第11試合 静かな決意
凌がオルトに訪れたのは、次の日のことだった。
汗ばむような陽気の中、電車を乗り継ぎ、桜並木を進み、自らの足で道場の敷居を跨いだ。
「……お邪魔します」
凌の声に、練習の音が止む。修司とエランテがストレッチを止め、トムがダンベルを下ろす。そして匠と貴翔は、リングの上で組み合う手を止めていた。
「凌ちゃん」
目を見張るロヴィーナに、小さく頭を下げる。そしてリングへと向い、リングサイドで足を止める。
「瀬名さん」
真っ直ぐ顔を上げる凌に、わだかまったままの匠の視線がぶつかる。
「……なんだよ」
「昨日は、すみませんでした」
その一言に、匠の瞳がこぼれた。凌はそのまま頭を下げ、しっかりと声を張る。
「瀬名さんの努力も知らず、偉そうなことを言いました。なんだか利用されているように感じて……つい、感情的になってしまいました」
顔を上げる。
凌の真摯な視線に、匠は居場所を失くす。
「……いいよ。アレ、本当のことだし」
躊躇いながらも、匠は応える。
「自分の出来なさに焦って、近道しようとした。そういうダッセェとこ見抜かれて、俺も逆ギレした。だから、お互い様ってことでいい」
「瀬名さん……」
「タクでいい。俺も、凌って呼ぶから」
逸らされていた視線が、チラリと向く。丸くなった凌の瞳が、ぱちりと瞬く。
「……うん。タク、改めてよろしく」
「おう」と、控えめに聞こえた気がした——瞬間、バチン!と大きな音が響いた。
「仲直り出来てよかったな、タク!昨日めっちゃヘコんでたもんな!」
貴翔に思いっきり背を叩かれ、勢いに匠がつんのめる。
「いっった!!ノマさん!ちょっとは加減してくださいよ!!」
「なに言ってんだよ。レスラーならこんくらい平気だろ?」
ニヤリと笑う貴翔に、匠が目を尖らせる。そんな二人に、エランテとトムが声を上げて笑う。
開け放たれた南向きの窓から、陽が差し込む。太陽と貴翔の明るさに、空気が色を取り戻す。
そんな中、凌はもう一歩、前に踏み出す。
「入野間さん。その、昨日は——」
「ストーップ!謝んなくていい。あれは100%俺が悪かった」
大げさに手のひらを前に出し、凌の謝罪を遮る。けれど、凌は引き下がらない。
「でも俺、入野間さんが真剣にやっているプロレスを否定して……」
「そんなのいいからさ。俺のデビュー戦見たかだけ聞かせて?」
またも遮られる。けれど返された問いに、凌は息を止めた。
「……見ました」
何度も見た。
よろめきながらも、がむしゃらに立ち向かう姿を。
華やかさもない、美しさもない、汗にまみれたボロボロの姿を。
「どうだった?」
「よかったです。……その、上手くは言えないんですけど」
「いいよ、上手く言わなくたって。よかったって思ってくれたなら、それで十分」
そう微笑まれれば、もう何も言えなかった。
要らないと手を振られた「ごめんなさい」を、凌は飲み込む。そして、違う言葉に変えて差し出す。
「……入野間さんの試合を見て、俺……プロレスのこと、見直しました」
好きとは、まだ言えなかった。
それでも、精一杯の一歩だった。
「……ロヴィさん」
「なぁに?」
山のような体が、優しく、寄り添うように隣に立つ。凌はその気配に安堵して、深く呼吸をする。
染みついた汗と、サンドバッグの湿った革の匂い。鉄やゴム、芳香剤の匂い。
けれど今はそこに——窓から吹き込む、春風の匂いもして。
「俺……ブッカー、やってみます」
静かな決意に、全員の視線が集まる。
「まだ全部納得したわけじゃないし、俺に出来ることなんてあるのかなって思うけど……やるって言ったのは、俺だから」
言い切って、それでも凌は怖くなった。
ろくに人と関わらなかった自分に、人を活かすことなんて出来るのだろうか。選手を、ファンを、誰かを喜ばせることなんて出来るのだろうか。
考えれば考えるほど無茶だと思う。心臓が縮こまって、ギュッと痛くなる。
「……そう。じゃあ、一緒に頑張りましょ?」
そんな痛みに、ロヴィーナは手を差し伸べる。初めて「ようこそ」と迎えてくれた、同じ笑顔と一緒に。
「凌ちゃんはもう、アタシたちの仲間なんだから。不安な時はいつでも頼って?」
「ね?」と、ロヴィーナが首を傾ける。その仕草が妙に愛らしくて、こんなにゴツいのになと、凌は内心笑ってしまう。
「……みなさん。改めて、よろしくお願いします!」
ぺこりと頭を下げ、ぐるりと顔を見回す。
誰一人、反対する者はいない。貴翔も、匠も、エランテもトムも修司も。みんながあたたかく見守っている。
「これからよろしくな、凌くん」
「困った時はオイラが力になるんでい!」
「コキ使ってやるからな〜。覚悟しとけよ、リョウ」
「エランさん容赦ないからな。ほんとに覚悟しとけよ、凌」
「タクが言うと説得力あるなぁ」
歓迎の輪の中心に、自分がいる。その心地にむずむずして、でもそれが嬉しくて、つい頬を緩めてしまう。
凌が、小さく笑う。その瞬間、貴翔が大きく瞬いた。
「あ、今の」
「……なんですか?」
「いや、凌の笑った顔、可愛いなって思って」
「は!?」
声が跳ね上がる。遅れて、じわりと耳が熱くなる。
やっぱりこの人、ちょっとおかしいだろ!
そんな叫びを飲み込もうとした。まじまじと見つめてくる貴翔から、ぷいっと顔を逸らそうとした。
けれど凌は逡巡して、ぐっと腹の壁を破る。
「……入野間さん」
「なに?」
「子どもじゃないんですから、可愛いはやめてください」
「あれ?俺、怒られてる?」
「大体あなたは、初めて会った時から距離感がおかしいんですよ。もっと人との距離を考えてください」
「え。思ったこと言っただけで、ここまで言われる?ていうか凌、いきなり厳しくない?」
「褒めたのに」とぼやく貴翔を、匠が小突く。
「あれは照れてるんすよ。ノマさん、顔面からして凶器レベルっすからね」
「顔面凶器って。それ反則じゃん」
「いいんじゃね?反則も5カウントまでオッケーなのがプロレスだし」
アッハ!と、エランテの高らかな笑いが響く。ロヴィーナがくすりと笑い、トムは「座布団一枚でい!」と膝を打つ。
他愛ない会話さえプロレスに染まる。この人たち、どれだけプロレスが好きなんだと呆れたくなる。
けれど、それでも凌は羨ましかった。
いつか自分も、こんなに夢中になれる何かを見つけられるだろうか。命を張れる何かに、出会えるだろうか。
高鳴る胸に、そっと手を当てる。
この鼓動は希望なのか、恐怖なのか。それは、密かに震える足が答えだった。
だけどもう、立ち止まったりしない。
顔を上げる。前を向く。
そして、強く思う。
たとえ痛くても、苦しくても。
ちゃんと立っていられる、俺でいたいと。




