第十五話 動かない剣
林は、日が傾く前から見えていた。街道の右手、刈り取りの済んだ畑の向こうに、黒い帯のように横たわっている。明日の朝、あの脇を抜ける。
ガルドは、街道を外れた草地で荷馬車を止めさせた。林の縁からは、矢を射ても届かない。辺りに背の高いものはなく、どちらから何が来ても先に見える場所だった。火は小さく熾し、荷馬車をその風上に据えて、見張りは二人ずつ立てる。商会の男は馬の脚を一本ずつ撫でては、そのたびに林の方へ目をやっていた。
マルタは荷台の陰に毛布を敷き、手紙の束を膝に載せて座っていた。ノアが干し肉を渡すと、受け取ったまま、暗くなっていく街道の先を見ていた。
「あの子も、この道を歩いていったのよ」
干し肉は、手紙の束の上に置かれた。マルタの指は、束を結んだ紐に掛かったままだった。
「父さんの目打ちを一本だけ持って。見送りに出たら、橋を渡りきるまで、一度も振り返らなかった」
ノアは、来た道を振り返った。橋は、とうに見えなくなっていた。
火のそばに腰を下ろすと、膝の上の剣の布が緩んでいた。昼のあいだ荷台で揺られたせいだった。結び目を一度ほどき、巻き直す。鞘から鍔の付け根まで布を重ねて回していき、最後に端を輪にくぐらせて留めた。葬送所で、遺体を包む白布を留めるときの結び方だった。
「器用ね」
火の向こうで、レナが弦の張りを指で確かめていた。
「毎日やってた」
レナは何か言いかけて、ノアの肩越しに目をやった。その先で、カイルが火に背を向け、林の方を向いて座っていた。鞘ごと膝に載せた剣の柄を、右手が握ったまま離さない。
ノアは、その手から目を離せなくなった。締めるのは小指と薬指で、ほかは添えるだけ。宿の井戸端で、そう言ってノアの中指を叩いた手だった。今、柄を握るカイルの指は、五本とも節が白く浮いていた。
最初の見張りは、ガルドとカイルだった。夜半に目を覚ますと、見張りはレナに替わっていた。それでも、火と林のあいだには、カイルの影が座ったままだった。
「寝てろよ」
「交代の番よ。あんたこそ」
レナはカイルの後ろへ回り、背中合わせに腰を下ろした。それきり、どちらも口を開かない。カイルは林を、レナはその反対の暗がりを見ていた。
ノアは毛布の中で、胸に手を当てた。あいつが、逃げなかったのか。ブルーノの声が、まだ耳に残っている。処刑されると分かっていたら、自分は逃げるだろうか。
答えが出る前に、眠りが来た。
夜明けとともに、荷馬車は街道へ戻った。林が近づくにつれ、街道は右手の木立に寄り添うように曲がっていく。道と林の縁のあいだには、膝ほどの草が十歩ほどの幅で茂っているだけだった。草はまだ朝露に濡れ、左手には刈り跡の畑がどこまでも続いている。
林の脇に差しかかる前に、ガルドは並びを変えた。荷台の最後尾にいたレナが降りて、畑側の車輪の脇へ回る。荷台を挟んで、林側の車輪と並んで歩くカイルの反対側だった。ガルド自身は、馬の前から動かなかった。
荷台の幌の中では、ノアとマルタが並んで後ろの縁に腰掛け、足を外へ垂らしていた。車輪が回るたびに足が揺れ、来た道が遠ざかっていく。二人の後ろでは、エリスが積み荷に背を預け、杖を抱えていた。
朝の林は、どこにでもある光景だった。鳥が鳴き、梢が風に揺れている。それなのに、胸の奥を、冷たい指が撫でた。
ノアは、膝の上の剣の柄を握った。小指と薬指に力を込め、残りの指は添えるだけにする。何が、どこから来るのかは分からない。ただ冷たさは、林の方から来ている気がした。このまま進めば、何かにぶつかる。
「……止めてくれ」
声は思ったより小さく、手綱を取る商会の男には届かないまま、車輪は回り続ける。林側を歩くカイルの目は、林から動かなかった。
積み荷に背を預けていたエリスが、身を起こした。ノアの横顔を一度見て、幌の中から前へ声を張った。
「ガルド、止めて」
ガルドが片手を上げると、手綱が引かれ、車輪が軋んで止まった。
「どうした」
エリスは答えず、杖を握り直した。目はもう、林の縁へ向いていた。ノアも縁に手をつき、幌の脇から林側へ身を乗り出した。
草が、横一列に揺れた。
灰色の背が、草を割って飛び出してきた。一つ、二つ、五つ。灰猪だった。背丈はノアの腰に届かないが、胴は樽のように太い。灰をかぶったような剛毛が逆立ち、下顎から反り返った牙が、走るたびに草を払った。鼻を地面すれすれに下げ、街道へ駆け込んでくる。荷馬車があのまま進んでいれば、横腹に突っ込まれていた位置だった。
馬が嘶いて前脚を上げ、商会の男が手綱にしがみつく。
先頭の一頭は荷馬車の前を横切ろうとして、ガルドの片手斧に首の付け根を割られた。二頭目は車輪の脇を抜けかけ、カイルの剣に前脚を払われて転がる。起き上がろうとした首筋に、カイルは上から刃を落とした。
残る三頭のうち二頭は、こちらに目もくれなかった。街道を横切り、畑の方へ駆け抜けていく。レナの矢が一頭の後ろ脚を射抜き、這って逃げようとしたところを二の矢が仕留めた。もう一頭は、畑の向こうへ小さくなっていった。
最後の一頭は、林の縁で足を止めていた。草の中で向きを変え、林の奥を振り返る。それから、何かに弾かれたように飛び出してきた。荷台の後ろ、ノアたちのいる方へ。
エリスの杖がそちらへ向くより先に、カイルが車輪の脇から草地へ踏み込んでいた。横から叩きつけた剣が、灰猪の鼻面を割る。灰猪は林の縁から数歩の所で一度跳ね、草の中で動かなくなった。
「……何だ、今のは」
カイルが、剣を下げたまま言った。
「こっちを狙ってなかったぞ。どいつもこいつも、林から逃げてきやがった」
ガルドは答えず、林の縁を見ている。ノアの胸の冷たさは、灰猪が倒れても引かなかった。撫でていた指が、少しずつ深く沈んでくる。
カイルは林を向いたまま、灰猪の脇から街道の方へ何歩か下がった。刃の血を払おうと、腕を引く。
風が変わった。
林の奥から、灰猪とは違う重い臭いが流れてきた。家畜小屋の湿った藁と糞、それよりもっと古い、何かが腐ったような臭いだった。
引いたところで、カイルの腕が止まった。刃の先から血が一滴、草の上に落ちたが、カイルはもう、それを払おうとしなかった。
林の奥で、枝の折れる音が一つ、また一つと、こちらへ近づいてくる。
それから、鼻息が聞こえた。鍛冶場のふいごを一度に押し込んだような、低く太い音だった。
カイルの肩が大きく上がり、落ちた。そのあとは、息をしているのかどうかも分からなくなった。
倒れた灰猪のすぐ奥で、林の縁の若木が根元から押し倒され、その陰から、それは身を起こした。
牛の頭をしていた。背丈は人の倍近くもあり、頭の両脇から、黒ずんだ角が前へ反り返っている。胸と腕は人に似ていたが、どこを取っても太すぎた。腰から下は獣の毛に覆われ、膝から下が逆に折れて、蹄で土を踏んでいる。二本の脚で、立っていた。
右手には、皮を剥いだ丸太を下げていた。太い方の端が黒ずみ、何かを何度も叩いたような凹みが残っている。ぬかるみの跡の主だと、ノアにも分かった。
「……牛頭鬼」
畑側の車輪の脇で、レナが呟いた。その名に、カイルの剣先がわずかに持ち上がりかけて、そこで止まった。
「なんで……あんなのが街道に出てくるんだ」
御者台の上で、商会の男の声が裏返った。
牛頭鬼は、草地へ踏み出す前に林の奥を振り返った。何かを確かめるような、短い間だった。それから、こちらを見た。角の先が、カイルの方を向いた。
カイルは剣を下げたまま、足を草に縫い付けられたように立ち尽くしていた。肩も腕も固まり、柄を握る五本の指の節だけが、白く浮いている。目は、角の先から離れなかった。
ノアの胸の冷たさは、それ以上深くならなかった。角の先にいるのは、ノアではなかった。
「カイル!」
ガルドが呼んだ。カイルの背中は、呼ばれる前と同じ形のままだった。
蹄が草地の土を割り、腰掛けた荷台の板まで重い揺れが伝わってくる。カイルとのあいだは、十歩もない。
「出せ! 林が切れるまで、止まるな!」
ガルドの怒鳴り声に、商会の男が手綱を振るった。馬が跳ね、荷台が前へ引き出される。エリスが杖を抱えたまま、ノアとマルタのあいだをすり抜け、速さに乗る前の荷馬車から街道へ飛び降りた。
マルタの指が、ノアの袖を掴んだ。ノアは振り返らずに荷台の縁を蹴り、袖は、その指のあいだから抜けていった。
剣を胸に抱えたまま着地し、足を取られて片膝をつく。顔を上げると、カイルの背中が十歩ほど先にあった。遠ざかる車輪の音に混じって、マルタが何か叫んでいる。ノアの襟を、エリスの手が掴んで後ろへ引いた。
「後ろ」
短く言って、エリスはノアの前に出た。
畑側にいたレナは、離れていく荷台の後ろを回って、もうカイルの方へ走っていた。走りながら、カイルの横顔を見る。カイル、と動きかけた唇を、レナは引き結んだ。
「エリス!」
「――土縛」
牛頭鬼の足元で、土が盛り上がった。蔓のように蹄へ絡みつき、膝まで這い上がって、踏み出しかけた脚を地面に繋ぎ留める。
同じ瞬間、レナは足を止めて弦を引き絞っていた。その目が、獣の胸の一点で止まる。
弦が鳴り、矢は分厚い胸の、肋の隙間に沈んだ。
牛頭鬼は自分の胸を見下ろし、左手で矢柄を掴んで、根元から折り取った。鏃は、胸の中に残ったままだった。
ガルドが、エリスとノアの脇まで戻っていた。腰の革帯から素焼きの小瓶を一本外し、荷馬車の方を振り返る。羊毛と革を積んだ荷台は、もう三十歩以上先を走っていた。ガルドは、何も言わずに瓶を高く放り上げた。
小瓶が回りながら、牛頭鬼の頭上へ上がっていく。レナの弦には、もう二本目が番えられていた。瓶が、頂で一瞬止まる。
矢が、空中で瓶を割った。飛び散った液が、角と首と肩へ降りかかる。
「――火球」
エリスの杖の先から、絞られた火が走った。液に触れた途端、炎は獣の身体を這うように広がった。毛を舐めるのではなく、その下の肉へ食い込むように燃えていく。濡れた足元の草からは、白い煙が上がっただけだった。
咆哮が上がった。空気そのものに殴りつけられたようで、耳の奥で何かが鳴り続ける。毛の焦げる臭いが二十歩近く離れたここまで届き、頬に、火の熱が触れた。
燃える巨体とカイルのあいだへ、レナが弓を握ったまま駆け込んでいく。カイルの背中は、まだ同じ場所にあった。
ノアの指は、剣を巻いた布の端を探り当てていた。いつそこへ掛けたのか、自分でも覚えていない。
踏み出しかけた足の前に、エリスの杖が横から差し出された。杖の先が、細かく震えている。エリスの額に、汗の粒が浮いていた。
牛頭鬼は燃えながら丸太を足元へ放り出し、空いた手を草の中へ伸ばした。そこには、カイルが仕留めた最後の灰猪が転がっていた。その前脚と後ろ脚を両手で掴み、頭上へ持ち上げる。灰猪の身体が、両手のあいだで引き裂かれた。
降りかかった血が、角を伝い、首から胸へ流れ落ちる。炎が音を立てて縮み、黒い煙に変わって、首の火はそれで消えた。焦げた肩の毛からは煙が上がり続け、胸は、折れた矢柄の周りでまだ赤く燻っている。
血の滴る半身を両手に一つずつ下げたまま、牛頭鬼は首を巡らせた。角の先が、カイルの方へ戻る。
右手の半身が、カイルへ。左手の半身が、エリスとノアへ。続けざまに投げつけられた。
胸の冷たさが、一息に深くなった。こちらへ来る、とノアの身体が先に知った。
ガルドが、エリスとノアの前へ踏み出した。片手斧の腹で飛んでくる肉塊を横から叩き、腕ごと押し戻されながら振り抜く。向きを変えられた半身が、重い音を立ててノアの足元の草へ転がる。裂けた腹からこぼれたものが、靴の先で湯気を立てていた。ノアは、足を引かなかった。目の前で、ガルドが斧を左手に持ち替え、右の手首を一度振った。手首の外側が、見る間に赤く腫れていく。
カイルへ投げられた半身は、手前の草に一度落ちて跳ね、濡れた草の上を滑ってきた。その進路へ、レナが飛び込んだ。弓を左手に握ったまま、右の肩からカイルにぶつかる。立ち尽くしていた身体が、半歩ずれた。肉塊はカイルの爪先をかすめ、二人の脇を滑り抜けていった。レナは押し込んだ勢いのまま、カイルの前でたたらを踏んだ。
「レナ!」
ガルドが叫んだ。蹄を巻いていた土は、炎の下で白く乾いていた。牛頭鬼が脚を捻ると、そこへひびが走り、土塊になって砕けた。牛頭鬼は丸太を拾い上げざまに踏み込んで、もうレナの目の前まで来ていた。
丸太が、横から薙いできた。
レナは後ろへ跳ぼうとした。踵が、背後に立ち尽くしたカイルの脚に当たる。身体が傾き、逃げる場所が消えた。
レナは、左腕を上げた。傾いた分だけ、丸太の芯は胸の前を過ぎた。太い先端だけが、上げた腕を捉えた。
乾いた音がした。枝を膝で折ったときのような、短い音だった。
レナの身体が横へ弾かれ、三歩ほど先の草の上へ叩きつけられた。弓が、手から離れて滑っていく。
ノアには、どこが折れたのか見えた。肘と手首のあいだで、前腕が一つ余計に曲がっている。レナは右手でその腕を抱え込み、歯を食いしばって起き上がろうとして、膝をついた。
牛頭鬼が、レナの方へ踏み出した。立ち尽くしたままのカイルの脇を、蹄が素通りしていく。もう、カイルを見てはいなかった。黒ずんだ丸太が、もう一度ゆっくりと持ち上がっていく。
「カイル!」
ノアは叫んでいた。
カイルの目が、動いた。角の先を追って横へ流れ、その下で止まる。草の上の弓。膝をついたレナ。抱え込まれた左腕。
カイルの唇が、わずかに開いた。声は、出なかった。
牛頭鬼の大きな影が、レナの全身を黒く染めた。




