第十六話 二本の指
焦げた肩が軋むのか、丸太が持ち上がっていく速さは遅い。その影の下で、レナが膝をついている。三歩離れた所に、カイルが立っていた。目はレナに向いているのに、身体が動かない。柄を握る手は、五本の指とも固く締まっていた。
ノアのいる街道からは、二十歩近くあった。手は届かない。
「締めるのは、小指と薬指だ!」
喉が裂けるほどの声が出た。カイルの肩が跳ね、指がほどけて、小指と薬指だけが柄を締め直す。止まっていた息が、一度だけ大きく吸い込まれた。
「……はい」
低い声だった。カイルがノアに「はい」と言ったことは、一度もなかった。
その場で、カイルが跳んだ。トーン、トーン、と軽く二度。自分の胸の鼓動に、拍を合わせているように見えた。
「――練極」
カイルの首筋に、血の筋が浮き上がった。肌が、見る間に赤く染まっていく。
丸太が、頂から落ちてきた。カイルの姿が、ノアの目の中でぶれた。
三歩あったはずの間が消えていた。振り下ろされる太い腕の内側に、カイルの身体が入り込んでいる。丸太の下ではない。それを握る、手首の下だった。カイルの剣が、下から斬り上げる。落ちてくる腕の重さが、そのまま刃に乗った。刃は、手と腕の継ぎ目に入り、向こう側へ抜けた。
黒い血が噴いた。手首から先が、丸太を握ったまま、腕を離れた。丸太はレナの頭の上を外れ、膝から一歩ずれた地面に、斜めにめり込んだ。
その下で、乾いた音がした。草の上に落ちていたレナの弓が、握りの革ごと二つに折れていた。丸太の柄には、太い指がまだ絡みついていた。
朝露に濡れた草の上には、カイルが踏み込んだ足の跡が、遅れて三つ残っていた。
「悪い。……三年前に、置いてきたつもりだった」
レナに背を向けたまま、カイルが言った。
牛頭鬼が、先のなくなった右腕を振り上げて吠えた。その前に立つカイルの肌は、見ているうちに紫がかっていった。耳の下から顎へ、袖口からのぞく手首へ、皮膚の下を太いものが這い上がっていく。
「……カイル」
その背中へ、レナが呼んだ。顔から、血の気が引いていた。
ノアの横で、ガルドが奥歯を噛んだ。斧を提げた左手の甲に、筋が浮いていた。
王都を出た日の街道で、カイルはそれを切り札だと言っていた。普段から使うもんじゃない、とも。使わなくて済むなら、その方がいい、と言ったのはレナだった。
そこから先は、目で追うのがやっとだった。断たれた右腕を振り回す牛頭鬼の懐で、カイルの身体が低く沈む。唸りを上げて落ちてきた左の拳をくぐり、すれ違いざまに、剣が右の腿の外側を裂いた。返す刃が、脇腹に一本、肩口にもう一本、線を引く。刃が走るたびに、黒い血が草に散った。
牛頭鬼が、踏み潰そうと蹄を持ち上げる。カイルは逃げずにその脚の内側へ入り、落ちてきた蹄は、さっきまでカイルのいた草を深く抉った。カイルの剣は、もう反対側の脇腹へ回っていた。
カイルを掴みにきた左手は、指の一本一本がカイルの腕ほどもあった。跳び退いたカイルの胸があった所で、閉じた指が空を握り潰す。
踏み込んだカイルの足が、朝露と牛頭鬼の血に濡れた草で滑った。
それが、ノアの目にはひどくゆっくりに見えた。傾いていくカイルの肩。その上を、黒ずんだ角が横に薙いでいく。角の先に掛かった上着が、肩口から裂けた。背中が地面に着く寸前、カイルは自分から草の上を転がった。
角の下を抜け、起き上がりざまに、もう一度懐へ飛び込む。ひるがえった上着の裂け目に、血の色はなかった。牛頭鬼は一歩ずつ、林の縁へ押し戻されていった。
そのあいだに、ガルドがレナのもとへ走っていた。手斧を左手に提げたまま、右腕だけでレナの脇を抱え、街道の方へ引きずってくる。レナは左腕を胸に抱えたまま、その目でカイルを追い続けていた。
「……長い」
引きずられながら、レナが呟いた。
「分かってる」
ガルドは、カイルの方を見ないまま答えた。レナを街道の端に下ろすと、すぐに斧を握り直し、牛頭鬼の背後へ向けて草地を駆け戻っていく。
カイルの首筋の紫が、いつの間にか薄れはじめていた。踏み込むたびに、息の音が荒くなっていく。
牛頭鬼の背が、林の縁の若木にぶつかった。頭が下がり、角が前へ出る。カイルは角の外へ回り込み、跳んだ。低く下がった頭の横から、太い首の付け根へ、剣を振りかぶる。
その途中で、カイルの身体から何かが抜けた。
首筋から、紫が引いた。振り下ろされた刃は、首の皮を浅く裂いて滑った。着地した膝が、そのまま折れる。カイルは草の上に両膝をつき、剣の切っ先を地面に落とした。唇は白く乾き、肩が、息のたびに大きく上下していた。
街道の端で、レナが身を起こしかけた。抱えていた左腕が胸から離れ、その顔が歪む。レナは、それでも立とうとしていた。
牛頭鬼は、足元のカイルを見下ろした。左の拳が、重たげに持ち上がっていく。右腕の先からは、まだ黒い血が垂れ続けている。左の拳の真下に、両膝をついたまま動かないカイルの頭があった。
胸の冷たさは、そのままだった。拳が狙っているのは、自分ではない。それでもノアは、街道を蹴っていた。
背中で、エリスが何か言った。濡れた草が脛にまとわりつき、剣を抱えた腕が重い。カイルまで、まだ十歩以上ある。拳の方が、ずっと近い。
自分が着くより先に、あれは落ちる。分かっていて、足は止まらなかった。
牛頭鬼の脚の向こうで、濡れた草が割れた。ガルドだった。もう巨体の真後ろまで来て、左手の斧を低く構えている。
「右の膝の裏!」
レナの声だった。射る腕も、弓も、もうない。その目だけが、牛頭鬼の脚の一点で止まっていた。
ガルドは何も返さず、牛頭鬼の右脚の後ろへ回り込んだ。拳が落ちかかるのと、斧が膝の裏に食い込むのが、同じだった。
巨体が右へ傾き、拳はカイルの頭を外れて、すぐ脇の地面を打った。土と草が、カイルの髪に降りかかる。カイルの目は、宙の一点に向いたままだった。
ガルドが斧を引いた。刃は動かない。膝の裏の太い筋の奥で、骨に噛まれている。ガルドが柄を捻ってもう一度引こうとしたとき、牛頭鬼の左手が、背後へ回った。
太い指が、ガルドの左肩を掴んだ。ガルドの足が草から離れ、巨体の前へ吊り上げられていく。その先で、低く下がった角が待っていた。ガルドは声を上げなかった。宙で蹴る足だけが、角との間合いを測るように動いていた。
ノアは、カイルのすぐ後ろまで来ていた。頭の上のガルドを見上げる暇もなく、剣を鞘ごと帯に差し込み、カイルの襟を両手で掴んで後ろへ引く。力の抜けた身体は重く、地面に根を張ったように動かない。引くたびに、踵が濡れた草で滑る。
吊られたまま、ガルドの右手が外套の内へ入った。掴み出したのは、肉に振る赤い粉の小瓶だった。ガルドはそれを握り込み、目の前の牛の鼻面へ、掌の付け根ごと叩きつけた。
小瓶が割れた。鼻の奥を刺す臭いが、ノアのいる所まで一息に広がり、目の奥が、ちりりと痛んだ。
牛頭鬼が吠えた。ガルドを吊ったまま頭を振り、巨体ごと右へ、左へと揺さぶる。
胸の冷たさが、ふいに深く沈んだ。ノアは、引いていた手ごと身体を後ろへ投げた。目の前の草に、蹄が落ちた。暴れる巨体が踏み直した右脚だった。半歩遅ければ、カイルの脚ごと潰されていた。
反対側の襟を、別の手が掴んだ。エリスだった。息が上がり、額の汗が顎まで伝っている。
「引いて」
二人で、カイルを引きずる。カイルの膝が草を削り、垂れた剣の切っ先が、地面に細い線を引いていった。カイルの指は、柄を離していなかった。五本ではなく、小指と薬指だけが、まだ柄に掛かっていた。
「……置いてけ」
引きずられながら、カイルが言った。息とほとんど変わらない声だった。
「嫌だ」
ノアは、襟を握り直した。
「……なら、走るな」
引いている襟ごしに、カイルが息を継ぐのが伝わった。
「……背中を見せたら、角が来る」
大きく振り回されながら、ガルドの右手が腰へ回った。今度抜いたのは、獲物の皮を剥ぐときの小刀だった。揺れるたびに、角の先がガルドの腹の前をかすめていく。腫れた手首ごと腕を振り、ガルドはそれを、自分の肩を掴む太い親指の付け根へ突き立てた。
指が開いた。
落ちたガルドの身体は、草の上で一度跳ね、転がって膝をついた。左肩の外套が、食い込んでいた指の形に裂け、その下から血が滲み出していた。
牛頭鬼は、まだ頭を振り続けていた。鼻を押さえようとするように、先のない右腕を顔へ持っていく。
その隙に、ガルドが脚の後ろへ這い寄っていた。膝の裏に噛んだままの斧の柄を掴み、身体ごと後ろへ倒れ込む。腫れた右の手首が軋み、骨から剥がれた刃が、黒い血と一緒に抜けた。
牛頭鬼が、また吠えた。右腕の先からも、左の親指の付け根からも、抉られた膝の裏からも、黒い血が垂れている。落ちかけた膝を、巨体はかろうじて踏みとどまった。
そのまま、露の残る草へ鼻面を突っ込んだ。引きずるように、顔ごと擦りつける。一度、二度。持ち上がった顎の下から、赤い粉の混じったよだれが糸を引いて垂れた。固く閉じていた目が、薄く開く。縁は赤く腫れ、溢れた涙が頬の毛を濡らしていた。大きく波打っていた脇腹が、少しずつ静まっていく。
牛頭鬼は首をねじった。林の奥を見ている。鼻から、短く息が漏れた。
それから、林に背を向けた。
カイルを引きずってきたノアとエリスは、ちょうど街道の縁に上がったところだった。エリスは膝に手をつき、肩で息をしている。カイルは仰向けのまま、肘をついて身を起こそうとしていた。腕に力が入らず、半ばまで上がった背中が草へ落ちる。目だけは、牛頭鬼から離れなかった。
牛頭鬼の向こうでは、ガルドが草に片膝を立て、抜いた斧を握り直している。街道の端のレナは、そのガルドを見ていた。荷馬車の姿は、とうに林の切れ目の先へ消えていた。
牛頭鬼は、すぐには来なかった。首を巡らせ、その目が、離れた草の中の一つ所で止まる。丸太が、斜めに地面へ刺さっている。柄には、断たれた手首から先が、まだ絡みついていた。
次に、先のない右腕へ目を落とし、黒く濡れた肩を、腿を、脇腹を、順に見ていった。最後に、左の手が持ち上がった。親指の付け根が裂け、黒い血が手首へ伝い落ちている。指が開き、握ろうとする。太い指は細かく震え、親指だけが、付け根から垂れ下がったまま動かない。拳の形にならなかった。
牛頭鬼は、天を仰いで吠えた。腹の底から押し出された咆哮が草地を渡り、ノアの肋の内側に響いた。
巨体が、腰を沈めた。頭が低く下がり、二本の角が街道を向く。その向こうに広がる、刈り跡の畑を。
残っているのは、角だけだった。
ノアの立つ街道の縁から、角の先までは、十歩ほどの草しかない。
鳩尾の下を、握り込まれた。




