第7話 4月 海辺の公園 akari
あかり akari
「あかり! 逃げるよ!」
佳奈は、道路に転がった私の旅行鞄を拾い上げると、大声でそう叫んで、腰を抜かしたおじさんが行こうとしたのとは、逆の方向に走りだした。
私も立ちあがって、必死にその背中を追いかける。
なんだこいつ。
なんだこいつ。
はあはあと、息を切らしながら、佳奈の背中に向かって心の中で叫ぶ。
船の上では、あんなにびびっていたのに、いざとなったらとんでもないことをやらかす。
このふざけた世界に、本気で中指立ててる。
かっこいい。
好きだ。
いっしょにいて、気分がいい。
こんな気持ちになったの、生まれてはじめてだ。
これが、友だちってやつなんじゃないか。
わけもわからず、気分だけは高揚したけれど、あの重たい旅行鞄を抱えた佳奈に、ちっとも追いつかなくて、私はどんどんその差を離されていった。
『友だちなら、私を置いて行くな!』
全力でそう叫びたかったけれど、息切れがひどすぎて、声にならなかった。
ついに、足が止まって、私は立ち尽くした。
立ち止まると、待ってましたとばかりに、全身から汗がふきだしてくる。
初日から、制服を汗びっしょりにしている場合じゃないんだけど。
遠くのほうで、後ろを振り返った佳奈が、私が立ち止まっていることに気がついて、引き返してくるのが見えた。
私は、肩で大きく息をしながら、彼女を待つ。
佳奈は、涼しい顔で現れた。
「体力ないんだねえ、あかりって」
「うるさい」
そういえばと、後ろを振り返ってみると、さすがにあのおじさんも追いかけてきてはいなかった。
「追いかけてきてないの、わかってたんだけど、おもしろいから走ってみた」
「ふざけないでよ」
割と本気で怒って言ったのだが、声はかすれて力なく、笑われてしまっただけだった。
「走るの好きだからさ」
そこまで言って、佳奈が急に真顔になった。
「あかり、大丈夫?」
「ん?」
「鼻の頭、擦りむいてるよ」
「え」
鼻に指を当てると、薄く血がついた。
それを見た途端、急に両膝にずきずきと痛みを感じて、私はうずくまった。
「血、出てる」
「膝から転んだから」
痛みに悶えていると、佳奈は周囲を見回して、どこかを指さした。
その方向に、公園があるのが見える。
「傷、洗ったほうがいいから、あの公園、行くよ」
私は言われるがまま、佳奈の背中を追いかけていった。
◇
海辺の公園には、私たち以外に誰もいなかった。
ベンチに重たい荷物を置くと、佳奈は水飲み場に向かって歩いていく。
私も背負っていた鞄を置いて、追いかける。
ずきずきと、足が痛む。
まだ息が整わない。
それに比べて、元気なやつだと、佳奈の後ろ姿を見て思う。
歩きながら、佳奈が振り返って話しかけてきた。
「あかりって、部活なにやってた?」
「合唱部」
「やっぱり。その体力のなさは、絶対、文化部だと思った」
「文化部だって体力使うのあるでしょ。佳奈は?」
「ん。陸上部」
思わず、ははって大きな声をだして笑ってしまった。
「ほんと走るの好きなんだね」
「まあね。あかりは歌が好きなの?」
「歌うのも聴くのも好き。部活は入ってすぐに顧問と喧嘩したから、ほぼ行ってないけどね」
私が言うと、佳奈がおもしろそうにきゃっきゃと笑った。
「反抗期にもほどがあるでしょ」
佳奈は、私のあまり褒められたものではない振る舞いを知っても、喜んで笑ってくれる。
ひとりで馬鹿やってただけなのに、救われたような気持ちになる。
心が広いっていうか、器がでかいっていうか、なんでも受け入れてくれるっていう、安心感を与えてくれる女だ。
なんか、そういうところも、好きだ。
「洗ってあげるから、裸足になってそこに立って」
水飲み場に着くと、佳奈はそう言いながら、鞄を漁りはじめた。
私は靴を脱ぎ、靴下も脱ぎながら、なにを探しているのかと見守る。
佳奈は小さな救急セットを取りだして、水飲み場に置いてみせた。
「用意がいいね」
「どこで怪我するかわからないから、いつも持ってるんだ」
あれだけやんちゃな姿を見た後だと、なんかわかる。
普段から、そこら中に生傷作ってそう。
「きちんとしないと、跡が残るからね」
おばあちゃんから教わっているのかな。
「もっとこっち来て」
裸足になった私に、佳奈が指示してくる。
佳奈は水飲み場にしゃがんで、低い位置にある蛇口をひねって水を出すと、両手ですくって、私の膝にゆっくりと水をかけた。
冷たい水が傷口にしみる。
「痛ったい」
ほとんど悲鳴に近い声をあげると、佳奈は「我慢して」と私を黙らせてきた。
「スカート濡れちゃうから、持ち上げてて」
私は言われたとおり、スカートを持ち上げようとした。
途中でやめると、しゃがんでこちらを見上げている佳奈が、なにやってんだって顔をしてくるので、私は弁明した。
「パンツ見えちゃう」
佳奈は、ぷっとふきだした。
「女同士だし、別にいいじゃん。私は気にしないよ」
それはそうなのかもしれないけど、自分から人に見せるようなものじゃないし。
「自分でやる」
「だめ。あかり、ちゃんとできなさそうだから、私がやる」
見つめ合っていると、佳奈がスカートをめくろうとしてきたので、私は一歩後ろに下がって逃げてやった。
佳奈は、呆れたって顔をして立ちあがると、ふうっと息を吐いた。
それから、佳奈は膝下まで隠していた自分のスカートをたくし上げて、私に生足を見せてきた。
「きちんとやらないと、あんたもこうなるよ」
たぶん、おばあちゃんが買ってきたんだろうなっていう、信じられないくらいダサい紺色のおっきなパンツに目を奪われて、佳奈がなにを言いたいのか頭に入ってこなかった。
なんか、昔の人がはいてたブルマってやつみたい。
「なに、にやにやしてるわけ」
「え、ダサいのはいてるなって」
佳奈は舌打ちして、私を睨みつけた。
「買ってきたのおばあちゃんだから、私のセンスじゃないし」
思ったとおりの答えが返ってきて、私は笑いをこらえられなかった。
「はき心地は、いいんだよ」
佳奈は照れくさそうに、そう付け加える。
「足、傷跡いっぱいあるんだね」
なにが言いたいのか、ようやくわかったので、私はそう言葉にした。
それを聞いて、佳奈は持ち上げていたスカートを戻した。
「小さい頃は、ぜんぜん、気にしてなかったからさ。もう恥ずかしくて短いスカートはけないんだよね。ほんとはミニスカートとか、憧れるんだけど」
「これだけ近くで見ればわかるけど、遠くからなら、わからないと思うよ」
うーんとうなりながら、佳奈が口を開く。
「でも、私が気になるから」
「そっか。きれいな足してると思うけどね。ほどよく筋肉質で」
ふふっと、恥ずかしそうに佳奈が笑った。
不覚にも、その顔、かわいいなって思ってしまった。
ここにねって言って、佳奈がまたスカートを大きく捲る。
ふとももの傷を見せたかったらしく、指で傷跡をなぞっている。
「縦に傷があるでしょ。小学生の頃、鬼ごっこしてて、木に登って逃げようとしたら、足をすべらせて、枝かなんかで引っ掻いた傷なんだよ。これがいちばん見られるの恥ずかしい」
それよりも、パンツ丸見えなのはいいのか。
傷なんかより、そっちのが見てて恥ずかしいんだけど。
「わ!」
急におっきな声をだした佳奈に、ばっとスカートをめくられた。
私は舌打ちして、悔しがった。
勝ち誇ったように、佳奈は、がははっと笑ってみせる。
なんだこいつ。
パンツ見せてくるし、人のパンツ見てくるし。
「やばいわ、こいつ」
佳奈は、ふふんって得意げな顔をする。
「これでおあいこだから、もういいでしょ」
そう言って、またしゃがんで水を汲みはじめる。
「スカート持ち上げてて」
私は言われたとおり、スカートを持ち上げることにする。
両手で裾をつかむと、両手をお椀のようにして、水を溜めている佳奈と目が合った。
「早くして」
「恥ずかしい」
「恥ずかしがるな」
佳奈が眉間にしわを寄せたので、私は観念した。
ゆっくりとスカートを持ち上げると、しゃがんでいる佳奈の顔がスカートの布に隠れて見えなくなった。
ふふっと笑う声がした。
なんで笑われたんだって想像すると、恥ずかしくなってくる。
顔が熱い。
「かわいいの、はいてるんだね」
絶妙にきもい台詞なのに、なんでか胸がきゅっとなって、反撃の言葉が出てこない。
「ちょっと濡れてる」
「見ないで」
誰のせいで走らされたと思ってるんだ。
そんなこと言われると、下着の布が、汗でからだに貼りついてくる感じがして、むずがゆくなってくる。
「しゃべってないで、まじめにやってよ」
「はあい。白地に赤いリボンがかわいかったです」
おまえ、変態だろって言おうとしたら、膝に水をかけられた。
「ひりひりする」
「頑張れ」
なんども、水をかけられる。
その度に、傷口がしみる。
「ん」
膝を触られた感触と同時に、ぴりっとした痛みが走って声が漏れた。
「やさしくするから、我慢してて」
傷口を指でやさしくなでるように洗われている。
冷たい感触と、傷口が痛む感覚と、佳奈のやさしい気持ちと、なんか、いろいろ伝わってくる。
「足、震えてるよ。痛い?」
「え、うん。ちょっと、変かも」
「スカート濡れちゃうから、もっと上にあげてて」
腕が疲れて下がってきたら、すぐに注意された。
佳奈がどんな顔をしているのか、見ておきたいのに、スカートに隠れて見えない。
「まだ?」
「やることなくて退屈なら、一曲歌ってよ」
「えぇ」
こんなとこで歌えって言われても。
「それ、薬塗ってるの?」
ぬるぬるする感触が膝をなでてきた。
「よくわかったねえ」
なんか、その感触、ちょっと。
「なんで急に内股?」
佳奈の笑い声。
なんか、だめだ。
こんな気持ち、なっちゃだめだ。
いろいろ、我慢できなくなっちゃう。
そうだ。
佳奈の指が触れる感触に意識を集中するからよくないんだ。
気を紛らわせようと、言われたとおり、適当に思い浮かんだ曲を歌ってみる。
人前で歌うのも恥ずかしいけれど、同じ恥ずかしいなら、こっちのがましだ。
歌いはじめたら、気持ちが落ち着いてきた。
「あとテープ貼ったら終わりだから」
なんなんだ、この状況。
今朝、出会ったばかりの女に、パンツ見せつけながら歌ってる。
それなのに、いままで感じたことがないほど、心があったかい。
「終わったよ」
歌うのをやめ、スカートから手を離す。
しゃがんだまま、満足そうに仕上がりを見て笑う佳奈がいた。
「せっかく傷ひとつない、きれいな足してるからね」
立ちあがると、佳奈はそんなことを言う。
傷だらけの足がコンプレックスだから、私に同じ思いをさせたくなかったんだってわかった。
なにを言えばいいのかわからないでいると、佳奈が私の顔を見てふっと笑った。
「鼻の傷は浅いみたいだけど、そっちも念のため、やってあげるよ」
擦りむいた鼻の頭に指を当ててみると、さすがに血は止まっているみたいだった。
鏡がないから、どんな様子かわからない。
薬を手に塗りつけた、佳奈の指が目の前に迫ってきて、私は思わず目をつぶる。
目を閉じたまま、されるがままになっていると、鼻になにか貼られた。
ふふっと声がしたので、目を開けると、まぶしい笑顔が飛び込んできた。
『好き』
その言葉をこのとき、言えたらよかった。
私は、彼女に出会えてうれしい気持ちを噛みしめながら、脱いだ靴下と靴を履き直していた。
「遅刻なのは間違いないとして、入寮式、終わるまでには間に合うかなあ」
そんなことを言いながら、佳奈は歩き出す。
「間に合うつもりでいたんだ」
私もそう応じながら、並んで歩く。
ベンチに置いた荷物を回収しようと近寄ると、佳奈はまるで自分のものみたいに、あの重たい旅行鞄を持ち上げた。
「持ってくれるんだ」
私が言うと、佳奈は首を傾げながら、
「あ、これ私のじゃなかった」
と言って、私を笑わせた。
「まあいいや。持ってあげる」
「やさしいじゃん」
「あかり、体力ないからね」
「あんた、ひと言多いって言われない?」
そんなことを言い合いながら、また歩きはじめる。
「あ、そうだ」
公園から道路に出たとき、急に佳奈がなにかを思い出したように声をあげた。
「なに?」
私が訊ねると、佳奈はひと言、
「きれいな歌声だね」
って、私に笑いかけた。
「うぅん」
なんだ、この感情。
こんなの、はじめてだ。
「知らない曲だったわ」
そう言いながら、佳奈は笑っていたけれど、私はしばらく心が落ち着かなかった。




