第32話 6月 契約 akari
あかり akari
私は遥香と、ある契約を交わした。
山でキスをした、あの夜のことだ。
山を下りるとき、遥香は黙ったままで、お腹が空いてないとか言いだした佳奈を置いて、ふたりで晩御飯を食べている最中も黙ったままだった。
静かに食べ終えて、ふたりでエレベーターに乗り、部屋に帰ろうとしたとき。
3Fで降りる遥香に手を引かれた。
無理やりエレベーターから降ろされる形になった私は、そのまま遥香の部屋まで招待された。
連れ込まれたと言ったほうが、正確かもしれない。
部屋の扉が閉まるなり、遥香は私に抱きついてきた。
身長差があるせいで、ほとんど抱え込まれるような格好になる。
カーテンは開いているけれど、日が暮れて真っ暗な部屋の中、ジャージ姿の遥香の胸に、顔を押しつけるような形になって、なにも見えなかった。
されるがまま、ここからなにが起こるのか、どうしていいのか、私にはわからなかった。
どのくらい、そうしていたのかはわからない。
私は、遥香が震えていることに気がついた。
その理由はわからなかったけれど、私は遥香が弱みを見せたものと感じた。
そうやって、私に弱みを見せた人間は遥香がはじめてだったから、私はそれをうれしいと感じてしまった。
だから私は、その弱さを受け入れてあげることが、「正しいこと」なんじゃないかって、とっさにそう思って、彼女の背中に腕を回して、強く抱きしめてやったんだ。
「私ね」
遥香の声は震えていた。
顔は見えないけれど、泣いているんだろうなって、私にはわかった。
どうしていいのかわからなかったのは、きっと遥香も同じだったんだね。
「女の子が好きなんだ。小さい頃からずっとずっと、女の子が好きだったんだ」
どうしてなのか、自分でもわからないけれど、驚きはまったくなかった。
腑に落ちる、というか、納得感のほうが勝っていた。
だから、動揺はしなかったし、素直に受け入れることができた。
「私はあかりちゃんと、恋愛がしたい」
遥香は、自分のことを言うだけで、私が女の子を好きなのかどうか、確認しなかった。
実のところ、私はこの島に来るまで、人間を好きになったことがなかった。
たったひとり、佳奈という女を除いて、誰も好きになったことがなかった。
老若男女問わず、だから、恋愛をするという発想そのものが、私の頭にはなかった。
「それは、私のこと、好きってこと?」
答えはわかっているつもりだけど、自分の考えが合っているのか確かめたくて、私は訊ねた。
「好きだから、キス、したんだよ」
そうか。
キスをしたから、はじまったことなんだ。
それをしただけで、こんなにも容易く、人を操れてしまうんだ。
葵先輩って、ほんとうに悪い女だな。
やっぱり、あの人のこと、私は嫌いじゃないや。
そんなことを、私は考えていたように思う。
「あかりちゃんは?」
だから、遥香にそう訊ねられたとき、私は答えに詰まってしまった。
嫌いじゃないって言いそうになったその言葉を、とっさに飲み込む。
それが正しくないことくらい、私にだって、わかっている。
遥香はまた震えだした。
お互い黙っていると、鼻をすすって泣いているのがよくわかる。
「好きだよ」
たぶん、私のしたことは、正しくないよね。
でも、仕方なかったって言い訳することを、どうか許してほしい。
私という人間は、泣いているあなたを踏みつけにできるほどの覚悟もない、一生懸命、虚勢を張っているだけの、たいして心の強くない人間だったってことなんだよ、遥香。
私はこのとき、自分を騙し続けることを決めたのだ。
自分で蒔いた種だったから。
「好きじゃなきゃ、キスなんてできないでしょ」
抱きしめていた腕を解いて、遥香が私の顔を見下ろしてきた。
きっと、私の顔が見たかったんだと思う。
そのとき、私がどんな顔をしていたのか、遥香はきっと、暗闇でよく見えなかったんじゃないかな。
想像するだけで、ぞっとするよね。
私も遥香の顔はよく見えなかった。
それでも、涙で濡れていることだけはわかった。
「恋人になるなら、ひとつだけ条件がある」
私の目的は、最初からひとつだった。
「ほかの子と、仲良くしないでほしい。特に佳奈とは、口を利かないでほしい」
「約束する」
その声は、奇妙なほど、喜びに満ちあふれていた。
意味をはかりかねていると、遥香がもう一度、私を強く抱きしめてきた。
こうして、私たちは「恋人」になったんだよね。
この島に来るまでの私の人間関係なんて、それこそ、茶番に過ぎない浅はかさだったなって、いまでは思うんだ。
本心をさらけ出すことなんてないし、衝突することも、わかりあうことさえない。
この日の出来事は、正しくないことだらけのように感じるけれど、いずれにせよ、私には抗えなかっただろうと強く思う。
だって、そうでしょう?
これほど強そうな人から、弱みを見せつけられることも、私には、はじめての経験だったのだから。




