第十四話 避けてきた道
戸が開く音に、ノアは顔を上げた。
エリスが入ってきた。片手に水を張った小鉢、もう片方に布を持っている。卓の上の白木の札と銅片に一度だけ目をやり、何も訊かずに小鉢を卓の端へ置いた。
「手」
ノアは右手を出した。親指と人差し指の腹が赤く、曲げると皮膚が突っ張った。
エリスは布を水に浸して絞り、ノアの指に巻いた。冷たさが、指の奥まで染みていく。
「冷やしてなかったの?」
「忘れてた」
「……鍋の扱いは、あんなに慣れてたのに」
「手は、知ってたんだ」
エリスは、ノアの顔を見た。それから、布の端を結んだ。
ガルドたちが戻ったのは、食堂の客があらかた引き上げた頃だった。
三人とも、膝から下が泥で汚れていた。ガルドは荷を床へ下ろして女将に水を頼み、レナは弓を壁に立て掛けた。カイルは椅子を引くなり、背もたれに身体を預けて天井を仰いだ。
「林を三つ抜けた。足が棒だ」
それから、卓の向こうのノアの手に目を留めた。
「その指、どうした」
ノアは、布を巻いた親指と人差し指を握り込んだ。
「鍋を掴んだ」
「お前が?」
「……美味しかった」
エリスが言った。カイルが、ノアとエリスの顔を見比べた。
「何作ったんだよ」
「玉葱と麦の粥」
ノアは、それからマルタのことを話した。痣のこと、父親の道具の札のこと、王都の店のこと。名前は、まだ木札に書いていないこと。
「……まあ、お前ならそうするか」
カイルが言った。
「帰るとき、マルタも一緒に王都へ行く」
ガルドの返事は短かった。
「なら、帰りは一人増えるな」
カイルが、背もたれから身体を起こした。
「王都に着いたら、お前も行くところができたな」
ガルドは水を一口飲み、杯を卓へ戻した。
「商隊がやられた場所は見つけた。牙狼の痕はあった。ただ、灰猪の足跡が混じってた」
「牙狼と灰猪が、同じ場所に?」
エリスが訊いた。
「牙狼の足跡が、灰猪のを踏んでた。灰猪のも、牙狼のを踏んでた。どっちも、林の奥から外へ向かってる」
「それの、何がおかしいんだ」
ノアが訊くと、レナが指で卓を叩いた。
「牙狼は牙狼、灰猪は灰猪で動くの。違う種類で群れたりしない。森で鉢合わせたら、どっちかが退く」
もう一度、卓を叩く。
「それが、互いの跡を踏んでた。並んで、同じときに通ったってことよ。普通じゃない。あそこでも言ったでしょ」
ガルドは杯を見たまま首を振った。
「そう読める跡が、一か所あっただけだ。一か所で決めるもんじゃない」
レナは口を閉じ、肩をすくめた。
ガルドは懐から畳んだ紙を取り出し、ノアとエリスの前に広げた。木炭で、足跡の形が写してある。二つに割れた、大きな蹄の跡だった。
「持っていかれた荷馬は、林の奥で骨になってた。その脇のぬかるみに、これがあった。蹄の跡が、左と右と、一つずつ交互に続いてる。前足の跡が、どこにもない。少なくともあのぬかるみを抜ける間は、二本で歩いてた」
「一歩が、ガルドの二歩分」
レナが言い足した。
エリスが紙に顔を寄せ、ノアも覗き込んだ。蹄一つが、ノアの掌より大きかった。
カイルだけが、紙の方を見ていなかった。杯の縁を、指でなぞっている。
「カイルは、何か知ってるのか」
ノアが訊くと、杯の縁で指が止まった。
「……似た跡を、見たことがある気がするだけだ。跡だけじゃ、何とも言えねえ。あの場で、ガルドにもそう言った」
ガルドが頷き、紙を畳んで懐へ戻した。
「調べるのは、ここまでにする。いったん王都へ戻って、組合に上げる。この先は、お前とマルタを連れて入る林じゃない」
ガルドはノアを見た。
「商隊を出してた商会が、明日の昼、王都へ荷を出す。その荷馬車の護衛を引き受けた。乗せてもらう代わりだ」
「行きは、馬は使わないって言ってた」
ノアが言うと、カイルが杯から目を上げずに答えた。
「ただ戻るだけならな」
「本当なら朝に出たいが、荷が揃うのが昼だ。日が落ちてから、荷馬車で林の脇を通るもんじゃない。林から離れた所で一晩明かして、朝のうちに抜ける」
「出る前に、北の外れに寄る」
「昼までに戻れ」
夜更けに、ノアは物音で目を覚ました。
しゃっ、しゃっ、と同じ間合いで、硬いものが擦れる音がする。隣の寝台は空だった。
廊下の端の窓辺で、カイルが砥石を膝に載せていた。窓から入る月明かりの中で、刃を寝かせ、押し出し、引き戻す。首から下げた認識票が、そのたびに胸の前で小さく揺れた。
ノアは戸口に立ったまま、その音を聞いていた。
声は掛けずに、寝台へ戻った。砥石の音は、ノアが眠りに落ちるまで止まなかった。
翌朝、ノアはエリスと宿を出た。
東の外れの家では、戸口の脇に荷が一つまとめてあった。紐で束ねた手紙が、一番上に括り付けてある。
「昼に、南の橋のところで」
ノアが言うと、マルタは頷いた。前掛けは、もう外していた。戸には、休みの札が下がっている。
「王都は、初めてなの。あの子が二十年いた町なのに」
マルタは荷の紐を、指で一度確かめた。
マルタの家を後にして、ノアとエリスは町を北へ抜けた。北の外れの楡の下まで来て、ノアは足を止めた。
「ここで待っててくれ」
エリスは何も訊かず、楡の幹に背を預けた。
家の前の切り株には、手斧が打ち込まれたままになっていた。昨日の朝に見たのと同じ角度だった。周りに、割った薪は一本も落ちていない。
戸を叩くより先に、中から「開いてる」と声がした。
ブルーノは、卓の前に座っていた。卓の上に、あの木箱が置いてある。棚の、いつも箱が載っていた場所には、四角く埃の跡が残っていた。
「茶は――」
「自分で淹れる」
ブルーノの頬の傷が、わずかに歪んだ。
炉で湯を沸かし、茶碗を二つ卓に置いて、ノアは向かいの椅子に腰を下ろした。
「銅片の持ち主が、分かった」
ブルーノの目が、こちらへ上がった。
「東の外れの革屋の、弟だった。昨日、姉さんに会ってきた」
「……ハルトの所か」
短く言って、ブルーノは茶碗に目を落とした。
「知らせたのか」
「ああ」
「何て言った」
ノアは、湯気の立つ茶碗を見た。
「何も言えなかった。王都の葬送士だって名乗っただけで、向こうが先に察していた」
ブルーノは黙っていた。
「どう死んだのかは、答えられなかった。伝えられたのは、糸の色と、爪の染みのことだけだ」
ノアは、卓の上の箱を見た。
ブルーノの目も、同じ箱の上に落ちていた。左の親指が、蓋の縁を一度なぞって、止まった。
炉の中で、薪が崩れた。
「……ヤンの家は、この町にある」
箱から目を上げずに、ブルーノが言った。
「三年、あの家の前は通ってない。少し遠回りすれば、通らずに済む」
ブルーノは、窓の方へ目をやった。
「親父さんは、週に一度、粉を積んで詰所の前を通る。長椅子から、それを見てた。向こうは、俺の顔を知らん」
ノアは、口を開かなかった。言うべきことは、昨日のうちに言ってあった。
ブルーノは茶碗を取り、一口だけ飲んで、置いた。
「……あいつは」
声の調子が変わった。
「処刑台で、何か言ったか」
「何も」
処刑台の隙間から、ノアはそれを見ていた。縛られた背中。わずかに上がった顔。
「自分で、首を台に預けた」
ブルーノの左手が、箱の縁を離れた。
「……あいつが、逃げなかったのか」
膝の上で、ノアの指が胸の方へ動きかけて、止まった。
森の手前で鳴った警鐘は、捕まる前にも鳴っていたはずだった。鳴っていて、あの人は逃げなかった。
なぜなのか。その答えを、ノアは持っていなかった。
ブルーノは長いあいだ、窓の外の楡を見ていた。
やがて、杖を掴んで立ち上がった。義足の先が床を打ち、壁の前まで三歩で行く。左手で釘から剣を外し、鞘ごと、ノアの前の卓に置いた。
「持っていけ」
「俺は葬送士だ。剣なんか、使えない」
「知ってる。腰を見りゃ分かる」
ブルーノは椅子に戻らず、立ったまま剣を見下ろしていた。
「あいつを、ちゃんと送ったんだろう」
ノアは、ブルーノの顔を見上げた。
「……ああ」
「なら、持っていけ」
「飾りだが、刃は本物だ」
ノアは柄に手を掛け、鞘から指一本ぶんだけ引き出した。曇り一つない刃が、窓の光を細く撥ね返した。新しい油の匂いがした。
「鞘は、布で巻いておけ。あいつの隊の紋だ。知ってる奴は、まだいる」
ブルーノは棚から畳んだ布を一枚取り、剣の上へ放った。
ノアは刃を戻し、鞘から鍔の付け根までを布で巻いた。翼を広げた鳥が、布の下に隠れた。持ち上げると、片手では腕が沈んだ。
戸口に差しかかったところで、背後からブルーノが呼んだ。
「坊主。その弟の名前は」
「ヨナス・ハルト」
「ヨナス・ハルト……か」
ブルーノは、一度だけ繰り返した。それから、また箱の上に左手を載せた。顔は、こちらを見ていなかった。
楡の下で、エリスが幹から背を離した。ノアの腕の中の物に目をやり、それから、ノアの歩幅に合わせて歩き出した。
宿へ戻ると、裏の井戸端でカイルが待っていた。
ノアの腕の中の物を見て、カイルは片眉を上げた。
「何だ、それ」
「剣だ。もらった」
カイルは手を出しかけて、布の巻き方に目を留めた。鞘も鍔の付け根も、布の下に隠れている。
「……誰に」
「北の外れの人に」
カイルは、頷いただけだった。
「抜くな。そのまま握ってみろ」
ノアは、鞘ごと柄を握った。カイルが、その手を上から見下ろす。
「力が入りすぎだ。それじゃ、すぐに腕が上がらなくなる」
カイルが、ノアの中指を指先で叩いた。そこから力が抜けた。布を巻いた親指と人差し指には、言われる前から力が入っていなかった。
「締めるのは、小指と薬指だ。ほかは添えるだけでいい」
「何で」
「昔、そういうのにうるさい奴がいた」
ノアは、言われたとおりに握り直した。小指と薬指の付け根に、柄の革が食い込む。
「それと、振るな。お前が振っても当たらない。どうしても使うなら、突け。それから――」
カイルは、そこで口を閉じた。
「……いや。突け。それだけ覚えとけ」
カイルは井戸の縁から腰を上げ、宿の方へ戻っていった。
昼の鐘が鳴る前に、南の橋のたもとに幌付きの荷馬車が着いた。
二頭立てで、荷台には革と羊毛の束が積み上がっている。手綱を取る商会の男は、前の荷で馬を一頭持っていかれたのだと、着くなりガルドに三度言った。
マルタは荷台の後ろに腰掛け、膝の上の荷を両手で押さえていた。ノアはその隣に座り、布で巻いた剣を膝に横たえた。エリスは向かいの荷に背を預け、杖を抱えている。ガルドが馬の前を歩き、レナは荷台の最後尾に片膝を立てて、弓を手元に置いた。
カイルは、林の側になる荷台の右手についた。歩き出す前から、右手は自分の剣の柄に載ったままだった。
マルタが、ノアの膝の上に目をやった。
「葬送士って、剣を下げるものなの?」
「下げてなかった。今日までは」
橋のたもとでは、詰所の兵士が荷改めをしていた。商会の男が差し出した書付を受け取ったのは、あの年嵩の兵士だった。
兵士は帳面を開き、筆を取った。
「乗ってる者の名前と、行き先だ」
商会の男から順に名乗っていく。ノアが名乗ると、筆が一度止まった。兵士の目が、ノアの膝の上の布の巻き方をなぞり、北の外れの方角へ動いた。
それから、ノアの名前を書き付けた。
「……あの男が、人に物をやるとはな」
帳面を閉じ、兵士は書付を商会の男へ返した。
「その布は、解くなよ。王都では、なおさらだ」
荷馬車が動き出した。
橋の脇の川べりに、水車小屋があった。川の流れを受けて、大きな水車がゆっくりと回っている。軒先に、粉屋の看板が掛かっていた。
その戸口に、男が一人立っていた。
左の脇に小さな木箱を挟み、同じ手で杖を握っている。ズボンの裾から、楢の義足が覗いていた。
ブルーノは、戸の前から動かなかった。荷馬車の軋む音は聞こえているはずだったが、振り返らなかった。ノアも、声は掛けなかった。
車輪が橋板を鳴らした。水車の音が、背中の方へ遠ざかっていく。
荷馬車が橋を渡りきり、水車小屋が小さくなっていく間も、ノアはその背中を見ていた。戸が開いたのかどうかは、最後まで見えなかった。




