第8試合 壊れた夢の日
小学校に上がってすぐのある日。凌は母の志乃と、オルトのプロレス会場に来ていた。
志乃の手を引っ張り、早く行こうと急く凌。志乃はその小さな手を引き留め、真っ直ぐと視線を合わせた。
「いい?いつも言ってるけど、試合前のお父さんの邪魔しちゃダメよ」
志乃は、約束事に厳しい人だった。
怒鳴るわけでも、手を上げるわけでもない。けれど破れば、「どうして駄目なのか」「誰が困るのか」を、泣いても泣き止んだあとでも、静かに言い聞かせられた。
それでも凌は、その日、母との約束を破ってしまった。
「とうさんにがんばれっていいたい」
その一心で、こっそりと父に会いに行ってしまった。
バックヤードに入り、見つからないように控え室を目指した。辿り着いた扉越しに父の声が聞こえ、驚かせようとそっと開いた。
そこに居たのは、コスチュームに着替えた政宗だった。凌はその姿にパッと笑顔を咲かせ、飛び込みかけた。
「とうさ——」
その時だった。
政宗の口から、信じられない言葉が飛び出した。
「ロヴィ。今日はちゃんと勝てよ」
声をかけた相手は、対戦相手のロヴィーナだった。二人は向かい合いながら、どこか親しげに会話をしていた。
「わかってるわよ。そのかわり、中盤はそっちの番だからね。アタシは受けに徹するから、ムネさんの優勢ムードちゃんと作ってよ」
「ああ。グラウンドと打撃寄りで行くから、そっちも打つとこは打ってくれ」
「はいはい。お手柔らかにね」
それは、「流れの確認」だった。
どっちが勝つか、どんな風に試合をするか。そんな話し合いを敵とする父に、凌の信じていた世界は崩れ去った。
プロレスはウソだった。
とうさんは、ヒーローなんかじゃなかった。
憧れも、夢も、大好きな父への気持ちも。
何もかもが砕け散り、凌は声も上げられないまま大粒の涙を浮かべた。そしてそのまま、逃げるように母の元へと走った。
「凌!どこに行ってたの!」
そう怒られても構わず、凌は志乃の手を強く引いた。
「やだ……おれ、かえりたい。もう、プロレスなんてやだ」
「……凌?」
「もう、みたくない。こんなとこ、いたくない!!」
泣き出す凌の手を握り、志乃は困惑した。抱きしめられ、どうしたのと問われても、凌は言えなかった。
約束を破った罰よ。
そう、言われる気がして。
父が間違っているのに、母の言うことを聞かなかった自分が悪いと言われる気がして。
凌は、ぎゅっと志乃の服を握りしめた。ぐずり泣く声だけを上げて、志乃の胸で涙を拭った。
だけど、本当は叫びたかった。
とうさんなんてウソツキだ。
プロレスなんて、だいきらいだ!——と。




