確かめる。あの子の物なら、私の方が分かる」


「……分かった。帰る日が決まったら、知らせに来る」


 マルタはその銅片を摘み上げ、ノアの掌に載せた。


「それは、持っていって。あの子の札だから」




 マルタの家を出たときには、日が畑の向こうへ沈みかけていた。石垣の影が、道の上に長く伸びている。


 届けて、何て言う。


 何と言うかは、最後まで決められないままだった。葬送士だと名乗っただけで、マルタには届いてしまった。その後でノアに渡せたのは、繕った裾の糸の色と、爪の際の染みのことだけだった。


 ブルーノの膝の上の箱を、ノアは思い出していた。




 宿の部屋は、まだ空だった。商隊の跡を見に行った三人が帰るのは、夜になってからだろう。


 ノアは荷袋の底から、布に包んだ白木の札を取り出した。葬送所を発つ朝、身元が分かったときのために入れてきたものだ。表にも裏にも、まだ何も書かれていない。マルタから渡された銅片を、その脇に置いた。


 札の端を、親指と人差し指でつまむ。指の腹の赤い跡が、ちりりと痛んだ。


 同じ場所を、ノアは見たことがあった。七十二で死んだ老婆の、右手の親指と人差し指。何十年も、鍋の縁と竈の火に触れ続けてきた指だった。何重にも重なった、浅い火傷の痕。


 アレンを送った二日後に、家族と一緒にその老婆の送り火を焚いた。何も起こらなかった。やっぱり、あいつだけか、と石台の前で呟いた。


 あの夜も、木札をつまんでいた指先が、少し熱かった。炎へ差し入れたのだから当たり前だと、そのときは思った。


 何かを残していった死者は、アレン一人ではなかった。

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