第28話 5月 絆の時間(あかり) akari
あかり akari
部屋に戻ってひと息つくと、すぐに誰かがドアをノックしてきた。
音だけで、佳奈だってわかる。
私が帰ってくるのを、女子寮のアプリで監視してたのかな。
「あかり、山岳調査、行ってたでしょ」
「まあね。たまには、健康のために運動でもと思って」
佳奈は感心したように、おおっと声をあげてから、
「調査は進んだ?」
と、訊ねてきた。
「新しいとこは行ってないよ。ひとりじゃ危ないし」
「なあんだ」
ふふっと、佳奈が笑う。
「佳奈はなにしてたの?」
「え、遥香とおしゃべりしてただけ。お昼ご飯、あかりといっしょにって思ったのにいなかったから、どこ行ったのかと思ったよ。入山申請してあったから、わかったけれども」
佳奈は不服そうな顔をしていた。
私もきっと、同じように不服そうな顔をしていたと思う。
「少し早いけど、晩御飯、行こうよ。お腹空いてきちゃった」
話題を変えようと、そう提案してみる。
「じゃあ、遥香も誘うね」
そう言って、佳奈がスマホを取りだした。
◇
食堂で、三人でテーブルを囲んで晩御飯をいただく。
「昨日もカレーじゃなかった?」
「アジフライ定食だったでしょ、佳奈ちゃん」
「そうだっけ?」
ふたりは笑いながら、楽しそうにおしゃべりしている。
私は黙って箸を進めながら、改めてこの三人の関係を見つめている。
三人でいると、佳奈は遥香のほうばかり見る。
遥香にばかり、話しかける。
遥香のことが、気になるからだ。
たぶん、遥香のことが、好きだからだ。
少なくとも、私よりは。
遥香は佳奈とおしゃべりしながら、私のほうを気にしている。
ふたりのおしゃべりになってしまって、私が入って来ないから、気を遣っているのかもしれないし、私とおしゃべりしたいと思っているのかもしれない。
遥香の気持ちは実のところ、はっきりとはわからない。
なんとなく、興味を持たれているというか、ふとした仕草に、言葉の端々に、ほんのり好意のようなものを感じてはいる。
人懐っこいやつだから、私の勘違いかもしれないし、遥香と付き合った人間はみんなそう思わされるのかもしれない。
佳奈のことは、だいぶ、下に見ていそうな感じがする。
どうしようもないやつとか、しょうがないやつっていうか、呆れ、とか、あきらめ、みたいな感情を持って接してそうな姿が目に映る。
遥香は、威圧感のある見た目に反して、誰に対しても当たりがやわらかい印象だから、そんなふうに接する相手は佳奈だけで、そこに特別なものを私は感じていた。
特別に心を許している相手、みたいだった。
その見立てが合っているなら、このふたりは相思相愛なのだから、時間の問題で強い絆で結ばれていくような、そんな予感がする。
そうなったら、私は空気を読んで身を引くべき存在で、ふたりにとっては邪魔者でしかなくなってしまう。
『あなたのものになるといいね』
いつだか葵先輩は、私にそう言った。
そのために、私はなにをすべきなのかがわからなかった。
だから、彼女に相談してみたいと、私は思い至ったのだ。
◇
夜になって、絆の時間のはじまりを告げるチャイムが鳴る。
葵先輩の部屋を訪れると、いつものように音楽が鳴っていた。
特に話したいことがない日は、だらだらと一時間過ごして終わる。
それが私たちにとっての絆の時間の過ごし方だった。
話したいことがある日は違う。
椅子に座って机に向かおうとする葵先輩の背中を追って部屋に入ると、私はベッドの上に腰かけ、この音楽の発生源である、彼女の私物のスマホに手を伸ばした。
パスコードは教えてもらっている。
小さい頃に飼っていた犬の名前と命日らしい日付の組み合わせだ。
私は音楽を止めた。
葵先輩が椅子を回して、こっちを振り向く。
私は彼女の目を見つめ、わざとなにも言わずにじらしてみせる。
あの山林の中でしていたことを、私が目撃していることは知っているはずだ。
直人先生と葵先輩が付き合っているのかどうかはわからないけれど、彼女が先生のことを好きなのは間違いない。
それなのに、ほかの男とあんなことをしているなんて、直人先生が知ったらどう思うかな。
言わないでって、弱々しく口止めしてくるのか、それとも、言うなよって強く口封じしてくるのか、彼女がどんな手を打ってくるのかが、興味深かった。
「なにか話したいことがあるんじゃないの?」
しびれを切らしたのか、葵先輩が訊ねてきた。
「葵先輩こそ、私に言いたいことがあるんじゃないですか?」
私は意地悪をしてみせる。
溜まりに溜まったフラストレーションのはけ口として、利用させてもらうのだ。
後輩の女に、きたないことをしていると知られた先輩という生き物は、どんな態度を見せるものなのかな。
私の純粋な好奇心は、満たされなかった。
葵先輩は、顔色ひとつ変えずに、
「ないよ」
と、言ってみせた。
強がりでもなんでもなく、「ないよ」なんだなって、私にはわかった。
この人の考えは、私にはまったくわからないけれども、この人の気持ちだけは、なぜか手に取るようにわかる気がするのだ。
だからこそ、あんなに無感情に男の子にキスとかできる、葵先輩という人の考えていることが、知りたかった。
「ないんですね」
教える気がないのなら、仕方がない。
言わざるを得ないような、なにかそういう事実を突きつけてやらないと、この人は口を割らないだろう。
「以前話した、佳奈っていう、私の好きな女の子の話なんですけど」
私はあきらめて、自分の話に移ることにした。
葵先輩は、真剣に私の話を聞いてくれる。
私が話している間は、決して、私から目を逸らさない。
普段は挨拶もしなければ、ろくに目も合わせないくせに、この「絆の時間」だけは、真剣に私と向き合う姿勢を見せてくれるんだ。
学校行事とかに、真剣に取り組むタイプには見えないのに、それがどうしてなのか、私にはわからなかった。
わからないけれど、その誠実な姿は真実にしか見えないから、私はこの時間に出会う、この女性のことを、心から信頼していた。
「私は佳奈を失うのがこわいんです」
心から信じている人と話をしたら、自分でも知らなかった、見ないふりをしていた、ほんとうの気持ちが明らかになるということがある。
このとき、私はそれを知った。
私は、佳奈がいなくなってしまうことが、こわかったのだ。
友だちと呼べる相手がいなかった頃にはわからなかった。
佳奈が私を「反抗期」と揶揄するように、心に反抗する気持ちを宿して、自分を取り巻く環境に怒りを感じていれば、それだけで心を強く保てたから、心は壊されなかった。
佳奈は私に「安心」をくれた、はじめての人だ。
自分のことをなんでも話せて、受け入れてくれる人。
彼女を失ったら、私は自分が壊れることがわかっているのだ。
「遥香を嫌いになれないし、彼女につらく当たって、傷つけてしまうことが『正しい』とも思えないんです」
私の言葉を聞くと、葵先輩がふふっと笑って訊ねてきた。
「『正しい』ことが、必要なの?」
これまで私がしてきた「反抗」は、正しさを拠り所にしているものだ。
それは法律とか、校則とか、ルールみたいな決まりごとというよりも、常識や、道徳的な正しさを拠り所にしたものだと思っている。
学生とはこうあるべきとか、おとなとはこうあるべきとか、親とはこうあるべきとか、そういう感じ。
おばあちゃんとも、常識や道徳を盾にして、よく喧嘩したものだ。
子どもの私が身につけられる武器なんて、それくらいしかないって、そういう単純な話に過ぎないのだ。
「必要だと思って生きてきましたし、必要だと思っています」
私は過去を振り返り、冷静に自分を分析をした上で、その答えを返したつもりだった。
葵先輩は、私の真剣さを理解してくれた様子で、やさしい顔になって言う。
「社会生活を営む上では、きっとあなたみたいな考えはとても大切なんだと思うよ。義務教育って、それを身に着けさせるためのものなのかもしれないね」
まじめに生きてきたことを肯定してもらえたようで、私は率直にうれしさを覚えた。
葵先輩は私の気持ちの変化に気づいたかのように、ふふっと笑いながら、
「平然と校則違反をする私とはえらい違いだ」
と言って、私を褒めてくれた。
それが冗談ってことは、私にもわかったので、私は素直に笑ってみせる。
「でも、人との関係はそうじゃないよね」
葵先輩に言われても、私はその意味がわからなかった。
そんな私の顔を見て、葵先輩は微笑みながら続ける。
「みんなが正しい振る舞いをしたら、人は誰かのものにはできないでしょう?」
「たとえば、私と遥香がどっちも佳奈のことを好きなのだとしたら、どちらかのものにするのは不公平だからってことですか?」
私が質問を返すと、葵先輩は悪い顔をしてみせる。
「じゃあ、早いもの勝ちってことにする?」
「それだと、遥香のものになってしまいます。遥香のほうが、一歩も二歩もリードしているので」
「じゃあ、あきらめる?」
「それじゃ、私の気持ちが救われません」
「でも、あなたのものになったら、今度は遥香の気持ちが救われないよね」
私はこの議論の正解を探して言葉に詰まった。
葵先輩は、なおも疑問を呈してくる。
「佳奈の気持ちだってあるよね。佳奈はどうするのが正しいのかなあ」
「身体をふたつに分けることはできないので、どちらかを選ぶか、どちらも選ばないしかないと思います」
「それだと、三人のうちの誰か、あるいは全員が救われないねえ」
だから、みんなが正しい振る舞いをしようとすると、誰のものにもできない話になってしまうのか。
全員の気持ちを救える方法が、ない。
誰かが割を食うしかない。
誰かがあきらめるしかない。
誰かが妥協するしかないんだ。
それは納得するけれども、
「だったら、私はどうすればいいんですか。佳奈は遥香のことが好きなんです。このままだと遥香に取られてしまいます。それだけじゃない。ふたりだけの山を、遥香に取り上げられてしまう」
私は、正直な気持ちを伝えた。
「そんなの簡単でしょう」
そう言って、葵先輩が示した解決策は、私には想像もつかないものだった。
そのとき、私は理解した。
だから、この人は、平気で好きでもない男の子とキスとかできるんだ。
葵先輩の目的はわからない。
けれど、いま、なぜか共感できる気持ちでいる。
「それじゃ、まるで、共犯者みたいですね、私たちって」
葵先輩は、なにも言わずに笑っていた。
彼女はそうやって、私のからっぽになっていた心の器を、真っ黒などろどろで満たしてくれた。




