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第10試合 再起

 家の部屋は、暗いままだった。

 カーテンを閉じ切った部屋が、いつもより真っ暗に感じる。それはこの二日間で、明るい場所に慣れてしまったからかもしれない。


 カバンを放り投げようとして、手を止める。中に入ったDVDを取り出し、パソコンのドライブに差し込む。


 画質の悪い定点カメラに、まだ若い貴翔と、現役時代の政宗が映る。初めてのコールを受け、貴翔の顔に緊張が走る。

 今の貴翔のような、試合を楽しむ顔じゃない。レスラーとしての一歩を踏み出す、覚悟に満ちた顔だった。


 政宗は、対角線に立っていた。獅子のような顔つきで立ちはだかり、貴翔と真正面から向かい合っていた。


 ゴングが鳴る。

 そして、歴然とした試合は始まった。


 王者として立つ年配者と、戦い慣れない若輩者。どちらが優っているかは、一目瞭然だった。

 叫ぶ、駆ける、ぶつかる、投げられる。どう攻めようとも容易く返され、その度にマットが波打つ。

 容赦なく叩きつけられ、貴翔の息が切れていく。汗にまみれた髪が乱れ、足がふらついていく。


「…………入野間さん」


 けれど貴翔は、果敢に立ち向かっていく。何度も立ち上がり、挑み続けていく。

 歯を食いしばり、折れそうな膝で踏ん張り、視線を背けずに。


 その姿に、ふと、凌は思った。


 ——どうして俺は、こうしなかったんだろう。


 プロレスと父さんに幻滅した時も。くだらないイジメを受けた時も。

 何も言わずに溜め込んで、腹の中で腐らせて、「俺のせいじゃない、全部父さんのせいだ」と思い続けて。

 そうしてひとりで引きこもったまま——気づいたら、どこにも行けなくなって。


「…………っ、」

 

 か細く息を吸う。熱くなる目蓋をギュッと閉じて、鼻をすする。

 遠目のカメラにも、貴翔の気迫はあふれていた。

 動作だけじゃない。鬼気迫る表情に、枯れる声に、プロレスへの想いが痛いほど伝わってきた。

 いつのまにか、強く拳を握っていた。画像がぼんやり乱れたのはカメラのせいじゃなく、浮かんだ涙のせいだ。


 ——頑張れ。

 

 気がつけば、心の奥で、そう呟いていた。


 ——負けるな。


 たとえ勝てなくても。

 たとえ、届かなくても。


 それでも挑んでいくことが、いつか強さになるのだと。貴翔の闘いが、そう教えてくれている気がして。


 ——試合終了のゴングが鳴る。

 勝ったのは政宗だ。貴翔は大の字になったまま、なかなか立てずにいる。


 けれど凌の目は、敗者である貴翔を見つめていた。

 スポットライトを浴び、讃えられる父ではなく。無残に負け、それでも立ち上がり、退場していく貴翔を追っていた。

 

 政宗もまた、去っていく貴翔の背をじっと見つめていた。勝利の喜びはない。けれど一瞬、ふっと笑った。そんな気がした。


 映像が途切れる。

 光が消えた闇の中、凌はベッドに身を投げ、静けさに浸る。

 

 心は変わらない。

 傷ついた記憶も、政宗への怒りも変わりはしない。

 けれど、蠢く何かを感じる。焼けつく胸の奥が、微かな叫びを上げている。


 ——もう、逃げたくない。


 深く息を吸った。膨らんだ肺は、まだ捻れて震えている。それでも凌は歯を食いしばり、滲んだ涙を袖で拭った。


 身体を起こし、もう一度試合を再生する。

 貴翔がリングに立つと同時に、凌もまた、荒れた部屋の中央に立つ。

 

 貴翔がコールを受ける。

 凌が窓際に立ち、カーテンに手をかける。


『青コーナー・179センチ82キロ。入野間〜!貴翔〜〜!!』


 歓声を受け、貴翔が顔を上げる。

 その瞬間、凌は、長く閉ざしたままだったカーテンを開いた。


 光を浴びる。白く眩しい、スポットライトのような光を。

 太陽に目を焼かれる。けれどもう、遮ることはしない。閉じることはしない。



 そう決意して向き合う空は——真新しいほどに青かった。




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