第9試合 対角線/いつかの憧れ
画面では、政宗とロヴィーナの試合が決していた。
勝者・神谷政宗。スポットライトを受けて輝くベルトを腰に巻き、汗まみれの姿で、威風堂々とマイクを取る。
乱れた呼吸を整え、政宗は声を絞り出す。
『今日、この大事な一戦でロヴィーナに勝てたのは……俺の名前を呼ぶ声が、ずっと聞こえてたからだ』
——ウソだ。
『厳しい闘いだった。正直、負けんじゃねぇかって時もあった。でも、俺はこうして、最後まで立っている』
ウソだ。
『俺は、レスラーである限り——神谷政宗である限り、負けたりはしない。どんな奴が立ちはだかろうと、叩き潰しにこようと、全部、返り討ちにしてやる』
ウソだ。全部ウソだ。
『オルトは、俺のプロレスの全てだ。仲間と、ファンのいるこの場所が、俺が目指していた本当の場所だ。だから俺は、これからもずっとプロレスをやり続ける。ずっと、闘い続けていく』
父さんなんて大ウソツキだ!
なにがやり続けるだ。なにが闘い続けるだ。自分は怪我してさっさと引退して、金がなくなったら母さんや周りを当てにして、そんな今の父さんが何と闘ってるっていうんだ!
叫びになれない吐息が震える。握っていたペンを、ちゃぶ台に叩きつける。
喝采が耳障りだった。称えられる政宗の姿が、目障りで仕方なかった。
やっぱり、父さんの手伝いなんてしたくない。ましてや筋書きを書くなんて、そんなの、絶対にやりたくない!
リモコンを乱暴に押し、テレビを黙らせる。静まった休憩所には、仕切りの向こうから聞こえるマットの音と、台所の音が聞こえる。
——ここから、どう逃げ出そう。
そう考えていると、突然そこに、匠がやってきた。
「凌さん、お疲れっす!」
笑顔で寄ってくる匠を、視界から外す。「……どうも」と固く呟けば、匠は了承もなくそばへとやってくる。
「ロヴィさんと試合観てたんすよね。俺の試合どうでした?」
「……さぁ。俺には、プロレスのことなんてわからないんで」
冷めた反応に、匠の表情がピクリと引きつる。けれど笑顔がそれを隠し、匠は凌に擦り寄る。
「凌さん、ブック書くんすよね」
確かめられ、黙り込む。匠は構わず、声を潜めて囁く。
「俺、リング上がって半年くらい経つんすけど、まだ一回も勝ちを貰えてないんすよ。だから……なんとか、勝つことできないっすかね」
その言葉に、凌がカッとなる。
俺に取り入ろうっていうのか。
ブッカーだから。
『神谷政宗の息子』だから。
——『父親が有名人だからって、調子に乗んなよ』
いつかの声が、鮮明に浮かんだ。
高校時代。クラスメイトの声。文武両道で品行方正な、誰からも評判のいい、ヒーローめいた優等生。
その仮面が剥がれたのは、凌の父親が有名人だと知れ渡ってすぐだった。
『俺より目立った』。
ただそれだけで、凌はいじめの的になった。
ジャージを破られ、ノートに暴言を書かれた。陰湿な行為に堪えていると、やがてそれはエスカレートし、直接的な暴力に変わった。
殴る、蹴る。人のいないところで、見えないところばかりを狙って、そのクラスメイトは凌を痛めつけた。
——ヒーローなんて、ただの外ヅラだ。
裏ではこんなにも醜くて、汚くて、嘘ばっかりだ。
身体の痛みなんて、どうでもよかった。それよりも、腹の奥が気持ち悪くて仕方なかった。濁った熱い何かがドロドロして、グルグルして、吐いてしまいそうだった。
侮蔑が沸く。
瞬間、今の意識と重なり、凌が匠を睨んだ。
「俺に媚び売るヒマがあるなら、少しでも練習しろよ」
鋭利な声が刺す。
「エランテさんにおんぶに抱っこのまま勝ちをもらおうなんて、十年早いだろ」
——こんなの、八つ当たりだ。
そう思っても、煮えたぎる気持ちは収まらない。
「……はァ?」
匠の目が険しくなる。スッと消えた笑顔が、真顔に塗り変わっていく。
「お前さ、社長の息子だかなんだか知らねぇけど、プロレスのこと知らねーくせに、言いたいこと言ってんじゃねぇよ」
明るい声が一転する。低く凄んだ匠に、しかし凌は引き下がらない。
「知らなくたってわかるレベルだって言ってんだよ。気合い出してるつもりで空回って、一人でバテて、相手の息ひとつ乱せてなかっただろ」
「っ!テメェ……!!」
匠が拳を握る。空気が張り詰め、緊張が走る。しかし、そこに邪魔はやってくる。
「おいタク、次ウェイト——って、何してんの?」
やってきたのは貴翔だった。貴翔は二人をきょとんとした顔で見回し、首を傾げる。
「……っ、すんませんっ。今行きます」
奥歯を噛んで立ち上がり、匠は足音を怒らせ去っていく。
残された凌は視線を伏せ、気まずさとやり場のないイラつきを隠す。すると貴翔はそんな空気も読まず、広げられたノートに目を止めた。
「おっ!すごい書いてある!なになに?大人も子どもも楽しめるヒーローショー……個性や関係、因縁の明確化?」
「っ!見ないでください!!」
慌てて閉じる凌に、貴翔は「えー。いいじゃん、少しくらい」と唇を尖らせる。
「試合観てたんだろ?俺の試合どうだった?」
匠と同じように問いかけられ、貴翔が近寄る。ノートを必死に抱き隠しながら、凌はなんとか距離を取ろうとする。
「……っ、凄かったです。入場も試合も……印象に残りました」
「ホント?そう言ってもらえんの嬉しいな!」
なんの打算もなく、貴翔は笑う。あまりの屈託のなさに、凌の尖った気持ちが丸まっていく。
匠に、酷いことを言ってしまった。頭が冷えかけたその時、貴翔が何気なくリモコンの再生ボタンを押した。
画面に、再び喝采を受ける政宗が映る。
「おっ!これ、2010年のASC戦じゃん!この試合の政宗さん凄かったんだよな〜。ロヴィの雪崩式フィアンマダモーレで決まったか!ってとこを2.9で返してさ〜!最後はスワンダイブ式オルトノヴァで決めたやつ!」
目を輝かせ、貴翔が早口になる。凌はその横で、再び燃える苛立ちに眉を歪ませる。
「この試合もいいけど、俺的には2011年のASCが政宗さんのベストバウトなんだよなー。たしかコレじゃなかったっけ」
「やめてくださいッ!!」
勝手に再生しようとする貴翔から、咄嗟にリモコンを奪おうとした。
映像が途切れて、リモコンが弾かれる。ガチャン!と大きな音を立てて、ちゃぶ台へと転がる。
ぽかんとした貴翔の顔に、しまったと焦る。けれど、もう遅かった。
「あ、お父さんの試合見るの恥ずかしいとか?だったら俺の試合でも——」
「そうじゃなくて!」
調子が狂う。穢れのない瞳に、腹の奥のドロドロがうねり出す。
凌は思わず立ち上がった。何もかもが嫌になって、その場から去ろうとした。けれど、貴翔の手がそれを止めた。
力が強い。掴まれた腕は、振り解けない。
「……っ、離してください!」
「いや、でもブッカーやるんでしょ?」
「そんなのやりませんッ!俺はプロレスなんて観たくないんです!」
「え、なんで?」
「なんでって……そんなの」
心臓が急に熱くなる。
長い間堰き止めていたものが、限界を超えてあふれだす。
「……プロレスなんて…………格闘技のふりした、ただの見せ物だから」
ひゅっと息を飲む。違う。腹の底にあるのは、そんな言葉じゃない。
「闘ってるふりの、偽物だからッ!!」
声が強く震える。吐き捨てた本音がマグマのように流れ出し、胸を、全身を焼き尽くしていく。
言ってしまった。
——向かい合ってしまった。
いつかの自分に似た、純粋な憧れと。
「…………取り消せ」
静かな声が落ちる。遠くから響くマットの音と、包丁の音の真ん中に。
その強い気配に気圧された瞬間、引き止めていた手が、凌の胸ぐらを掴んだ。
「……ぐっ」
軽々と壁に押し付けられる。背中に衝撃が走り、空気の塊が肺から飛び出す。
「っ、はっ……!」
「凌がプロレスのこと好きになれないのは、別にいいよ」
冷ややかな怒りが、喉元を押し付ける。
「けど、俺の前で、プロレスをバカにすんな」
加減のない握力に、胸元がギリ、と締まる。
「俺もオルトのみんなも、レスラーは全員命張って闘ってんだ。リングの上には、本物しかないんだよ」
懐っこく笑っていた貴翔は、もういなかった。
無垢に輝いていた瞳が、業火に燃える。目の前に迫るのは、プロレスに全てを賭ける、ただ一人のレスラーだった。
「く、るしい……です、いりのま、さ……っ」
凌の喉から、ひっ、と短い喘ぎがこぼれる。その瞬間、貴翔がハッと正気になる。
そこでようやく手は離れた。壁に押し付けられていた凌の背はずり落ち、膝が崩れる。
「……ごめん。俺、プロレスのことになると……つい、回りが見えなくなって」
貴翔が謝罪を口にする。けれど目の奥の火は燻ったまま、消えてはいない。
一変した貴翔に、凌は怖気づいていた。
怖い。苦しい。なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
俺は何も悪くないのに。悪いのは、父さんとプロレスで——
そう思った瞬間、ふと、貴翔の笑顔が頭をよぎった。
『オルトのプロレス、絶対楽しいから』
……違う。
『すげぇ熱くなって、ワクワクして、ドキドキするから。いっぱい楽しんで好きになって?』
あの笑顔を壊したのは、俺だ。
俺の本音が、入野間さんの中のロープを踏み越えたせいだ。
凌は、顔を上げられずにいた。正面を切って立ち向かえるほど、自分が正しいとは叫べなかった。
——レスラーの前で、プロレスを否定する。
その覚悟も、信念も、凌にはなかった。
「凌ちゃん、大丈夫?」
凛とした声がした。ゆっくりと顔を上げると、そこにはエプロンをつけたロヴィーナが立っていた。
見られてしまった。そう思った瞬間、険しい視線が貴翔を刺した。
「ノマちゃん。今、何したかわかってる?」
「……わかってる」
「プロレスをバカにされたからって、キレて手を出していいと思ってる?」
「……思ってない」
「なら、二度とこんなことしないで。凌ちゃんは、リングに上がってるわけじゃないのよ」
その言葉が、凌の胸に深く刺さった。
——自分は、闘う場所に立っていない。
そう気付かされ、ジクジクとした自己嫌悪が広がる。
どうしたらいいんだろう。そう迷いながら貴翔を見上げると、凛々しい眉は、所在なげに垂れ下がっていた。
「……凌。ホントに、ごめん」
座り込んだ凌に、身を屈めた貴翔が手を差し伸べる。
こっちこそと、言えればよかった。けれど積み重なった意地は崩せず、凌は自分の足で立ち上がった。
気まずさを間において、無言で見つめ合う。
「ごめんなさい」は、もたついたまま出てこない。
「……凌ちゃん。しばらく、ここには来なくていいわ」
広げられたDVDの中から一枚を抜き取り、ロヴィーナが凌に差し出す。
「その代わり、これを家で見てくれる?」
「これは……?」
「ノマちゃんの初めての試合。ムネさんと闘った時のものよ」
意図もわからないまま、黙って受け取る。表面に書かれた「入野間貴翔・デビュー戦」の文字に、視線が揺れる。
「プロレスが嫌いなら嫌いでいいし、アタシは逃げるなとも言わない。別に逃げたって、人間死ぬわけじゃないもの」
凌の顔が、弾かれたように上向く。目の前のロヴィーナは、責めるでもなく、追い立てるでもなく、ただ大きな身体で受け止めている。
「ただね、痛くても踏み込んで、倒されても立ち上がった人間にしか、掴めないものもあるのよ。それがどんなものかはわからないけど……でもきっと、逃げたままの今より、胸を張れるようになるわ」
深く、低い声が、凌の胸の真ん中に沈む。言いたいことはあるのに、霞んだまま形にならない。
もう一度、手の中のDVDに目を落とす。
この試合には、何が詰まっているんだろう——そう、ぼんやり考えながら。
「今日は帰っていいわ。またいつでも来てね」
ポンと、小さく肩を叩かれる。ロヴィーナの穏やかな表情を前に、凌はそっと頷く。
カバンに荷物をまとめ、席を立った。去り際に貴翔と目が合い、思わず足を止める。
「デビュー戦……見せてもらいます」
それだけを残して、凌はオルトを後にした。




