第27試合 カウントスリーのその先で
レフェリーがリングを降りてからも、どよめきは収まらなかった。
凌は、目の前のことが信じられないまま、リングの上を見つめていた。
——貴翔が負けた。
その事実が、まだリングに置き去りのままだった。
貴翔がようやく身を起こす。這いずりながら、ロープにもたれかかる。
リング中央に立つ政宗と、貴翔の距離が開く。そんな二人の間に、有線マイクが滑り込む。
政宗が、ゆっくりとマイクを拾い上げる。勝者としてライトを浴び、貴翔を、客席を見回す。
集まる視線の中、政宗は長く息を吸う。
『あー……何で、こうなってんのかな』
スピーカーから響いた一声に、ドッと笑いが起きる。緩んだ雰囲気の中、政宗は崩れた前髪をかきあげ、汗ばんだ額を拭う。
『……引退した俺が、またリングに上がって、しかも勝って、マイクまで握ってる。そんな予定、全然なかったんだけどな』
クスクスと笑いの波が広がる。政宗はふっと天井を見上げ、少しの沈黙の後、覚悟を決めたようにマイクを握り直す。
『今からちょっと、ダセェこと言います』
静かに切り出し、もう一度客席を見回す。この場に居る全てのファンの顔を、しっかりと目に映す。
『俺はもう引退した身で、膝もボロボロで、ろくに動けもしねぇ。正直、今日の試合だって、みっともねぇと思ってる』
うっすらと残っていた笑い声が、ひたりと止む。どんな時もこぼさなかった弱音を、苦く笑いながら、政宗は口にする。
『それでも、若い奴の踏み台になれんなら、それも悪くねぇかと思った。だから引退破ってまで、もう一度ここに立った』
どこかで鼻を啜る音がする。当惑していた凌もまた、初めて聞く本音に唇を結ぶ。
『なのに今、勝った側で立ってんのは——』
ふと、政宗の視線が向いた。
目があったのは、ほんの一瞬。その表情が、少しだけ柔らかくなった——気がした。
けれどすぐに、その目は客席へと戻っていく。
『たぶん、みんなが俺を信じて、声をくれたからだ』
さわりと、客席が揺れる。政宗の大きな汗の一粒が、スポットライトを受けて滴る。
『俺をヒーローにしてくれるのは、いつだって、俺を信じて応援してくれる声だ』
『それがある限り、俺はまだ、若い奴にも負けねぇプロレスラーでいられるんだって、今日、やっとわかった』
拍手が巻き起こる。かつてのファンも、今のファンも、揃って手を叩き政宗を讃える。
その光景に、政宗の笑顔が崩れた。慌てて顔を下げ、誤魔化すように鼻を擦り、もう一度顔を上げる。
『……でも、さすがに俺も歳なんでね。ここらで勝ち逃げさせてもらいます』
砕けた口ぶりに変えて笑う。その「らしさ」に、空気が和らぐ。
貴翔は、政宗から目を逸らせずにいた。
その眼差しに、政宗が応える。
『——貴翔』
呼びかけに、貴翔の肩が振れた。
乾いた唇が、きつく結ばれる。
『お前は今日、俺に負けた』
突きつけられ、そこで初めて、貴翔が項垂れた。
政宗は、貴翔のその姿を、真っ直ぐに見据える。
『だから……俺が越えられたって認めるまで、この団体の頂点で闘え』
貴翔の顔が上がる。
ざわりと、観客が色めき立つ。
『オルトのてっぺんは、お前だ』
わっと、祝福の声が咲く。言い切った政宗が、マイクを貴翔の前へ置く。
政宗から、託されたマイクへ。
視線を移した貴翔が、そっとマイクを手に取った。
震える膝で立ち上がる。汗に乱れた髪を払い、ゆっくりと声を絞り出す。
『あー……悔しいな』
切れた息の間に、小さく呟く。天井を仰ぎ、眩い光に目を細める。
『悔しい。めちゃくちゃ悔しい。俺、今日、勝つつもりでリングに上がったんで』
『政宗さんに勝って、オルトのエースは俺だって、そう言うつもりだった』
見上げていた視線を、マットに落とす。使い込まれた白いリングシューズに、貴翔の汗がぽつりと落ちる。
『なのに、勝てなかった』
静けさに響く。
唇を噛んだ貴翔が、ゆるく首を振る。
『……いや、違うな』
ほんの一瞬、黙り込む。確かめるような間に、誰もが息を止める。
『俺、途中で思っちゃったんすよ。……この人に、最後に勝ってほしいって』
客席が揺れる。
顔を上げた貴翔が、ファンに向き直る。
『——神谷政宗は、俺のヒーローでした』
真っ赤に腫れ上がった胸を張る。
ヒーローに残された跡を、誇るように。
『この人を見て、俺はプロレスラーになりたいと思った。この人みたいに、誰かに夢を見せられるレスラーになりたいと思った』
『オルトに入って、政宗さんにプロレス教わって、デビュー戦で負けて。それからもずっと、俺はこの人の背中を追ってきた』
政宗を見つめる。
そして、小さく息を吐く。
『だけど、俺がオルトにいない間に、政宗さんが引退を選んで。……終わりを見届けられないまま、今日までずっと、俺は政宗さんのいないリングで闘ってた』
落ちかけた視線が、迷わず一点を向く。
不意に届いた眼差しに、凌はぐっと奥歯を噛み締める。
『でもこの旗揚げ記念で、もう一度政宗さんと闘えることになった。それがすげぇ嬉しくて、決まってからずっと、どうやって勝ってやろうって考えてた』
声を弾ませ、貴翔が笑う。
けれどその笑顔は、じわりと翳っていく。
『……だけど、今日リングで向き合って、わかった。昔のままの神谷政宗じゃないんだって……そう思った』
政宗の顔が、苦く歪む。
傷を抱えた右脚が、ぎこちなく動く。
『——でも、目が』
『目だけは、俺が追いかけてきた神谷政宗のままでした』
貴翔が笑う。
悔しそうに、けれどどこか誇らしそうに。
『だから、負けました。勝てないって、どっかで思っちゃったから』
『レスラーとして、情けないなって思うけど、この弱さも今の俺で、この弱さがあるからこそ、まだ強くなれるとも思ってて』
言って、軽く首を捻る。あれ?と小さく声を漏らす。
『……なんか俺、すげぇカッコ悪いこと言ってるかも』
はにかんだ笑みに、貴翔のファンが涙ぐむ。どこかから飛んだ「そんなことないよ!」の声に、貴翔は「ありがとう」と微笑み言葉を返す。
「貴翔ー!」
「頑張れー!!」
「応援してるぞー!!」
優しい声が波立つ。
たくさんの声援を聞きながら、貴翔は離していたマイクを、もう一度近づける。
『政宗さん』
観客の輪の中心。
白い光に浮かぶリングの中央で、貴翔は誓う。
『俺は今日、あなたに負けました。それでも俺は、あなたの意思を継ぎます』
拍手と声援が飛ぶ。
貴翔は目を細め、笑みを深くする。
『俺はもっと強くなって、オルトをもっと高いところに連れていきます。もっともっとたくさんの人に知ってもらって、オルトを好きになってもらいます。だから——』
一瞬。
息を繋ぐ間に、そこにいる全員の心がひとつになった。
俺が、オルトのエースになります。
誰もがその言葉を待った。
その言葉しかないと思った。
政宗と向かい合い、貴翔がマイクを強く握る。
すぅっと息を吸い込む音に、緊張が高まる。
盛大な拍手が待ち構える。
そこに——全身全霊の言葉が、飛び出した。
『俺にッ!!息子さんをくださいッ!!』
——会場が止まった。
政宗が目を見開いた。
ロヴィーナは口元を押さえ、匠たちは全員唖然と口を開いていた。
息子は——凌は、固まっていた。
固まったまま、ただ一言だけ漏らした。
「……………………は?」
——その瞬間、プロレスリング・オルトは生まれ変わった。
たぶん、少し、おかしな方向に。




